2021/09/14 22:26

こんばんは!本日は以下の大きく3つのトピックをお話します。雨続きで調査がキャンセルになった時間を使って書いていたら楽しくなってしまって、3つ目のトピックはとても長くなってしまいました。時間があるときにでも読んでいただければ幸いです。

1:平井の稲架掛け
2:調査報告 先駆種のメンバー紹介
3:自然の遷移に委ねる施業とは?
   オランダのミニ森林
   ドイツの林業思想
   ドイツ・ロマン主義の生命観
   ナチスと自然保護
   ジル・クレマンの動いている庭

1:平井の稲架掛け

残暑でまた暑くなるかなあと思っていたら、本格的に秋の空気になっていてびっくりしています。平井では稲架掛けが始まりました! 秋らしく高い空と一緒に写真を撮りたかったのですが、生憎の天気で湿っぽい秋となりました。この地域らしい写真ということでご了承下さい笑。

平井は大規模な棚田というわけではありませんが、やや高低差のあるなだらかな丘に田んぼがあるので、稲架が波のように連なっている様子が見えます。こちらの田んぼは今年、稲の品種を変えてみたそうですが、結果はどうだったのでしょうか…?一度平井産米を食べてみたいものです。

少し視点を変えると、柚子の木に付いていた実が大きくなっていることに気が付きました!あと2か月ぐらいすると、実が鮮やかな黄色になって集落中で柚子の収穫が始まります。中心部の自販機前には大量の柚子が集められ、良い香りが集落を漂います!


2:秋の毎木調査月間!

今秋の毎木調査を始めました。予備調査で春からの成長量がそれほど大きくないことが分かったので、今回の調査では生存率と新規個体の樹高・基部直径の測定を行うことにしました。まだ1/6程度しか終わっておりませんが、間伐したところでは早くも面白い変化が見られました。

調査地は相変わらずの雨続きです

先駆種の出現

面白い変化というのが、先駆種の出現です。先駆種とは何らかの変化により地表が露出した場所で、他の種よりも真っ先にやって来て生育する種のことを言います。一般的に日当たりの良い場所を好む傾向があり、成長が早く寿命は短いものが多いとされています。前回までの調査では林床が暗く閉ざされていたため、先駆種はあまり多く見かけませんでした。

ところが、間伐して地表まで光が届くようになった今回の調査で、今まで見られなかった先駆種が姿を現したのです。そこで今日は、今回新たに表れた先駆種を紹介したいと思います。

①カラスザンショウ

1人目はカラスザンショウです。山椒は小粒でもピリリと辛いの山椒の仲間です。諺どおり、こんなに小さくても独特な香りが漂ってきました。香りはミカン科らしくシトラス系のスーッとする香りです。

ただ、香りとは裏腹に、見た目はとても厳ついです。成木になっても針は残りますが、幼木の頃はその密度たるや恐ろしい雰囲気を醸し出しています。子供のころにこれだけ尖っていると、成長してから恥ずかしく思っているかもしれませんね。

因みに名前に入っている「カラス」はカラスが実を食べることが由来だそうですが、私はまだ見たことがありません…。そういえば9月9日はオオサンショウウオの日でしたが、「サンショウウオ」には逆に「山椒」という名前が入っていますね。これは、サンショウウオが身の危険を感じたときに出す粘液の香りが山椒に似ているからだそうです。僕は嗅いだことがありませんが、機会があれば比べてみたいですね。

学術調査の際に撮影されたオオサンショウウオ。因みにオオサンショウウオは手がとても可愛いので「オオサンショウウオ 手」でググってみて下さい!

②アカメガシワ

お次はアカメガシワです。岩手・秋田以南の日本中に分布しているので、恐らく皆さんも一度は目にしたことがある種だと思います。名前に「カシワ」とありますが、ブナ科コナラ属ではなくトウダイグサ科アカメガシワ属です。ややこしいことになっているのは、カシワという言葉の語源が原因のようですが、長くなってしまうのでここでは割愛します。アカメの方は芽が赤いことが由来だそうです。個人的にはカシワよりもキリの葉に似ているのでアカメギリと名付けたいですね。

展葉が始まっている赤い芽(中央部)

アカメガシワはその生命力の高さ故、Googleの予測変換で「アカメガシワ 駆除」と2番目に来てしまっていました。なんとも不憫なアカメガシワですが、実は結構色々な使い道があります。例えば、芽や若葉を食べたり、樹皮を薬にしたり、葉や実を染料にしたり…といった具合です。また材も建材から器具材まで使われます。

