皆様のご支援に感謝申し上げます。
目標達成に向け引き続きご支援よろしくお願い申し上げます。
みなさま、こんにちは!
私たちは日本有数の極寒・豪雪の地、北海道 幌加内町 朱鞠内(しゅまりない)にある「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の再生を目指す、NPO法人 東アジア市民ネットワークのメンバーです。
下記に詳述いたしますが、私たちは朝鮮人強制労働の歴史を伝える「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を拠点に、歴史の真実に学び、東アジア市民の交流を深めることによって、東アジアの和解と平和の実現に寄与することを目的に活動しています。
私たちは1997年から、夏には強制労働犠牲者の遺骨発掘ワークショップ、冬には積雪が2メートルを超える「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の雪下ろしワークショップを開催するなど、2000人以上の若者や市民による参加のもと活動を行なってきました。
私たちは永らく朱鞠内にある「旧光顕寺・笹の墓標展示館」 を拠点に、北海道の地に眠る強制労働犠牲者の遺骨を発掘し、遺族ならびに故郷の朝鮮半島に遺骨を届ける活動を行なっています。
「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は、戦時下における強制労働犠牲者を弔い、その歴史を伝えてきた強制労働資料館です。
それと共に、ここに集う日本・韓国・在日韓国/朝鮮人・アイヌ・台湾など、民族や世代、国境を越えた人々の学習・交流の場でもありました。
しかし2019年2月、展示館は2メートルを超える雪の重みにより傾き、2020年1月、完全に倒壊しました。
私たちは展示館が果たしてきた役割を継続し、東アジアの和解と平和を実現するために「笹の墓標展示館」の再生を決心しました。
私たちが「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を守りたいと思うのは、「戦後」76年が経つ現在においても今だに故郷に帰ることなく安置されているご遺骨が、この場所にあるからです。
笹やぶの下に長い間埋まっていたご遺骨を、はじめて発掘した1980年から、わたしたちは朱鞠内で強制連行で犠牲になった方々を弔い、ご遺族を探し、故郷へお返しする活動を続けてきました。
私たちの手で発掘したご遺骨が私たちのもとにある以上、活動を続けてゆく責務があると考えます。
そしてその史実を広く伝えていかなければなりません。
2015年には北海道各地で発掘された115体のご遺骨が韓国へ里帰りを果たしましたが、それは死者を弔うことで歴史認識を共有する、という和解への道のごく始まりにすぎず、植民地主義を経験した双方にとって、問題はまだ山積みなだけに、私たちが長年続けてきた活動を止めてはいけないと強く感じます。
だからこそ私たちは、東アジアの和解と平和の取組みが維持・継続されるようこの場所を再建したいのです。
私たちが「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を守りたいと思うのは、この展示館がご遺骨の安置や追悼、歴史の展示だけではなく、その過程に多くの東アジア市民の交流があったからです。
その中でもとくに若者たちの交流は非常に活発でした。
ワークショップが始まった1997年ごろの日本と韓国は、歴史認識が大きく異なり(現在も続いていますが)、また韓流ブームのような文化的交流もなく、ベールに包まれたものでした。
すでに24年が経ち、当時の若者も年を重ねましたが、あの時の日・韓・在日韓国/朝鮮人の若者たちにとって、お互いの出会いは非常に衝撃的でした。
はじめはたどたどしく始まった交流も、時間が経つにつれ深まっていきました。
歴史認識の違いから幾度となく衝突がありました。
言葉の壁もありました。
自らのアイデンティティーに悩む在日の葛藤もありました。
そんな中、若者たちは戦後半世紀以上、土の中に忘れさられていた遺骨を発掘し、その犠牲の痛みや悲しみを共に「体験」することで、歴史の真実を学びました。
次第に「日・韓・在日」というような自らが作っていた、国家や民族の視えない壁を、歴史と向き合う中で、「あなた」と「わたし」というように、個々の関係として築いていきました。
その想いは東アジアへと広がり、台湾の若者たちも参加するようになりました。
「また朱鞠内で会おう!」
そう約束し、今は各々が、あらゆる国や地域で、朱鞠内で体験した歴史の真実と向き合っています。
ワークショップで出会い結婚し、親子で参加するようになった若者もいます。
その全てのはじまりが「旧光顕寺・笹の墓標展示館」でした。
犠牲者のご遺骨が巡りあわせてくれたご縁です。
今はまだ、日韓や日朝、東アジアにおける過去の植民地問題は解決に至っていません。
むしろ解決があるものでもなく、歴史と向き合い、市民が交流を続けることで克服していかなければならない問題です。
だからこそ私たちは、東アジアの和解と平和の取組みが維持・継続されるよう、「旧光顕寺・笹の墓標展示館」 を再生し、市民たちによる交流を途切れることなく続けていきたいと思っています。
私たちは展示館の再生に向けて、2019年7月に「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る」実行委員会を発足しました。
名称の通り私たちは、展示館を再建築するとともに、展示館が所有する敷地内に和解と平和の森を創造しようとしています。
展示館の周辺には「記憶・継承の碑」、「平和の踏み石」、「願いの像」などの追悼碑が立ち並んでいます。
また、五右衛門風呂「シュマリの湯」や、ツリーハウス「くまげら荘」、カヌーなど、ワークショップの参加者たちが作った自然を満喫できるアイテムが揃っています。
私たちはこの場を、歴史と向き合う場でありながら、訪れる人々が雄大な自然に触れ心を休め、あらたな活力を得られるような場に創りたいと思っています。
おひとりでも、こどもと一緒でも、どなたでも訪れていただき、命の大切さ、自然の大切さを感じていただきたいです!
