2021/05/27 20:14

(株)文化財マネージメントの宮本です。


今回のプロジェクトで対象としている像に関係して、関西大学教授で、仏像彫刻史(特に近世)がご専門の長谷洋一さんからコラムを寄稿いただきました。
岩手県内の近世の仏像制作の実情や、江戸時代後期の仏像制作や輸送についての、ほかでは読むことのできない貴重な内容の書き下ろしです。
下記に掲載します。


長谷洋一


岩手の近世仏像は、元禄年間頃までもっぱら京都仏師と江戸仏師がその制作・修復を請け負っています。元禄16年(1703)に行われた奥州市・黒岩寺薬師如来像の修復には江戸仏師6名が黒岩寺に来て行っています。

 

享保9年(1724)9月に幕府からひとつの大成令(布告)が出されます。
3尺以上の仏像や3尺以下の仏像でも10体以上の制作は町奉行の許可を必要としました。
布告は町触によって告知されますが、この布告は江戸の町触だけで確認でき、京都の町触では確認できません。
つまり京都仏師の活動は従来通りとしながらも江戸仏師のみに制限を加えた布告でした。


享保16年(1731)から同20年にかけて製作された盛岡市・報恩寺五百羅漢像は、京都仏師の法橋宗而重賢や駒野丹下定孝ら9人によって制作され、報恩寺に運ばれています。
いっぽう活動を制限された江戸仏師は、これ以降、関東地方での仏像制作のほかに神輿制作などを副業とします。
沢山不動尊不動三尊像の作者である江戸仏師の安岡良運(俗名:忠五郎)も明和6年(1769)に水戸・羅漢寺不動明王像を制作します。
享保の布告以降、江戸仏師の活動は造像料と運送費との関係から常陸あたりが活動圏のほぼ北限となりました。
さらに安岡良運は安永9年(1780)には江戸・三井越後屋からの依頼を受けて群馬・諏訪神社神輿を制作します。
三井越後屋は大槌の豪商・前川善兵衛とも交流があったとされます。


水戸・羅漢寺は天保9年(1838)頃に水戸藩による廃仏毀釈により破却され、不動明王像は同寺で修行したとされる大槌町の古沢屋山口清助利記浄圓らの尽力によって三日月神社に移されます。
古沢屋山口清助利記浄圓は、寛政6年(1794)の安岡良運の制作による大念寺法然上人・善導大師像の造立にも世話役として名前があがっています。


寛政11年(1799)7月には、幕府から再び大成令が出されます。
今度の布告は、3尺以上の仏像や3尺以下の仏像でも10体以上を制作することが禁止となります。
この通達も江戸仏師に限定された通達です。
この布告以降、岩手の仏像は、その製作や修復を京都仏師や一関市・芦友慶のように京都で修業し郷里に戻って活躍した地元仏師に委ねられていきます。


こうした状況をもとに沢山不動尊の不動三尊像をみてみると、江戸の豪商と交流があった前川善兵衛、安岡良運と関係のあった古沢屋山口清助利記浄圓ら大槌の人びとが、造像料よりも運搬費が高額になることを甘んじてでも江戸仏師の安岡良運によって不動三尊像造立を果たしたいという熱い思いとそれに応じた安岡良運の心意気が感じられます。


沢山不動尊の不動三尊像は両者の思いをつないだ証として位置づけられるではないでしょうか。