➖はじめに➖

 はじめまして、永田翔也ながたしょうや)です。現在は、HBO東京という東京都社会人2部所属のチームにて日々の活動・トレーニングを行っています。


※簡単な自己紹介として、約1分のプレー動画も載せているので、もしよろしければご覧下さい!


➖経歴➖

・大山田スポーツ少年団

・名古屋グランパス名古屋

・愛知FC

・愛知FC Jrユース

・OWLET FC

・藤枝明誠高校サッカー部

・明治学院大学体育会サッカー部

・HBO東京


➖歩み➖


小2で始めたサッカー。

きっかけは友人の誘いだった。

練習すればするほど、出来ないことが出来る感覚はサッカーが好きになる要因の1つだった。

サッカーにのめり込んでいた。

家では、デルピエロやロナウジーニョ、アンリ、バラック、ジョビンコ、メッシなどの選手が好きで、その好きな選手のスーパープレー集や試合のハイライトを沢山観た。

その影響は強く、プロサッカー選手に憧れを持った。

当時は、「プロサッカー選手になる。」これが口癖で、毎日ボールに触った。

もっと上手くなりたかった。

[大山田スポーツ少年団、左から2番目]


チームを変え、三重から車で1時間半をかけて母親に送り迎えをしてもらい練習に参加した。

それでも、もっと強いチームに行きたかった。もっと上手くなりたかった。

1度対戦して大敗したチームに行った。それが愛知FCだった。

そこで試合にスタメンとして出れるようになったのは小6の時。

何人かの選手がJクラブの下部組織に引き抜かれたことで、ポジションが空いたからだった。


そのまま、中学はそのジュニアユースに進んだ。

そして試合に出続けた。

少し経って、監督に言われた。

最初使ったのは既存のチームにいたから、身体が華奢な選手は要らない」と。

それ迄も言われてきたことはあったけど、本当に悔しかったことを覚えている。

見返してやりたい気持ちが強かった。

身体が華奢なことは、武器に出来ると教えてくれたコーチや応援してくれる両親の為にもとにかく見返してやりたかった。

[愛知FC、前列左から2番目]


だからチームを変えた。

全てを話し、名古屋市トレセンの時にお世話になったコーチが、代表を務めるチームに入れてもらった。

サッカーをする前に、1人の人間としての在り方を教えて頂いた。


チームはそこまで強くなかったが、キャプテンとして最後の大会は県ベスト16。チーム史上最高順位だと聞いた。

でも、

前に所属したチームは、はるか上にいるのが現状だった。

同い年でも、差がある事は歴然だった。


高校進学において、運良く6つの県内・2つの県外高校からお話しを頂いたが、静岡県にある藤枝明誠高校を選んだ。 


高校サッカーには強い想いがあった。

第88回大会に準優勝した、青森山田の柴崎岳選手とボランチを組んでいた椎名伸志選手のプレーを観て、選手権に出たい、そこからプロサッカー選手の道を拓きたいと思った。


高校がある静岡県藤枝市は、サッカーをするのにはもってこいの環境だった。

サッカーの街・藤枝では、隣に藤枝東高があり、サッカーに対する熱が凄かった。

その環境に身を置き、寮生活を行う為に親元を離れた。


入学後、周りのレベルは高かった。

だから練習した。

それでも1年時は、同い年で試合に出てる仲間やメンバーに入る仲間を見て、応援していた。

でも後2年ある、2年あれば…と思っていた。


この時期くらいだった、

海外サッカーはよく観ていたけど、海外サッカーについてちゃんと考えるようになったのは。

理由は、幼馴染みが同じ静岡県内の高校に行ったが、色んな事情で学校を辞めて、海外を目指すと聞いたから。

単純に格好良いと思った。



2年時の9月頃、やっとトップチームに入れた。

でもそこで露呈したのはメンタルの弱さだった。

先輩や同い年の仲間が、大きく見えた。こんなに差があるのかと思った。

約1ヶ月でカテゴリーは落ちた。

その悔しさは、原動力となってひたすらに練習した。何が自分に足りてないのか、そんなことを毎日のようにサッカーノートに綴った。


そして、年は明けた。

3年になり、新人戦が来た。

メンバーに入る事が出来、スタメンとして初戦を戦った。

2回戦も出たが、パッとしなかった。目に見える結果を残せなかった。

3回戦はベンチ。次はバー外だった。

その後はトップとサブ、3年生主体のチームを行ったり来たりした。

インターハイ(県ベスト4)や選手権(県ベスト16)はメンバーに入った。


でも出る事は僅か、両親や応援してくれるコーチや友人に申し訳ない気持ちで一杯だった。

[インターハイ予選準決勝vs清水桜ヶ丘戦後]


