2022/08/16 21:44

現在の長春という街は、満洲国時代には「新京」と名付けられ、首都と定められました。この街には関東軍司令部の他、満洲国の官庁が置かれ、それにふさわしい開発計画が立案され、実行されました。

官庁の建物はどれもが巨大で威圧感があり、独特のデザインが施されています。当時はまだ自家用車がほとんどなかったにもかかわらず、道路幅は広く、街路樹が整備されていました。一国の首都にふさわしい整然とした街づくりが行われていたのでしょう。

私は取材時には基本的には徒歩でした。街の表通りやその裏道などをくまなく歩きまわりながら、これはと思う建物を古地図と照合していくため、車だと見過ごしてしまうからです。ときどき市バスも使いましたが、こちらは料金が格安で(一元。約17円)行先表示が漢字のため日本人には利用しやすかったです。

あるとき、繁華街をぶらぶら歩いていました。中国というのはなんでも大きいのですが、歩道も広いのです。人口が多いためですかね。そのとき、私の目があるものに釘付けになりました。マンホールです。実はマンホールにも満洲時代のものが残存しているのです。中央部分に「M」と「I」が結合したデザインの文字があれば、それは「満鉄」を意味します。「M」は満鉄の頭文字、「I」は鉄道のレールの断面がそういう形だからです。ときどきそのようなマンホールを見かけることがありました。

しかし、このとき私の目に映ったのは、「新京」という文字でした。はやる気持ちを押さえながらマンホールに近づくと、右から左へたしかに「新京」という文字が浮かび上がっていました。中央には「下」という文字。これはおそらく「下水」の意味でしょう。

大収穫です。私はマンホールの近くに三脚をセットして、大きなカメラを取り付け、そのマンホールに向かって何枚もシャッターを切りました。通行人たちは「いったいこいつは何を撮っているのか?」と怪訝な顔をしながら通り過ぎていきます。だいぶ怪しい奴に思われていたに違いありません。

満洲国が崩壊したとき、それは同時に日本が戦争に負けたときなのですが、中国の人たちはたぶん忌々しい日本語の看板などを破壊したに違いありません。実際、日本の神様や精神を祀ってある神社などは真っ先に放火されたり引き倒されたりしたと聞きました。そのため、現在の中国東北部を歩いても、当時の日本語はまったくと言ってよいほど残存していません。

戦後70年以上、このマンホールは人々に踏まれながらも、文字を消されることなく生き続けてきたのです。