2021/04/16 20:00

 花南の携帯にメールの着信音。

 札幌弁護士会の無料法律相談の予約確認だった。

 花南は子どもだと相手にされないと思い、歳を偽って、携帯から『ひまわり

相談ネット』に申し込んだ。その返信。明後日の十一時から。図書館のパソコ

ンで札幌弁護士会の地図を眼にやきつけた。そんなに遠くない。でも歩いては

行けない。真冬だから市電がベスト。偽ったことで叱られるのだろか。その時

はありのままを伝えてゴメンナサイって言うしかない。でもそれで終わったら

困る。何としてでもわたしの相談を聞いてもらわなくては…‼…

「遠野花南さん。相談室二番にお入りください」

 呼ばれた。

 花南は身体がこわばってゆくのを感じた。こんな緊張は初めて。

…弁護士とはどんな人なのだろう。きっと怖い人なんだ…                                 

 こわごわとドアを開いた。机の前に椅子がひとつ置かれていた。弁護士らし

き中年の男性が机の向こうに座っていた。

「どうぞお座り下さい」

 花南は深々とお辞儀して椅子に座った。

 座った途端に男性は書類から目を離しギョロリと花南を見据えた。目玉が大

きい。緊張している花南の身体がビクンと波打った。恐い目。こんな目で見ら

れたこと無し。身体は益々硬くなった。

…やっぱり叱られる…

「おや。予約の年齢と随分違う。これを説明して下さい」

「はい。子どもだと受け付けてくれないと思って母の歳を書きました。ゴメン

ナサイ。嘘をつきました。嘘ついてもわたしの話を聞いてもらえますか…」

「事情がありそうだね。先ずは自己紹介してもらえますか。話しはそれから」

 花南は「母と弟と三人暮らし。生活保護を受けています。わたしは一四歳。

中学には入学時から行っていません。年齢以外に嘘はありません」と力を振り

絞って言った。その間射抜くような視線を浴び続けた。

「一四歳の少女の法律相談は初めて。私は矢野修と言います。弁護士です」

 矢野修弁護士は名刺を花南に差し出した。

「さて相談とは何でしょう」

「はい。どうして中学生は働けないのでしょうか。それを教えて欲しくって来

ました。どうしてなんでしょう…」

「君は働いてお母さんを楽にしたいと思っているんだね」

「はい。でも働けないんです」

「労働基準法って知っているかい」

「聞いたことはあります。でもどんな法律なのか分かりません」

「この法律には『満十五歳に達していたとしても三月三十一日以前には雇って

はいけない』と書かれているんだ。雇った者を使用者と呼ぶ。使用者は雇うと

罰せられる。今日の君のように歳を偽って働いた者も罰せられる。法律の趣旨

は十五歳未満は学業優先。だから中学までは義務教育と定められている。三月

三十一日との期限は中学の卒業式を意識している。どの中学も卒業式は三月三

十一日以前におこなわれる」

「そうですか。やっぱり働けないんだ」

 花南は「古紙回収のお手伝いで二〇日間働いた」と言い「これは法律に違反

していますか」と尋ねた。

「厳密に言うと違反。でも今日のように歳を誤魔化していなければ君は咎めを

受けない。君が十五歳未満で中学を卒業していないと知りつつ手伝わせた雇い

主は咎められる。幾らもらっていたの…」

「二千円です。一日六時間くらいでお握り付。でも一〇日分はもらっていない。

なんだかんだと言ってくれないんです」

「二千円とは随分と安い。最賃にも違反している」

 矢野修弁護士は一枚の白紙を花南の前に置いた。                                 

「ここに古紙回収業の雇い主の名前と住所を書いて下さい。それともらってい

ない一〇日分とは何時から何時までも」

「はい。書きます。でも書いた後にわたしや母さんが恐い目にあわないのでし

ょうか。恐い目にあうのだったら書けません」

「大丈夫。約束します。心配しなくても良いから」

 矢野弁護士が初めて微笑んだ。

 優しそうな目。

 花南はその目で身体のこわばりが解けた。

 矢野弁護士は花南が書いた内容に目を通しつつ言った。

「遠野花南さん。君のこれからに労働基準法はとても大切になると思う。よ~

く読み、理解するように。私は世界に誇れる法律と思っている。今の君は制限

されているが、この法律は日本人では無く、対象となる者を『労働者』と規定

している。雇用された者は外国人であっても『労働者』」

「はい。ネットで調べて読みます」

「相談はこれで終わりですか」

「はい。ありがとうございます」

「あのね。困ったことがあったら名刺のメルアドに連絡してね」

「えっ。イイんですか…」

「かまわないから」

 花南はまた矢野弁護士に深々とお辞儀して相談室を出た。

 息を吐いて思い切り吸った。緊張した。叱られなかった。

 矢野先生はキムタクと同じように司法試験に合格したんだ。『大検』からの

合格なんだろうか。札幌弁護士会のネットには所属弁護士一覧が載っていた。

あとで調べてみよう。勇気を振り絞って来て良かった。今は無理でもの四月一

日から堂々と働ける。それが分かっただけでも良かった。

 二日後、花南が図書館の一Fロビーで昼食のサンドウイッチを食べていると

携帯にメールの着信音。ショートメールだった。

『矢野です。至急会いたい用件があり連絡。何処で会えますか』

…驚いた。先生が会いたい用件とは。悪いことはしていない。叱られることも

やっていないはず。何だろう。断るわけにはいかない…

 花南は『中央図書館の一Fロビーで待ってます』と返信。

 返信から一五分で矢野修先生が現れた。

 目が合った。恐くない。穏やかな表情。

