2018/06/09 11:15

6月28日に開幕する、庭劇団ペニノの3年ぶりの新作「蛸入道  忘却ノ儀」。肌感覚に迫るリアルな演出を目指し、精緻かつダイナミックな舞台美術でこれまでもさまざまな新しい“演劇体験”を提示してきたペニノが、今回はスタジオに寺を建立し、そこに“釈迦と同じ、自我を焼却した存在”として、俳優8人を据え置く。観客も没入・一体化して行う「忘却ノ儀」を通して、タニノクロウが描き出すものとは? 

これまでの作品を全部燃やすような作品を作ってみたい

 

——今作「蛸入道 忘却ノ儀」は、お堂のような空間で蛸入道8人が行う「忘却ノ儀」を、観客も一緒に体感する作品です。創作のきっかけには、どのようなことがあったのでしょうか?

大きくあるのは、今年でペニノが旗揚げ18年を迎えたということです。ペニノが東京で本公演を作るペースは、現在2、3年に1本です。なので、今年3年ぶりに新作を作ると、この次に作るのは2020年になるだろうと思い、それが1つの区切りになるのかなっていう感覚が漠然とあって。最近は「これが最後」と思って作ってる感覚がずっとあったんですけど、それがどんどん強くなっているし、オリンピックもあり、元号も変わり、自分の年齢とかプライベートな環境とかも含めて、自分が今まで作ってきたものが2020年で1つ終わりを迎えるだろうと思ったんです。ただそう思った時点では、今回の新作をどういう作品にするかというアイデアは、まだなかったんですよ。でもいろいろ考える中で、「今まで作った作品を、全部焼却炉で燃やすような作品を作ってみたい」と思い始めて。2016年に初演した「地獄谷温泉 無明ノ宿」の、2階建ての温泉宿の舞台美術が、今年9・10月のフランス公演後に燃やされるってことも、少なからず影響があったと思います。それと、僕はこの18年の活動の中で何を大切にし、何を大切にせずに演劇をやってきたのかということを考えたときに、大事にしてきたのは舞台美術や小道具、あとやっぱり体感という部分だなと気づいたんです。例えば「ダークマスター」や「地獄谷温泉」がそうかもしれないけど、観た人が忘れられない体験にしたいと思って匂いとか聴覚、視覚、触覚といった、物語とは別の効果みたいなものを観る人が体感できるお芝居を作りたいと思ってきたなと。その一方で、何を大切にしてこなかったかというと、きっと役者のことだろうなと思ったんです。俳優そのものに興味がなかったわけじゃなくて、物語を担う俳優という存在に興味がなかったんですよね。個人的な感覚ですけど物語を作るのってどんどん惨めになるんですよ(笑)。

——どういうことですか?

物語って、すでに何かしらのヒエラルキーとか忖度を生む構造になっていると思うんです。例えばアメリカンフットボールは、陣地を取り合う、合法的に戦争するような構造になっていて、すべてがトップダウンで進んでいきますよね。物語ってそれと近いんじゃないかなって僕は思ってて。「ダークマスター」再演(06年)のときに、一番古い玉置潤一郎という劇団員に「もしこういう作品を作り続けることになるんだったら、自分の精神が崩壊する」って話をしたんです(笑)。ドラマをずっと書き続けていると、本当にバカになるんじゃないかと思った。でも物語を観て感情が動くというのはやっぱり素晴らしいことだし、重要なことだとも思ってもいて、ただ作り手としてそれだけでいいのかという思いもあって……というようなことを考えつつ、そのあとも作品を書き続けていたんですね。すると、言葉って書けば書くほどうまくなるんですよ。だから暴走しやすくて、暴走を極めたのが「地獄谷温泉」だった(笑)。元原稿は、今出版されている分量の3倍くらいあって、暴走の限りを尽くしてるんです。

——それはすごいですね(笑)。

そのころ、Mプロジェクト(タニノと舞台美術家のカスパー・ピヒナーが2015年に立ち上げたユニット)が始まって。Mプロジェクトを通じて、それまで自分がやってこなかった、「お客さんとのつながり」という目線も入り込んできました。それと、未来のテクノロジーの形がはっきり見え始めてきて、物を作ることが人間からコンピューターに取って代わられるようになり、いずれ芸術もそういう問題に直面するだろうってことを実感できるようになってきたんですね。そうなったら、じゃあ我々にとって何が希望かというと、作り手はさておき、お客さんが人間であり続けることだけなんじゃないかと思うようになって。そこで、物語を作っていたときにはなかったお客さんとのつながり、あるいは俳優やスタッフとの関係性みたいなものが生まれるような作品を作りたいなと思いました。

 

蛸はあまりにハイスペックな生き物

——今のお話から「蛸入道 忘却ノ儀」には、どのように結びついていったのでしょうか?

