ご挨拶

映画製作にあたって

私の父もそこにいた製作委員会 代表の添野江実子(そえの えみこ)です。
今回、この映画を製作するにあたり、費用や技術面等、私自身の力では実現が難しいとわかり、広く皆さまからのお力添えを賜りたく、このキャンプファイヤーでチャレンジさせていただくこととなりました。
ぜひご理解とご協力をいただきますよう、心よりお願い申し上げます。

 この話は、ベトナム旅行を計画していた娘のあるひとことから始まりました。
「ベトナムに行きたがってた、おじいちゃんの遺影を持っていく」 娘が?なぜそんなことを言い出すんだろう? それは、私の心に波紋を広げる一石でした。  

 父、綱河忠三郎は大正9年生まれ。昭和15年、20歳で入隊後すぐに中国に派兵されました。 5年の間中国戦線で戦い、やがて昭和20年3月に部隊はベトナムに入り、終戦は南シナ海に面するヴィンで迎えました。  
その時父は25歳。終戦を迎えたのに、なぜ帰国せずにベトナムに残留したのか?
想えば、戦争やベトナ ムのことの多くを語らず15年前に亡くなった父。
なぜ?の心の合図を機に、父の足跡探しが始まりました。

  

 父達600人に及ぶ日本兵は終戦後も直ぐには帰国せず、ホーチミン氏と共に9年間戦い続け、フランスからの独立戦争に貢献していた事が分かりました。
その後フランス軍は撤退し、ベトナムに平和が訪れてからも、現地にはかつての日本兵が多数残留したことは、葬り去られた史実になってしまいました。
彼らは、なぜベトナムに留まったのか? 600人余りの若者一人ひとりの理由は様々だったことでしょう。

  父忠三郎は、約9年間のベトナム生活を経て帰国しました。 昭和29年11月30日、京都舞鶴港に着いた引揚船「興安丸」。その時の記念写真の中に、若き父忠三郎がいたのです。

 

 父は、ベトナムの何処で、何を考え、何をしていたのか。 私は、あてもなくベトナムを訪れ、かつて残留日本兵が観たかもしれない「ホアンキエム湖」の湖畔に佇み、 父もこの湖を眺めたのだろうか?と想像し、沈む夕陽が涙で霞みました。

 

 現在、日本とベトナムは旅行、留学、貿易など、国交で良い関係を築きあげました。 残留日本兵の苦難の功績が、今の日越友好の礎となっているのは紛れもないことなのです。    

 私は、父の娘として、一人の日本人として、この史実を風化させないため、 そして後世に語り継ぎ、両国の更なる友好と発展のため、映像として残したいと決意しました。
この映画は、父の足跡を訪ね、関係者に尋ねながら隠れた歴史にスポットを当てるドキュメンタリーです。
                       私の父もそこにいた製作委員会 
                       代表 添野 江実子 

 

製作スタッフ

プロデューサー:添野 江実子
[プロフィール]
私の父もそこにいた製作委員会 代表
日本ベトナム友好協会 茨城県連合会 会員
「森のこもれびサロン Salon de Elemi」主宰
アロマセラピスト
介護ヘルパー
土浦市在住

 

ディレクター:佐山 剛勇
[プロフィール]
「まちづくりデザイン」をテーマとする研究室、株式会社ツクバ・インフォメーション・ラボを設立し、情報の活用とデザインの表現手法による活動を始める。「つくば食事典」の発行、「パンの街つくば」をはじめ、茨城県の観光、行政の産業戦略、企業の広報戦略等のプロデュースに携わる。           
以来36年、つくばの魅力発信や地域の活性プロデュース及びデザインコンサルティングを続けている。            
*株式会社ツクバ・インフォメーション・ラボ 代表取締役・
 クリエイティブ・ディレクター 
*デザイン診療所 院長            
*茨城デザイン振興協議会 元会長            
*日本デザインコンサルタント協会 会員            
*つくばスタイル縁日 実行委員長

[コメント]
友人である添野さんの「父親の足跡辿り」の話から、私自身も知らなかったベトナムでの史実を学ぶことになりました。
現在の日越の友好な関係も、戦争の中で命をかけて戦い、生き抜いた残留日本兵の存在が確実に礎の一部となっていることを伝えたいと思います。

撮影・編集:田口 直文
[プロフィール]
株式会社アクトビジョン 代表取締役
官公庁及び民間企業においてプロモーションビデオ等の映像撮影・編集業務を行い実務20年。水戸短編映画祭にて2度の受賞歴があり、ドキュメンタリーやドラマ仕立ての映像を得意としています。
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[コメント]
戦後70年が過ぎ、今、映像で残さなければベトナム残留日本兵の記憶は途絶えてしまうと感じプロジェクトに参加しました。
国内に留まらず、ベトナムへ赴き、関係者へのインタビュー取材を交え、添野さんの父親が見た風景を描写したいと思っています。

 

