▼はじめにご挨拶

モーツァルトの20世紀復興につづけとばかりに同時代作曲家作品カタログ制作は、20世紀後半、欧州各国研究員によって始まりましたが、

20世紀末のクラシック音楽ビジネス、社会主義体制の崩壊により、すべて頓挫してしまいました。

(20世紀メジャーと言われていた、和蘭フィリップス、独グラムフォン、英デッカ、EMIレーベルなどの消滅、統廃合)

しかしながら、名曲は100曲だけでは、ありませんし、

「馬鹿のひとつ覚え」的に同じ曲ばかり演奏するのも、決していつも楽しいとは限りません、

名曲が生まれた過程、資本主義経済至上主義のなか、埋もれてしまった数百万の忘れがたい原曲を1曲でも多く聴いてみたくはならないでしょうか?

こういった背景のなか、

まずはモーツァルトの兄弟子、ヴァンハルの復興プロジェクトを始めました!

▼このプロジェクトで実現したいこと

クラシック音楽ジャンルのなかで一番ポピュラーな、「交響曲」「弦楽四重奏曲」から始め、「作曲家全集」を目指します

▼プロジェクトをやろうと思った理由

個人の私財は底をついたため、 ファンディング始めます!

▼これまでの活動

1997年:Haydn Sinfonietta Tokyo 演奏団体、結成

2005年:edition H S Tレーベル創立

2014年:ヴァンハル協会npo設立

▼資金の使い道

ライヴCD製作費用〜

ー西欧各国図書館、博物館・所蔵、18世紀写筆譜蔵書調査

ー現代版楽譜:スコア、パーツ復元リアライズ

ー会場、録音技師手配

ーアーティスト謝礼、交通費

ーCDプレス手配

ージャケット関係デザイン

ー組立梱包発送、費用

 

*目標金額を達成しなくても、規模縮小、経費削減にてプロジェクト継続実施します!

▼リターンについて

ライヴCDの配布 〜

Wanhal(Vanhal):Sinfonies vol.XXIII (HST114) 
Wanhal: Sinfonia in C Bryan C28
attr.Wanhal- Franz Xaver Koerzl: Sinfonia in B Bryan B8 -Composer "World Premiere" !?
Ditters: Sinfonia in G Grave G6
Ditters: Sinfonia in G Grave G7
Ditters: Sinfonia in D Grave D8

ヴァンハル:交響曲集第23巻(HST114)

ヴァンハル:交響曲ハ長調Bryan C28

伝ヴァンハルーケルツル作:交響曲変ロ長調Bryan B8 ーケルツル、世界初出!?
ディッタース:交響曲ト長調Grave G6
ディッタース:交響曲ト長調Grave G7
ディッタース:交響曲ニ長調Grave D8

 

*本ページ、メイン画像は参考記載です(実際のCDジャケットとは異なります)

 

(作曲家)

フランツ・クサヴァール・ケルツル Franz Xaver Koerzl

おそらくは、本CDで音楽家(作曲家)デビュー (現代音楽辞典などには、登録なし)

18世紀後半、チェコ北部、ヴァルトシュタイン(伯爵)ドクシー宮の音楽家として支えたとされる。

ちょうど、エステルハージ候のハイドンのように、カラオケもなかった当時の宮殿の音楽関係の雑務をこなしていたと推測される。ヴィーンの都で流行っていた、ディッタース、ヴァンハル、オルドニュスらの楽譜を調達し、殿様の御膳で演奏し、たまには自作の交響曲などを実演したり、

したがって、職業作曲家、「早書きディッタース」などとは異なり手抜きのない丁寧な作風となる。

のちのモーツアルトも多用する、突然の短調への転調など当世風でメランコリックな旋律が際立つ。

ドクシー宮には30曲あまりの交響曲、10曲近い協奏曲などが所蔵されていた。

 

カルロ・ディッタース Calro Ditters

のちに女王に認められ町人貴族ディッタースドルフvon Dittersdorf となる、

グラウンとともに、真の「交響曲の父」である。

〜 19世紀には、ハイドンが一番人気となり、貸し譜屋や出版社はこぞってなんでもハイドン作として売り出したため、伝ハイドン作、交響曲は300曲を超え、「交響曲の父」と評されたが、それは音楽好き殿様の死後、バンドはリストラ解散の危機に会い、老体に鞭打ってロンドンのフェスティバルへ二度も転職したことからの「同情票」による名声であった。

当時の貸し譜屋ブライトコプフ、カタログにはもっとも多数の交響曲が記載され、その数は200曲近い。

 

ヨハン・バブティスト・ヴァンハル Johan Baptist Wanhal (Vanhal)

