はじめに・ご挨拶

本プロジェクトを企図しました渡邉聡司です。

書籍編集デザイナー、映像を含むビジュアル総合製作をやっておりますが、この人生での一番の私の使命は、この時代の本質的な精神が自分に求める映像を残すことだと思っています。

今回は、2015年に自主製作で完成させた初の脚本監督長編映画「復活」をDVD化し、より多くの人に届けたいと思い、それをよりニーズに応じた状態で製作するとともに、より大きな広告効果も考慮し、こちらのクラウドファンディングを選択いたしました。

ご協力よろしくお願い申し上げます。


■映画「復活」について (80分/カラー/16:9フルハイビジョン・ムービー)

 「復活」は今日、日本のシュルレアリズム絵画等、特異な画風で知られる靉光(あいみつ・本名=石村日郎)の半生をモデルとして描いた伝記的フィクション・ドラマ。戦時昭和の暗雲が垂れこめる中、東京・池袋周辺に展開していた「池袋モンパルナス」という芸術家たちのコミューンの中で、画家や芸術家たちがどう生きたかを靉光を中心として描くことによって、その群像全体を現在の私たちに重ねあわせ、危機的な時代を生きる心の糧にしようとするものである。

 映画は2012年夏にクランクインし、2015年夏に完成。以後都内での自主企画上映を開始し、2016年には東京都豊島区で毎年開催されるアートイベント「第11回新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」プログラム及び豊島区池袋中央図書館での「平成28年度地域研究ゼミナール・池袋モンパルナス~芸術家たちが生きた街」での招待上映を経、海外ではドイツ・ハンブルクでの「第17回ハンブルク日本映画祭」でも上映された。



■イメージ・キャスト

西村光郎(30歳・画家:モデル/靉光=本名 石村日郎)…大橋正英
西村チエ(29歳・画家の妻:モデル/靉光の妻=本名 石村キエ)…逢澤澄世

神田正明(25歳・画家:モデル/画家 寺田政明)…三村正志
石田 実(25歳・学徒出陣した美術学生)…吉村康宏
小熊秀雄(34歳・実在の詩人)…リ・コウジ
長谷部利重(37歳・画家:モデル/長谷川利行)…山城秀之
尾崎 翠(30歳・実在の女流小説家)…小叉ぴろこ

脚本・監督・プロデュース … 渡邉 聡
撮影監督・編集 … 国立隆吾
音楽監督・音楽 ……………… 手塚 理
照明 ……………… 上木 實 相築正人


■ストーリー

 舞台は昭和、1930~40年代の東京・池袋。当時周辺は「池袋モンパルナス」と呼ばれ、貸しアトリエの集落が林立し、さまざまな芸術家、文化人たちがたむろす町であった。

 広島から単身上京した西村光郎は、貧乏ではあるが天才的な画力を持つ新進気鋭の若手画家。結婚して生活の安定は得たものの、同時にいかにして自分の絵を極めるかというスランプに陥ってもいた。

 仲間や妻・チエの支えを得てようやく納得のいく絵を描き上げ、美術展覧会で受賞もするに至るが、戦時の風雲は急を告げ、周囲の仲間たちも軍部から弾圧され始める。

 自分の描きたい絵と時代の要請する絵の板挟みとなりつつも、必死で自分の信じる絵を描き継ぐ西村のもとにも、遂に召集令状がやってくる。

 中国大陸に送られ、戦線を転々とする西村は、戦地にあっても絵を描き続けようとするが、そこは余りにも過酷な戦場だった。

 やがて1945年夏、日本は敗戦を迎えるが…。


このプロジェクトで実現したいこと

より多くのご縁のある方々に「復活」を通じ、池袋モンパルナスの存在、靉光という画家の生き様を伝えること。このプロジェクトによって、同じテーマの作品がより多くのメディア、クリエイターによって創られるきっかけとなること。


プロジェクトをやろうと思った理由

個人で上映会活動をやることにも限界があり、各映画祭にもほぼ出品を終えた今、DVDという形で改めて世に出すことによって、この作品がより長い寿命を得、より多くの人の手元に残ることを期待します。自分なりにプリンタでDVDを焼き、ジャケットを印刷してお世話になったキャスト、スタッフ、協力者の方々に配布することは出来ました。他にも観たいと言ってくれる方、DVDは無いのかとお尋ねになる方々のためにまた手作業で対応することは可能かと思います。ただ個人レベルでDVDをプレスして頒布するには手間もお金もかかり、それよりまとまった数をプレスした方が効率がいい訳で、その製作手段としてクラウドファンディングを利用し、これを展開する過程において、これまで「復活」と繋がることがなかったより多くの人々に存在を知っていただけるだろうことも考え合せ、本プロジェクトを選択した理由です。


