プロジェクト本文

はじめまして。”ケアワークフォトライター”を生業としている野田明宏(のだあきひろ)と申します。皆さまに応援していただこうとクラウドファンディングを起ち上げたのですが、タイトル冒頭、いきなり一人称が“オレ”で始まってしまいました。

「“私”に訂正しようか?」とも考えましたが、あまり飾らず堅苦しくなく進めたいのでタイトルだけは“オレ”に落ち着かせました。 

ところで、ケアワークフォトライター。ケアワークフォトライターという名刺を持参して動いているフォトライターは、唯一、国内では私だけだと確信します。私も他の方を認知しておりませんし、介護関係者に聞いても誰も知りません。介護関係者からも「これって、どういうお仕事ですか?」と問われること常ですから。

ケアワーク
介護福祉用語辞典には以下のようにあります。
『ケアワークとは、ケアに基づく援助であり、その技術のことをいいます』

介護福祉士がケアワーカーとも呼ばれますが、ケアワークの写真を撮るということからの造語と理解してもらえれば良いと思います。
ただし、造語とは記しましたが、この名前の由来は介護の世界の大御所である三好春樹さんから頂いたものです。

その三好春樹さんから、応援メッセージをいただきました。

「私は本や雑誌に書くこと、講演や講義で語ることを35年間やってきた。
介護の面白さ、奥深さを、世間の人、特に介護現場の人にこそ伝えたいと思って。
でも、書く、語るでは、どうやっても伝わらない領域がある。言葉の限界である。
ところが、野田明宏の写真はそれができるのだ。本も読まず、講義なんか聞きに来ないような人にも。しかも一瞬にして。
悔しいではないか。どうやら彼には、いい介護を嗅ぎ分ける本能的嗅覚があるらしい。
彼自身が母親の在宅介護者(彼によれば虐待者)だったことも欠かせないと思う。
ピカソの作品は高く評価されているが、人間としてはとんでもない人だったらしい。
ピカソとともに、作品と人格は別だということを教えてくれるのも野田明宏氏なのである。」

写真集について

「この写真集を世に出して、何を伝えたいのか?」という素朴な質問は皆さまにあると確信します。

とはいえ、大上段から構えて、介護の世界に“ものもうす”的なことは一切考えておりません。言える資格もありません。なぜなら、私は父母の介護中、父母二人に手を上げてしまった虐待者ですから。
ただし、虐待者だからこそ、虐待者にしか見えない介護の世界というのは必ずあります。
それは、自分自身の過ちへの後悔、そこからの反省が根っこにあります。結局、辿り着いた応えは、介護の世界を“ありのままに”に観て撮ろう。噂は無視。偏見なし。私の感性のみで!

数年前になりますが、私が親しくさせてもらっている介護施設にウメさんという101歳のおばあちゃんがいました。頭はクリアだったのでいろんなことを話し、教えてもらったのですが、老衰で亡くなられました。

(ウメさん)

その後、写真展を催したとき、ウメさんの写真も展示しました。開催中、ウメさんのご家族も来訪されていたのですが、お孫さんから「相談があるのですが?」と。
「お祖母ちゃんの遺影を替えたいんです。今、仏壇にある遺影はお祖母ちゃんじゃないんです。今日、ここに来て分かりました。野田さんが撮ってくれているウメちゃんこそがお祖母ちゃんです」

嬉しかったです。もちろん、写真は差し上げました。

一例をあげましたが、こういう事は度々あります。そして、私のモチベーションはアップし、改めての原動力となります。
少し長くなりました。なぜ写真集を出すのか?

介護に携わる、関係する世界のありのままを知って欲しい。

もっとも、写真の数に制限があります。120枚ほどを載せようと予定しています。ページ数は100ページ。大きさは、一般的書物ほどと想像していただけたらと思います。

それは、突然やってきた

さて、例外の方もいらっしゃるはずですが、ほとんどの方々は、ある年齢に達するまでは介護とは無縁なはず。

私自身にしても、介護は突然やってきた。というのが正直なところです。なので、ここからは少し自己紹介を兼ねて私が介護と向き合うことになった顛末を記させていただきます。

元甲子園球児。大学では押忍の世界に被れまくっておりました。どこでどう間違ったのか? 新卒で風俗の世界へ。生きていくということは甘くないですが、風俗の世界も縦序列が厳しく鉄拳が飛んでくることもありました。
甘かったです。下心があって踏み込んだ風俗の世界でしたが、下心の核にある女性軍からも叱咤々々。泣きの日々が続きました。

数年後、周囲を見渡せば同期の連中は確実に一歩いっぽ足場を固めており、私は焦りはじめていました。

(バックパッカー時代 メキシコ チアパス州で)

とはいえ、特別な資格は持っていません。ただし、少々の小銭は貯まっていました。

旅に出よう。世界へ。あっさりと決断し、バッグパッカーとして60ヶ国ほどを放浪しました。2年も放浪していると、やはり“これで良いのだろうか?”と自問自答しながらの旅になります。

放浪の終わりは中央アメリカでした。当時、グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア。この3国は内戦最中。一端、日本に撤収して再度、中央アメリカに渡りました。

戦場カメラマンで一発当てよう! 

