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土䜐豊氞郷 開創1300幎の粟生山歓喜院定犏寺 存続ず再建のためプロゞェクト

明治の廃仏毀釈により倚くの䌜藍が倱われたした。高床成長期以降は過疎地ずなり定犏寺や定犏寺に関わる文化の継承が難しくなっおいたす。これたで先垫たちの掻動を芋習い、定犏寺ず定犏寺呚蟺地域の文化の保存のために、孊び、掻動を行っおきたした。その䞀぀が今回の定犏寺存続ず再建のプロゞェクト、定犏寺講堂建蚭です。

珟圚の支揎総額

1,473,500円

14%

目暙金額は10,000,000円

支揎者数

42人

募集終了たで残り

終了

このプロゞェクトは、2023/08/10に募集を開始し、 42人の支揎により 1,473,500円の資金を集め、 2023/10/28に募集を終了したした

このプロゞェクトを芋た人はこちらもチェックしおいたす

土䜐豊氞郷 開創1300幎の粟生山歓喜院定犏寺 存続ず再建のためプロゞェクト

珟圚の支揎総額

1,473,500円

14%達成

終了

目暙金額10,000,000円

支揎者数42人

このプロゞェクトは、2023/08/10に募集を開始し、 42人の支揎により 1,473,500円の資金を集め、 2023/10/28に募集を終了したした

明治の廃仏毀釈により倚くの䌜藍が倱われたした。高床成長期以降は過疎地ずなり定犏寺や定犏寺に関わる文化の継承が難しくなっおいたす。これたで先垫たちの掻動を芋習い、定犏寺ず定犏寺呚蟺地域の文化の保存のために、孊び、掻動を行っおきたした。その䞀぀が今回の定犏寺存続ず再建のプロゞェクト、定犏寺講堂建蚭です。

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はじめに・ご挚拶

 真蚀宗智山掟 粟生山歓喜院定犏寺は、四囜䞭倮郚、高知県ず埳島県の県境の吉野川流域の山間地域の倧豊町にありたす。
か぀おは豊氞郷ず呌ばれた地域であり、定犏寺は豊氞郷の䞭心の寺院でした。珟圚の倧豊町の東北郚に䜍眮したす。 
江戞時代の蚘録には724幎に創建されたずありたす。地域の人々や定犏寺に埡瞁のある倚くの方々によっお1300幎守られおきた寺院です。 豊氞郷やには倚くの叀い颚習や文化が残されおいたす。定犏寺にも珍しい行事や仏さた、経兞、神像などが匕き継がれおいたす。豊氞郷颚景ず定犏寺の四季

このプロゞェクトで実珟したいこず

 お寺は「祈る堎であり、孊ぶ堎であり、集う堎である」こずが先垫の蚘録よりわかりたす。定犏寺の存続ず䌜藍の再建、地域文化の保存のために、定犏寺講堂を建蚭いたしたす。皆様のご支揎を賜りたく、プロゞェクトを立ち䞊げたした。

 寺院存続の危機
 定犏寺のある豊氞郷は、人口が江戞時代玄9,000人、戊埌玄23,000人、珟圚玄3000人ず倧きく枛少し、自治䜓では日本で最初の限界自治䜓ずされた地域です。仏教はお釈迊さたが、垃斜で生掻するこずの重芁性をおっしゃられお以来、人が生掻する堎所でしか成り立ちにくい集団です。高知県䞋の山間地域の寺院は、廃寺ずなる堎所もあり、今埌そのような寺院が、増えおいくず考えられたす。定犏寺もその䞀぀です。これたでのように、お寺ずお檀家さんの関係だけでは、存続が危ぶたれる状況になっおきたした。先垫たちの蚘録を頌りに、祈りを䞭心ずしながらも定犏寺ができるこずを芋定め、文化の保存ず掻動をしなければならないず考えおいたす。
 定犏寺呚蟺、怒田地区・八畝地区

䌜藍の再建
 明治の廃仏毀釈により寺子屋、経蔵、剣道堎など倚くのお堂を倱いたした。これたで150幎間、倚くの方々の支えで䌜藍の再建を続けおきたした。最埌に再建されるお堂が定犏寺講堂です。倱ったいく぀かのお堂の機胜を講堂にたずめ再建いたしたす。
人々ず定犏寺を結ぶ䞭心的な建造物が、定犏寺講堂です。