これまでの活動

■「復活」というタイトルの意味

この映画「復活」は、広島出身の天才画家靉光(本名=石村日郎,1907-1941)の半生をモデルとして構成しました。靉光は1944年に徴兵され、1945年の敗戦を経て、1946年1月19日に上海で戦病死しました。もちろん彼だけではなく、膨大な数の日本の将兵が日本に帰ることなく異国で果てた訳ですが、彼は私にとっては、同じように戦死・戦病死していった多くの人々の中でも特に<池袋モンパルナス>ゆかりの芸術家たちの代表でした。

「池袋モンパルナス」とは何か? 池袋(正確には現在の有楽町副都心線要町駅から西武線椎名町駅近辺)には戦前、画学生や画家たちのアトリエ村がいくつか存在し、そこと池袋の町を舞台にして、詩人や役者の卵たち、芸術家たちが入り乱れた一大文化的ムーブメントが展開していました。そういうことを知ったのはもう20年前ほど前。1995年の初夏、宇佐美承氏の『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』によってです。

靉光=石村日郎のことを知ったのも、この本によってでした。彼は、この池袋に起きていた歴史的な文化的ムーブメントの重要な構成員でした。若い頃彼は、都内を転々とした後、池袋から少し歩いたところにある「培風寮」というアパートの一室に暮らし、夫人と出会い、結婚しました。所帯を持ってからは、小石川に家を借りて、2人の子どもを設けました。この映画ではそういう地域的な誤差や家族的構成はフィクションとして描いています。

「池袋モンパルナス」というのは、この映画にも出て来る詩人・小熊秀雄の命名です。(この作品で実名で出て来るのは、実は彼だけです。)彼が書いた「池袋モンパルナスの歌」という詩に、当時やはり池袋界隈に屯していた作曲家、村井八朗が曲を付け歌になりました。小熊秀雄の詩は著作権が切れていますが、村井さんの作曲の著作権はJASRACで今も生きています。村井さんは長生きでしたが、小熊さんは若くしてこの世を去っております。「池袋モンパルナスの歌」の譜面は残っていましたが、この歌は仲間内で歌われていただけで、特にレコードが発売されているというものでもなく、実際にその歌を音として現代に再現したのは、何年か前に制作された「怪獣のあけぼの」というドキュメンタリー(=ウルトラマンなどの怪獣の造型デザインを手掛けた高山良策のドキュメンタリー)が草分けです。マイナーなDVDでしたが、ネットで調べて中古DVD屋でようやく手に入れました。映画の中でもこの歌は歌われますが、このドキュメンタリーが世に出ていなければ、そのシーンを撮ることは難しかったかもしれません。そんなわけでおそらく、現在動画として池袋モンパルナスの歌が観られるのはこの「復活」だけだと思います。

何を隠そうその池袋は、私がこの世に生を受けて最初の1年を過ごした町です。その後郊外で暮らすようになりましたが、中学高校生になり世の中に出て行く時は、必ず池袋をターミナルとして出て行くこととなり、私にとっては言わばまさに庭のような町だったわけです。

その池袋に、戦前そういう芸術家たちの町があったということは、驚きであると共に、感動的でさえありました。池袋モンパルナスのアトリエ村は戦後次第に失われていきましたが、フィールドワークをするうちに、私はそこで生きた芸術家たちのことを後世に語り継ぎたいと強く思い始めました。多くの人間が暮らした地域には、歴史(ドラマ)があります。それは変化しつつも堆積していく。今自分が暮している何ということもない日常には、実はとんでもない非日常が隠されていて、そういうものを見いだしてはある種の人間はドキドキするわけです。昨今お馴染みの、「ブラタモリ」などはその種の人々に受けている世界だと思います。

多くの書籍や資料が世に出て、豊島区も本腰を入れだしたように思われますが、池袋モンパルナスは依然としてマイナーな認知度に留まっていると思われます。私は映画を世に出すことによって、池袋モンパルナスの精神や、靉光の生き様を現代にまさに「復活」させたいと思いました。

