はじめに・ご挨拶

2022年6月15日、吉原写真館のクラウド・ファンディングは、当初の目標金額である、480万円を達成しました。この文章を書いている今も、さらにご支援金額が増えています。ご支援いただいた皆様に、感謝申し上げます。

開始前に、クラウド・ファンディング経験者の何人もから、余りにも無謀な挑戦だから、もっと目標金額を下げたほうが良いというアドバイスを頂きましたが、結果的に支援者の皆様の熱い想いをいただくことができました。改めてお礼申し上げます。ありがとうございます。

さて、目標金額を達成し、ファンディング成功!で、吉原写真館のファンディングは終了ではありません。成功したことで、密かに準備していた次のプログラムをご紹介したいと思います。

「シバタ アーティスト・イン・レジデンス プログラム」です。
これを実行するための資金募集を新たに加え、プラス70万の550万円を新たな目標額にします。ご支援を、よろしくお願いします。
説明:「シバタ アーティスト・イン・レジデンス プログラム」(AIR-SHIBATA)

これは、新発田に住み、ここで感じたことを表現する人を支援させていただく実験的なプルグラムです。県外に住む人の眼差しで、新発田の魅力を表現してください。共に、新発田の魅力を探しましょう!

募集人数:1~2名 ※支援額で変わります

支援金 :1人30万円(交通費、滞在費、食費、制作費)

滞在期間:1カ月

年齢制限:なし

条件  :新潟県外在住の方

審査  :写真作品審査&ZOOMでの面接

審査員 :平間至&吉原悠博 

※詳細は、後日アップデート予定です。

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こんにちは、はじめまして!

プロジェクトをご覧くださり、ありがとうございます。吉原写真館の吉原悠博(よしはらゆきひろ)と申します。私は62歳になりようやく、写真館の大切さを、心の奥で理解できるようになりました。次にやるべきことは、そのバトンを未来につなぐとだという考えに至りました。


吉原写真館は、多くの御客様に支えられ本年で133年目になります。本館竣工は1936(昭和11)年の85年前、施主は私の祖父・秀長です。とても珍しい木造三階建てのモルタル造りの昭和モダン建築、現存するのは大変に貴重であると2017(平成29)年に国指定の有形文化財に登録されました。ここまで続けられたことに、とても感謝しています。

そして今、未来に向う新しいプロジェクトを開始することにしました。写真館が、時間を超えて人をつなぐ大切なものだと気がついたからです。現在の写真館の仕事に加え、写真の魅力や技術が学べる美術館であり、人が集う「コミュニティスペース」にすれば、町の活性化にもつながるでしょう。人を惹きつける場所にするために、「雨漏り箇所の修繕」「バルコニーの復元」、そして「ギャラリーの新設と暗室の復活」が必要だと考えました。しかし自己資金だけではまかなえず、その資金を集めるために、クラウドファンディングに挑戦することに決めたのです。




 たとえ国の有形文化財に登録され、新発田市の歴史的景観形成建造物に指定されたとしても、吉原写真館は自営業の店舗のひとつである。自宅を修繕したいからといって、クラウドファンディングで資金を募り、それに応えて見知らぬ他人の家屋の援助を気安くする人は、そうはいないだろう。

 だが、これが自分の家屋となれば、なんとかせねばと工面するに違いない。どうにもならなければ維持することは困難となり、そうなれば売却するしかない。けれど、吉原写真館は単なる家屋、店舗ではない。明治から残る乾板写真などを残し、街の記録を有する歴史博物館の側面もある。だからであろう、改築の際には展示室も造られるとのこと。こうなるともう、一個人経営の店舗というだけでは語れない。

 だからこそ、国からも新発田市からも、公に守るべき価値のあるものとして認められたのであろう。写真は、その歴史は浅いかもしれないが、幕末より、写された土地の、人々の息遣いを、今に伝えている。

 古来、人類は、そこに生きていた証を後世に残そうと、あるいは、その時に生きていた喜びや悲しみを溢れさせ、岩肌に象形を刻み、木簡に、獣皮に、紙、布に染み込ませ、塗り、より永く伝わるようにと、石で墓碑を作った。そうした想いは現在、インターネット上での現実として、あらゆるものがデータ化され、受け継がれているように思われる。