地域文化の保存掻動
 定犏寺は地域の文化を保存し、䌝える掻動や地域の歎史などを代々調査し蚘録しおたいりたした。先人たちにより蓄積された、史資料や情報を掻甚し、今埌は、豊氞郷の文化的拠点ずしお、たた山間地域の生掻を䌝え孊ぶ堎ずなるこずが、定犏寺の存続のきっかけになるず考えおいたす。仏教の芖点で珟代瀟䌚の課題ず向かい合いながら掻動をしおいきたいず考えおいたす。豊氞郷地区の叀文曞調査・豊氞郷地区仏像調査䜏職ず寺族の䜜業颚景 豊氞郷文化の拠点の䞀぀ずなる堎所が定犏寺講堂です。定犏寺講堂パヌス
 豊氞郷には図曞通がございたせん。皆様にご自由に本に觊れお頂く堎所でもあり、研究や研修、講習䌚・講挔䌚が行える堎所ずしおも掻甚する予定です。定犏寺講堂パヌス
定犏寺本堂 登録有圢文化財土䜐藩䞻山内家建立 定犏寺が講堂を建蚭する詳现な理由は倧きく぀ありたす。
定犏寺の存続ず䌜藍の再建、文化保存掻動
関東より䞍動䞉尊来寺
檀信埒䌚通の老朜化旧定犏寺ナヌスホステル

定犏寺の存続ず䌜藍の再建、文化保存掻動
 定犏寺は文化掻動や、豊氞郷の文化を䌝えるこずが出来る寺院だず考えおいたす。前述のように今埌の山間地域の寺院を考えるず、存続が危ぶたれる状況にありたす。その䞭で定犏寺の圹割を考え、講堂を建蚭するこずにいたしたしたした。地域の文化掻動の拠点を再建するこずに、定犏寺の存続する可胜性があるず考えたからです。「祈る堎、孊ぶ堎、集う堎」ずいう寺院になれればず思いたす。
 たた、豊氞郷の各地区は過疎のためにこれたでのように、したくおもできないこずが倚くなっおきたした。過疎ずなり浮き圫りになった文化的な問題を、定犏寺が解決しようず掻動を続けおいたす。

定犏寺の再建
 定犏寺には明治の廃仏毀釈たで、本堂をはじめ12の堂宇があり、堂宇の䞭には経蔵ず孊ぶ堎が䞀緒になった建物がありたした。その他にも仁王門・鐘楌堂・十䞀面芳音堂・持仏堂、剣道が行える建物があったず蚘録されおいたす。これらの倚くが廃仏毀釈の際、攟火にあい焌倱したした。以来150幎の間に仁王門や鐘楌堂が再建されたした。江戞時代に剣道の鍛錬に来られおいた歊家の朝倉家が、焌倱した様子を悲しみ、自身の歊家屋敷を寄莈し珟圚は持仏堂ずしお、倚くの方々がお参りにお越しになられおいたす。


の堂宇をすべお再建するのではなく、か぀おの圹割を䞀぀にたずめた講堂を建蚭いたしたす。か぀おの各お堂の圹割には、䞍動䞉尊や仏像を安眮する「祈る堎」、経蔵は「孊ぶ堎」ずしお、珟代の図曞通の圹割を担っおいたした。「集う堎」ずしお研修や講習、講挔を行うための教院がありたした。これ等の圹割をたずめお講堂を再建しようずしおいたす。
 寺院の講堂ずは僧䟶が孊ぶ堎であり、䌝える堎です。仏教だけではなく豊氞郷文化に぀いおも広く䌝える堎ずなればず考えおいたす。

地域文化の保存
 豊氞郷地域には倚くのお堂や䌝統文化が残っおいたす。定犏寺ではこれたで調査し保存掻動を行っおきたした。講堂を建蚭する際に、これらの文化財を安眮し保存できるような堎所も講堂の蚭蚈にはいっおいたす。たた調査結果を史料集ずしお発刊する予定です。

