2020/04/18 17:23

Guest House 佐藤商店(ゲストハウスサトウショウテン)の店主、佐藤理華 (さとう りか)です。
我が宿は、北海道の南側では知名度の高い“洞爺湖”の隣町、“豊浦町”にあります。北海道の方には毎年初夏に開催のイベントをご存知で、いちごや豚肉の町としてインプットされている方も多くいらっしゃるようですが、全国的に見るとあまり知られていないかもしれません。しかし“帆立の養殖発祥の町”なので知らずに食しているものが、豊浦町の帆立であるかもしれません。また、この豊浦町、実は洞爺湖に劣らない自然の魅力が多くあるパワースポットだと、訪れる方が多いのです。実際に私は毎日この町の夕陽に感動しているからこそ、洞爺湖を目的に宿泊された方にも必ずお伝えしているのです。『この町の夕陽は必ず感動します。だからこの町も歩いてみて下さい!』と。

以下は全て豊浦町内の朝陽、夕陽です。




私自身、この町には小学生の頃に数回訪れただけでしたが、家族キャンプで訪れた際に遊んだ時の自然の豊かさは鮮明に覚えていました。何よりこの町は私の祖母の生まれ育った故郷ですので、自分のルーツが美しい景色のある環境である事は誇らしい事だと感じています。



まずは私がどんな人物であるか、少し公表させて頂こうと思います。



2016年、私は『地域おこし協力隊』として東京からこの豊浦町にUターン。とはいっても私が生まれたのは北海道の日本海側に位置する、父の生まれ故郷“小樽市”です。両親が出逢い、私が2歳まで暮らした小樽市の雰囲気もとても気に入っているので、昨今世界中から旅行者が絶えない事は自分ごとのように嬉しく思っています。

その後、転勤族の父の仕事の関係で、北海道の東のオホーツク海側に位置し、流氷祭りで有名な“紋別市”に移住。そこで生涯の親友であり、幼馴染みに出逢います。彼女も起業家で北海道が産んだ貴重な同志です。

紋別では、私は“女版ジャイアン”として、男の子女の子含めて近所の子供たちを束ねて走り回るような、元気で活発な、とにかく動き回る少女でした。その頃の行動が今の私自身の基盤になっていると感じる今日この頃です。

小学校低学年の頃、現在の実家がある“伊達市”に移住。【全国体力づくりNo.1】を掲げていた小学校に通い、陸上リレーやバレーボール少年団でも心と身体を鍛えて頂き、また、自身の可能性を大きく引き出して下さる恩師との出逢いもありました。

その後同じく伊達市の中学校へ進学。運動部に入部する気満々でいたはずが、気付けば運動部よりも運動量の多いような吹奏楽部に所属し、ほとんど休日の無いライフスタイルに

慣れていきました。そこで有り難くも3年連続北海道大会に導いて下さった顧問の先生に音楽の魅力を教えて貰った私は、“室蘭市”の高校に進学後も吹奏楽部でトランペットを継続。2度も全国の大会に出場、最後の学年では初めて北海道大会で金賞を受賞するなど、人生の財産となる経験を積ませて頂きました。

このように学生時代に得た、チームで動く・同じ目標に向かって団結する事で生まれる最高の結果や達成感、爽快感は、たまに味わいたくなる体験でもあります。


高校卒業後は上京し、音楽の専門学校へ進みました。表舞台のコースではなく裏方を学ぶことがメインだったため、華々しい世界の裏には、見えないところでひたすら支える人の存在がある事を知り、北海道の部活時代を振り返りながら陰で作業して下さった方々への感謝の思いと共に大人の世界に仲間入りした感覚でした。

学生のうちから複数のアルバイトを掛け持ちし始め、コンサートスタッフに始まり、倉庫内作業、保育士助手、カラオケ屋店員、ジュエリーサロンでの販売、野球場での売り子、歯科助手、コンビニ店員、人力車での観光案内など…音楽の学校を中退後「今しか出来ない事をやる」と、休みなく様々な挑戦を続けました。やがて美容の仕事で正社員として就職。美の追求の楽しさや人を“癒す”ということに関心が高まります。仕事は楽しく感じていたものの、時が経つにつれ過去に思い描いていた「裏方ではなく表舞台で表現をして人に癒しを届けたい」という想いが募っていきました。しかし表現者としての道は生活の安定の保証はない、それなら自分の好きな分野で手に職をつけておこうと、エステティシャンとマッサージセラピストの技術を習得。個人で仕事を開始し表現者としての道も模索しました。

