(7/31追記)ストレッチゴールを設定しました!
すでに最初の目標金額は超えておりますが、より記念館のグレードアップを図るために次なる目標を設定しました!
ストレッチゴール設定に合わせて新たなリターン品を追加しました。
「どれだけ望まれて誕生したのか」ということにこだわるために、支援者数を重視しております。
皆様のご支援・ご声援をお願いいたします!
※ストレッチゴールに届かなくともプロジェクトは成立しておりますのでリターン品はお手元に届きます。
====(6/21追記)====
■現在、ユニフォームの仕様に関するご連絡を多くいただいております。
お問い合わせいただいても起案者にて漏れが発生する可能性がありますので、
以下のとおりプロジェクト終了前に「必ず」編集をお願いします。
※終了後に編集は不可となります。
[ 手順 ]
①FAAVOにログイン
②右上のプロフィールアイコンをクリック
②メニューから「支援情報の確認・変更」をクリック
③「支援履歴」より該当するプロジェクトを選択し、
備考欄にて編集をお願いします。(※住所も変更可能です)
■その他起案者へのご質問はメッセージ機能をご利用ください。
■リターン品につきましては、支援状況によって先に支援した人に配慮し追加することを検討しております。
引き続きご支援お願いいたします。
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「もう一度、投げたかった」。志半ばで早すぎる死を遂げた父の野球人生を残したい
広島東洋カープ、津田恒美。背番号14。気迫のこもったストレートと、ピンチになればなるほど球速が上がっていく男気で、「炎のストッパー」として多くの選手やファンに愛された伝説の投手です。
プロ10年目の1991年、体調不良の無理を押してリリーフ登板し、一死もとれないまま無念の降板。これが生涯最後のマウンドとなりました。
翌日、脳腫瘍のため入院。病名を隠したまま現役復帰へ向けてトレーニングをするなど、不屈の精神で病と闘ったものの願いはとどかず、1993年7月20日32歳の若さで永眠しました。奇しくもこの日は、自身が5回出場したプロ野球オールスターゲームの開宴の日でした。
「もう一度、投げたかった」。病室で悔し泣きをしていた津田恒美。志半ばで野球人生を終えねばならなかった彼の無念はいかほどだったでしょう。入院した年に優勝した広島カープの勝利の瞬間にどれほど立ち会いたかったでしょう。
私、津田大毅は、「津田恒美記念館プロジェクト推進部」代表として、そして彼の息子として、偉大な父の功績と想いを世に残すことを決意しました。息子の僕だからできること。父が活躍した広島県に、「津田恒美記念館」を創立したいと考えています。
津田恒美が亡くなりもうすぐ24年。父のことを忘れないで欲しい。父のことをより多くの方に知ってもらいたい。皆様のご支援のほど、よろしくお願いいたします。
父を生かし続けてくれた人たちに恩返しをしたい
父の死後、父の野球人生がドラマや書籍となり、2012年には野球殿堂入りを果たすなど、多くの方々がプロ野球選手としての父の功績や人柄を語り継いでくれました。たくさんの愛情と優しさに包まれ、父は今もずっと生かされています。
「父のファンの方々にどんな恩返しができるのか」。日々考え抜き、「津田恒美記念館」を設立することで、今まで支えてくださった方々の想いに応えたいと考えるようになりました。
設立場所は、広島駅やマツダzoom-zoomスタジアム周辺、中央商店街、旧市民球場跡地の近くに予定しています。多くの皆様に愛してもらえるよう、市電のカープファンの集う沿線上に設置したいと考えています。
はじめは、息子の僕にしかできないこととして、山口県周南市の父の実家を記念館にすることを計画していました。しかし、球団関係者やファンの方から、広島にも津田恒美投手の活躍を伝えるものが欲しいという多くの要望を受け、広島市内に設置することになりました。
記念館は、ファンの方々が持っている写真やサイン、父に貰ったものなどを譲り受け、皆様に参加していただく形を予定しています。
現在自宅や母の家に置いてあるトロフィーやグローブ、試合前に気合を入れていたボールなども全て集めます。
カープファンの漫画家とのコラボが実現
以前、広島東洋カープと漫画家のコラボレーションが行われておりましたが、今回の「津田恒美記念館」設立の想いに共感いただき、漫画家さんだけではなく、球団を、そして津田恒美投手を愛する方々にプロジェクトのご協力をいただくことができました!
