2020/12/14 22:21
進捗報告

今年も残すところ半月ほどとなって参りましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?「古座川は本州でも南の方だし暖かいだろ…」と思っていた私ですが、実際過ごしてみると朝晩の冷え込みが厳しく、ここ数日しもやけに悩まされています。

間伐作業は前回からもう一列伐採が完了しました。これで5m幅と10m幅が一区画ずつ完了しました。そこで斜面上部から比較写真を撮ったのでご紹介したいと思います。



こちらがその写真です。上の一枚が伐採を行っていない箇所で、下の二枚が伐採を行ったところです。さらに左下が5m幅で伐採を行ったところ、右下が10m幅で伐採を行ったところです。

こうしてみると、空の開き具合が結構異なることが分かるかと思います。植物は種類によって好む環境が異なるので、誘導される樹種はこの環境の差に影響を受ける可能性があります。今後の調査でこの点について見ていく予定です。

研究との兼ね合いのため、活動報告の頻度は2週間に一度ほどとさせて頂きます。ご了承ください。


戦時中の木炭需要

さて以前、炭の歴史についてご紹介しましたが、今回はその続きである近代以降の炭の歴史をご紹介したいと思います。

皆さんは戦時中、「ガソリンの一滴は血の一滴」という標語があったことはご存じでしょうか。この標語からも分かるように、日本は資源に乏しかったので貴重な石油は戦争に優先的に使われ、日中戦争以降日常的な燃料の不足が深刻化していました。そのため、薪や木炭がガソリンの代替燃料となり、木質資源の伐採量が年々増加していきました。林野庁の示す伐採量の推移によると、1943年には伐採量が1億立方メートルを超えていました。現在の国産材の供給量は3020万、外国産材を含めても8000万立方メートルなので、現在と比較してもいかに大量に伐採されていたかが分かります。紀州備長炭記念公園に展示されている木炭車(※ただしこれは戦後型)

当時のガソリン不足を象徴するものが木炭車です。戦時中、ガソリンを主燃料とする自動車は当然、燃料不足となっていました。そのため、日本では木炭を燃料として車を走らせていました。この木炭車は世界的にも珍しく、いかに日本が鉱物資源に乏しく、木質資源に頼る他なかったかを表わしているとも言えます。

木炭自動車はガソリン車に比べ出力が3割程度低下したと言われ、坂道の多い地域を走っていたバスは坂道を登りきることが出来ず、乗客が降りて押して登ったというような話も残っています。紀州備長炭記念公園に展示されている木炭発動機

1940年を過ぎ、アメリカとの原油の貿易がストップすると、いよいよ燃料がなくなった日本は飛行機まで木材資源に頼ろうとしました。1945年に開始した松根油緊急増産運動は、全国のマツから油分を採取しようとしたものです。しかし、200本のマツを使っても1機の飛行機を1時間しか飛ばすことが出来ず、非常に非効率だったとされています。当時の採取痕は現在でも見られるようです。

終戦とともに石油が少しずつ戻ってくると、木炭の需要は減少することとなります。最盛期の1940年に270万トン生産されていた木炭は、2016年には2.6万トンまで減少してしまいました。その結果、炭焼きを生業としていた人々は職を求め山村を去ることとなります。炭焼きを主な産業としていた集落の中には、木炭販売の不振が原因で離村が進み、無人化してしまったところもありました。この視点で言えば、木炭産業の低迷は過疎の一員ともいえるでしょう。

かつて炭焼きで栄えたであろう古座川町内の集落跡 
隙間が分からないほど美しく積み上げられた石垣が残っている伊東屋敷跡

さて、木炭の需要が減ると共に、今度は高度経済成長期を支える建材や梱包材の需要が急増します。そこで必要となるのが、成長が早く真っ直ぐ育つ木でした。そのため、従来は薪炭材生産のために維持されていた広葉樹林も、人里に近いところから針葉樹が植えられるようになります。加えて、戦時中に荒廃した林地の早期回復も必要だったため、やはり成長の早い針葉樹が多く用いられ、日本中に針葉樹林が広がっていきました。このような背景で急速に針葉樹人工林が広がった時期を「拡大造林期」と呼びます。

次回はこの拡大造林期の後からご紹介したいと思います。お楽しみに。



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