そうする中で決まっていった音楽事務所への所属。インディーズで、曲数も僅かでしたが世の中に私の歌声をお届けできた事は「私でも誰かのために生きられる」という自信となっていきました。そしてもっと多くの人に元気、希望を送り癒しを感じてもらえるようなステージを目指すようになりました。ところが、担当マネージャー達からの言葉につまずく事に。

『メジャーデビューさせようって話になってるから、それに応える為に今時の若者にウケるファッションと、彼らに響く恋愛系の歌詞を書いて。』

そう言われ、一気に“佐藤理華”として生きる自信をなくしてしまったのです。

「私でなくても良い。」「ありのままの私では人を癒す事はできない。」「私は必要とされていない」「何の為に生まれてきたのだろう」「生きる意味って?」

自分を肯定する事が出来ず、大好きだった音楽は聴けなくなり、歌を口ずさむ事も出来なくなりました。それでも、辛うじて生きる意味を考える事に、真剣に向き合う事を決意。そして昔から温めていたある行動を実現しようと思いついたのです。それが“伊能忠敬さんに続く 佐藤理華の徒歩の旅”です。

2011年の東北大震災から3年の月日が経っていた頃、私のさらなるルーツがあったかもしれないという“宮城県”を最初の一歩の場所と定めました。3日で1万円しか使えないというルールを自身に課し仙台〜石巻間50キロをひたすら歩きました。朝陽と共に活動し始め、陽が沈む頃宿に到着。初道中の景色に感動して立ちすくむ事もありました。この時、人生で初めての“ゲストハウス宿泊体験”を。当時はまだ日本でのゲストゲストハウス認知度が今以上に低く、私も初めての1人旅に初めてのゲストハウスで、ドキドキしながら予約をしたと思います。この初めてのゲストハウス宿泊体験が、後に大きく自分の人生を変えるとは思ってもいませんでした。

石巻のその宿は、水産加工会社が津波で流されてしまったという社長夫人さんが切り盛りされており、この女将さんとの会話は病んでいた私の心に光を灯してくれたのです。女将さんから貰った言葉とは

『被災者の私たちに何かしてあげようと考えなくて良いの。被災者は強く逞しく前を向くから。あなた達は自分の身に同じ事が起こった時に後悔しない生き方を選んで欲しい。』

というものでした。以来私は“明日死んでも後悔しない今日を生きる”

と決めたのです。

帰り道は心が軽やかになり、自然の景色がこれまで以上に美しく感じるほどに。そして気付けば鼻歌を歌いながら歩き続けていました。

その後もいくつかの街を旅し、ひとつの答えに辿り着きました。

「私は自然の景色が本当に大好きで、この自然から貰ったエネルギーで自分を癒している。このままの私で生きていこう。自然体でいられる場所に還ろう。北海道に帰ろう。」

と。




我が宿から車で10分の“洞爺湖”は四季それぞれに感動の景色となる。




ご縁により豊浦町にて1年間観光促進業務に携わらせて頂きながら北海道内を周り、多くの感動体験と素晴らしい人との繋がりを作らせて頂きました。その中で、どうやら海外からの旅行者の方が北海道に来る頻度が上がっているという事を知り、自ら札幌のゲストハウス巡りを開始。一軒づつオーナーやスタッフの方にお話を伺いました。私が本当に驚いたのは北海道内、どのゲストハウスのオーナーも決して私をライバル扱いしない事でした。それどころか『ゲストハウスをやるならこうしたら良いよ〜』と教えてくれるくらい。更には札幌ゲストハウスオーナーの集まりにも誘ってくれたり、『洞爺湖行きたいってお客さんいるから案内してあげてもらえたら喜ぶと思う!』と、何度もお客様の送客もして頂き、地元案内をする事の楽しみを教えて頂いたのでした。

そんなゲストハウス巡りという名の市場調査を半年ほど続けるうちに、重大な気付きがありました。それは、“多くの訪日外国人が洞爺湖に来ているのに滞在している時間が短い”

という事。その理由は実際にボランティアで案内したスエーデン人兄弟の宿探しをサポートした時に確信となりました。

現在の訪日外国人の多くが20代前半のバックパッカーであり、1日1日に使う金額を抑えてより多くの自然体験や美しい写真撮影スポット求めていると。そうなると、洞爺湖周辺の温泉旅館やホテルは彼らにとって高価過ぎる、つまり、必然的に安く滞在出来る宿が多く存在する大都市での宿泊を数日とることになる為、彼らに最適な価格帯の宿がないような小さな町は通過されるだけ、もしくは数時間の滞在で終わってしまうのです。こういった状況下で仕事をするようになる事を予想していたかのように、JRの観光案内所で訪日外国人専用のJRフリーパスの発給サポート業務を、少しの間経験していた私にとって、旅行者がどんなルートで北海道に訪れているかを把握していたので、各駅列車も利用できる事は知っていました。

