はじめに
こんにちは。はじめまして。宮崎大学工学部4年の木下大輔です。
生まれも育ちも宮崎の根っからの宮崎人です。
私は、宮崎牛や地鶏、宮崎ポークといったような食べ物が大好きです。
しかしそれ以上に、なんといっても”お米”が大好きです!!
実家がお米農家ということもあり、小さい頃から3時のおやつの代わりに、”おにぎり”を食べて育ちました。
また、小さい頃から身体を動かすことが大好きです。スポーツでは、特に野球が好きです。私は一巨人ファンで、将来はプロ野球選手になろうと思ったぐらい野球が好きです。
私には、脳性麻痺という先天性の障がいがあります。さらに、ヒルシュスプリング病という内部障害を伴っており、生まれてすぐに大腸を全摘出し、小腸も半分しかありません。
そんな私ですが、現在車椅子で陸上競技をしています。
「車椅子で陸上??何それ??」と、思われる方も多いのではないかと思います。
車椅子陸上では、特注のマシン(レーサーと言われるもの)に乗り、100m~フルマラソンまでの距離を腕や上半身だけの力を使って、原付ぐらいのスピードを出して走り抜けます。
私の目標は、車椅子陸上100mで「てっぺん」を取ることです。どうぞ、よろしくお願いします。
車椅子陸上を始めたきっかけ
①何でもがむしゃらに取り組み始めた小学生期
私は、小学3年生の半ばから地元都城の小学校に通い始めました。
小学生期は、それまで通っていた特別支援学校(当時、養護学校)では経験することのできなかった多くのことに挑戦でき、生活の幅が広がる時期でした。
そして、私が学校行事の中でも特に好きだった運動会では、みんなに交じって生活用車椅子で走ったり、応援団をやったりもしました。
②大好きな野球の少年団に所属
このように、身体を動かすことが大好きな私は、小学生のころ野球をやっていました。
小学6年生になった私は、地元の野球少年団に所属し、健常の同級生と一緒に練習に励みました。
その当時の夢は、「メジャーリーガー(ピッチャー)になる!!」でした。
しかし、よく考えてみるとバントの処理が難しい…盗累時のボールさばきは難しい…
プレーに限界があるということを、両親に気付かされました。
同時に、私の最初の夢は障がいがあるということで諦めることになりました。
③中学時代の車椅子陸上との出会い
時は過ぎ、私は「車椅子でも何かしらのスポーツができないのか?」という思いを持って中学校に入学しました。
そんなある日、私は一冊のパラリンピアンが書いた本と出会いました。
≪障害があってもスポーツはできる!!≫と、私は改めて思うことができました。
その本と出会ってから私は、『パラリンピックに出場し、金メダルを取る!!』という夢を持ちました。
その夢を持ちながら過ごしていた中学2年生の時、「いい加減、何かスポーツを始めないとパラリンピックに出られない…」と思い、介助についてくださっていた学校の先生に、パラリンピックに出場したいという自分の夢について相談しました。
すると早速、先生が宮崎でもできる車椅子スポーツを調べてきてくださいました。
私は、何かに吸い込まれるかのように、いくつかの選択肢の中にあった車椅子陸上に惹かれました。
また、そこでは今までの野球の経験も十分に活かすことができると考え、宮崎県の車椅子陸上チーム(フェニックスクラブ)の練習に参加し始めました。
高校時代の部活動から
日本トップレベルでチャンスを掴むまで
①真剣に車椅子陸上に向き合い始めた高校時代
高校に進学した私は、フェニックスクラブの定期練習会に積極的に参加し、ベテランランナーに囲まれながら、レーサーの操作技術等を盗む努力をしました。
また、学校の陸上部に所属し、健常の部員と一緒に切磋琢磨しました。
この時期から私は、本格的に色々なトレーニング(筋力トレーニングや走行トレーニング、フォーム練習等)に取り組んでいます。
「どうしたら速くなれるのか」を真剣に考え、毎日の練習に打ち込みました。
内部障害のため、栄養の吸収が難しく、周りの同級生と比べても一回りも二回りも小さい身体だった私ですが、持ち前の負けん気で前を走る部員を毎日がむしゃらに追い続けました。
時には体調を崩すこともありますが、自分の身体の可能性を信じ、調整をしながら様々な場所や状況に合わせたトレーニングに励み始めました。
