2018/06/07 12:53
五代友厚と関係性が深かった「堀孝之(ほりたかゆき)」のご紹介になります!
【氏名、年齢】

堀 孝之 (ほり たかゆき)

19歳(薩摩藩留学生当時)

 

【生まれ~薩摩英国留学生になるまで】

長崎のオランダ通詞(通訳)堀家の生まれ。長崎出身。

日本で初めて印刷出版された英和辞典「英和対訳袖珍辞書」を作り、ペリー来航時に通訳を務めた堀達之助の次男にあたる。

堀家と薩摩藩とは前後非常に強い絆で結ばれており、堀家は薩摩藩にとって大事な家だった。堀家は、古い長崎のオランダ通詞の家柄で、四代五代に渡って通詞の最高位大通詞を務めたが、五代目はこれを寛政元年(1789)に辞職し、同9年江戸に出て、薩摩藩に仕えた。

島津重豪が『成形図説』の編纂のために、招き入れている。

孝之を直接薩摩に結びつけた人物は、若き五代友厚である。

 

【薩摩藩の留学生として海外へ渡る】

五代の秘書として薩摩スチューデント事業の実務交渉を代理し、通訳としてイギリスにわたる。

薩摩藩英国留学生として渡欧中は、ヨーロッパ各国を回り、その間、ベルギー商社設立問題や紡績機械の買い付け、或いはパリ万博参加問題等を取り仕切りした。

慶応2年3月帰国。

 

【帰国後の活躍について】

薩摩藩がパリ万国博覧会(1867年4月1日)に参加した際に、通訳士として同行。

語学や西欧情勢に長けた堀は、薩摩藩の対外政策に対して密接な関係にあった。

五代友厚が実業界に転進してからは五代の事業を助け、五代友厚の死後は遺族の世話をしていたそう。

明治44年(1911)67歳で死去。

 

【その他】

堀の3回忌にあたる大正2年9月、五代が眠る大阪の阿倍野墓地内に堀の功績を称える「堀孝之君之碑」が建てられた。

 

薩摩スチューデントが誕生するのになくてはならない存在であった。