「せっかく5〜21日間の日本一周のパスを持って旅行に来てくれるのであれば、ガイドブックには載っていないような、まだ他の訪日外国人が訪れていないような場所に行きたい人だっているはず。ならば受皿は多くあった方が良い。」

「この豊浦町だって北海道の人すら知らない人がいる。でも、私のように都会で疲れた心を癒すには充分過ぎるほどの自然や環境がある。田舎らしさに心が落ち着く人も必ずいるはず。」

との私の思いは強まり、ついに

「誰かが始めるのを待っていては遅い。無いなら私がその受皿になる。」と、決意に変わりました。その時期既に2017年の5月。

町内の空き家・空き店舗情報を集めましたが、沢山あるように思える物件に、使わせてもらえるようなところはほとんどありませんでした。間もなく7月というある日、『今まで誰にもかしてないみたいだから多分無理だと思うけど一応紹介する?』と、紹介頂いたのが“旧佐藤商店”でした。

佐藤商店は2010年までのおよそ50年間、駅の目の前で、町の顔として親しまれていたお店。オーナーであった佐藤さんはご主人とは別でお一人で営んでこられ、多くの学生達がおやつを買いに通ったようです。私は同じ苗字ですが、全く血縁関係はなく、当然知り合いでもありませんでしたが、生まれた場所が同じ小樽市である事、起業年齢が同じである事などから不思議なご縁を感じ、私の想いを実現するのはこの場所しかないのですと強く訴えていました。また、こういった場所こそ、昔の面影をそのままにしてお見せすれば日本の田舎の文化や歴史にも触れて頂く事になる、このありのままが多くの訪日外国人や他地域の人の心を癒すはず。という大確信でプレゼンテーションをしました。そして佐藤さんご兄弟にもその場で賛同して頂き、許可を頂いて、一部改装の上、2017年9月27日に開業する事ができたのです。

        


上 旧佐藤商店の内装


下 Guest House佐藤商店の内装




こうして90歳になられる元オーナーの佐藤さんのにも足を運んで頂きながら、これまでにのべ2,000組近くの方にご利用頂いてまいりました。こうした業種を運営する事自体が初めての中、お客様に教えて頂きながら、玄関が開いたら「お帰りなさい」。出発する時には「いってらっしゃい」と、まるでここにも実家があったかのように感じて頂ける安心感を提供し、癒される空間づくりを日々考え、改善し続けてなんとか続けてくる事が出来ました。しかしながら、基盤を固めたい1年目に、北海道胆振東部地震。我が宿本体は無傷でしたが、やはりお客様の流れは止まりました。この間に次への対策を考え、準備、やっとお客様が戻ってきたこの冬、今回のウィルスにより2月の予約がほぼ全てキャンセルとなりました。

世の中の動きもじっと見ながら、我が宿は一度休業する事を決めました。次に出逢うお客様に、より感動体験や癒しのひと時がご提供できるようにと、私自身がバージョンアップに挑戦中です。

マッサージや健康アドバイスをしていた健康オタクな店主は、ヨガティーチャー、ナチュラルフードコーディネーター、断食アドバイザー、メンタルアドバイザー等の資格も取得している為、ついついお客様が健康的に生きるアドバイスもしてしまうのですが、不思議と我が宿にいらっしゃる方はそういったヘルシー志向の方ばかり。帆立の貝殻100%の壁により、空気清浄効果を感じてくださる方も多くおられます。

我が宿に来てくださった方は少しでも健康になって出発できるようにと、別売りの朝ごはんでは北海道産の無農薬米や地域素材で作った具が入ったおにぎりを用意しています。

都会で疲れた心と身体を休めに。時々聴こえる店主の歌声と共に癒しの時間を。ゆっくりと流れる時間を楽しんで頂けますように、準備をしてお待ちしています。

地域観光案内も、行っていますので田舎プチ移住体験にもご活用下さい。


どんな逆境にも必ず意味がある。であるならば、今回は北海道ゲストハウスオーナー達の想いの結集を皆様にお届けするチャンスを頂いたのだと、心から思います。


人が大好きだから

人を癒したいから

人と共に生きたいから

だから、その空間をあなたと共有したいのです。


この一歩が世界の平和にも繋がる一歩でありますように。


長いお話に最後までお付き合い頂き、ありがとう御座いました。