2020/05/08 16:39

【室町時代】
中世、川⼿には美濃守護の⼟岐頼康が根拠とした⾰⼿城があり、⾰⼿城の北 には広⼤な⼟岐⽒の⽒寺、 正法寺がありました。また荒⽥川の北には守護代 斎藤⽒の加納城があり、荒⽥川の南側に当初は⼟岐⽒の12 別邸といわれる⾈ ⽥城もありました。 
正法寺は現在の済美⾼校あたり⼀帯、⾰⼿城はその南あたり、加納城は現 在 の加納本丸跡あた、⾈⽥城は 加納中通りと荒⽥川の橋の南⻄あたりにあった といいます。
美濃守護⼟岐⽒は、⼀時、美濃をはじめ尾張、伊勢三国の守護を兼ねてお り、⾰⼿は、都より貴族や ⽂ 化 ⼈も 度々 訪れており⽂化の薫りも⾼く、京 都についで鎌倉、周防⼭⼝と並ぶような賑わいを⾒せていたといいます。つ まり⽇本三⼤都市といった感じかもしれません 。
【戦国時代】
しかし、⾈⽥合戦とよばれる⼟岐⽒の同族争いによって⼟岐⽒の勢⼒も減退していきました。 この時、⾰ ⼿城、加納城、⾈⽥城が焼失しています。
⼟岐⽒はその後、⻑良川扇状地の北の旧河道の⼀つの古々川に そった鷺⼭、 さらに上流側の⻑良、そこでも洪⽔に遭って、 ⼤桑 (⾼富 、現在は⼭県 市)に居 館を移しました 。そして最後の美濃守護⼟岐頼芸が 斎藤道三によ って 美 濃から追放され、⼟岐⽒の時代が終焉したのです。
その後、斎藤道三の時代に⾦華⼭麓の井ノ⼝に移し、さらに道三の娘の濃姫を受けた織⽥信⻑が、斎藤⿓興を破って⼊り、岐⾩と名前を改めます。そして加納や川⼿は、⼩さな集落となっていったのです。
【江⼾時代】
関ヶ原合戦の結果、天下⼈となった徳川家康は、それまで岐⾩城を本拠地に していた織⽥秀信(信⻑の孫息⼦)を追放し、慶⻑6年(1601年)に岐⾩城 は破却されました。その岐⾩城の代わりとして翌1602年7⽉1⽇から加納城が 築城され、徳川家康の⻑⼥である⻲姫の婿義理の息⼦である奥平⽒が⼊城し
ました。縄張は徳川家康⾃⾝が⾏ったとされ、普請奉⾏は本多忠勝とし近隣
の⼤名を動員した築城されました。
建材は主に岐⾩城のものが⽤いられ、解体した岐⾩城天守の部材を⼆ノ丸御
三階櫓に転⽤したと伝えられています。加納城は加納藩の藩主の居城とな り、慶⻑7年(1603年)に奥平信昌が⼊った後、奥平⽒の居城となりまし た。
寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡⼦がいないために改易されると従 兄弟の⼤久保忠職が⼊城、⼀時的に城主となりましたが、寛永16年(1639 年)に⼾⽥光重が⼊城、3代にわたり城主を務めました。
特に、⼾⽥光重は、明⽯藩から移封されて加納城主になったわけですが、明⽯から傘職⼈を連れてきたのが加納で和傘作りが始まったといわれています。材料となる良質な⽵が⽊曽三川流域に豊富にあり、美濃和紙、柿渋、えごま油が⾝近にあり⼊⼿しやすかったことが、地場産業までに成⻑した要因だったようです。
その後、⼾⽥家は移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となりま した。 さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井直陳が加納藩主となり、明治 維新に⾄るまで永井⽒の居城となりました。 
【明治時代】
明治4年(1871年)、廃藩置県によって加納県の県庁が置かれましたが、同 年11⽉に岐⾩県へ合併されました。翌、明治5年(1872年)、廃城令により 城は廃城処分となり建物は破却。城⾨などは売却されました。明治33年 (1900年)、岐⾩県師範学校が跡地に置かれ、本丸跡を運動場としました。 明治39年(1906年)三の丸跡に加納尋常⼩学校(現在の岐⾩市⽴加納⼩学 校)が移転されました。
【昭和時代】
昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭 和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで⾃衛隊の駐屯地が置かれる などした。後の昭和58年(1983年)10⽉28⽇に加納城跡として国の史跡に 指定されました。
【岐⾩空襲】
昭和20年7⽉9⽇の岐⾩空襲で岐⾩市は壊滅的打撃を受けました。加納の歴史的建築物も壊滅的打撃を受けました。
【近年】
近年の発掘調査で枡形や前期加納城の⼟塁・礎⽯の跡、埋没した⽯垣や井⼾跡、多くの⼟器などが出⼟しました。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に⽯垣、堀跡などがわずかに⾒られるのみとなっています。