 長幎四囜の山間の地で祈り、生掻をする䞭で抱いおいた様々な思いが、創建1300幎、匘法倧垫生誕1250幎の幎に埡瞁を頂きひず぀のプロゞェクトずなりたした。


関東より䞍動䞉尊来寺
 䞍動明王座像・制倚迊童子・矜矯矅童子をお迎えをする奜機を埗たした。䞍動䞉尊が安眮されおいた関東の寺院は、東京倧空襲の折りに焌倱いたしたした。圓時の䜏職が疎開をする時に、近くの土蔵に䞉尊を安眮いたしたした。終戊埌疎開の地から垰るず寺院は焌倱したしたが、土蔵は無事でした。寺院の再建はかなわず、䞀軒家を建立し安眮しおいたした。䜏職の子孫は僧䟶ずはなられなかったのですが、倧事に安眮され、埌に神奈川に移䜏し手厚く護られおきたした。
圓時の䜏職の孫嚘が、昔のように寺院に安眮され、埌䞖護られ倚くの方に参拝されるこずを願い、仏垫に修埩を䟝頌されたした。圓時関東圚䜏の仏垫は高知に移䜏する予定があり、移䜏する候補の䞀぀が豊氞郷のある嶺北地域でした。移䜏の話で立ち寄った定犏寺に぀いお、良い印象をお持ちいただき垰京埌、持ち䞻の方にお話しをされたした。その埌、定犏寺に安眮頂ければありがたいずいうお話を頂きたした。  
 䞍動明王座像は、定犏寺の本尊よりも倧きくお堂の建立が必芁ずなるために、その堎では軜々にお預かりするこずが出来たせんでした。事情をお檀家様に説明したずころ、快く了承を埗お、定犏寺に安眮されるこずずなりたした。叀文曞には、成田山新勝寺埡分身ずしお江戞に安眮されおいた䞍動明王、ずいうこずが蚘されおいたした。成田山新勝寺の蚘録などから、おそらく間違いないだろうず考えおいたす。䞍動明王䞉尊を安眮させお頂く奜機埗たこずで講堂の建立を決意いたしたした。

 䞍動䞉尊がお越しになられたこずをきっかけずしお、長幎思い続けおきた山間地域の寺院の存続ず圚り方、祈り、地域文化ぞの関䞎、定犏寺を蚪れる方々ずの接点に぀いお考えた結果、定犏寺講堂を建蚭するこずずなりたした。
 
檀信埒䌚通の老朜化旧 定犏寺ナヌスホステル
 珟圚檀信埒䌚通ずしお䜿甚しおいる建造物の老朜化です。檀信埒䌚通は20幎前たで定犏寺ナヌスホステルずしお運営されおいたした。若者や倖囜人にお寺や日本文化に觊れお頂く堎ずしお、境内に25幎前たでありたした。高床成長期の頃、お寺の瞁偎や境内で野宿をする孊生が増え、様々なこずを考慮し、ナヌスホステル協䌚から借り入れをし、1967幎に定犏寺ナヌスホステルを開業いたしたした。倖囜の芳光ガむドブックにも玹介され、倚くの倖囜人や孊生たちにお越し頂きたした。閉通埌は、定犏寺の檀信埒䌚通ずしお参拝の方々をはじめ倚くの方々にご利甚いただきたした。
 珟圚の建物は玄55幎前に建蚭された物であり、挏電・雚挏り・排氎管の異垞などあり数幎前から利甚できなくなっおいたす。危険な堎所になる前に取り壊しが怜蚎されおいたした。

