2018/10/14 12:30

AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今回は第13本目になります。残すところ、あと1本となりました。

今回ご紹介するのはサルバムです。その荒々しく、恐れを知らない姿勢に見える姿が、服に乗り移ったかのようなデザインが魅力です。

当たり障りなく。それが現代を生きるコツかもしれません。しかし、その逆をいくような言動でデザインをしていくデザイナーの藤田哲平氏。そこには、現代を考えるきっかけがあるかもしれません。

ぜひ読んでみてください。

 

 

 

「怒りを纏うサルバム」

 

人の感情は言葉に表れる。その人がどんな言葉の使い方をするのかで、その人の感情が垣間見える。そういう意味では、サルバムのデザイナー藤田哲平氏のインタビューには苛立ちや焦燥、憤りが感じられる強い言葉とその感情が端々に滲んでいる。一読すると、そのストレートな物言いに生意気さを感じて、反発や嫌悪感を抱く人もいるだろう。

けれど、今の時代、好き嫌いはおいてその率直さは貴重に思えた。誰もが批評家になれる今の時代、発信者にとって嫌われないことは重要な選択になっている。それはそうだろう。誰だって、面倒な争いや非難の渦には巻き込まれたくない。僕だってそうだ。できるだけ、そういった類のものから遠く離れて、穏やかに暮らしたい。だが、そのことが「無難」を量産しているのかもしれない。誰にも嫌われないようにすると、それなりに好まれるものしか生まれない。人の心に深く突き刺さり揺さぶる、強烈で鮮烈な何かは生まれない。

昨今、スポーツ選手への人々のコメントを見ていると、品行方正を好む人が多くなっていると僕は感じる。清く正しく。その傾向が、ウェブの進化が遂げる前、時代で言えば「昭和」に比べると強く感じる。実力があるなら「なんだこいつ!?」と思われるような、荒ぶったり生意気な気性の選手がいたって僕はいいと思う。みんながみんな、真面目ではつまらない。ダークヒーローがいたっていい。個性があるから楽しくなる。そこに好き嫌いが生まれるから楽しくなる。

サルバムは以前から名前は聞いていたが、藤田氏のインタビューを読んだことがきっかけで、その率直さが面白くて興味を持ったブランドだった。ただ、そのコレクションを見ても、特別僕の心に響くものではなかった。けれど、今年1月にピッティで発表された17AWコレクションを見ると、そこには目が止まり惹き寄せられるものがあった。そこで過去のコレクションをサルバムのオフィシャルサイトでルックとショー映像を見てみると、コレクションの変遷が見れて興味深かった。

デビューシーズンである2014AWからしばらくはそんなに強くは感じなかったのだが、16SSシーズンあたりで、藤田氏の師である山本耀司の影響が感じられた。まるで若かりしころの山本耀司が、現代で時代の空気から感じる感情にまかせて服を作っているような、そんな感覚だった。16AWになるとその匂いは、さらに強くなる。

オフィシャルサイトではショー映像も見れて、現在は15AW・16SS・17SSの3シーズンが視聴可能である。15AWと16SSを見たが、あくまで僕の個人的感覚になるが、特別強烈に惹かれるものは感じなかった。けれど、その感覚が様変わりしたのが17SSだ。BGMにマーシーこと真島昌利の曲「こんなもんじゃない」が使われ、その曲が流れ始めるスタートにはカッコよく見せるとか綺麗に見せるとか、自身を飾り立てるような卑しさとは無縁な、ありのままの生の個性をぶつけるような正直さがあった。

ブランドアイデンティティと言えるルーズシルエットに変わりはない。しかし、その服は荒々しい感情が猛るように綺麗には収まらず、身体の上で崩れたフォルムを持っていた。その崩れはディテールにまで及ぶ。ポケットは身頃へ綺麗に縫い付けられておらず、ポケット口が取れかかっているような状態。ジャケットは背中のサイドの切替がスリットのように切り開かれ、その隙間からジャケット下にレイヤードされた白い布が、疾走感を伴って足早に過ぎ去るモデルの動きと呼応するように左右上下に揺れる。切りっぱなしの裾からゆらめく糸の断片は、その儚さゆえに目に焼きつく。それは、人が傷ついた後の心の様のようだ。

その服を見ていると「未完成」という言葉が浮かぶかもしれない。僕も最初はそう思った。けれど、それは違う。これは未完成ではなく完成だ。綺麗にフィニッシュされることが完成で、崩れた様が未完成。そんなクソみたいな固定観念は捨てろ。一見未完成に見える、荒々しく暴れる感情を無理やり押さえつけられた服のこの形こそが、美しい完成型だと訴えかけてくる。僕にはそのように感じられた。

真島昌利の独特のしゃがれ声で繰り返される「こんなもんじゃない」という歌詞。それは藤田氏の苛立ちを代弁しているかのようだ。ルーズシルエットには野暮ったさよりも繊細さ、崩れたディーテルには切なさよりも荒々しさ。それは怒りという感情が、服の形となって目の前に現れたかのようだ。この17SSは藤田氏の「怒り」という感情が生々しく露わになっているようで、そこには私小説のような趣が漂っていた。そしてこのコレクションが、さらに発展を遂げたのがピッティで発表された17AWだ。

暗闇の中照らされる広く長いランウェイ。そこをモデルたちが、ただ前を見据えて早足で歩幅広くまっすぐに歩いていく。ルーズシルエットと崩れたディテールは17SSと同じだが、そこにはエレガントな空気が明らかに纏い始めた。美しく誇り高い人間の様とも言える空気が。極めて個人的な感情の発露。そんな私小説的趣がさらに一段と深まり、「怒り」は美しさを引き連れて訴えてくる。

「クソッタレ」

美しい容姿を持つ女性が、そんな苛立ちを吐いているかのようなコレクションだ。

以前、何か(ハンターハンターかも)で「その人を知りたければ、その人が何に怒るのかを知るべき」という文章を読んだ。ネガティブに思える感情である怒り。けれど、そのネガティブなはずの怒りがその人らしさを最も露わにし、その強烈で激しいエネルギーが新しい道を切り拓く。

怒りを纏うサルバムは人間に対して真っ正直な服だ。嫌いな人は嫌いだろう。切りっぱなしの生地や、うねりまくったステッチに顔をしかめる人はきっといる。服の体をなしてないと言う人もいるかもしれない。しかし、その荒々しさがたまらなく好きだと心に響く人がいるに違いない。そんな人たちがサルバムを着ている人たちだろう。

先日放送されたファッション通信では、ピッティで発表したサルバムのコレクションを追う模様が流れていた。番組内で藤田氏がインタビューに応えていたが、これまでと変わらないストレートな言葉があった。敵を作ることも厭わず、自身の道をひたすらにまっすぐ進むかのごとく。

サルバムは2017LVMH PRIZEのセミファイナリストに選ばれた。現時点で、誰がファイナリストになるのか、その結果はわからない。LVMH PRIZEは単純にデザインの素晴らしさが焦点になるわけではなく、そのブランドが本当に支援を必要としているかも重要なポイントだ。通常なら、実績があることは有利に働く(日本は特に)。けれど、ことLVMH PRIZEに関しては実績があることは決してアドバンテージにはならない。むしろグランプリを獲るにあたっては確実に不利に働く。

そういう意味では、現在も藤田氏含めてスタッフが2人で上代で年間売上が1億というサルバムには、可能性があるんじゃないかと僕は思っている。願わくば世界の新しい才能たちが競う最終決戦の場で、日本の私小説がどのような評価を得るのか、僕は見てみたい。

<了>
 

 

*こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「怒りを纏うサルバム」と同じ文章になります。