1739年5月12日 チェコ北東部、裕福な農奴の家庭に生まれる。

1744年 5才のころ、音楽好きの父から小型チェンバロを与えられるが興味を示さなかった。

1748年 9才になって、オルガンに興味を持ち習い始め、やがて隣町オポチュナのオルガン奏者となる

1759年 19才のころ地元貴族に連れられてヴィーンへ上京、ヴァイオリン、作曲を習う側、カッサシオン(街頭音楽)、ディヴェルティメントなどの作曲を始め人気となる。

1762年10月13日 御前演奏披露

モーツアルト(6才)はヴァーゲンザイル宮廷音楽監督に譜めくり役をさせた逸話のお披露目会。ヴァンハル(23才)はここに立ち合ったとされる。

 1760年後半には、プレイエルが弟子入りする。

1769-71年 リーシュ男爵の援助により、イタリア留学する。 先輩ガスマンのローマ、オペラプレミエの手伝いもした。

また、マルティーニ神父に弟子入りし、モーツアルトともちょうどイタリア出張で再会し、共に対位法の修行に励んだ。

留学後は、リーシュ男爵地元のドレスデン赴任が条件であったが、本人はヴィーン帰京を選び、男爵への借金返済に苦しんだ。 

 1772年 英貴族バーニーは召使いを連れヴィーン郊外のヴァンハルを表敬訪問し、自伝旅行記に「彼は狂って死ぬだろう」と記載出版されたため、当時の有識者は鵜呑みにし、楽史から消えた。

しかしながら、周りのパトロン、エルディディ候らは、リーシュ男爵に対し債権放棄を承諾させ、領地、現クロアチア・ザグレブ近郊のヴァラズディン温泉での療養をヴァンハルへ勧め、作家はその宿代として週1曲、弦楽四重奏曲を作曲したと伝えらる。

* 本CDのハ長調交響曲Bryan C28は、ザグレブに唯一伝承されている自筆譜スコアから復元された。

〜 ヴァンハルは弟弟子モーツアルトとは違い、自筆にコンプレックスがあったとみられ、写譜家による清書後は、ことごとく自筆譜は焼却していたが、なぜかこの1曲は、近しいパトロン、恋人へ贈呈されたのか、現存する。

(ただし、単一楽章、弦楽器のみの編成)

1777年10月19日 ヴァイオリン協奏曲公演(アウグスブルク、1777年10月19日)

モーツアルトの父レオポルドの故郷アウスブルクで、ヴァンハルの「ヴァイオリン協奏曲変ロ長調」をモーツアルトが実演(モーツアルト自身すでに5曲のヴァイオリン協奏曲を作曲済みにもかかわらず) 

〜 残念ながら「モーツアルトの手紙」にヴァンハルの名前はこの一度しか出現しなかった、これは父レオポルドが息子の定職を熱望していたことからも、フリータ・ヴァンハルとの付き合いはご法度であったであろうから仕方のなかったことと思われる。

1778年 最後の交響曲集を出版し、ハンブルクの音楽雑誌は、作曲の継続を希望した。

1784年 カルテット・パーティ(ヴィーン)

イギリス作曲家スティーヴン・ストーラス主催;ハイドン、ディッタースドルフ、モーツァルトとヴァンハルによる弦楽四重奏演奏(アイルランド出身テノール歌手マイケル・ケリー(1762~1826)による回想録)

80年代、モーツアルトもヴィーン上京し、ドームガッセ(シュテファン寺院ドーム小道)現フィガロハウス時代には、ヴァンハルはお向かいのヴァンハルハウスに居を構え、親交を深めた。 〜お向かいだったので「手紙」は不要だったでしょう。

1790年以降は、世俗音楽作曲からは離れ、カトリック教会音楽に専念した。また音楽教師として活躍し、生徒のための教本として、ソナチネやソナタをヴィーンの出版社から刊行し、食い扶持を稼いだ。

そのため、ソナチネ解説には「初めてフリーランスで活躍した作曲家」とされた。

1793年 チェコ伝記作家デユラベッツは、ヴィーンのヴァンハルを表敬訪問し、「ヴァンハルは生きていた!」と驚いた。 ヴァンハルは彼に「100曲の交響曲、100曲の弦楽四重奏曲を作った」と語った。

 ボンから上京したベートーヴェンは、ハイドンがロンドン単身赴任で留守だったため、ヴァンハルから作曲法を習った。

1813年8月20日 ヴィーン、フィガロハウス向かいのアパートで死去。亡くなる2週間前までミサ曲を作曲した。

 

 

▼最後に

ぜひ、作曲家生誕300年、

2039年には、全集めどをつけたいと思います。

 

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