2016/08/04 22:15

株式会社文化財マネージメントの阿部麻衣子です。

 

建穂寺観音堂には、入り口の左右に一対の仁王像が安置されています。

 
(現在の観音堂 赤丸のところに仁王像が安置されている)


(向かって右側に、口を開いた「阿形像」)


(向かって左側に、口を閉じた「吽形像」)

現在のお堂が建てられる前の旧観音堂の写真にも、その姿は確認できます。

 

(旧観音堂 赤丸のところに仁王像が安置されている)

 

この仁王像2体は江戸時代の寛政3年(1791)制作と考えられる像ですが、明治初年の廃仏毀釈や明治3年(1830)の火災による混乱のなか、売却されるという危機的状況がありました。

 

明治3年3月23日、建穂寺最後の住職である建穂俊雄が、廃寺にともない仁王像2体を秋山惣兵衛に金50円で売却しました。
買主の惣兵衛は後日これを転売するつもりで証文を取り、仁王像は俊雄が預かり、建穂地区にあった林富寺観音堂仁王門に安置されることになりました。

 

それから23年後の明治26年(1893)8月23日、惣兵衛は俊雄に対して仁王像を返却するように告訴しました。
俊雄は逆に裁判所に「売買証明書取消」を要求しますが、正当な売買が成立しているため、「取消の理由なし」として敗訴しました。

 

これに異を唱えたのは、当時仁王像が安置されていた林富寺の信徒総代でした。
「この仁王は被告・俊雄の隠居・山脇降禅が建穂寺からここに持ってきたのであるから、村の所有と心得るべきである。建穂俊雄の諾否に拘わらず引渡しを一切拒否する。」としたのです。
このため同年11月22日、惣兵衛は俊雄と林富寺・総代3名を告訴しました。
この時もまた「仁王を原告に引き渡すべし」との判決が下されました。

 

翌27年(1894)1月8日、今度は林富寺・総代である鈴木平八、中山丑太郎、花村金次郎の3名がこれを不服として控訴しました。
そしてついに同年3月23日、静岡地裁は「明治26年12月4日静岡区裁判所が言渡したる第一審判決を変更し被控訴人の請求は相立たず」として第一審判決を棄却、逆転判決が下されたのです。
このような事件を経て、仁王像は転売されて建穂から流出することなく、現在の所在を保っています。

 

この事件は民事訴訟の幕開けの事件としても注目されるものです。
日本で現行民法が施行されたのが、明治31年(1898)。
まだ民法が十分に整備されていない中での裁判といえます。

 

さて、こうした危機は、なにも建穂寺に限ったことではありませんでした。
明治初年の廃仏毀釈は全国の寺院に混乱をもたらし、実際に多くの仏像が転売され、日本国内だけではなく海外にも散逸したといいます。
明治時代以降に失われてしまったものもあるものの、建穂寺の多くの仏像が散逸をまぬがれたのは、当時の地域住民の熱意あったからです。
その熱意は現在も誇りとなって地域の人々に受け継がれ、建穂寺の仏像は大切に守られ続けています。