■制作にあたって行動したこと

過去はさておき、まず、「復活」を撮るために、とにかくアトリエ村のあった池袋に住もう、と思いました。2010年の春に実家を出て、豊島区長崎町に引っ越しました。最寄りの駅は西武池袋線「椎名町」駅で、有楽町線「要町」駅も近く、何より気に入ったのは、物件がアトリエ村最大の「桜ヶ丘パルテノン」跡地にあったことです。内見に連れて行かれた場所は、まさにそれまで私がフィールドワークをしていた、アトリエ村集落でも最大の桜ヶ丘パルテノン(第3桜ヶ丘パルテノン)跡で、アパートの隣はまさに当時から残る数少ないアトリエ住宅の一軒が建っている場所だったのです。ワンルームの狭い部屋ではありましたが、いよいよ腰を据えてシナリオを書き上げようと決心しました。この池袋モンパルナスの聖地は、それまで住んでいた練馬からもそう遠くはないとは言え、やはりフルタイムで働きながらではそう頻繁に足を運べない所でした。何と言ってもそのフィールドワークの現地に住むに如くはなし。住み始めてからは、土日の休みには朝から近所を歩きまわり、近所のギャラリーのご主人たちとお話をしたり、集まった人々と情報交換ができるようになりました。住んでいるアパートの対面の家は、桜ヶ丘パルテノン時代はアトリエ村の村長とも言われる井上長三郎氏が住んでいた場所だったとか、隣のほぼ当時のままの姿を残すアトリエ住宅に住んでいたのは、荒巻茂という彫刻家だったとかいうことが、だんだんと分かってきました。忘れてならないのは、椎名町駅近くにある<ギャラリーいがらし>の五十嵐健市氏の協力で、時々訪ねてはお話をする中で、数々の助言をいただきました。彼のご尽力により現存するアトリエ住宅の中で最も原型を留めている「西田アトリエ」内部での撮影が可能になったことには、心から感謝しています。
※五十嵐健市氏は2016年11月、ご逝去されました。感謝とともにご冥福をお祈りします。

■「復活」の胎動

 この2010年春までに、江古田の融解座上映会で大橋正英君という役者に出会いました。彼はアルバイトや短期の仕事で食いつなぎながら、いつでも役者系の仕事を受けられるよう、究極ともいうべき耐乏生活を送っていました。それは今もそうですが、いろいろ話をするうち感じる所があって、今回の靉光の役をやってもらおうということになり、二人で「復活」の習作を撮り始めました。絵画でも大きな作品を描く時にはスケッチなどで習作を繰り返しますが、絵描きの話である「復活」でもそれと同じことをやってみようと思ったのです。休日私の時間が空いているときに、大橋君と二人だけで郊外の自然があふれたところに出かけて行っては、靉光がぶらぶらスケッチをしたりするような絵を撮って、1年の間に2、3分尺の短編を3本撮りました。

 また、山梨・上野原の山奥に友人夫婦と借りていた古民家の古い屋根裏空間をアトリエに見立て、そこでイメージを膨らませたりしました。泊まりで自由に撮影ができる古い建物などそうそうないので、実際の「復活」の撮影でも、靉光のアトリエのロケセットとしてこの古民家の屋根裏空間を使おうと決めていました。

 2010年の秋まで、そうして習作や別企画の短編を撮りながら、シナリオの元になる断片的なメモを書き溜めていきました。言わば池袋モンパルナスの地霊たちに包まれて、自分の好きなことを自由に落ち着いてやれたこの1年は幸せでした。もちろん仕事もそれなりに忙しいことは忙しいかったけれども、バランスがとれていました。今思えば、それが2011年春の「大変」以前の、最後の手放しで映画の準備に浸りきれた幸福な日々でした。

■3.11東日本大震災からの「復活」とクランクイン

 2011年正月は、年明け早々に神楽坂の<和可菜>を予約し、一泊してシナリオの書き初め式を行ないました。山田洋次監督ほか、日本映画の脚本家たちが数々の名作を書いたホン書き旅館です。順調に行けば、その勢いで夏までにはシナリオを書き上げ、クランクインするはずだった所へ、あの3.11東日本大震災が起きました。ほどなく福島第一原発での過酷事故が明らかになり、映画どころではなくなったわけです。あの時の多くのクリエイターたちがそうだったように、今こんなことをしていていいのか、という思いに囚われて、毎日のように起きる地震に心身落ち着かず、リアルにこんなに酷い事が起きているのに、数十年以上昔の絵描きの話に何の意味があるか? という思いを抱かざるを得ませんでした。映画に対する思いは急速に萎えていき、原発事故の影響に思いも乱れ、すっかり調子が狂いました。