私たちの地域のご玹介

珟圚の豊氞郷

 定犏寺のある豊氞郷は急峻な山間にある地域です。豊氞郷ずいう名称は江戞時代から芋受けられたす。豊氞郷は珟圚の倧豊町の東北郚になりたす。高速道路の倧豊IC付近、倧杉地区付近は江戞時代たで、本山郷であり行政区分が異なっおいたした。昭和の合䜵の際、豊氞村ず倧杉村の䞀文字を取り、倧豊町ずなりたした。定犏寺から西に進むず倧豊ICたで12キロ、東に12キロ進むずJR倧歩危駅ずなり、埳島県になりたす。定犏寺から県境たで車で10分匱の距離です。  豊氞郷のある倧豊町を暪断するように西から東に吉野川が流れ、豊氞郷付近から吉野川は北䞊したす。豊氞郷付近の吉野川はラフティングの名流ずされる堎所で、修孊旅行生なども含め倚くの人々が蚪れたす。吉野川でのラフティング 豊氞郷の象城ずしお暙高1399mの霊峰梶ケ森がありたす。修隓道の人々が修行した堎であり、䞭腹には定犏寺の奥の院や岩の間に埡圱堂がありたす。珟圚ではJR豊氞駅付近に登山口があり、登山を楜しめる堎ずもなっおいたす。たた車でも山頂を蚪れるこずができ、老若男女が楜しめる山ずなっおいたす。 
 梶ケ森呚蟺は貎重な動怍物が生息し、四季を通じお自然を楜しむこずができたす。山頂には山荘梶ケ森があり、春から秋たで営業しおいたす。山荘には梶ケ森呚蟺の動怍物を、調査した際の写真や様子が掲瀺されおいたす。豊氞郷を囜道439号線通称ペサクが通り、隣接する埳島県の祖谷地区や倧歩危の枩泉地に自転車やバむクで蚪れる人もいたす。梶ケ森ず梶ケ森定犏寺奥の院・埡圱堂

か぀おの豊氞郷から珟圚ぞ
 豊氞郷の西に隣接する地域にはか぀お荘園の吟橋荘があり、南に隣接する地域には倧忍荘の荘園がありたした。䞡地域の史料より豊氞郷も朚材の産地であったこずが䌺えたす。豊氞郷が珟圚の集萜の様子になったのは、鎌倉時代だずされおいたす。
 
 1573‐1615幎に制䜜された『長宗我郚地怜垳』に、長宗我郚期以前からの支配䞋階玚らしき人物ず、長宗我郚の家臣の名前が芋え、共存しおいた様子がうかがえたす。たた藩政時代になっおも、同様に山内家家臣が完党に支配するのではなく、これたでの支配階玚が山内家の䞋で支配する地域ずなったために、䞭䞖からの文化が明治期たで匕き継がれた貎重な地域ずなりたした。
 『長宗我郚地怜垳』に登堎する屋号は、珟圚でも8割ほど残っおおり、日本の原颚景が残った堎所の䞀぀ず元高知県歎史民俗資料通通長が述べられおいたす。岩原神楜など叀い圢態を残した土䜐神楜もあり、文化的に貎重な地域であるず考えられおいたす。
山内家藩䞻が旊那の棟札 明治時代たではお茶の生産が盛んであり、明治以降は逊蚕、昭和埌期からは柚子の生産が盛んにおこなわれおいたす。 地理的にも各家だけでの生掻が、厳しい地域であり、集萜でお互いに「結豊氞では いい」ずしお、䞀緒に田怍えや逊蚕、道の敎備、氎路の敎備など日垞生掻を、お互いに支え合いながら生掻をしおいたした。

豊氞郷の母屋、隠居屋のある集萜 人が生掻をするためには食べるこずが倧切であり、珟圚のような山間地域ではなく、䞀面が田畑でした。長男倫劻が跡を継ぎ、その他の兄匟姉効は瀟䌚の倉化ず共に倧豊町倖に働きに行く者が増えたした。瀟䌚の倉化により、町倖で生掻をする兄匟姉効が、経枈的に裕犏ずなり、生掻も䟿利になっおいく様子を芋お、長男家族も土地を離れ、新たな堎所で生掻し、蟲繁期に垰省する生掻ずなりたした。䞡芪が他界するず田畑に怍林をし、離れおいくこずになりたした。 
 人口の枛少は深刻なものずなっおいたす。前述いたしたしたが、江戞時代には玄9,000人以䞊おり、戊埌も玄23,000人の人々が生掻をしおいたした。2023幎5月の資料では、人口は3186人、高霢化率63.6の地域ずなっおいたす。限界集萜ずいう蚀葉は、高知県の仁淀川町を元高知倧孊教授が、調査し提唱された蚀葉でした。倧豊町には65集萜、その内豊氞郷は47集萜ありたす。集萜を束ねる自治䜓である倧豊町が、日本で最初に限界自治䜓ずなりたした。豊氞郷の生掻ず信仰プロゞェクトを立ち䞊げた背景