政府軍のパトロールなどにも同行しました。が、恐怖には勝てず沈没。ヘタレの王道まっしぐらでありました。

帰国。全くのオケラなので実家に戻ると、父が入院中とのこと。病院を訪ねると、母の疲労困憊している姿が目の前にありました。あまりの窶れ方に私が一晩、父の傍に付くことに。その夜、想定外の出来事が。父の下痢便の処理を。徒手空拳。詳細は省きますが、父は私に罵声を浴びさせられて泣き、私は父の泣いている弱い姿を見て泣き。介護地獄は、アッケラカンとやって来たのでした。

母と1日交代で病院泊まりの介護生活がはじまり、二年後、自宅で父を看取りました。血液の病が根幹にあり66歳の若さで他界したのですが、若い故に認知症の症状はありませんでした。

それから十数年を経て、母が認知症であるアルツハイマーに罹患していることが分かりました。病院の医師から問われた二桁の足し算に、母はお手上げでした。この日が、母を介護する、というより、アルツハイマーという認知症と戦う10年戦争開戦の日となったのです。

実は、この10年間の戦は“アルツハイマーの母をよろしく”“アルツハイマー在宅介護最前線”(共にミネルヴァ書房)“アルツハイマーのお袋との800日”(時事通信社)等に記しているので詳細はここでも省きますが、改めて、介護地獄を彷徨った10年間でした。

もう一つ付け加えれば、テレビ東京から映画にもなりました。
「和ちゃんとオレ」
海外の賞もいただき、今、「Prime Video」「ひかりTV」でもご覧になれます。

“和ちゃん”とは、私が母を呼んでいた愛称ですが、映画化に至った経緯というのは当時、まだまだ男性在宅介護者という存在が極めて少数であったということだと思います。そこにスポットを当てる。

もっとも、表面化している以上に潜在在宅男性介護者の存在は多かったのですが、介護していることを知られたくない男性故の葛藤。そういう方々が多いのも事実で、この作品を創った監督も私に辿り着くまでに何人も断られたそうです。

母亡きあと、虚無感にポッカリ被われて過ごしていました。認知症在宅介護というのは恐いです。介護を終えても、その介護のツケは廻ってきます。というのも、介護を終えた年齢が56歳だったはず。手に職のないオトコが、新たに職探しとなると大変です。

在宅介護中は、HPを起ち上げブログを書いていました。タイトルは、

 「新. 和ちゃんと一緒に!」

で、なぜブログを書いていたかのか? といえば、そうですねえ! とにかく“自己存在証明がしたかった”。この一語につきます。

在宅介護というのは閉塞感極まりない世界です。昼間は母がデイサービスーに出ますが、その間、私は寝ます。夜は母に付き添ってるわけですから、世間との交流は自然と無くなります。

盆や正月には同窓会・同期会などが開かれますが、参加したことはほとんどありません。この盆・正月というのは、当時、デイサービスはどこもクローズでしたから24時間、私が母を介護しなければなりませんでした。

このブログには、私の感情そのままを記していました。というか? ぶつけていました。そうこうしているうちに、このブログを読んでくれていた広島の中国新聞さんからコラムを書いて欲しいという依頼があり1年ほど書きました。毎週。この連載が終了して直ぐ、次は、地元である岡山の山陽新聞さんから依頼があり、もちろん書かせてもらいました。200回続きました。ほぼ毎週一回、4年間継続したことになります。反響が大きかったのです。

こんな流れの中にあると、講演依頼も入ってきます。アチコチから取材も来ました。男性在宅介護者というのは、珍しい生きものだったのです。
こうなると、社会との交流も芽生えます。我が家から近隣にある介護施設へ写真を撮りに出掛けるようになりました。
月刊ケアマネジメントには、写真と文字で、野田明宏の“僕らはみんな生きている”のグラビアページを担当することになり5年ほど続けました。
中央法規出版 けあサポでは 俺流オトコの介護を連載。

全てが、自己存在証明への道でした。

そんなこともあり、この世界で食っていこうと決断しましたが、結局、食えず。そして、介護を職業とする介護職に辿り着いたわけです。
4年半。夜勤も含め、ひととおりの事はやってきました。書く 撮る も継続しながら。しかし、腰が爆発。介護の現場から離れざる得なくなりました。

私が介護現場で撮影するとき。基本は“撮影させていただいている”という気持ちを忘れないということです。
介護の写真を雑誌などで使用・発表したいとします。すると、まずは当然ご本人の許可が必要となります。ご本人が認知症を患っていればご家族に確認が必要となります。これらの諸々は、施設関係者方々にお願いするしかありませんから。
介護職の写真となれば、先に触れた互いの信頼関係。一朝一夕に、介護現場の写真は撮れません。スナップではなく、作品にする。という前提ですが!
で、この写真集で何を伝えたいのか? という質問を度々受けます。しかし、その応えになる格好いいキャッチコピーが浮かんでこないのです。
ただ、強いて言えば、在宅・施設介護の喜怒哀楽でしょうか?