 そうした5月のGWに、意気消沈しつつ、長野の<無言館>に旅しました。「無言館」は窪島誠一郎その人が私財を投げうって作った美術館で、戦没画学生の絵を専門に収集した美術館です。結果的には戦争と池袋モンパルナスの世界が融合する場所、今回の映画のテーマに密接に関係したこの場所で、私は正にブレイクスルー体験をするに至ります。ひと言で言えば、生命を限られた若者たちの叫び、絵を描く事への熱情に出会ったのです。あの美術館の絵にはそういう力が今でも感じられました。現在の危機的な状況下、無力に流されて行く自分たちと、あの戦時中の人々とは、ほとんど変わりがないと実感しました。同じ状況の中で、それでも絵を描き続けた靉光と若者達がそこに居ました。彼らと、現在の自分自身がそのまま重なりました。「復活」を撮ることの意味を再発見できました。それ以降、社会世相に起こったことにも、じわじわとリアルタイムに影響されました。もしかしたら、「復活」はこの3.11を待っていたのか、とすら思うほどに。

 迷いや中断を繰り返しつつ、2011年の夏から2012年の春まで、一年近くの時間をかけてシナリオを脱稿。結局、私個人の力で事実を厳密に再現するには限界がある事など様々な理由から、靉光(石村日郎)の実名ではなく、西村光郎という架空の主人公を描くフィクションとして、撮影準備に入りました。

2012年8月12日、「復活」は山梨県上野原の古民家にてクランクイン。予算も、今思えば当初クランクインする勇気を持てるだけの、言わば片道燃料。照明や録音、制作に関する専門スタッフをたてることもなく、カメラマンと助監督2人、美術及び合宿支援のヘルプさんだけを動員し、あとは役者さんだけでのクランクインでした。映画のプリプロ、キャスティング及びロケハンや様々の撮影計画は本来クランクイン前に全て行っておくものですが、正に見切り発車、クリアできていない問題山積みのまま、とにかく撮影を開始しました。(エンドロールに出て来る多くのスタッフや協力者は撮影を進めるうちに途中から関わってくれた人々がほとんどです。)

フルタイムの会社勤めであった私は、基本的に土日祝日しか撮影日程を入れられないし、ロケ地や小道具の調達などで進行が停滞することも多々あり、月に1~2回の撮影ができればいい方でしたが、短期に撮影を終える事が不可能であることは想定内でした。それでも気がつくと、2013年末までには最後の大陸戦場シーンだけを残すだけとなり、編集作業や追加撮影をしつつ、翌年夏の訪れを待つということになっておりました。

■靉光の墓参りを果たす

この後半の戦場シーンは私にとっては超難関シーンで、これを撮るための小道具&エキストラをしっかり調達•動員するのにも、それくらいの時間は必要だったわけです。おかげ様で、そういう待ち時間というかブランクを利用して、それまでの撮影分をあらかた編集し、さらにずっと果たせずにいた靉光の墓参にも行っておこうということになりました。

まずは靉光のお墓はどこにあるのか、という確かな情報を摑もうとしたけれども果たせず、結局、「無言館」の窪島誠一郎さんに靉光の娘さんである岩垂紅さんの連絡先を教えていただき、3月に大橋君とご自宅にお邪魔して、ご挨拶がてら紅さん夫妻にお話を聞くことができました。靉光生家の連絡先も教えていただいたおかげで、最終的には2014年4月に主演の大橋君共々、墓参が叶いました。クランクアップする前に、靉光のご家族とお墓に礼をつくすことができて、ほっとしました。

■クランクアップ、そして編集完了、ポスプロにまた1年

その後、夏までに戦場シーンの準備を進め、2014年7月に遂にクランクアップ。それから結局ポスプロ、編集完了から、昔からずっと協力してもらっている手塚理氏に音楽、音入れ作業をお願いし、2015年6月にようやく完成を観ました。さらに海外映画祭に参加するための英語字幕付け、権利関係をクリアするための手続きやDVDを制作しているうちに結局丸1年かかりましたが、2015年の夏にはようやく3回に亘る関係者試写を終え、2016年には各所で上映会を展開することができました。