崖っぷちに生えるアカメガシワ

アカメガシワの種は鳥によって散布されます。ただ鳥によって散布された種子は必ずしも種子にとって都合の良いところに辿り着くとは限りません。特に先駆種のように「明るくないとムリッ!」というような環境を選ぶ種にとって、理想的な環境に種子を飛ばすのは非常に難しい作業です。そこでこういった先駆種は、種を小さくして沢山飛ばし、「数撃ちゃ当たる」理論でとにかく種子をまき散らします。また、例え辿り着いた先が理想的でなかったとしても、「数年待てばチャンスがあるかも!」と期待を込めて、休眠状態に入る能力を持っている場合が多いです。「果報は寝て待て」と言ったところでしょうか。人間が長い歴史の上でようやく気付いた教訓を、植物は自然と会得しているようで面白いですね。

アカメガシワの種子

③タラノキ

お次はタラノキです。皆さんご存じのタラの芽のタラですね。なんだか食べ物関連の種が多いような気がしますが、定期的に撹乱が入る里山林によく生える樹種たちなので、人とのつながりが強いのかもしれません。タラノキは芽以外にも、樹皮が薬用にされるようです。

タラノキももう少し大きくなるとカラスザンショウに負けないほど鋭い針を付けるようになります。そしてタラノキの大きな特徴が葉っぱです。上の写真では分かりにくいですが、タラノキは成長すると下の図の一番右のような葉っぱを付けます。この葉っぱ、全部で何十枚もあるように見えますが、実はこれ全体で一枚の葉っぱと数えます。そのため、落葉するときは、枝のようなこの全体がドサッと落ちてきます。カラスザンショウも似たような奇数羽状複葉という形態ですが、タラノキは1回分岐後にさらに分岐する2回奇数羽状複葉という形態をとっていることが特徴的です。



3:自然の遷移に委ねる施業

3つ目のトピックは「自然の遷移に委ねる施業」というテーマです。このテーマにしようと思ったのは、7月の新聞に次のようなナショナルジオグラフィックの記事が載っていたためです。

オランダで増えるミニ森林 宮脇方式とは?

この記事によると、オランダの都市部で「宮脇方式」と呼ばれる植林方法によって、小面積(テニスコート1面分ぐらい)の裸地を急速に森林化するプロジェクトが広がっているそうです。この緑化プロジェクトにより、都市部での生物多様性保全やヒートアイランド現象の緩和、保水力の向上といった効果が期待できるそうです。都市のあちこちに小さな森林がある光景は想像しただけでも涼し気で、一度歩いてみたいと思いました。では宮脇方式とはどのような植林方法なのでしょうか?

この植林方法によって緑化を行っている「森のあるまちづくりを進める会」によると、宮脇方式とは、「その土地に従来から生息している種類の木を複数種類混ぜて、密に植える」方法 のようです。都市部では景観の観点から裸地状態が長く続くことが好まれません。そのため、密に植えることで、光資源をめぐる競争を促進し鉛直方向の急速な成長が期待できるということだと理解できます。

では「その土地に従来から生息している種類 」とは何なのでしょうか?これが実は宮脇方式の優れている点でもあり、批判の対象になる点でもあると僕は考えます。まず優れている点ですが、緑化工ではよく成長の早い外来種が用いられる傾向があります。この方法は確かに早期の緑化が可能となり土壌表面の被覆と言う意味では高い効果を発揮します。ですが、繁殖力や拡散力をどこまでコントロールできるか不透明な部分も多く、外来種が緑化部分以外に広がってしまう危険性が常にまとわりつきます。

一方で、地域的な在来種を用いることは、緑化速度はやや遅くなってしまうかもしれませんが、外来種の移入が無いため地域生態系の保全という意味で優れています。宮脇方式ではこの成長が遅いという欠点を、密植によって解決しているようです。また、地域性の樹種を植えることは、その土地の撹乱や害虫に対する抵抗性を持っている可能性のある樹種を選ぶことにつながり、結果としてイレギュラーに強い森林の創出が期待できます。

中川研究林で行われている在来植生を用いた高速道路法面の緑化試験

しかしながら、「その土地に従来から生息している種類 」 というのがいつのことを指しているのかという問題に直面することがあります。例えば里山林は「本来あるべき植生」ではなく、「人が適度に管理した状態で成立しうる植生」です。また、例え理想的な「あるべき植生」があるとしても、現在の立地環境には適していない場合もあります。こういった課題に直面した際、「その土地に従来から生息している種類 」 が本当に目的にあった樹種なのかどうかは十分に吟味する必要があります。

