2019/09/21 11:33

クラファン日記_13「ダンスとお金、そして僕」


これから書くことは、けして大きなお金の話ではありません。僕の身の周りで動いたほんの少し、でも僕にとっては切実なお金の話です。

個人的な話でお聞き苦しくなる内容でもありますが赤裸々に30年をお金と共に振り返っています。


結局のところ、お金に振り回された人生(ダンス)を送っています。

高校生から始めたダンスに夢中になり、大学進学を辞めてひたすらダンスレッスンに通う日々。

18歳。家を飛び出し一人暮らしを始めました。(始めはバイト先の店長の部屋へ居候でしたが。笑)

バレエとジャズダンスを週に10レッスン。残りの時間は全てバイトに費やしました。レッスン代、アパートの家賃、わずかな食費による生活でした。


2年ほどその状況が続いた後、たまに公演の出演に誘われるようになりました。しかし、そのためのリハーサルはたくさんあり、その分バイトの時間は削られ、もちろん下っ端でしたのでフィー(お金)はそれほど多くなく、わずかな食費はますます削られましたが、周囲の暖かい応援に支えられ、なんとか生活を続けていました。

またこの頃から、クラッシックバレエ教室の発表会にゲスト出演する仕事が舞い込むようになりました。これは実際フィー(お金)の良い仕事でした。やり方次第では稼げる仕事。同世代のダンサーでも僕の3倍の年収を得る人もいましたが、ある意味ではダンスへの情熱を見失う恐れもある仕事(←僕の場合は)でしたので、注意深くセーブをしていました。


僕には面倒な体質があるようで、なんとか自分のダンスを手っ取り早くお金に換金しよう!そう思うと、突然体調がおかしくなる。きっと順番の問題だと思うのですが、一生懸命やった結果がお金になる分には良いのですが、お金をもらうために一生懸命になるとどうも身体を壊してしまいます。どうも面倒臭い体質です。笑


いわゆる下積みの時代が続きました。愚痴っぽく聞こえるかもしれませんが、僕としては今の自分を作ってくれた大切な時間でした。


当時、ある恩師から言われたのが「とにかくファンを増やせ」でした。そのための方法として教えられたのが知っている人にとにかくDM(お手紙)を出すこと。まだ携帯もメールも主流ではなかったので、瓦版『公演のお知らせ』みたいなものを自分で書いて、封筒に入れて郵便で出す。20~30歳までの間にいったい何枚の切手買っただろうか?これもお金。笑

しかし、そんなこんなで、自分が呼べるお客さん(チケットを買ってくれる人)はしだいに増え、それがまた他の出演にも繋がっていき、仕事も増えたように思います!


それでも舞台に出れば、また生活(お金)が大変になる。夜中に急に不安になって、飛び起きてしまうような夜が続いていました。


30歳。革命のような変化が訪れます。

日本で初。給料制(年俸の月割り)で踊れるプロフェッショナルダンスカンパニーができるというのです。オーディションには日本中から多くのダンサーが集まりましたが、運よく合格し、滑り込むことが出来ました。

1年契約を4度更新し、トータルで4年半の間をお世話になりました。同年代の会社勤めのサラリーマンと比較すれば、それほど多いサラリー(お金)ではありませんでしたが、人生初の固定給です。明日に怯える夜(←お金については笑)は無くなりました。税金や年金を定期的に収められるようになったのはこの頃からです。

もう一つの変化は、DMを出さなくなったことです。

ヨーロッパ的な考えのもと、このダンスカンパニーでは、出演者がチケットを手売りする努力をする必要はないと言われ、チケットは制作や宣伝部が売るので、ダンサーはダンスに集中して良い!というのがトップディレクターの考えでした。その点でもお金のことを忘れて、仕事としてダンスに打ち込むことができました。

夢のような4年間でした。しかし、その環境を自ら辞めたのは、少なくともお金の問題ではなかったと確実に言えます。(そのあたりについてはまたどこかで。。)


そして35歳再び、東京に戻ってきました。

実力もキャリアも上がったとしても、東京の状況は何も変わりません。日本初のダンスカンパニーにあったような状況は、15年経った今も日本中にどこにもありません。お金に振り回される人生が再び戻ってきました。


レッスン代をまた支払います。舞台に出演すれば生活が辛くなる日々も再びやってきました。DMも再開しました。この頃にはメールが主流になりました!(わずか5年ですごい変化です、テクノロジー)


この頃、ある公演の制作者と出演交渉をした時に言われたのが、「青木さんのご出演で何人のお客様が増えますか?」という問いでした。続いて「青木さんが〇十名のお客様を呼べれば(チケットを販売できたら)、青木さんの言われる金額のフィーをそのままお支払いできます」と言いました。

途中休止期間はありましたが、長年にわたりDMをしてきたので提案された枚数をお売りすることができフィーをいただきました。この時、DMを習慣づけてくださった昔の恩師へ改めて感謝しました。

いつも観にきてくれている方には、生々しい話で申し訳ないですが、この制作者の課してくれたゴールはわかりやすいものでした。自分のフィーは自分で。


しかし疑問は残りました。フィーとは対価です。見合ったもの価値。値段。どこかの時点で、対価としてのお金を求めることから逃げていながら、やはり今も、お金に縛られ踊っている自分がいました。。。


2020年。自主公演について考ています。

今度はダンサーではなくプロデュースの面からお金の格闘しています。劇場費用に始まり、制作費、宣伝費、スタッフ費用など数多の経費の項目を睨みつつ、公演回数、チケット代の設定を考えています。「一体いくらなら良いのか?」同業者の方もここを一番悩んでいると思います。

そしてお金を中心にもの事を考えている自分に気がつき、また打ちのめされます。。。


大変長くなりましたが、ここからが書きたかった部分です。


次回公演は、対価としてのダンスパフォーマンスを目指しているわけではない。だからと言って、自分がやりたいだけのマスターベーション的な表現をするわけではなく。こうしてダンスで生き永らえてきた僕なりの、非経済的ではあっても見逃せない「社会の身体のつながり」について。そのリサーチの結果をパフォーマンスへと繋げたい。

そんな作品を作り、そして多くの方に観ていただきたい。

そのために、公演をする側と、公演を観る側の間に、チケット代金という「あらかじめの値段」をおかずに実行することができないかと考えました。

それが今回の挑戦の源です!!


これが成立すれば様々な付加価値が新たに生まれるでしょう。生まれてくる価値は想像しきれませんが、観客層の変化には大きな期待をしています。お金が原因で観ることができなかったということは無くなるのです。


お金に振り回されている自分の人生(ダンス)に、一つの問いと応え(正解ではない)を得ることができます。ゴールではなく始まりとなる一歩です。


そのために皆さんのご賛同がいただけましたら幸いです。


お聞き苦しい話を最後までお読みいただきありがとうございます。

ご支援だけでなく、シェア拡散、直メッセージも大変励みなっております。

引き続きあと10日間です、どうぞよろしくお願い申し上げます。


青木尚哉