②世界を肌で感じた初の国際大会出場
大学3年生の春、中国で行われた私にとって初となる国際大会に出場しました。
結果は、100mと200mに出場し、どちらも2位でした。
表彰式でメダルをかけていただいた時、『また国際大会で表彰台に上がりたい‼』と心から思いました。
≪世界で勝負すること≫を心に決めた大会となりました。
プロジェクトをなぜはじめたか
まず、競技で使用する競技用車椅子(レーサー)の値段が、一台当たり80~100万円程かかります。
また、練習機材やレーサーのメンテナンス、身体のケアなどで年間20万円程かかっています。
さらに、国内の試合に出場する場合は、関西や関東といったような所に行かなければなりません。
そして、試合にベストコンディションで臨むためには、サポート役の方を最低二人は連れて行かなければなりません。
そのため、1回の遠征で一人当たり約5万円程掛かっており、サポーターの方々にも、費用は全て個人負担をしてもらっている現状です。
私は、今年度4月に大分県で行われた大会で、強化育成選手に指定されたのですが、助成金や寄付なども全くありません。
全て自己負担です。
パラリンピック代表の条件と木下大輔の可能性
リオの代表になるためには、
(1)指定された大会でA標準という基準をクリアした上で、国内1位となる。
または
(2)指定された大会でA標準をクリアしなかったとしなくても、国内1位を取れた場合
に選ばれる可能性があります。
私の現時点での実力は、日本で2〜3位というポジションです。
<競技成績>
●2015年 4/18・19 china open Athleteic Championship(北京)
100m 19”39(2/3位)
200m 36”77(2/3位・自己ベスト)
●2015年 7/19 日本選手権大会(大阪・長居陸上競技場)
100m 18”98(3/5位)
●2015年 9/19・20 ジャパンパラリンピック(大阪・長居陸上競技場)
100m 20”05(3/3位)
200m 37”85(3/3位)
●2016年 4/9・10 大分パラ陸上大会(大分・大銀ドーム)
100m 18”52(自己ベスト・強化育成枠獲得 2/2)
●2016年 4/30・5/1 日本パラ陸上選手権大会(鳥取・コカコーラウエストスポーツパーク)
100m 19‘57(2/5位)
パラリンピック代表になるため条件と課題
来月7/2・3に東京町田で開催されます、関東選手権に出場し、A標準記録の16”70を突破し、尚且つ日本1位をマークすること。
もしくは、日本で誰もA標準を切れなかった場合は、日本1位であることです。
今の自分の課題は、ウェイトとレースの流れをしっかり作ることです。
パラリンピック日本代表の
その先に見ている世界
現在、宮崎市内にいても町中で遊んでいる障がい児をみることがありません。
また、車椅子生活者であっても、車の運転ができるということを、障がい児の保護者や当の本人も知らないというのが現状です。
このような理由として私は、障がい児や保護者の世界が、ある一定の場所で止まってしまっている可能性があるからではないかと感じています。
私は、そんな障がい児や保護者の世界を広げていける活動や、私自身の実体験を活かし、将来の選択肢を増やしていけるような存在になりたいと考えています。
また、障がい者スポーツや、障害とは何かについて色々な方に発信し、知っていただくきっかけづくりをしていきたいです。
今後のスケジュール
2016年
5月17~22日 合宿(宮崎)
7月2・3日 関東選手権大会(東京 町田/選考レース)…★
31日 めざせパラリンピック(宮崎 県民総合運動公園)
8月 合宿(東京)
11月 日南つわぶきハーフマラソン(宮崎 日南)
資金の使用内訳
★関東選手権大会費用
・飛行機代・・・・・3人分 12万円
・宿泊費用・・・・・3人分 6万円
・レンタカー費用・・3日分 3万円
・ガソリン費用・・・3日分 1万円
・食費・・・・・・・3人分 2万円
・レーサーメンテ代・・・・ 7万円
・チューブ代・・・・・・・ 5万円
・お礼・企画運営・・・・・ 20万円
★手数料(20%)・・・・・ 14万円
合計・・・・・・・ 70万円