 プロゞェクトを立ち䞊げた背景の぀は、定犏寺の存続を考えなければならない時期になったこずです。
 お釈迊さたによっお起こった仏教ですが、お釈迊さたがお垃斜で生掻をするこずをおっしゃられた時から、仏教は人がいる郜垂郚呚蟺や、䞀定の人が䜏む堎所で成り立぀集団でした。山奥に寺院が存圚するのは、各時代の政府や幕府、暩力者の庇護があったからです。朚材や様々な資源を䟛絊する堎所ずしお必芁な堎所だった山間地域に人が䜏み、人が䜏む堎所にお堂やお宮ができたした。
 豊氞郷に残るお堂ずお宮 明治時代の廃仏毀釈は、高知県の寺院には倧きな出来事でした。256の寺院やお堂が廃寺廃堂ずなり、真蚀宗の寺院は16ケ寺しか残りたせんでした。吉野川流域では定犏寺だけが残りたした。地域の人々の嘆願や助力があったために、被害はありたしたが廃寺を免れたした。廃仏毀釈があった圓時の䜏職の野本進甲垫は、定犏寺が護られたので、匟子に䜏職を譲り、自分は歩いお東は銬路村金茪寺から、西は土䜐垂高岡の枅滝寺たで、数十ケ寺の寺院を埩興した様子が、定犏寺に残っおいたす。明治時代以降の政策の倉曎により、各地域の人々によっおお堂やお宮が護られるこずになりたした。定犏寺 野本進甲垫 
 珟圚定犏寺では、写経や写仏、仏教講座などを行っおいたす。たたNPO法人豊氞郷民俗資料保存䌚が運営する豊氞郷民俗資料通が隣接しおおり、「人ず自然 道具ず技術」をテヌマに定犏寺を護っおくださった、豊氞郷の人々の生掻の様子を䌝えるこずで、珟代の人々になにかを感じお頂ければず掻動をおこなっおいたす。定犏寺、豊氞郷民俗資料通で瀟員研修や孊生の研修など、倚くの掻動が行われおいたす。
 祈る堎ずしおの定犏寺、過疎が進んでいたすが、定犏寺を支えおきおくださった豊氞郷の人々の生掻や文化を玹介する豊氞郷民俗資料通。そしおそれらを繋ぐ圹割を担う堎所ずしお定犏寺講堂が建蚭されたす。実際は䞀階建おの予定の定犏寺講堂パヌス これたでの掻動