いつしか、「プロサッカー選手になる」という言葉を口に出す事はなく、心にグッと閉じ込めていた。


大学はサッカー出来て、少し賢ければ、4年後どうにかなると思って今の大学を選んだ。

この時は、4年後のサッカーを続ける自分の理想像や教員免許取得のことを考えていた。

有難いことに推薦の枠があったから利用した。

大学入学後、気持ちを入れ替えて頑張ろうと思った。高校の時みたいな悔しい想いをしたくなかった。


だけど現実は違った。自分は、烏合の衆の1匹であって意思の強さがなく、あったのは緩い気持ちだけだった。


寝坊して練習を遅刻し、坊主にする事もあった。

それでも応援してくれてる両親や友人、大学サッカー部のコーチなどの為にも、本当に変わらないといけなかった。

カテゴリーが1番下になり、再スタートをした。

そして、

2年生の3月頃にトップチームに上がることが出来た。

これからの新チームが始まる時期だったことから、関西遠征やJクラブとの練習試合を経験した。


関西遠征では、関西大学などと練習試合を行い結果も出せた。

[関西遠征トレーニングマッチvs京都サンガ]


でも、Jクラブ(京都サンガや湘南ベルマーレ)との練習試合で痛感した。


体格やスピード感、技術レベルの高さ。サッカーを職にして、サッカーで生活をするとはこうなんだと。


痛いくらい肌身に痛感したこの感覚は、自分のプロサッカー選手の夢を削ぎ落とそうとしたが、逆に刺激になった


プロサッカー選手になる、そしてサッカーでお金を貰って生活したい。」と強く思った。


そこからだった。思考を変え、海外サッカーについて本格的に調べたのは。特に欧州についてを。


最初は、日本でプロサッカー選手になれないなら、海外に渡ればチャンスが広がるんじゃないかという安易な気持ちだった。

しかし、調べることで各国のチーム数やリーグの数、外国人枠、給料が出るリーグの幅、代理人の仕組み、各国における日本人選手の数、などを自分なりに理解出来て、書いてたサッカーノートにとりあえず書き加えた。

そしてTwitterやInstagramで海外でプレーしている選手を見つけてはDMをして沢山の情報を集めた。加えて、幼馴染みとも連絡を取り合った。


そして海外、特に欧州でプロサッカー選手を目指す最大の要因になったのは、『下から這い上がるチャンスが転がっていること』が分かったからだった。

輝かしい経歴などが関係ない世界が目の前に広がっているように感じた。だから挑戦したい、挑戦してみたいと思えた。今まで自分が経験した過去からの脱却や未来への不安を消し去ってでも挑戦したいと強く思えた。


そして、大学卒業後に、就職して安定を取るか、就職をせずにプロサッカー選手になる挑戦をするのかという自分の問いに対して、答えは後者だった。


だからだった。

3年終了時に体育会サッカー部を退部したのは。

自分の現状を変える為、環境を変える為に両親や色んな方に話した。


両親には驚かれたが、「応援するから頑張りなさい」と言われた。この言葉に1番救われ、即決出来たのを覚えている。

そして、現状所属しているチームには大学時の先輩に紹介をしてもらい、連絡を取った。

チームとして、海外サッカーに挑戦する選手や一時帰国している選手へのトレーニングや試合の環境を作っていて、自分自身もサポートをして頂いている。

[HBO東京、前列左から2番目]