 パソコンやスマートフォンを初めて手にした時、「これは位牌だな」と思ったことを思い出す。過去の記録を有し、古の記憶を今に伝え、後世に残す。その中には、改ざんされたものも数多くあるだろう。

 けれど、「事実」というものは、置かれた立場、見方によって、正反対の事象として現れる側面もあるのではないか?そうした矛盾も含めて、人類は、残さんとした人物にとっての「事実」を描き続けてきたのだろう。

 写真も、その誕生から既に、加工技術が発達し、撮影者、印画する者の眼差しが反映されてきた。それでも、そこに写されたものの中に、その後観る者にとっての「真実」が見え隠れしているように思われる。

 新発田という、神話の時代から、歴史の局面に於いて、常にその土地のあり方の選択を迫られてきた街に、明治から受け継がれてきた写真館が残されているのも、その「真実」を後世に残さねばという深い想いがあったからではなかったか?

 古の、現在の、一枚の肖像写真を通して、風景を通して、現在、我々がここにいるその訳を知り、世界のありさまが観えてくる・・・ならばそれを有する写真館は、もはや神社仏閣とその存在意義は同等かもしれない。

 菩提寺や氏神の神社の修繕のみならず、神宮や大社の遷宮に寄せる人々は少なくない。

 吉原写真館は、かつてはどこの街にもあったような写真館ではあるかもしれないけれど、新発田に住む人々のみならず、その「場」に行って初めて感じることのできる「真実」が、そこにはきっとあるのだろう。

 佐野史郎(俳優) 

吉原君と初めて会ったのは1984年の秋、ニューヨークのケネディ空港。以後、彼のさまざまな活動と折々に交差した。いまは故郷新発田に帰郷して写真館を継ぎ、美術活動と町おこしに一生懸命になっている。そんな吉原君から、先日クラウドファンディングの賛同人になってほしいと連絡が入った。

もちろん快諾した。国が地方創生と簡単に言うが、彼のアクティビティの中にこそヒントがあると思うからだ。

坂本龍一(音楽家)

若い時の自分が描いた人生をやめて帰郷し、家業を継ぐ。長男に生まれ育ったから、なせる技なのか...。いや、そうではあるまい。私のように自分本意、『自分のやりたい事をやるだけさ』と思っている凡人には到底計り知れない「心」の持ち主が吉原悠博氏なのであろう。

私は故郷、新発田を離れて早くも50年。帰郷する度に、思い出の「建物」がなくなっていく寂しさ。猿橋小学校に猿橋中学校。小学校が油圧ショベルでバリバリ壊されていく姿を見た時には、思わず『やめて』と叫んでしまった。冬に中庭からダルマストーブに入れる石炭を運んだ事。走って怒られた廊下、思い出は山のようにある。家から30分程歩いて通った新発田幼稚園。そして、自転車通学をした新発田高校。思い出は私の心の中だけになってしまった。形あるものはいつかはなくなると、わかってはいるものの、帰郷する度になくなっていくのは本当に寂しいもの。

吉原写真館が、往年の「建物」の姿を取り戻そうとしている。さらに、市民が集う「建物」にもなろうとしている。故郷を離れた人々が帰郷の折に写真館を訪れ、家族で記念写真を撮ったであろう事を思う。失いたくない思い出の「建物」が現存する。これは素晴らしい事で、大変ありがたい事。ただただ、吉原悠博氏の行動力、実行力に感服する次第だ。

私は応援させていただくことしか出来ないが、これからも吉原悠博氏が、新発田のためにつくされることを切に願っている。

三田村邦彦(俳優)

写真館と言う文化を、現代に合わせた形で残すのが今回のプロジェクトの主旨だと思う。元々写真館は文化サロンの様な役割を果たしていたが、小型カメラが普及するほど、写真館は存在意義を薄めていった。手軽に写真が撮れる今、吉原写真館は写真そのものの価値を写真館を通して問おうとしている。

写真館生まれという共通点がある僕には、吉原さんの気持ちが良くわかる。共に頑張って写真館文化を伝えてきたし、これからも一緒に続けて行きたい!

