2017/05/14 18:11

いろいろあったけれど、今ぼくはここにいます。

 

茂木(もてき)です。

みんながありのまんまの生き様を書いてくれたので

ぼくも書かせていただきます。

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「不良」と言われたゆうさい と「優等生」と言われた もてき。
対照的なこの2人がいま、一緒にmammaをつくっています。

 

「ありのまんまな自分を知ってほしい」

そう思う反面、自分をさらけ出すことに抵抗があります。

「恥ずかしい」

「嫌われたり見下されたりしたらどうしよう」

そう思う自分がいる。

ここ数日、どうしても文章がまとまりませんでした。

 

でも「飾った自分」ばかりを演じ続けるのって疲れる。

そうじゃないところだって沢山あるよ。

でも「弱さ」や「失敗」って、人には見せられない。

一度「弱い」ってレッテルを貼られたら、おしまい な気がしてしまう。

 

けれど、勇気を出して表現していたら受け容れてくれるひとがいる。

「自分らしさ」を知ってもらえて、肩の力が抜ける。

「ありのまんまな自分」でもそばにいてくれる。

そんな友達が見つかった方が、ずっとずっと嬉しい。楽しい。

 

それに、弱さを認め合え、支え合える社会の方が、やさしい。

願わくば、社会をその方に進めたい。

 

だから、不器用ながらに書いてみました。

お涙頂戴でもなく、誰かのためでもなく、ぼく自身が「ありのまんま」であるために。

まとまらないので読みづらいかもしれません。

よければしばし、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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ぼくのコンプレックスと成長過程


1986年。茂木邦夫は群馬県松井田町、
妙義山の麓の自然豊かな田舎町に生まれ育ちました。
兄と二人兄弟でした。

「邦夫」という名前は、両祖父の「邦次」と「武夫」から1字ずつ取り、名付けられました。
笑いや冗談の少ない、真面目な家でした。

父は物事をはっきり言うし勉強熱心だけれど言葉遣いがあまりよくなく
ドアを締める音も、話す声もいちいち大きい。母は心配性でおせっかいなひとでした。
そして、あまり掃除がされていない家だったのが恥ずかしくて
「友達を家に呼んで遊ぶ」という経験を、あまりしたことがありませんでした。

いつもひとの家に遊びに行ってたのは、来てほしくないから。

家を見られたくないから。貧しい、と思われたくないから。

 

ぼくは粗雑な家柄のなかで「丁寧で繊細」な性格に育ち
裕福でなく、雑な自分の家を「恥ずかしい」と思い、隠しながら成長してきました。
こうして「悩みや弱みをひとに見せない」というぼくの性格にもなっている気がします。

1986年はバブル崩壊前。その頃はまだ電気屋も稼げていた時代でした。
けれど小学生の頃にバブルがはじけた影響か、家電量販店ができ始めた影響か、
両親の間でお金のことでの口喧嘩が多くなりました。

両親の諍いが多い家庭で育つと、
「子供は両親両方の気持ちをわかろうとする」
という子供らしくない「気持を察する力」が発達し、「共感性」が高くなるそうです。
なので、ぼくは涙もろく、「人の気持ちを自分事のように感じる感性」が育ったのかもしれません。(その繊細さは諸刃の剣で、「ネガティブな感情の影響も受けやすく、感情的にぶれやすい」という側面もあります。)

父は町議会議員と電気屋の2足のわらじでした。
選挙に落選したり電気屋が苦しくなったのもあり「2人は大学には行かせられない」となりました。

大学に行きたかったはずの兄は、ぼくに譲り、就職しました。

ぼくは中学の頃はいわゆる優等生。成績もすべて5(体育と美術 以外)
生徒会長をやったり内申もよかったので
学校推薦をもらって、県内一の進学校に進むことになりました。

高校では吹奏楽部に入り、勉強もせずにフルートに没頭。
県内のコンクールで金賞をもらえるようにもなりました。
3年生で部活を引退したあと、猛勉強するも、京大には不合格。
親に浪人させてもらい再度受験し、合格点ぎりぎりですべりこみました。
当時暗い話題が続いたうちの両親にとっては、久々の嬉しい話題だったようです。

