2021/02/01 15:00

仏教が三木地方にで伝播し、寺院建築の需要に応じて鍛冶職も順調に伸びたようです。

その後、織田信長軍の中国攻めの際に別所公は兵糧攻めにて一族が自刃して開城となった後、

崩壊した三木の町を復興させるために豊臣氏が税を免除されたので大工が大挙集まり、それに応じて鍛冶屋の数が増加していったそうです。

復興が成した後は、大勢の大工が全国に仕事を求めていった時に大工道具も一緒に広まり。

江戸時代には鍛冶組合や卸問屋などが登場し、販路は大阪、名古屋、江戸や地方にも広がり

日本全国に三木の金物しての評価を得たと言われています。

明治維新後は洋鋼、洋鉄の輸入によって、それまでの和鋼、和鉄のみだったのが改良されて進歩していきました。

その後も、日露戦争、第二次世界大戦の勃発で日本全国が同様の至難をえて産地としての基礎ができました。

戦後、荒廃した国土の復興と建設が進み、大工道具の需要が急増して全国各地への販売が大いに拡販されました。

つづく。

藤本