いずれにせよ、自然に対し徹底的な人為で対抗しようとしていた従来の考えとはことなり、自然の模倣や遷移に寄り添うこの姿勢は、これからの林業にも参考になるかもしれません。一見すると、目新しく見えるこのような姿勢ですが、実はこのスタイルを100年以上前から取り入れていた人たちが中央ヨーロッパにいました。


19世紀後半に生まれた生態学と林学を融合した先駆的思想

代表的なものが2つあります。一つが、ドイツの林学者カール・ガイヤーの思想とその影響を受けた「照査法」と呼ばれる森林管理方法。もう一つが同時期に同じくドイツの林学者アルフレート・メーラーが提唱した「恒続林思想」です。

(1)カール・ガイヤーと「照査法」

カール・ガイヤー(1822~1907)はそれまでの林業を、農業のように木を栽培しているに過ぎない※1とし、木材生産という単一的な目的の下で経理上の「理論」に基づいて行われている演繹的な従来の林業を批判しました。では、彼の理想とする林業とはどのようなものだったのでしょうか?村尾(2017)によると、彼の林業思想の要点は大きく次の5つがあるといいます。(以下引用

①林業は農業とは全く異質の産業
②森林は樹木の単なる集まりではなくて「生命共同体」(レーベヴェーゼン)
③林業はあくまで合自然的かつ近自然的に営まれなくてはならない
④それによって自然の生産諸力はフルに活用される
⑤保続林業(持続可能な林業)も(中略)森林経理学的手法ではなくて、あくまで森林を健康な状態に維持するという生態学的手法によってこそ実現できる。(引用終)

つまり、木材生産は林業の唯一の目的ではなく、森林の諸生産機能を最大限保全したときに副次的に得られる産物にすぎないというのです。そして、森林の諸生産機能を発揮するためには森林を生態学的に健全な状態(恒続的)に維持する必要があり、理論ではなく現場の経験から得た自然に寄り添った手法で、こまめにフィードバックをかける帰納的な施業が必要だといいます。そのため、ガイヤーは「自然に帰れ」を標語としていました。

具体的には、主伐(メインの伐採)と間伐(手入れ用の伐採)という概念を取っ払い、継続的に少しずつ必要に応じて伐採する形になります。その際、林床へ光を届けるような施業を行い、天然更新を促し、それでも上手くいかない場合は補助的に植林も行うというスタンスをとっています。木材生産が「伐採」であると同時に次世代の資源になりうる「稚樹」の更新にもつながっているというわけです。とても100年前に提唱されたとは思えない進んだ思想ですね。びっくりします。

ガイヤーの思想は後に、森林の利用効率を恒続的に最大限発揮するため、林分の伐期を設定せずに、区画ごとに10年以下の短い期間で蓄積を査定し、その都度適した伐採量を決定していくという「照査法」に受け継がれました。実は北大の中川研究林にも1966年に設定された照査法試験林があり、現在も研究が行われています。

※1:現代においては生態系に配慮した農業も行われていることを断っておきます。また里山生態系など、農業自体が生態系の1要素であることも分かっています。

(2)アルフレート・メーラーと「恒続林思想」 
森林美学

恒続林思想をご紹介するには、その前身ともいえる森林美学について触れておく必要があります。森林美学とは、これまたドイツの林学者ハインリヒ・フォン・ザリッシュ(1846~1920)によって林学の一部門として確立された分野で、森林に経済的、国土保全的な目的だけでなく美的センスも取り入れようという学問です。ザリッシュはこの森林美学を人工林で適用し、経済的な利益を追求することと美しい森林を作ることが対立するのではなく調和する、と提唱しました。

ザリッシュの森林美学に影響を受け、北大農学部の前身にあたる東北帝国大学農科大学の新島善直と村山醸造は、卒論で森林美学を取り上げました。新島は後に林学教授になると森林美学の講義を設定します。彼らの森林美学はザリッシュの影響は確かに受けているものの、模倣しているわけではありませんでした。天然林を重視している点や、日本の森林に応用している点、そして風景としての森林を重視していることなど、発展的な内容になっています。この森林美学の授業は今でも北大農学部の森林科学科で行われていて、僕も受講しました。当時は「『美』とかよく分かんないなぁ」と思いながら聞いていましたが(笑)、もう一度しっかり受けたいですね。

恒続林思想

さて話を戻して、恒続林思想についてです。アルフレート・メーラー(1860~1922)は自著の「恒続林思想」の中で、「恒続林のみが森林美学の提起する諸要求を満足させられる」と言いました。恒続林思想はガイヤーの林業思想と重なる部分も多く、自身も『恒続林の理念がガイヤーの教示と刺激に従う限りにおいて、この理想は「自然に帰れ」の叫びとも合致する』としつつも、その文章のある章のタイトルが『造林の目標としての森林有機体の永続、それは「自然に帰れ」ではない』となっています。一体何が同じで何が違うのでしょうか?