ぼくの夢

幼いときから「困っているひとの役に立ちたい」というのがぼくの夢でした。

困っているひとを助けたいのか、過去のぼく自身を助けたい思いがあるからなのかわかりませんが
「自分ではどうにもできない状況から抜け出す手伝いをしたい」
と思っていました。また、灰谷健次郎の「天の瞳」という本で「こどもに寄り添う」という考え方にも感銘を受け

「ひとがそれぞれ持つ宝石のような可能性を磨くお手伝いをしたい」
と思うようにもなりました。

その後も想いは変遷をたどり、
「小学校や保育園の先生になって、多感な時期の子どもの成長をいろんな側面から手伝いたい」
「ゆとり教育なんてものをやってるのはなんでなんだろう。文科省に入って上流から変えなければ」
「なんで生まれながらに境遇の違いがあるのだろう。国連の難民教育基金に入って難民問題の貧困の連鎖を断ち切りたい」
と移り変わっていったものの、最終的には
「人のための前に、まずは自分がやりたいことを全力でやってみよう」と思い至りました。

オーケストラに捧げた大学時代

 

「京大に入ったら面白い人たちがいるだろう」
そう期待して入った大学は、想像していたものと違い、ほとんど授業にいかなくなりました。

それよりも、本気で音楽に取り組む交響楽団のひとたちに心を動かされ、音楽に傾倒。
下手の横好きで200人の楽団でフルートを5年吹き、学生指揮者を1年やらせていただいたりしました。


楽器も上手くて多様で個性もこだわりもアクも強いメンバーが、

ときに衝突を繰り返しながら、成長しながら、

「音楽」を通して「ひとつ」になっていく過程は、ぼくにとって充実した時間でした。

ぼくはカリスマ的なやリーダーシップは持っていなかったし

団員ひとりひとりとコミュニケーションを取りながらサポートしていくような

いやむしろサポートしてもらってるような指揮者でした。

もっとも、輝かしい側面だけではなくて、実際はとても大変でした。
自身の力不足のためにみんなの力になれないことも多く
「もっとぼくが○○であれば」と悩むこともありました。

貴重な経験であったと同時に、引退してからは音楽から距離をおき
マーラーの9番をもう一度聴くまでに5年かかりました。

卒業し、社会人に。「事業再生コンサルタント」

「本気で働いている大人っていないな」と就職活動にも嫌気がさし、第一志望のJICAにも落ちた頃、

たまたま出会った会社の説明会で凄い方がいて、その人に惹かれたのもあり
収入よりも、「働きがい」や「貢献」を重視しながらも「コンサルタント」という肩書きに憧れて

ベンチャー企業に入りました。

仕事は旅館の再生。廃業予定だった旅館を3年で再生するプロジェクトに入りました。


アクセスのよくない「陸の孤島」のような施設を、
ハードリノベーションせずに、ソフトのおもてなしと営業の力だけで再生する手法。
現場の接客から、掃除、営業、経理、マネジメントまで、幅広く携わり、支配人として尽力しました。

厨房さんにも若いスタッフにも恵まれて、どんなに疲れていてもお互いを気遣ったり、

チームワークがすごく良かったおかげもあり、徐々に宿としてかつての賑わいが取り戻されました。

 

そこで教わったことはとても多く、現場はとても楽しかったのですが、悲しいこともありました。
学歴で劣等感を持つ上司からは成果の出にくいところでがんばらされたり、
当て馬採用(高学歴のひとと競争させて成果を出させ、学歴劣等感を解消する手法)だったことを知らされたり
「京大のくせに大したことないな」と言われたりもしました。

ぼくという人間を見ていないような人に採用されて、自分の愚かさを痛感しました。
そういう人に「お前はこの程度だ」と限界を決めつけられ、評価されながら働くのは苦痛でした。

耳障りの良いことを言ってモチベーションを上げ、マネジメントする手法で、いわゆる「やりがい搾取」。繁忙期には月411時間働いた月もありました。

会社はそういう職場を改善することよりも売上を重視し、
ぼくもスタッフに負担を強いなければならない立場で、精神的にもつらいものがありました。
けれど、友達や同僚には相談できませんでした。