 これたで、定犏寺はお寺の文化に觊れお頂くための掻動や、倚くの人々ぞのお寺からの垃斜ずしおの様々な掻動をおこなっおたいりたした。定犏寺や豊氞郷には叀い颚習や祈りが珟圚たでも匕き継がれる、貎重な堎所だず感じおいたす。先垫たちの蚘録を芋぀めるこずで、定犏寺のか぀おの様子がわかたす。昔ず倉わらず珟代にも重芁なこずがたくさんあるず感じおいたす。地域ず関わりながら、たた支えられながら生掻をしおきたたした。
六地蔵笑い地蔵 先垫たちの蚘録が残る䞀぀が、先述臎したした豊氞郷民俗資料通です。豊氞郷民俗資料通の資料は、先々代釣井矩光垫が昭和30幎代、法事の垰りに䞍芁になった茶釜を、売っおいる人を芋かけたこずがきっかけで、収集されるこずずなりたした。豊氞郷で䜿甚されおいた綺麗な茶釜だったので、圓時目方で90円で求めおきたした。 
 お寺に垰り珟長老釣井韍宏垫ず共に、これらの道具が捚おられおいるずいう話をしたそうです。以埌、二人でご法事に出かけた際、䞍芁な道具を譲り受け、圓時の定犏寺ナヌスホステルに300点ほどを展瀺いたしたした。宿泊者の孊生たちが、重芁なこずだず感じお、豊氞郷の民家から12,000点以䞊の民具を収集いたしたした。孊生の䞭心に宮本垞䞀氏の指導を受けおいた元神奈川倧孊教授銙月掋䞀郎さんや元淑埳倧孊教授谷沢明さんがいたした。
 これらの民具の内2595点が重芁有圢民俗文化財に指定をされたした。
 豊氞郷民俗資料通 倧工道具、䞋駄屋道具、桶屋道具 人口枛少に䌎い、地域の人々の颚習が消滅する䞭、定犏寺を護っおくださった人々の文化を今床は、定犏寺が残さなくおはならないず決断し、NPO法人豊氞郷民俗資料保存䌚を立ち䞊げたした。豊氞郷文化講座や豊氞郷文化通信などを発行し、募金掻動を行い、20幎越しに豊氞郷民俗資料通を建築臎したした。
 豊氞郷民俗資料通のテヌマは「人ず自然 道具ず技術」です。珟圚は、豊氞郷の人々の生掻を䌝えるず共に、豊氞郷の人々がどのように自然ず共生し道具ず共に生掻をしおきたのか、たた道具ず技術によっお、我々がどのように考えお来たのかなどを䌝え、瀟員研修や孊校研修に利甚されおいたす。
 豊氞郷民俗資料通 生掻道具 先垫の蚘録が残るもう䞀぀は、地域の史資料です。この調査を長幎行っおいたす。寺族が孊芞員の資栌を取埗し、定犏寺を支えおくださった地域の人々の思いや、文化を残すための掻動を行っおきたした。幎前より奈良文化財研究所のご協力の䞋、仏像の調査をおこないたした。本幎からはご法事の際に収集した、各家に残る文曞をデゞタル化し目録䜜りず資料集䜜りを、NPO法人地域文化蚈画ず共に行い、報告曞を来幎発刊の予定です。たた来幎から数か幎をかけ、高知城歎史博物通ず共に定犏寺に残る資料のデゞタル化、目録䜜りをおこない、同様に資料集を発刊いたしたす。定犏寺に関わる豊氞郷の資料を制䜜するこずで、埌䞖の孊生や研究者たちが豊氞郷を調査する際の資料になればず考えおいたす。豊氞郷に残された史料 身䜓を動かす掻動ずしお、定犏寺には剣道堎があり倚くの方が鍛錬をされおいたようです。以前クラりドファンディングを利甚し、駐車堎兌倚目的スペヌスを開蚭いたしたした。コロナの圱響もあり思うようには利甚されおいたせんが、お陰様でお幎寄りのりォヌキングの䌑憩堎所ずなったり、子䟛たちが遊んだり、サッカヌをしたりず掻甚され、たた行事の際は駐車堎ずしお利甚されおいたす。
仁王門からの星空 定犏寺では、仏教の芖点から心の掻動や考え方を䌝える掻動を行っおいたす。豊氞郷民俗資料通では「人ず自然 道具ず技術」をテヌマずしお、定犏寺を支えおくださった豊氞郷の人々の生掻を通しお䌝える掻動を行っおいたす。閉通をいたしたしたが、定犏寺ナヌスホステルのヘルパヌをしおくださっおいた孊生さんたちが考えた、豊氞郷のトレッキング、サむクリング、梶ケ森登山など五倧修行を加え、瀟員研修、孊校研修を受容れおいたす。出匵講座にも寄せおいいただいおおりたす。
  これらの掻動を結ぶ定犏寺講堂の建蚭に是非ご協力を頂きたいず思いたす。豊氞郷民俗資料通、駐車堎兌倚目的広堎、定犏寺  

資金の䜿い道・実斜スケゞュヌル

これたで、5幎間かけお各所に埡寄付のご協力をお願いに参りたした。コロナ感染症ず物䟡の高隰により、厳しい状況にありたす。皆様にご協力いただいた支揎金は、すべお講堂建蚭ずCAMPFIREの手数料に利甚させおいただきたす。

講堂は圓初2階建おの予定でしたが、抂算芋積もりが186,560,000円ずなり断念し、再床1階建おで蚭蚈をし抂算費甚は、122,837,000円ずなりたした。
建蚭のスケゞュヌルですが、2023幎9月から解䜓ず建蚭が始たり、2024幎5月頃には完成する予定です。

定犏寺講堂蚭蚈図

リタヌンのご玹介

・散華さんげ
 散華は、尊い存圚を招き入れる際に䜿甚しおいた花びらを暡しおいたす。真蚀宗では読経ず共に花びらを蒔きたす。定犏寺の散華は、定犏寺の次女であり京郜矎術院仏垫が定犏寺の仏さたを思い描いたものです。その裏には、珟長老釣井韍宏垫の蚀葉が蚘されおいたす。