➖プロジェクトのビジョン➖

先に少しだけお話しをさせて下さい。

-歩み-にて経歴に沿って多くの事を書かせて頂きましたが、

私は、

プロサッカー選手になる夢を諦めようと思えば、諦めることも出来ました。

安定した就職先を選ぶことだって出来ました。

そして、サッカーを辞めることさえも出来ました。

しかし、絶対に諦めたくなかった。辞めたくなかった。海外への挑戦をしたかった。

それは、今までの人生経験において瞬間瞬間に多くの支えを実感することが出来たからです。

友達の誘いが無ければ、両親の支えが無ければ、監督のあの一言が無ければ、海外に挑戦する幼馴染みがいなければ、Jクラブと試合をする事が無ければ、様々な悔しい経験をする事が無ければ、多くの葛藤や挫折をする事が無ければ、といったように、様々な支えのおかげで、または経験のおかげで成り立っているのが今の自分です。

そして、自分はサッカーが好きです。


だからこそ、

その好きなサッカーでプロサッカー選手になり、生活をして、関わってくれた方々に恩返しをしたい。


必ず達成させます。



また加えて、サッカーでの海外挑戦には多くの弊害があることも事実です。


実際のところ、海外に行くことは容易になっていますが、海外生活の不安や言語の問題、日本の風潮、固定概念、資金不足などを理由に挑戦を諦めてしまった仲間も私は知っています。

今回の挑戦でも、新型コロナウイルスにより各国のリーグが延期になり、渡航日が定まらなかったりなどを挙げることが出来ます。


私は、契約を勝ち取る為には実力、そして運も必要だと考えています。実力は勿論のことですが、その時のタイミングを逃すことで契約が出来ない。

特に資金不足によって、帰国しなければならなくなったりや現地での生活費が足りなくなるなどの資金における弊害でのタイミングを逃したくありません。

私自身も、今回の挑戦に向けてバイトをしてお金を貯めているのが現状です。別に裕福な家庭で生まれた訳でもありません。


だからこそ、私自身が体現出来ることとして、

今回のプロジェクトを通して、資金不足による弊害を和らげたいと考えています。資金不足だから挑戦を諦める、タイミングを逃す。それを仕方ないで終わらせたくない。1つの資金を集める手段として、より良いものにしたいと考えています。



-以下、プロジェクトのビジョンです。


目標:

①欧州の地でプロサッカー選手としての契約を目指す。

②5年以内に、欧州1部リーグでプレーをする。

目的:

⑴好きなサッカーを職に、生活をする。サッカーで恩返しをすることの実現。

⑵資金不足による弊害を和らげることの体現。



➖資金の使い道➖

御支援して頂いた資金は、契約までの期間における渡航費と生活費、代理人サポート費の一部に使用させて頂きます。

●渡航費(往復) 150,000円

●活動費 100,000円

●代理人サポート費 50,000円

● 手数料(CAMPFIRE掲載手数料12%、決済手数料5%)51,000円

計 351,000円

※①契約可能と判断された後、契約に必要な手続きを行う為に一時帰国します。その為の往復になります。

※②活動費の詳しい内容は、トライアウト参加における移動費・契約までのホテル宿泊費を考えています。

※③代理人サポート費とは、今回の挑戦において、海外チームとの連絡を取り合いトライアウトの日程を決定する為に代理人の方に仲介を依頼します。その方に支払う費用の一部をご支援して頂きたいと考えています。


➖スケジュール➖

2020年4月末日 クラウドファンディング終了

2020年7月中旬〜8月 渡航

2020年8月〜 トライアウト参加

2020年9月〜 契約・リターン発送開始

※トライアウト参加国は決まり次第、報告致します!!


➖最後に➖


最後まで、読んで頂き、

本当にありがとうございます。

ッカー小僧。永田翔也は必ず這い上がります。這い上がってみせます。

その為の準備は万全にします。

渡航迄に、もっとサッカーを知り、上手くなります。そして強くなります。自分が出来る準備は、欠かさずやります。

そして、必ず欧州の地でプロサッカー選手としての契約を勝ち取り、5年以内に欧州の1部リーグでプレーをします。


少しだけ、気にかけてみよう、そう思って頂けるだけで幸いです。

是非、応援や御支援の程、よろしくお願いします。

[明治学院大学体育会サッカー部、右黄色ユニ]


<All-in方式の場合>

本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。


このプロジェクトの問題報告はこちらよりお問い合わせください