現時点で参加表明をいただいている先生方は以下のとおりです。(※順不同)
・石田 敦子 先生
・杉作 J太郎 先生
・赤井 孝美 先生
・野村 宗弘 先生
・大島 やすいち 先生
・五十嵐 幸吉 先生
・東風 孝弘 先生
・高田 靖彦 先生
・渡辺 歩 監督
・安彦 良和 氏
(その他決定し次第レポートで公表していきます!)
気になるコラボの内容はプロジェクト期間中に公表していきますので、ぜひご注目いただければ幸いです!
「弱気は最大の敵」、「一球入魂」。父を支えた2つの言葉
父は選手時代、座右の銘である『弱気は最大の敵』『一球入魂』の言葉をボールに書いて肌身離さず持ち歩いていました。登板前には必ずそのボールに向かって気合を入れていたそうです。
当時絶頂期だったランディ・バースに対して150キロのストレートで挑み、実況で「津田、スピード違反!」と言われたという逸話をもつほど、豪速球で打者に真っ向勝負を挑んでいた父ですが、実はプレッシャーに弱いところがあり、自分を鼓舞するために行っていたのでしょう。
負け投手になった翌日は誰よりも早く球場入りして外野席の階段を黙々と走り込むなど、責任感も強い人でした。父の代名詞ともなっている「弱気は最大の敵」という言葉は、甲子園で直球勝負をしなかったことへの後悔と責任からきたものだったのです。
父の病気が分かったとき、カープの選手たちは涙ながらに「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と誓ってくれたそうです。そして本当に、逆転優勝を果たした。そういう父の野球人生に関わる人や想いの全てを、記念館に集約させたいと考えています。
父の大きな背中から逃げ続けた28年間
父が亡くなったとき、私は4歳でした。幼かったのでほとんど父の記憶はなく、母から見せられた試合のビデオが自分が初めて見た父の姿でした。
父の影響で野球をはじめたものの、「津田恒美の息子」という重圧に負けて自信をなくし、荒れた日々もありました。
そのような日々の中でも父のファンの方とお話しさせていただく機会に多く恵まれました。「お父さんのお墓参りに行ってきました」「実家のトロフィーを見せていただけませんか?」というようなお言葉をたくさんいただき、父の偉大さと、父が今もファンの心の中に生きていること、父のおかげで今の自分があることに気づきました。
「弱気は最大の敵」。生まれてから28年経ち、自分に一番近くにあった言葉にやっと気づくことができました。今回、このプロジェクトが実現したのは、津田恒美が亡くなり24年が経とうとしている今でも父の事を想っていただいているファンの方々の後押しがあったからこそ。皆様の想いを形にして、地域の野球少年たちにも影響を与えられるような場にしたいと思っています。
父のことを忘れないで欲しい。父のことをより多くの方に知ってもらいたい。父のスピリットが詰まった 「津田恒美記念館」の設立へのご支援ご協力、心よりよろしくお願いいたします。
津田恒美
1960年8月1日生まれ山口県出身。南陽工業高校で1年時からエース投手として活躍、第50回選抜高等学校野球大会、第60回全国高等学校野球選手権大会に出場。1981年ドラフト会議で広島東洋カープに1位で指名され入団。
1982年、先発投手として11勝6敗の成績を残し球団初の『新人王』に輝く。2年目は血行障害に悩まされ、世界初となる中指の靭帯を摘出する手術を受ける。
1986年抑え投手として復活し、5度目のリーグ制覇に大きく貢献、シーズン終了後に『カムバック賞』を受賞。その後怪我に苦しむものの、1989年『最優秀救援投手賞』『ファイアマン賞』に輝き、再び復活。闘志を剥き出しに剛速球のストレートを武器に立ち向かう姿から『炎のストッパー』と言われるようになる。
1991年、脳腫瘍のため入院。ファンには病名を伏せ現役を引退した。
一時的は奇跡的な回復を見せ、現役復帰の為にトレーニングも行っていたが、1993年7月20日息を引き取った。