◎2016年の「復活」上映会実績
1/30「復活」プレミア上映@御茶ノ水エスパスビブリオ
4/10,17,24「復活」上映会@プチルピリエ
5/22「復活」上映会@千早地域文化創造館
6/11「復活」上映@ドイツ・ハンブルク<ハンブルク日本映画祭>
8/30「復活」上映@<福岡インディペンデント映画祭>
11/26「復活」上映会@豊島区中央図書館


2017年1月14日 「復活」クロージング上映会@江古田FLYING TEAPOT
2021年2月28日 「復活」上映会@広島市映像文化ライブラリー


■私は何を描きたかったか

靉光をモデルにして、ひとりの日本の絵描きが絵筆を銃に持ちかえて死んでいったことを、そのままビジュアル化しようと思いました。靉光が中国大陸に渡り、どのような戦争を戦ったかはあまり伝わっていません。数少ない証言や資料からあくまでも推測するしかないので、あまり好い加減なことは描けないわけですが(靉光をこの映画では実名で描かず、モデルとしてフィクションとして描いた理由でもあります)、おそらく靉光はこのようであったろう、という想いを込めて、彼とその時代の空気を現代に映画として「復活」させたつもりです。


資金の使い道

ほとんどはDVDプレスと中に封入するジャケットの製作費にあてられます。残りはこのクラウドファンディングの手数料、リターンの制作とDVDの発送にかかる諸経費、今後のさらなる上映活動や、広告費にかけたいと思っています。


リターンについて

1.DVDパッケージ1枚
2.DVDパッケージ1枚+絵コンテ集
3.DVDパッケージ1枚+特別限定上映会参加チケット
4.DVDパッケージ1枚+劇中使用絵画「兵士の墓標」
5.DVDパッケージ1枚+劇中使用絵画「自画像」


実施スケジュール

3月中 申請公開完了
4月中 SNS他にて広報活動及びフォロー活動
5月中 クラウドファンディング終了・DVDパッケージデザイン終了
6月中 DVDプレス・絵コンテ集製作
7月中 DVD及びリターン発送
8月中 特別限定上映会開催


最後に

私の亡き父は1945年敗戦時海軍にあって、広島で原爆の炸裂を目の当たりしつつ辛くも生還し、母と所帯を持って私をこの世に送り出してくれました。先の日本の戦争、広島原爆を体験した父は、67歳で癌で死にましたが、その病床にあって大岡昇平の「レイテ戦記」など、戦記をよく読んでいました。多くの戦争経験者がそうであるように、彼等にとって先の戦争はこの世を去る間際まで忘れることのできないものであり、さらに言えばこの世を去るにあたって「あれは一体何だったのか」と、あらためて問い直さざるを得ない問題だったのだと思われます。

父は私に戦争のことを多くは語らなかったけれども、そういう病床で戦記を繙く彼の姿を通して、私は何やら戦争を語り継ぐバトンを渡されたような気がしています。私にとって戦前の池袋モンパルナス、靉光という存在は、そういうバトンのひとつのように思われてならないのです。

私の映画制作活動は、少年時代の8mm映画制作や大学時代の友人たちの手伝いとしての映画研究会の活動を除けば、父が死んだ後しばらくしてからの、この日本の先の戦争を追求して映画に流し込んでいく作業として始まりました。練馬の実家の近くには光が丘団地と広大な都立光が丘公園がありますが、そこが戦後米軍キャンプ「グラントハイツ」だったことは知識として知っていても、戦前は日本陸軍航空隊の飛行場であったこと、その上空で凄絶なB29への空対空特攻が行われていたことなどは全く知りませんでした。そういう日常の裏側に潜む時空を超えた非日常を描くことが、私には頼まれもしないのにやらねばならないことのように思われて、映画を作っていくきっかけになったのでした。

私にとってこの映画を撮ることは、ある意味、この映画を「生きる」ことでした。2012年から2015年春までの3年は、正に「復活」という映画を生きた3年間で、<池袋モンパルナス>の聖地である長崎町で過ごした4年と共に、忘れられない時代となっています。

この想いの結実を、より多くの人々と映画という形でシェアすることが出来れば幸いです。


本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合でも、必ず計画を実行し、確実にリターンをお届けします。

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