私たちが「笹の墓標展示館」の再生に向けて掲げた募金目標は3,000万円です。
2020年1月から宗教者・教員・芸術家・ジャーナリスト・平和活動家など250人を超える呼びかけ人(2021年5月現在) と共に、支援募金を開始しました。
2021年5月現在、よびかけ人をはじめ、多くの有志などから2,000万円を超える支援募金が寄せられています。
クラウドファンディングでは、手数料も考慮させていただき、1,200万円のゴールを目指しています。
また、今回みなさんに呼びかけることによって、目標を達成すると共に、多くの方々に私たちの活動を知っていただく機会にしたいと思っています。
下にさらに詳しく、私たちの活動とこの地域の歴史についてまとめています。
ぜひお読みください!
笹の墓標展示館として利用してきた旧光顕寺は、今から87年前の1934年に建立されました。
その翌年、1935年からは雨竜ダム建設の資材輸送のために、名寄⇔朱鞠内間を走る名雨線(旧深名線)の鉄道工事が始まりました。工事には多くの日本人タコ部屋労働者が従事させられました。
その後、1937年から始まった雨竜ダム工事には、朝鮮半島から強制連行された労働者が従事させられました。1942年の統計上の移入朝鮮人数は3000人にのぼるとされます。
鉄道工事・ダム工事は過酷をきわめ、犠牲になった労働者は工事現場に程近い光顕寺に運びこまれました。ご遺体は光顕寺で一夜を過ごし、朱鞠内共同墓地裏の笹薮の中に埋められました。
当時の檀家の証言では、濡れたままの遺体が次々と運び込まれ、畳が腐り、床が抜けたといいます。
1943年、「東洋一のダム」と称された雨竜ダムが完成しました。
犠牲者は日本人約200人、朝鮮人約50人にのぼるとされます。
朱鞠内の戸数はダム工事(1938年~1943年)の最盛期には400戸を越え、飲食店やカフェなどが軒をつらね、ダム工事関係者を含め数千人の人口を抱える街でしたが、ダム工事の終了とともに人口が減少しました。
光顕寺はわずかになった檀家の力で守られてきましたが、ついに廃寺となり、朱鞠内歴史保存委員会に管理が任され1995年9月に「旧光顕寺・笹の墓標展示館」として新しい歩みをはじめることになりました。
私たちが光顕寺と出会ったのは、今から45年前の1976年9月でした。
代表の殿平善彦(浄土真宗・一乗寺住職)など空知民衆史講座のメンバーが朱鞠内を訪れた際、地元の方に光顕寺へ案内され、そこでダム工事・鉄道工事犠牲者の位牌(いはい)80余りを発見しました。
なぜ朝鮮人の名前が記されたご位牌がこんなにも沢山あるのか。
その後、調査が開始され、残された位牌と幌加内町に保存されていた埋火葬認許証から犠牲者の名前と本籍地が判明し、ダム工事・鉄道工事の犠牲の実態が明らかになっていきました。
1977年以降、光顕寺の檀家の方々によって朱鞠内で亡くなった犠牲者の追悼法要が行なわれるようになりました。
次第に私たちは、朱鞠内共同墓地裏に埋葬されている工事の犠牲者の遺骨を掘り起こし、遺族に遺骨を返したいという願いを強くしました。
1980年5月、朱鞠内共同墓地裏で犠牲者の遺骨発掘がはじめて行なわれ、雪どけのあとの笹薮を刈り取った土の中から、6体の遺骨が掘りおこされました。
以後、1983年7月までに計4回の遺骨発掘が行なわれ、16体の遺骨が掘りおこされました。
1992年3月には「遺骨奉持団」が訪韓し、朱鞠内で犠牲になった2体の遺骨を故郷の韓国へとお返ししました。
発掘された遺骨は光顕寺で改葬され、位牌とともに光顕寺に安置されてきましたが、檀家の減少で光顕寺が廃寺となってしまったことにより、1995年に朱鞠内歴史保存委員会が旧光顕寺の管理を引き受け、遺骨の安置とともに、強制連行・強制労働の歴史を展示する「笹の墓標展示館」として新たなスタートを切ることになりました。
1997年から新たな局面を迎えることになります。