・巻玙に蚘録
 寺院では、重芁なこずは和玙に認め保存されたす。埡支揎いただいた方のお名前を和玙に蚘し、氞幎保存臎したす。掲茉の有無や掲茉のお名前は備考欄にご蚘入ください。お名前は15文字以内でお願いいたしたす。

・宝物殿幎間パス
 定犏寺の文化財が展瀺されおいる宝物殿の垞蚭展・䌁画展をご自由にご芧いただけたす。
 宝物殿は幎末幎始䌑通

・定犏寺発行物送付発刊次第
 2024幎に発刊される定犏寺史資料集を送付いたしたす。名前・巻数は未定です。

・定犏寺の歎史ず文化財本
 定犏寺の文化財を䞻に玹介した平成11幎発行の本

・朚札に名前を蚘録
 朚札に名前を蚘し、講堂内に氞幎掲瀺させおいただきたす。掲茉の有無や掲茉のお名前は備考欄にご蚘入ください。お名前は15文字以内でお願いいたしたす。講堂内にこのような名札を掲げたす・境内石柱建立
 定犏寺ではある䞀定以䞊の埡支揎を頂いた方は、境内に石柱を建立させお頂いおおりたす
 掲茉の有無や掲茉のお名前は備考欄にご蚘入ください。お名前は15文字以内でお願いいたしたす。境内にこのような石柱を建立いたしたす・萜慶法芁招埅状
 萜慶法芁にご招埅させおいただきたす。ご案内は萜慶法芁の詳现な日皋が決定次第お届けいたしたす
日皋予定は2024幎5月頃ずなっおいたす。
堎所高知県定犏寺講堂。
定員30名
亀通費は自己負担でお願いいたしたす
滞圚は、山荘梶ケ森宿泊者にはクヌポン刞をお届けいたしたす
山荘梶ケ森たでは定犏寺からバスが出たす。講堂の萜慶法芁にご招埅いたしたす
・研修・講習䌚50名以䞋・出匵可
 定犏寺、豊氞郷民俗資料通、サッカヌなどを螏たえた瀟員研修や孊校研修、たたは講習䌚などを定犏寺講堂で行いたす。
 圓地たでの亀通費は自己負担ずなりたす。滞圚は、山荘梶ケ森をご利甚の堎合はクヌポン刞をお届けいたしたす。定犏寺から山荘梶ケ森たでは、バスが出たす。
 講垫が各地に出向くこずも可胜です。講垫謝瀌・亀通費・滞圚費はリタヌンに含たれたす。日皋や内容は調敎いたしたす。

・ガむド50名以䞋
 ガむドは、梶ケ森を山荘たで動怍物ガむドを行いながら登山いたしたす。専門のガむドがご案内いたしたす。日皋や内容は調敎いたしたす。
 内容梶ケ森韍王の滝から山荘梶ケ森たで、倧豊町芳光ガむドが動怍物をガむドしながら登山を行いたす。
 装備登山に適した靎、飲食物などはご持参ください。

山荘梶ケ森
 山荘梶ケ森のある梶ケ森には、定犏寺の奥の院や埡圱堂がありたす。定犏寺から䞀番近く、倧人数が宿泊できる堎所ずなっおいたす。倩䜓望遠鏡が蚭眮され、2023幎倏にリニュヌアルされおいたす。梶ケ森には倚様な動怍物がおり、詳现に調査もされ、山荘梶ケ森に掲瀺されおいたす。定犏寺ず様々な面で盞互協力をいたしおおりたす。
梶ケ森ず山荘梶ケ森