平間至(写真家)

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佐藤正子(株式会社コンタクト代表/キューレター)

これまで、自分の持ち物ではない建物を、なんとか残せないかとずいぶん働きかけてきた。それらは残ったり残らなかったりしたけれど、「壊すこと」の方がより簡単で、楽で、圧倒的に同意を得やすい時代に(更地にしたり、新築を勧める圧は今の日本ではものすごく高い)自分の持ち物である建物を残したいと吉原さんは言う。残すことで未来を考えたいと。でも、自分だけでは残す力が足りないから、一緒に残しませんかと。これは応援しなくては。残すことは壊して新しくつくるよりもずっとわくわくする、はっとするようなことなんだと一緒に示したい。

大倉宏(砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)館長。長岡造形大学、新潟デザイン専門学校講師。2009,2012 水と土の芸術祭アドバイザー。)

吉原さんとは、東京藝大の同級生である。正確には二学年先輩であったがニューヨークに留学していたために同学年になった。当時の吉原さんは、既にアートシーンでデビューをしていて全く学生という印象はなくアーティストとして最先端を走っていた。作品は、空間自体が光の彫刻のように現れては消えていくような可変性を内在していた。作品空間自体がレンズに光を取り入れ、露光、現像、定着と写真の生成プロセスを体験するように形象化していた。今思うそのビジョンは、写真館そのものの存在や構造を抽象化しメディア化していたようにも思える。

その意味もおいても今回の写真館を動的に保存再生するアクションは、吉原さんの長い時間をかけて創ってきた社会的彫刻的ソーシャルエンゲージドアートとも言える。写真館という形をした吉原さんの最新作の現場に、私なりに参加し応援していきたい!

中村政人(現代美術家、アーツ千代田3331統括ディレクター、東京藝術大学副学長 )

物事の是非や良し悪しを判断するのに迷ったら、目の前のそれが「ある世界」と、それが「ない世界」を想像して、どちらの世界が良いものなのかを考えてみればいい。自ずと答は出てくる。(その際に、自分の気分や信条に逆らうような答が出てきても、驚いてはいけない。)

吉原写真館がある世界は、それがない世界より、うんとうんと良い。そのためなら、僕もお金を出す。たくさんは無理だけど。

畠山直哉 (写真家)

旧知の友人である吉原君は、人生を賭けて「場」を作ろうとしている。縁をもってその地に命を頂き育み世界を遊行しながら帰ってきた土地、新発田。誰にでもあるであろう実家の匂いや人の温もり。人が人として人であるがためにでき得るもの、こと、事象がアートであるならば、彼はその重要さを覚え命の循環の一部としての役割を果たそうとしている。それは写真館の修復のみならず、人文館の創設でもあろう。新しいテクノロジーの変容に混迷する世にあって忘れかけた人間の五感による気づきや心身の回復を期待したいものだ。自立できない自己は、皆との縁をもってそのような場となるなら切実に応援したいものだ。

谷口昌良(空蓮房 主宰、浄土宗 伝授山 長應院住職)

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ヨコミゾマコト(建築家)

高内春彦(ジャズギターリスト)

秦達夫(写真家)

小学生になる前のことだからもう60年近くも昔の話だ。吉原写真館の玄関でよく「や~すこちゃん、あそぼ~!」と大声で叫んでいた。「やすこちゃん」というのは吉原君の2歳上のお姉さんで、僕とは幼稚園がいっしょの幼馴染だ。「あ~と~で~」と断られる方が多かったけれど、それでもときどき写真館の中で遊ばせてもらった記憶がある。スタジオはもう別世界。見たこともない大きなカメラや照明機材に胸が高まった。高い天井から差し込む光の柔らかさが今も網膜に残っている。彼は覚えていないだろうけど、吉原君との初対面はそのころだ。

 一つ通りが違うだけなのに、やすこちゃんとは違う小学校に通うことになった。それから写真館の中に入ることはなくなったけれど、前を通るたびにショーウィンドウに飾られている幸せそうな家族の写真を眺めるのが習慣になっていた。そこにはなぜか「水飲み鳥」も置かれていた。コップの中の水を半永久的に飲み続ける帽子を被ったガラス細工の鳥である。その動きが不思議でたまらず、ずっと見入ってしまったこともある。新発田を離れて45年が経ち、周りの風景は新しくなってしまったけれど、吉原写真館はその当時とほとんど変わらない。前を通るたびに懐かしく愛しい日々にタイムスリップする。