個人的に、蛸と釈迦に興味があって。蛸に興味を持ったのは、今回この作品のドラマトゥルクとして関わってくれているドイツ人のマックス・フィリップ・アッシェンブレナーが、2、3年前に城崎国際アートセンターで一緒に滞在制作したときに、「蛸って面白いんだよ」って話をしていたからなんです。蛸はとてもユニークな生物で、どういう進化の過程を経て生まれたのか、よく分からない。心臓が3つあって脳みそが9つあって高い知能を持っているし、人間よりはるかに精巧な盲点のない目を持っていて、また夢を見ると言われている。海洋生物って、例えば知能が高いイルカでも右脳と左脳を交互に使いながら常に起きた状態で寝るので夢を見ないんですけど、蛸はレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すんです。何より、ゲノムの数がすごくて、たんぱく質遺伝子の種類が人間より豊富だし、体の90パーセント以上が筋肉で、しかも交尾は生涯1度だけ。それで絶命しちゃう蛸もいるくらいなんですよね。というように、あまりに蛸がハイスペックなので、「蛸は宇宙から来た生物だ」って言う研究者も多いんですよ。

——へー! まったく知りませんでした(笑)。

蛸のことと同時に、「地獄谷温泉」のときに特に強く感じ興味を持っていたのは、釈迦が何を見つめ、何を見えたのかということでした。「地獄谷温泉」でも釈迦について言ってるところが一箇所だけあるんですが、“無明から始まって、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、そして老死に至るまで、関係性の中に人は成り立っている”という、「十二縁起」のくだりがあって。まあそんなふうに、釈迦が何を考え、どういう人間だったのかを調べていたんです。すると、釈迦が最終的には自我のない存在になったという記述を読んで。その「自我のない存在」がどういう状態か、よく分からなかったんですよね。自我がないって、例えば物事に対する重要度を持ってないってことなんです。じゃあ何も重要じゃないかっていうとそうじゃなくて、釈迦は全部が重要なんです。例えば、飼ってる猫が死にそうで、自分の母親も死にそうだったら、普通は猫より母親を優先するけれど釈迦はそこで悩む。自分にとってどちらが重要かは考えない。それが自我がないということなんですよね。じゃあどうやって自我をなくしていくかというと、動物より人間が重要という視点から一個抽象度を上げて「動物が好き」という状態にすれば、どちらも大事ということになる。石と動物なら「地球上にある万物が好き」、地球上にあるものと地球以外の惑星にあるものなら「太陽系が好き」……という感じでどんどん概念の抽象度を上げていくと森羅万象が大事ということになるわけです。しかもそこには関係性がパンパンに詰まってる……そういうことだと、僕は捉えました。

俳優は自我を焼却された、釈迦のような存在になり得るのではないか

そこからさらに2つ、僕の興味は膨らんで、1つは量子論のこと。釈迦のそういう考え方は “空(くう)”って言い方をされていて、この空って概念についてダライ・ラマもまったく同じことを言ってるんですけど、つまり素粒子は観測できれば物質として存在し、観測されなければ波動としてないものとなる。万物はこの、“あるといえばある、ないといえばない”、空の状態で構成されているということがわかったんです。その上で、俳優について考えたとき、いろんな人がいろんな言い方で「いい俳優とは」を語っていますが、例えば平田オリザさんは主体性がないこと、宮城聰さんは霊的な何かに動かされている人、また別の人は神経をずるっと抜かれたような存在とか……表現はいろいろですが、要するに自我のない状態ってことなんじゃないかと思ったんですね。そういう自我のない俳優をいい俳優と呼ぶなら、その俳優は釈迦と同じ境地にあるということだし、俳優ってすごく崇高なものだと思うようになった。それでようやく俳優を尊敬するようになったんです(笑)。なので今作では、僕の過去の作品に出演した人たち、あとゲストの方も交えて、作品の中でその境地を感じてほしいし、その場を俳優たちに与えたいと思いました。それがこの作品の成り立ちですね。