 290䞇円以䞊のご支揎をお考えの方は、盎接ご連絡を頂ければず思いたす。


 支揎金額別リタヌン䞀芧

① 5,000円

② 10,000円

③ 30,000円

④ 50,000円

⑀ 100,000円

⑥ 500,000円

⑊ 1,000,000円

⑧ 2,000,000円

⑚ 29,000,000円



最埌に䜏職より

 サラリヌマンを蟞職し、僧䟶ずなりたした。最初に時間の感芚が違うこずに気が぀き、「する」ず「なる」の違いを実感いたしたした。僧䟶になった埌「なる」ずいう感芚の重芁性に気が぀きたした。䜕をしおいおも、24時間、365日僧䟶なのです。お堂を閉めた埌、自分の時間が始たるのではなく、僧䟶ずしおの時間が続くずいうこずに気づかされたした。厳しい環境の豊氞郷で、生掻をするためには䜕が必芁なのかを考え迷いながら、今日たで豊氞郷で生掻をしおたいりたした。
 定犏寺 倧賀蓮 
京郜の智積院での修行が終了し垰山するず、本山では教えられなかった祈りや考え方や沢山の民具がありたした。僧䟶の孊びず䞊行し、垰山1幎目から祈りずいうこずに興味を持ちたした。チベットやむンド、アフリカ、ポリネシア、北海道、沖瞄にたで思いを銳せ、豊氞郷の人々からも話を聞いおいたす。タシルンポ寺僧䟶による砂曌荌矅䜜成ず灌頂 その䞭で歎史や文化など地域の人々のこずを知ろうずし、地域の人々から話を聞かなければ、その地域の事は理解できないず感じ始めたした。この思いを出発点ずし、定犏寺の垫や京郜の垫、東京の垫、様々な分野の垫、豊氞郷の垫。倚くの人々に支えられながら教えられる䞭で、様々なご瞁を頂き講堂の建蚭にたどり着きたした。䞍動䞉尊の来寺ずいう垌少な出来事をきっかけずしお、これたでの思いを圢にし、定犏寺を存続させるための手段ずしお、定犏寺講堂の建蚭を決定いたしたした。
 倧倉な瀟䌚状況の䞊に厳しい状態が続いおいる䞭、今回のクラりドファンディングは、藁にもすがる思いで、定犏寺の先垫や䜏職の思いをご理解いただき䜕ずかご支揎を賜りたいず思いプロゞェクトを立ち䞊げたした。
 4月日の定犏寺本堂 寺院は無くなる可胜性がありたす。無くなるのは地方の寺院からです。自然遞択ず考えるこずもできたすが、豊氞郷の人々や信仰を持぀人々、先人たちの思い、定犏寺に瞁のある人々のこずを考えるず、䜕もせずにいるこずはできたせん。廃仏毀釈で経隓したように、僧䟶やお寺を支えおくださる方々が、このお寺は必芁だず思っおくださらなければ存続したせんでした。存続するためには、定犏寺の䟡倀や朜圚的な力を芋぀め盎し、行動し受け入れられなければ、お寺は存続しないず感じおいたす。
 今、定犏寺は垰路に立っおいたす。
 この堎所で祈りを続けるこずが出来るように、今、あらゆる可胜性を探らなければならないず思いたす。
 定犏寺は、先垫の掻動や祈りを知り、それらを珟代の芖点で再建させるこずを遞択し、定犏寺講堂を建蚭するこずにいたしたした。先垫が瀺すように、぀ながろうずする掻動ず真摯に祈るこずに定犏寺の未来を蚗したいず思いたす。
 ご支揎を宜しくお願いいたしたす。
 

募集方匏に぀いお

本プロゞェクトはAll-in方匏で実斜したす。目暙金額に満たない堎合も、蚈画を実行し、リタヌンをお届けしたす。

最新の掻動報告

もっず芋る
  • 定犏寺 講堂建蚭 珟状に぀いお

    2024/04/08 12:10

    こちらの掻動報告は支揎者限定の公開です。

  • 解䜓工事ず資材の搬入路の工事が始たりたした。倉わらぬご支揎ず情報の拡散を宜しくお願いいたしたす。 もっず芋る

  • ご支揎を頂いおいる皆様ありがずうございたす。本圓に励たされたす。修正埌の蚭蚈図が今週完成したした。資材の高隰などの理由で再床蚭蚈を行いたした。GWから工事車䞡搬入路の工事、解䜓䜜業が始たる予定でしたが、9月の䞭旬から始たりたす。 もっず芋る

コメント

もっず芋る

投皿するには ログむン が必芁です。

プロゞェクトオヌナヌの承認埌に掲茉されたす。承認された内容を削陀するこずはできたせん。


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