ナレーション:木村 さおり
[プロフィール]
千葉県出身。元茨城放送アナウンサー。局アナ時代には、 パーソナリティ、ニュースキャスターを始め、ナレーションや 司会、スポーツレポーターなど、様々な分野で活躍。 2010年4月より、フリーアナウンサーとして活動。 現在、茨城放送「スマイル・スマイルplus i」の他、司会やナレーションなどを 担当。爽やかで落ち着いたトーンの語りが持ち味。親しみを感じるトークや インタビューは多くのリスナーから支持されている。

[コメント]
添野さんからお話を伺うまで、ベトナム残留日本兵のことは全く知りませんでした。
当時の貴重な資料を拝見して、今まで語られなかった事実を一人でも多くの人に知って欲しいと感じています。
大切な家族が引き裂かれる悲しい戦争を二度と繰り返さないために。
 

アドバイザー:臼井 日出乃
普段は会社員であるが、別の顔を持つ。地元を元気にしようと立上げた
市民団体「つちうらが好き!」実行委員会委員長であり、
殺処分ゼロを目指す「ねこが好き!」主宰者でもある。

[コメント]
子が、親を思う気持ちは同じである。添野さんの夢に共感。夢は、叶えるためにある。


アドバイザー:久保田 直子

[コメント]
日本とベトナムとのより踏み込んだ友好が叫ばれる今、添野さんのお父様の足跡を辿ることによって、ベトナム独立の陰に命を懸けた多くの日本兵がいた史実が明らかとなり、歴史上のドキュメンタリーとして両国民に知らしめる意義は計り知れません。

地元土浦の一市民が背負われた、深く重い運命の証がこれからの両国の友好の架け橋に繋がることを切に願います。

奇しくもこの春、天皇陛下の初のベトナム公式訪問が決定したという報道がなされたばかり。このタイミングが追い風となり、多くの良き理解者が得られることを期待します。

このプロジェクトで実現したいこと

1. 映画製作と上映会の開催
2. 茨城県内の学校にDVDを配布
3. 日越友好の架け橋となるための活動
  1)ベトナム語で製作し、上映会を開催
  2)ベトナム国内の学校にDVDを配布

これまでの活動

地元情報誌『常陽リビング(1月21日号)』の1面で紹介されました。

1. 日本ベトナム友好協会会報誌掲載

2. NHK国際放送ラジオジャパン『リスナーと共に』ゲスト出演



資金の使い道

諸経費の内訳
1) 映画製作費:1,100,000円
2)ベトナム現地での調査及び取材経費:400,000円
3)DVD複製費:200,000円
4)リターン諸経費:100,000円
合計1,800,000円

応援メッセージ

日本国際眼科病院 服部匡志氏(眼科医)
15年前より無償の治療を続けておられ、沢山の方々を失明の危機から救っています。


[メッセージ]
地味な事柄ですが、とても大切なことだと考えています。
日本とベトナムの友好と発展のための「私の父もそこにいた」の映画製作を
応援しています。

 

ミュージシャン シュー・クニヒロ氏      
日本とベトナムで音楽活動し、両国の架け橋となっています。
ベトナムでは、シューさんの特別番組も放送されました。

[メッセージ]
私が音楽活動をしているとても親日な国”ベトナム”。
それは、いまだに語り継がれている“日本へ留学しましょう”という
“東遊”DONG DUという言葉からも分かります。
この映画は100年以上前から続くその関係の中、ベトナムにとって重要な歴史の
転換期における日本人の貢献の記録となり、日越の歴史を後世に伝える大切な
プロジェクトと考えています。

 

 日本ベトナム友好協会茨城県連合会

下山田虎之介 名誉会長(左)
齋藤 平 会長(右)

ベトナムと茨城県は経済・農業で密接な関わりがあります。

[メッセージ]
日本ベトナム友好協会 茨城県連合会は「私の父もそこにいた」の映画が
実現するよう、添野さん及び製作委員会を全面的に応援していきます。
更に、ベトナムに沢山の残留日本兵がいたことを後世に伝えることが、
両国の更なる友好と発展に繋がると確信しています。


井川一久氏
元朝日新聞 初代ハノイ支局長
元大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授
東京財団「日越関係発展の方途を探る研究」の著者


井川一久先生(左)と小森せつ子さん(右)残留日本兵 小森由男氏の奥様
「メッセージ」
映画「私の父もそこにいた」の完成に向けて、全面的に応援しています。

 

猪狩正男氏
カメラマン
残留日本兵 猪狩和正 陸軍中尉のご子息
2才の時に日本人の父とベトナム人のお母様と帰国

「メッセージ」
私の出生は、まさに日越の架け橋そのものです。
今回、添野さんの映画製作の話しを聞いて、
これからの両国の友好な関係づくりのために、貴重なことだと感じました。

HOAI SAKURA(ホアイ・サクラ)氏
残留日本兵 元山久三氏のお孫さん
日本国際眼科病院
医療コーディネーター
通訳

「メッセージ」
私のお爺さん、添野さんのお父さんが同じ残留兵でした。
とても大切なご縁を感じています。
大変有意義なことを進めている、添野さんの映画製作の実現に
少しでも役にたてるよう、応援しています。


 

 

 

 

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