私は先に、介護地獄という言葉を使用しています。確かに、介護地獄は存在します。とはいえ、捉えようにも寄りますが“地獄”というのは日常世界でもあるじゃないですか! 子供は子供なりに悩み苦しみ、エリート官僚さえも自殺を考えたりする。これは伝聞でしか知り得ませんがね。
つまり、介護そのものを特別視したくない私自身がいるのだと思います。

もっとも、撮影するとき遠慮はしません。寄ります。被写体に! 吐く息が感じられるほどにも。
更に付け加えると、施設介護の現場に出向いたとき。私は、母がここに居て、居心地が良いかな? と考え想像しながら撮ります。今も、母をイメージしながら撮り続けているわけですが、結局、10年間を文字どおりに一緒に過ごしてきた母が私を動かしているような気がしてなりません

今、ケアワークフォトライターとして稼働しておりますが、今までの集大成として写真集を出し、介護のプロ、そしてこれから立ち向かおうという方々にご披露できたらと思い、このプロジェクトを起ち上げた次第です。

「生き活き家」金岡重則

少しだけ、写真集の中身に触れたいと思います。在宅や施設介護の写真をまとめているわけですが、徳島県吉野川市にある宅老所・生き活き家もその一つです。

ここは、金岡重則という青年?社長が現場陣頭指揮を執っているのですが、常日頃、口癖のように語っているのが、
「家族優先。とにかく、仕事より家族を優先させなさい。家族を大事に出来ない人は、爺ちゃん婆ちゃんに優しくできない」
男気の塊のような社長で、私は何度も泊まり込んで撮らせてもらい、その度に支払いは彼持ちの酒席を楽しんでまいりました。
正直、そうこうしていればご家族とも親しくなり、そんな家族光景も取り入れています。

もっとも、介護の現場を撮るということは、お互いの信頼感無くしては撮れませんから
優しい写真を詰め込んだようにも思いますが、在宅介護、施設介護の色々を、皆さんの目で感じとって(撮って)いただければ幸いです。

ご支援 応援 何卒よろしくお願いいたします。


プロジェクト実行委員長デイブ河田・(河田健一)から一言

(グループホーム・オリーブハウス因島 施設長)


初めまして!
実行委員長の河田と申します。
お仕事として介護をされている方、また在宅で介護をされている方、本当にお疲れ様です。
人手不足の折り、毎日大変ですよね。
分かります!
私もそんな中、野田さんと出逢いました。
そして、野田さんの写真に触れました。
驚きました!!
毎日触れあっている私達が気付かなかったお爺ちゃん、お婆ちゃんの「自然な」表情。
この写真に、私はふと我に帰りました。「介護」とは何かを、この写真は教えてくれたのです。
この写真は、ご自分も在宅介護をし、克つ自分をさらけ出して表現する「野田明宏」さんにしか撮影出来ないと確信しています。
そして、私はこの写真集は介護の見方を大きく変えると確信しています。
「いや、何を大袈裟な」と思われると思います。
そんな方にこそ、是非見て頂きたいのです。
この写真の深みに驚かれますよ。
たくさんの有名な介護施設の方々の心が動いたこれらの写真を是非!!

資金の使い道

写真集製作費  80万円
その他経費等  24万円
CF手数料   26万円

お問い合わせ先

野田明宏
電話 090-8062-8335
メール rohikiadano@icloud.com



  • 2020/01/19 14:57

    お世話になっております。昨夕 暗い海を暗く撮ろうと、黙考しながら待機しておったのですが、あっという間に闇に包まれておりました。島の闇は、ヤバイです。危うく海に沈するところでした。皆さまも、この寒中、お気をつけください。

  • 2020/01/18 09:43

    おはようございます。フライングスタートして三日。50万円に達しました。本当にありがとうございます。今のイメージは写真のような塩梅です。

  • 2020/01/17 11:06

    昨日、久々に岡山へ出向いて来た。写真集の構成などの基本を相談するために。その後、山陽新聞社に寄りプレスリリースの相談。プロジェクトのポチっとフライングスタートから相談事ばかりで、脳味噌に赤色灯しかし ママチャリ フェリー バス 山陽本線を乗り継いで帰宅したらヤレヤレだった。呑みたいを我慢と忍耐...

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