2021/05/12 12:07

(株)文化財マネージメントの宮本です。


本プロジェクトで対象としている不動明王三尊像の制作は、僧侶の佛眼祖睛がその指導にあたりました。
佛眼祖睛はこの像だけでなく、大槌町の歴史文化に重要な役割を果たしました人物です。
今回の活動報告では、その佛眼祖睛について、岩手県立博物館・元学芸員で三日月神社文化財調査員である佐々木勝宏さんにコラムを書き下ろしていただきました。
下記に掲載します。



澤山の不動三尊像を開眼した僧
佐々木勝宏


澤山の修験者(山伏)は寶明院あるいは宝妙院でした。
ご本尊を再興してまつるために、佛眼祖睛に不動明王を制作する算段を願いました。
現在の大槌町の中心地にある御社地は様々な天神や弁天などの神仏を祀った東梅社という祖睛の自庵でした。
朝日がまぶしく、一部が二階建ての建物だったので観旭楼あるいは柳の木が窓辺に植えられていたので柳下窓と署名していました。


この人物は大槌の古里屋菊池佐兵衛の弟武助として享保14年(1729)生まれます。
兄佐兵衛秀井は、息子に家業を譲って20歳の延享2年(1745)ころには早々に出家しています。
弟武助は、家業を担う甥を支えて実家を応援しながら、前川善兵衛の遣いをしていますから、商売のノウハウは前川家で学び、重職を担ったと考えられます。


明和元年(1764)に荒れ地を購入して後の東梅社となる土地を造成しています。
現在、地元で御社地(おしゃち)と呼んでいる場所です。この時36歳ですし、まだ出家していません。
水戸の羅漢寺や長崎の清水寺の高僧たちと親交を深めています。
40歳の時の明和5年(1768)に長崎俵物の証文に古里屋佐兵衛代武助と署名しています。
41歳の明和6年(1769)には、水戸、京都、大坂、長崎などを訪問しています。
商用でしょうが、この時、水戸の観海上人と出会い、前川善兵衛家の依頼を受けていて、全国的に有名な書家松下烏石(まつしたうせき)に「両社殿」という額字をもらってきました。
この扁額は津波に遭い、破損はしましたが現存します。
長崎に向かう際か帰路に太宰府天満宮を勧請して、翌明和7年(1770)に東梅社に天神を祀っています。


全国行脚した際に携帯した過去帳に寂照軒の戒名と命日が記されていることから、大念寺に開かれた塾で学んだことが推測されます。
実家の家業や前川善兵衛家での仕事にめどをつけた後、天明4年(1784)の涅槃会で、56歳で出家しています。
地元の人々のために殺生禁断碑や一字一石経塚などを建てています。


寛政元年(1789)には大般若経六百巻を真読して、写経に入ります。
このほかにも正法眼蔵も書写しています。普段は、妙法蓮華経の持経として、読経、写経、説法による流布などに熱心でした。
大槌通にあった30余りの曹洞宗の寺院のすべてで、30日間法華経の真読も修行もしました。


決められた内容の食事のみで、摂取時間を守る木食戒を守り、一人で住み、横になって就寝せずに興法利生に余生を使い切った僧侶です。
彼が甥の惣助と息子の木兄に世話をさせて江戸人形町の安岡良運に制作させ、東梅社で開眼供養を行って、澤山に安置した、おしゃちゆかりの仏像です。