そうして気づいたのは「会社と上司はぼくの幸せのことなんか考えていない」ということ。

ここにいては、ぼくはダメになってしまう。

「会社に依存せず、自分で責任を持てる人生を送ろう」と、人生の舵を切ることにしました。

自分らしいライフスタイルを求めて

そのときに偶然他の宿に泊まってみようと口コミのいいところを探し出会ったのが倉敷のゲストハウス「くるま座 有鄰庵」。
当時じゃらんの口コミ評価が総合5.0という高得点で、口コミも5点しか入らない。
どうしてなんだろうと不思議に思って訪問すると、
美観地区の持つ特別な雰囲気と、笑顔の素敵なスタッフさんたちが迎えてくれました。

数回目の訪問で当時庵主で現アースキューブジャパンの中村さんに会うことができました。

そこで教えていただいたのは
大原三代から続く倉敷の文化的・歴史的な背景、そして
「経済的な豊かさを超える、心の豊かさ」をコンセプトにしているということでした。
どうしたらこんな場所がつくれるのだろうと思いました。

そういえば昔から、ずっと引っかかっていたことがありました。
学校教育のなかで、順位をつけ、優劣を競い合う。
できることは良いこと。できないことは悪いこと。
完璧を目指すこと。言うことを聞けるのが「いい子」
いい大学に入って、いい会社に入って、たくさんお金が稼げて、高い地位について
お金をたくさん持っているのが「幸せ」。結婚しているのが「幸せ」
綺麗な家が「幸せ」。綺麗な服が「幸せ」。

じゃあ、汚れている服や、安い服を着てるひとは不幸なの?
小さい家に住んでるひとは不幸なの?結婚してないひとは不幸なの?
できないひとは劣っているの?言うことを聞けないのは良くない子なの?

 

「経済的な豊かさ」「心の豊かさ」というのが、ぼくにとってキーワードになりました。

そうしてアースキューブジャパンの「ゲストハウス開業合宿」に参加。

そこでは、ゲストハウスの開業ノウハウを教えていただいた部分もありますが
それ以上に、心に響く話、そして素敵な人柄のひとたちに出会い
「やはりぼくが進んでいく方角はこっちだ」と確信したのでした。

それから前職を退職することになりました。

プレイベートでは当時婚約していた彼女とは婚約解消することになりました。

「幸せ」の定義はひとそれぞれ。

私は「心の豊かさ」を重視しており、

彼女は「金銭的・物質的な豊かさ」や「安定」を重視していました。

女性不信になりかけながら、そのなかで
「価値観やライフスタイルが共感できることが大切」だとこのとき気づかせてもらったのでした。

生きているうちで、ひとの出会いはたくさんあります。けれど、
「心が繋がるような、共鳴できる出会いをするためにはどうしたらいいか」

と考えるようになりました。


退職し、全国各地を旅するなかで気づいたことは
「自分の心のままに好きなところへ行くと、好きなひとに出会える」ということでした。そして
「好きな場所を、ここではないどこかに探し求めるのではなく、自分でもつくれないだろうか」
と思い至るようになりました。

ぼくにとってゲストハウスはあくまで手段。
「心つながるゲストハウス」というコンセプトで事業計画書を作成し
大家さんにご提案させていただいたこともありました。


入るなり最初は「そういうのはお断りだ。帰ってくれ」と言われ門前払いでした。
そこから1時間話も聞いてくださり、「記念にこの資料はもらっておくよ」
と言っていただけるところまで話を聞いていただきました。
けれどあいにく、ご縁はありませんでした。

そうしたなか、全国各地でリノベーションスクールというまちづくりに参加したり、
各地のゲストハウスに泊まったりたくさんの出会いがありました。

 