——なるほど、そうだったんですね。タニノさんが観客について考えていらっしゃることは台本や近作から感じていたのですが、俳優さんに対する思いを、それほど感じていらしたとは。

確かにそのような見せ方をしてますが、僕にとってこれは、100パーセント俳優のために作った作品で、俳優がある種崇高な体感を得る場所を作ってあげたいし、俳優がどういうことを感じるかだけを、今考えています。そのためにお堂を作ったし、自我が触発されるように、360度どこからでも観客が俳優を見られるような空間にしたんです。……まあこんな話、俳優たちにはもちろん言ってませんけれども。

 

観客の痕跡が残せる舞台美術に

——稽古の前には深川不動堂にも見学に行かれたそうですね。皆さんで行かれたんですか?

全員で行きましたね。

——そのときの印象がお堂のセットや劇中の儀式のシーンにも生かされるのでしょうか。

そういう部分もありますね。美術に関しては、先ほどお話しした通り、「地獄谷温泉」のセットが今秋のパリ公演後に燃やされるんですが、でもそれって、僕らにするととても寂しいことで。特に僕は舞台美術愛が強いので(笑)、せっかく作った美術が誰にも愛されずに壊されたり燃やされたりするのはかわいそうだなと思ったんです。なので、今回は舞台美術との関係をより濃くするような、そこに観客がいた痕跡が明確に残せるような美術にしたいと思い、お客さんには紙を渡して、そこに名前なりメッセージなりを書いてもらって、どんどん舞台美術に貼って残していってもらおうと思っています。我々のものでもあるけど、お客さんのものでもあるというような、そういう関係性が舞台美術と作れたら、燃やすときに舞台美術もようやく成仏できるのではないかと(笑)。 

フィジカルよりメンタルで参加できる作品を

——今のお話にもあった通り、観客はお堂のセットの中に座り、「忘却ノ儀」を“体験”します。タニノ作品ではこれまでも音と光に対するこだわりを強く持ってきましたが、今回はお堂の座り心地やお香の匂いなど、触覚・聴覚・視覚・嗅覚への喚起がさらに強まりそうです。

Mプロジェクトを通して、いかにお客さんに参加してもらうかを試行錯誤してきましたが、これまではお客さんがフィジカルに参加する形だったと思うんです。でも今回はもっとお客さんの脳内というか、フィジカルよりメンタルな部分で参加できる作品にしたいと思っていて。例えばお客さんには1人1冊“経本”を渡すんですが、ここにはお経が書かれていたり、金色や銀色の紙が挟まっていたり、紙に匂いが付いていたり、奇妙な模様が書いてあったりと、これを見るだけでも何かを感じられるようになっていて。そういう多角的な参加の状態を作りたいなと思っています。

——手術室を舞台に妄想が膨張する、圧倒的なフィクション性を持った「アンダーグラウンド」、人形芝居の親子による儀式的な演し物が異世界へと誘う「地獄谷温泉」、観客の想像力と作品への“参加”が鍵となる「MOON」(17年)など、これまでのタニノ作品が試みたさまざまな挑戦が、「蛸入道 忘却ノ儀」に集約されそうですね。

そうですね。

——現段階で、タニノさんの手応えはいかがですか?

うーん、本当にちょっとわからないですね。僕としてはすごくうまくいってると思っているし、思わなきゃいけないと思ってますけど(笑)。一方で、今回は俳優たちが自主的に作っていくべき作品だとも思っているし、先ほどお話したような、僕が観たい、俳優の自我がない状態が稽古で見えているかと言えば、それはまだゼロだとも思います。お客さんが入って初めて、俳優がどう感じるかで立ち上がってくる作品という気もしますね。

——そんな俳優さんたちの様子はいかがでしょうか。

みんなすごくチーム感が強いし、バランスがどんどん良くなっているんじゃないかと思います。やっていることはシンプルですが、お互いに高め合ったりしてるところが今回は重要だと思うんです。また、歌や演奏がただうまければいいというものではないし、最終的な境地というのはそういったものも何もない状態だと思うんですね。俳優に限らず誰でも、自己の存在をめぐる闘争の中にいて、自分は何者なのか、自分にどういう価値があるのかという思いと闘っていると思いますが、本作で目指しているのは、それすらもない状態。現段階ではまだそこには至っていませんので、最終的にそういう状態まで行き着けばいいと思いますね。

 

(取材・文:熊井玲)