まず合致するところは「森林有機体の恒続」です。メーラーもガイヤーも森林の諸生産機能を最大限発揮するためには、恒続的な森林を維持することが必要だとしています。そして恒続的な森林を目指す施業は全て「恒続林施業」と言えると、メーラー自身も言っています。しかし、ガイヤーが林業の目的をその「恒続性の創出」にある、としているのに対し、メーラーはあくまで「できるだけ多くの木材価値を生産すること」が林業の目的だとしています。

つまりガイヤーは「恒続性」を目的として、その副産物に「木材生産」を位置付けているのに対し、メーラーは「木材生産」を目的とし、その手段として「恒続性」を位置付けているというわけです。従ってメーラーは、木材生産のさらに効率的な手法があるのであれば「恒続林」は必ずしも必要ではないとし、「恒続林」を勧めるためにはその優位性を十分に提示する必要があるとしています。

またメーラーは先に述べた「森林美学」とのつながりを強調した点も特筆できます。彼は、照査法を大成した林学者(ビヨレイ)の次のような言葉を引用していました。『この森林は永続するからこそ、生産し活動する。生き生きとして強健なるがゆえに、美しい。そして、この森林を取り扱う林業家は、価値を追求しながら美に触れ、美の作品を創りながら、価値の作品を創る、類稀なる特権を持っている。同時に彼は、力であるところの調和を実現する』。林業とそれに従事する人々がいかに誇りを持って仕事しているかが伺える一節のように思います。日本でもこのような雰囲気になる日がくると良いですね!


ドイツ林業思想を生んだドイツ・ロマン主義

では、なぜこのような先進的とも思える林業思想がこの時期のドイツで生まれたのでしょうか?少々調べてみたところ、文化的な背景が関係しているようです。当時、ドイツでは人工、合理性、理性、画一性を重視する啓蒙主義が終わりを迎え、自然や固有性、多様性を重視するロマン主義による政治文化が広がっていました。このドイツ・ロマン主義では自然を、科学的に支配されるものではなく、それ自身が主体性を持つ生命体(有機体)として捉えられていました。その結果、自然を従わせるのではなく、寄り添うという前述のような林業思想が発展したというわけです。

エコロギー(エコロジー)の造語者とされるヘッケルは、個体生命の生死の集まりが普遍的生命(主体性を持つ大きなまとまりとしての生命体 )を存在させており、普遍的生命は時間的な生命の過程も兼ね備えているとしました。この考えは、ダーウィンの「種の起源」によって補強することができるため、ヘッケルはダーウィンの進化論の普及活動に積極的に取り組んだと言います。

ところが、ヘッケルとダーウィンの唱える生命概念には大きな違いがありました。ダーウィンは生命個体を文字通り一つの「個体」として捉えていたのに対し、ヘッケルは「国家や民族、人種等の集合体」として捉えていたのです。また、プラムウェル(1991)はヘッケルのエコロジストとしての重要な3つの思想について、『第一は、彼が宇宙を統一された調和的な有機体とみていた…。第二は、彼が人間と動物は同じ道徳と自然の地位を占めていると信じており、人間中心ではなかった…。第三は、自然が真理の源泉であり、人間生活の賢明な指針となるという信条を説いた…』とし、続けて『人間社会は、自然界の科学的観察によって提示される方向に沿って、再組織化されるべきであるという信条である。彼の影響力によって、エコロジズムは実行可能な政治的信条になっていくことができたのである。』と分析しています。

一見理想的な環境思想を掲げているように思えますが、ダーウィンとヘッケルの間の齟齬は、優生学へと発展し、後に取り返しのつかない悲劇を招いてしまいました。

ナチスと自然保護

それがナチズムです。意外に思えるかもしれませんが、ナチスは自然保護や動物愛護に積極的な姿勢を見せていました。例えば1933年には動物保護法により動物虐待が取り締まられました。また1935年に制定された「帝国自然保護法」は、天然記念物指定や自然・景観保護地域の指定、さらにそれらをとりまとめる専門機関の設置などを定めており、人間と自然の関係性を重視した、かなり時代を先取りした内容となっています。それはプロパガンダ的な側面も確かにありましたが、このような自然観を背景にした象徴的な「国民性」の創出でもあったのです。