山口県の百姓庵さんで古民家改修に取り組んだり、塩や野菜の作り方を教えていただいたりもしました。

「いろんな生き方がある」ということを少しずつ知りました。

リノベーションスクール仙台ではかっこいい生き方をしている先輩たちにも出会いました。

いろんな方に勇気をいただくにつれて

「じゃあ自分は一体ナニモノなんだ」と思うようになりました。

ぼくは何を大切にして、生きたいのだろう。

 

そんなとき、旅の出逢いからご縁があり、佐賀県の有田町へ行くことになりました。
まちづくりのしごとです。うつわ男子としてPRしたり、カフェの複合施設の新規立ち上げを手伝ったりしました。

 

 

仕事だけでなく、有田では素敵な出会いに沢山めぐまれました。
地元のお祭りにも参加させてもらい、

焼き物屋さんも窯元さんも有田に住む人はみんな一緒になって

お酒を飲み仲良くなり、踊り歩きました。


けれど、信頼していたひとに裏切られ、どうしても立ち直ることができず
引きこもりになったのでした。

【挫折。ひとの優しさ】

2016年10月、あなたは何をしていましたか。

ぼくは暗い部屋のなかで、布団にくるまって、疲れ切っていました。
たぶん、心療内科で診てもらったら「うつ病」と診断されていたと思います。

「裏切られる」という言葉の意味をはじめて知り、
心がすり切れ、もう何も力が湧かない。

何もしたくない。 何も話したくない。

誰も信じられない。

あれだけひとと話すことが、ひとが好きだったのに
ひとを信じるということを、もうできなくなっていた。

暗い部屋の布団のなかで、12時間以上眠り、「つらい」とつぶやく日々。
憎しみに囚われたくなくて、人にも迷惑をかけたくなくて、
自分のなかでなんとか消化しようとがんばって
涸れるまで涙を流し、嗚咽する日々と抜け殻のように過ごす日々でした。

そんななか、立ち直るきっかけをくださったのも、またひとのおかげでした。

心配してくれたひとたちがわざわざ家に押しかけて忘年会を開いてくれ、

餞別に有田焼や曲をいただいたりしました。

「何があっても、俺はもてっちゃん味方だから」
「もてきがおらんくなったら寂しいわ」

電話をかけてきたり、食事に誘ってくれたりしました。

会社の社長たちも心配して、何度も足を運んでくれました。

正月もひとりぼっちでいたら、「お節をたべにきんしゃい」と誘ってもらいました。

ひとのやさしさが沁みて、涙もろくなりました。

ひとりだったらきっと、あの暗闇からは立ち直れていなかったと思います。

 

お世話になってばっかりで、有田にはまだ何も恩返しができないない。

「有田でもう一度がんばろう」という気持ちを奮い立たせようとしたのですが

回復と不調を繰り返すなかで、どうしても体調が戻らないので

「海外にでゆっくりリフレッシュでもしてこようか」

と、「第二のふるさと有田」を離れ、実家の群馬に帰ることにしました。

 

有田駅で大手を振って見送ってもらい、

餞別に贈ってもらった曲を聞き、

感謝と不甲斐ない自分を情けないと思いながら、旅立ったのでした。

【帰省。そして奇跡のようなタイミング】

どうしても力が出ない。そんな群馬に帰ったちょうどまさに1月20日。

その夜に、井筒もめさんのfacebookの記事を偶然、見つけたのでした。

実は、もめさんとは前年に、

アースキューブジャパンの中村さんの西粟倉村視察に同行させていただいたことがあり、

そのとき元湯に宿泊してお会いしていました。


「子どもを真ん中にした大きなお家」という素敵なコンセプトのファンになり、
「こどもとお母さんが笑顔な社会が幸せな社会だと思う」という考えに共鳴し、
その後もfacebookは拝見しておりました。

そのもめさんが、新しくつくるゲストハウス。
しかも「誰もがありのまんまになれる場」というぼくが求めていたようなコンセプト
しかも募集してるのは「経営感覚があり、マネジメント能力のある方。」
  「場所のコンセプトに共感し、集まったスタッフのリーダーとなれる愛ある人」

 