 矢野修先生は微笑んで「やあ~」と右手を挙げ近づいてきた。

「君は何時も図書館に来ているのかい」

「はい。お弁当を持って一〇時前には着きます」

「そうなんだ。学校の代わりに図書館に通っているのかい」

「はい。図書館には何でも揃っているから。新聞もパソコンも教科書も。そし

て冷暖房完備。十四時前には家にもどります。Eテレの高校講座があるので」

「図書館とはナイスだね。ところで要件とはこれなんだ。これを渡したくて急                                 

いで来たんだ」

 矢野先生はオブジェ仕立ての木製のベンチに座ると、直立不動の花南に座る

ように促し、茶色の封筒をカバンから取り出した。

「何でしょう。開けてもいいですか」

「どうぞ」

 二万円が入っていた。

「これをわたしに…」

「そうだよ。古紙回収の爺さんから取ってきた。君のお手伝いの未払い分」

「そうかぁ。わたしがいくら催促しても払おうとしなかったのに…。もう諦め

ていた。こんなことに慣れているし…。どうして払う気になったんだろう…」

 先生はニコニコしている。絵文字のニコニコマークと同じだった。

「そんなに難しいことではない。お手伝いと称して十五歳未満の女の子を働か

せた労働基準法違反。おまけに最低賃金法にも反している。私に労働基準監督

署に訴えられるか、ここで未払いの二万円を支払うのか、今決めて下さいと言

ったらブツブツ。訳の分からないことを言いつつもアッサリと払った」

「訳の分からないことって…」

「弁護士が出てくるなんて。あいつに弁護士の知り合いがいるとは思わなんだ。

悪い夢を見ているみたいだ。こんな感じだよ」

「口惜しかったんだ」

「そうみたいだ。あの爺さんはタチが悪い。初めから君に手伝わせて何処かで

不払いを企んでいたのがよ~く分かった」

「天誅だね」

「そうだ。よくそんな言葉を知っているね」

「テレビの水戸黄門によく出てくるから。先生ってすごいんだ。正義の味方み

たい。嬉しい。でも。わたし。先生に何もお返しができない」

「そんなことを望んでいないよ」

「…でも…」

「私はね。君の応援のつもり。子どもには毎日を何の心配もせずに楽しく元気

に過ごす権利がある。大人には子どもの権利を護る責任があるんだ。子どもの

権利を侵害する大人は許せない」

 涙が溢れて来た。諦めていた二万円。思いもかけなかった。嬉し過ぎる。大

人にこんな人がいるなんて。封筒を握り締めた。流れてゆく涙が嫌なことを消

してゆく。思い切り泣いた。声を上げずに泣いた。声を出すと先生に迷惑をか

ける。周りが変に思う。声を出すまいとお腹に力を入れると息が苦しい。苦し

いと涙が余計に流れ出てしまった。

 先生はジッと座っている。横で見守ってくれている。

「こんな時は思い切り泣いてもいいんだ」

 花南は初めて母以外の大人に守られていると実感した。

 先生はあっち側の人なのに、こっち側も見てる。こっち側を気にかけている。

子どもの権利と大人の責任は初めて。本当なのだろうか。大人も色々だ。                                 

「先生。本当にありがとう。生まれてきてこんなに嬉しかったのは初めて」

 先生がハンカチを取り出し渡してくれた。

 しゃくり上げた花南はハンカチで涙を拭った。

「すみません。洗って返します。先生。わたしも弁護士さんになれるの…」

「いっぱい勉強しなければならないけれど試験に受かったらなれる」

「先生はイッパイ勉強したんだ」

「頑張った」

「どのくらい頑張ったの…」

「一日八時間を三年間。それでようやく合格できそうな目途がついた。それで

も受かるまで五年かかった。私は頭が良くないから余計頑張った」

「そんなに。だったらわたしには無理。どんなに頑張っても一日五時間」

「諦めるのはまだ早い。弁護士を目標に置くのも早い。私は弁護士にしかなれ

なかった。君は何にだってなれる。一日五時間も勉強している十四歳の女の子

はそういないよ。今は高校卒業の学力を持たないと先には進めない」

 花南はほめられたのが嬉しかった。

 涙が止まった。けれど鼻水は止まらない。ハンカチで鼻をかんでしまった。

「うん。頑張って『大検』の試験を受ける。十六歳になれば受験できるんだ」                        

「サッポロの弁護士に『大検』から司法試験に合格した者がいる。私と仲良し

なんだ。今度会う機会を作ろうか…」

 キムタクみたいな弁護士さんがこのサッポロにいるんだ。

「先生。ありがとう。でも…。わたし。まだ会えない。せめて『大検』に受か

ってからでないと胸を張れない」

「そうか。『大検』に合格したら必ず連絡してね」。矢野先生が立ち上がった。

 花南は封筒をリュックのポケットに仕舞い込んだ。

 諦めていた二万円だからパッと使うと決めた。

 健太にはナイキの靴。高いからこんなことでもないと買ってやれない。ナイ

キの靴はリサイクルやジモテーに置かれていない。母さんにはエレッセの可愛

いのがいい。エレッセも新品以外では手に入らない。

 ゼビオに三人で行って靴を買い、スシローでお腹いっぱい食べて『たまゆら

の湯』で温泉に入ろう。明日は母さんの給料日ではないけれど贅沢しよう。二

人とも喜んでくれる。わたしの喜びを一緒に味わってくれる。「贅沢」って何

て良い響きなんだろう。気持ちが明るくなる。嫌なことを忘れてしまう。

 矢野先生に二万円を獲られたキャップ爺さん。必ず根に持つ。

 

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