その結果、自然を尊び受け入れるという思想が暴走し、人間も自然のルール(ここでは淘汰)に従うべきだという考えに結び付いてしまいました。それが、優れている民族が生き残るのは当然という誤った考えに至ったわけです。

もちろん「生態学の知見をそのまま人間にあてはめるのもどうか」、というところをまず指摘したいですが、生態学的に見てもこの考えは誤りがあると僕は考えます。

一番は、何が「優れている」のか?という点です。適応しているかどうかは場所や時間によって変化します。今この瞬間は生存の有利不利に差があったとしても、それは一過性のもので、時と場所が違えば全く異なります。そのため、淘汰された生物がすべての面において永久的に優れているということはまずありえません。何が優れているかなど全体として比較することは出来ないのです。従って優生思想は、自然をその一面でしか捉えられておらず、全く持って自然を尊ぶ行為とは呼べないでしょう。

ジル・クレマン 動いている庭

さてさて、「結局のところ我々は自然とどう接していけば良いのか?」と何だか戸惑ってしまいそうですが、最近この問いに対して面白い1つの答えを提示してくれる記事を読みました。それがフランスの庭師、ジル・クレマンの考える「動いている庭」というものです。

彼の作ろうとしている庭とは、自然の無秩序を生物間の相互作用の結果と捉え、作用の一つとして人間が参加することで、遷移のストーリを作るという庭です。何やらまた難しそうですが簡単に言うと、従来の庭が「形」を作るのに対し、ジル・クレマンは「動き」を作っているのです。他の植物・動物、環境、そして人間との関係性の因果関係によってそこに存在するという植物のストーリの続きを描く、何やら台本作家のようなお仕事ですね。

弁証法で有名なヘーゲルは、ドイツ・ロマン主義的な自然哲学の中で自然を見つめ直し、互いに対立して見える生命個体が、全体として一つの普遍的な生命体のようになっており、その二面性を兼ね備えた統一体が自然であると示しました。これは、個々が統一された普遍的生命に辿り着いて終わってしまった、一面的なドイツ・ロマン主義の自然観の先を行く思想と言えます。

ジル・クレマンの庭は、まさにこのヘーゲルの自然観を体現し、それぞれのストーリを尊重しながら「庭」という全体を造り上げていると言えるのではないでしょうか?ジル・クレマンは「この惑星は、星とみなすことができる」と言います。この大きな庭の中で、我々が一人の登場人物としてどのようなストーリを描いていくのか。彼の問いかけは、本当の意味で自然の諸要素を尊重し、その関係性の中に自身を認識するという、これからの時代に必要な自然観に気付かせてくれるような気がします。


参考資料

・森林美学〔覆刻版〕新島善直・村山醸造著 1991. 北海道大学出版会
・恒続林思想 アルフレート・メーラー著 山畑一善 訳 1984. 都市文化社
・森林業 ドイツの森と日本林業 村尾行一 2017. 築地書館
・分解の哲学-腐敗と発酵をめぐる思考- 藤原辰史 2019. 青土社
・動いている庭 ジル・クレマン 著 山内朋樹 訳 2015. みすず書房
・エコロジーー期限とその展開ー アンナ・プラムウェル著 金子務 訳 1992.河出書房出版
・森林保護学の基礎 小池孝良 中村誠宏 宮本敏澄 2021. 農文協
・美術手帳 2020年6月号 新しいエコロジー 危機の時代を生きる、環境観のパラダイムシフト 2020. 美術出版社
・自然崇拝:ナチス・ドイツの自然観 鈴木覚 2011.
・動いている庭 HP http://garden-in-movement.com/ 閲覧日2021年9月14日
・各国都市で増えるミニ森林 宮脇方式、世界に浸透 日本経済新聞電子版 ナショジオニュース7月23日
・近江湖南アルプスの樹木の紹介 https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/okusimasyokubutu/karasuzansyou.html 林野庁 閲覧日2021年9月13日
・照査法に関する基礎的研究 ───北海道有林置戸照査法試験林の分析─── 加納博 1993.北海道林業試験場報告 第 21号 昭和 58年 12月
・「宮脇方式」として知られる植栽方式とは 「森のあるまちづくりをすすめる会」HP http://morinoarumachi.com/how/ 閲覧日2021年9月14日