代表の殿平善彦と韓国の鄭炳浩(チョン・ビョンホ、韓国漢陽大学文化人類学科名誉教授)の偶然の出会いをきっかけに、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人の大学生などが合宿をしながら遺骨発掘をする「日韓共同ワークショップ」が始まりました。
はじめてのワークショップには若者を中心に約250名が参加しました。
10日間の日程で朱鞠内共同墓地裏での発掘が行なわれ、4体の遺骨を土の中から掘りおこしました。
昼間の発掘を終えると参加者たちは夜を徹して語り合い、学びあいました。
日本・韓国・在日韓国/朝鮮人の歴史における相互のへだたりは、ただちに超えられるものではありませんでした。
共に笑い、時にはぶつかりあいながら、参加者たちはこれまで出会ってこれなかった時間を埋めるかのように語り、友情を育みました。
その熱が冷めやまぬ若者たちは、翌年の冬に朱鞠内で再会することを約束し、1998年2月からは毎年、冬の雪下ろしワークショップが開催されるようになりました。
その後も夏はソウル(1998年)や大阪(1999年)、冬は朱鞠内でワークショップを積み重ね、植民地主義が生んださまざまな痛みと向き合い、未来について語りあってきました。
2001年の夏には、アイヌや台湾など、参加者の枠が広がったことをうけ、日韓に焦点が絞られていた問題意識の幅を東アジアに拡大し、「東アジア共同ワークショップ」と名称を変更し、再度朱鞠内共同墓地裏の発掘を行い、2体の遺骨を掘りおこしました。
その後もワークショップは北海道の猿払や浅茅野など、朝鮮人強制労働があった現場で途切れることなく続けられ、多くの遺骨を掘りおこしてきました。冬のワークショップでは日本学校と朝鮮学校の高校生たちが出会いと学びを続けています。
また、私たちは遺骨の発掘とともに犠牲者の遺族を探し、遺骨を故郷の朝鮮半島にお返しする活動を続けてきました。
日本の敗戦から70年目の2015年、ついに「70年ぶりの里帰り」として115体の遺骨が故郷の韓国に奉還されることになりました。
2015年9月、北海道北部の浜頓別を出発した遺骨奉還団は、朱鞠内をはじめ、北海道各地で発掘された遺骨115体とともに、約70年前、朝鮮半島から連行されてきた道を逆にたどり、東京・京都・大阪・広島・山口で追悼法要を行なったのち、関釜フェリーで故郷の韓国へとお連れすることになりました。
奉還団は釜山やソウルで追悼式・葬儀などを行なったあと、ソウル市が提供した納骨堂に遺骨を安置し、ついに「70年ぶりの里帰り」を果たすことになりました。
このように私たちは、過去の侵略戦争、そして現在も続く植民地主義に向き合いながら、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人・アイヌ・台湾など、多くの若者や市民が協力しあい、東アジアの未来をより良いものにすべく活動を行なってきました。
「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は惜しくも雪の重みにより倒壊してしまいましたが、私たちが40年をかけて築いてきた東アジア市民たちとの友情は、さらに強いものになりました。
日本社会は今日に至っても戦時下の歴史が残した課題を解決できず、近年は「徴用工」問題をはじめ、強制労働の歴史を否定する論調が目立ち、露骨なヘイトや差別が横行するようになりました。
私たちは、再び過ちを繰り返そうとする動きに抗し、今こそ東アジアの未来に希望の種をまくため、倒壊した「笹の墓標展示館」の再生を呼びかけます。
あなたのお力をいただけるならきっと素晴らしい展示館が再建されるでしょう。
ご支援を心からお願いするとともに、あなたもぜひ自然豊かな朱鞠内にお出かけください。
<All-in方式の場合>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
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