まさにぼくが求めていたような内容。そしてタイミング。

こんなことってあるんだろうか。何かがあと押ししてくれてるのだろうか。

「愛あるリーダーになる資格、ぼくにあるのだろうか。」

「でも、もしできるなら、なりたい」

このときだけは何故か心と身体が動き、その日の晩に、メールで応募。

そこからすぐに履歴書を送り、ゆうさいくん、もめさん、社長と面接になりました。

 

ぼくにとっては本命の、大切なチャンス。

事前にインターネットに載ってるもめさんやゆうさいくんや会社の文章を

ほぼすべて調べ、少しでもみなさんが大切にしてる価値観を知ろうと努力し、

同じ言葉を使ったり、より共鳴しやすい状態になろうとできる限り準備しました。

やれるだけやって、後悔したくない。

 

でも正直まだ睡眠時間も12時間眠りこむような体調ですから、

「よし」と気合をいれてようやくひきつった笑顔が出せるような状態が本当の姿。

 

「ありのまんまを大切にしたいと言ってくれてるひとに

ぼくが無理して飾った状態で会おうとしていいのだろうか」

「今は元気がないけれど、それもありのまんまに、話してみよう。ダメならご縁がなかったということだ。」

そのままの状態で面接にのぞむことにしたのです。

 

そうして面接が終わった日、もめさんはこんなメールをくれました。

「私自身は、京大生とか正直そんな点で期待とかはしてないです。
もっと感性の部分。人となりの部分に共感しています。

茂木さんが自己開示してくださったうちの直近の心の傷とか
そういったものも包み込めるような場にしていきたいから
スタッフ自体が多様で、人の心に寄り添えるような人がいいなと思っています。

素や弱みを出しすぎたと恐縮されていたけど、全然こんなくらい平気ですよ。
むしろ弱さを知っている人の方が、人の弱さに寄り添えますもん。」

 

そうして今、ぼくはここにいます。

【今思うこと】

旅館で働いていなかったら有鄰庵に出会うこともなかったし

有鄰庵で中村さんに出会わなければもめさんに出会うこともなかったし
もめさんに出会わなければ豊島に来ることはなかったと思います。

自分の心が惹かれるままに、感性を大切に動いていたら
昔には想像もしなかった場所にたどり着きました。

繋がっていないようでいて
ぼくから見たら、いろんな経験や出会いはつながっているから不思議。

つらいこともたくさんあったけれど、そこも含めてのぼく。
その分、人の優しさに感謝するようになり、
人の悲しみに寄り添えるようになったかもしれない。

「ここは違う」と思ったら逃げてもいいし、失敗したっていい。
いろんな選択肢や生き方や考え方があるってこと
ぼく自身まだまだ知りたいですし、まだ知らない方には知ってほしいと思っています。


【最後に】

mammaはいろんなひとに来てもらいたいと思っています。そして、いろんな話をしたいです。

ぼくは今から80カ国バックパッカーになることはできないし、
看護師になってアフリカにいくこともできません。
それはあなただけが持っているストーリーだから
それを聞かせてください。他愛ない話でも、なんでも。

この場所では、生まれも、年齢も、学歴も、肩書きも、性別も、国籍も、関係ありません。
名前だけあれば、あなたという存在だけあれば、それだけでいい。
かつて乳児院だったこの場所だから、溢れる愛もあるし、離島だし、
少しまじめな話をするのにちょうどいい口実だってあるから。

いろんなひとがいて、いろんな生き方がある。
多様性を知ることで、認めあうことで、前より少しやさしくなって
自分らしさを取り戻せたらいい。
そうしたらほんの少し、社会の幸せの総量があがっているのかも。

それがぼくがつくりたい「ありのまんま」になれる場所。です。
それがうまくいくかどうかは、まだこれからの話。

ぼくもこの場所で時を過ごしていくなかで
愛ある人になっていけたらなと思っています。

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以上です。長文おつきあいいただきありがとうございます。

 

ひとは、ひとりでは生きるのが大変なときもあるけれど

ふたり以上なら、ずっと楽しい道のりになりますね。

 

ご覧いただきありがとうございました。読むの大変でしたね。

ぼくも書くのが大変でした。笑

いつかまた、お会いできるのを楽しみにしています。

もてき