 かれこれ10年近く前になるだろうか。吉原君と近くのコンビニですれ違ったことが僕に新しい挑戦への機会をあたえてくれた。彼の後押しで、学生時代に世界を周った旅の話やアメリカ留学の話を「新潟日報」に連載することになった。市役所のギャラリーでその時に撮った写真の個展を開催することにもなった。故郷の仲間たちがそれを支援してくれた。その絆が嬉しかった。それはまた還暦を越えた僕の新たなステージへの出発点ともなった。吉原写真館は、過去だけでなく未来へのランドマークにもなっている。かたちは違っても、そんな想いをもつ人は少なくないのではなかろうか。吉原写真館を応援したい。

永久寿夫(名古屋商科大学教授、元PHP研究所専務・PHP総研代表)

吉原君は、気がつけば、幼稚園から高校まで一緒に過ごした友人です。 幼いころからの、彼の周りを振り回すハチャメチャぶりには、文句を言いながらも、いつもいつもワクワク楽しませてもらっていました。 そんな彼が、我が故郷である新発田を元気にしてくれる活動をしてくださっていること、深く感謝しております。 それと同時に、吉原写真館は、家族の大事な写真を撮るときには、必ず訪れた特別な写真館でした。 新発田の地を何年も離れていても、帰省すれば、必ずそこにあるたたずまいは、とても安心させられる存在です。 その写真館が朽ちていくとあれば、これはその修復に手を貸さずにはいられません。 先代のご店主は父の旧制中学の先輩でもあり、吉原君が新発田に戻ってから明らかにされた、吉原家の物語は、とても身近に感じられました。 そんな舞台となった吉原写真館の存続を、切に願い、応援します。

田村直美(のんきな主婦)

私の祖父は新発田で活版印刷業を営んでおりました。祖父が亡くなり大量の活字を誰かに譲るのか、処分するのか親族で悩んでいた中、吉原さんにお声がけいただき、活字一式を引き取っていただくことになりました。親交があった吉原さんに祖父の活字を再活用していただけること、そして祖父の活字が新発田に在り続けること、私はこれらのことを喜ばしく思っております。 吉原写真館は新発田の歴史を繋ぐ場所です。私の祖父の歴史も在るこの場所は、いつまでも新発田に在り続けてほしいと思っております。

計良風太(1992年新潟県新発田市生まれ。2016年多摩美術大学美術学部情報デザイン学科卒業後、 慶應義塾大学政策・メディア研究科修士修了。デジタルメディアの特性を活かしたデザインや美術の関心から、プログラミングを用いた実験的な作品を制作する。現在ライゾマティクスに所属。)

※6月4日新潟県政会館で開催されたExperimental Rooms #34 の映像をシェアいたします。

このようなイベントを、新発田や新潟で企画し続けます。

The Yoshihara Portrait Studio in Shibata. Six generations of photographers. The great-great-great grandson Yukihiro  Yoshihara - himself not just a photographer but a pioneer media artist who has worked with Robert Ashley, Ryuichi Sakamoto and many others -  is the successor. Now crowdfunding to upgrade and expand. Message me here for further details.

カールストーン(音楽家)

アーカイブ: 椹木 野衣 - ART iT/再説・「爆心地」の芸術にて、

吉原悠博の映像作品「シビタ」「吉原家の140年」、「写真の町シバタ」の評論が記載されています。

http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri9_j/u26cK4QnyJX9prWxkhbY/

http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri9_j/wq0bLPmloUOTNvBR5YjH

http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri9_j/2Ca9Pr5ZvHw8pcB1hLXE/

椹木野依(美術評論家、多摩美術大学美術学部教授)

菊田樹子(インディペンデント・キュレーター)

 かつて、どんな街にも写真館というものはありました。写真館には街の人びとがその人生の節目ごとに訪れ、そこで自分たちの生の痕跡を、かつてはガラス板に、そしてフィルムに、現在はデジタル・データに遺してきました。吉原写真館でもそうだったと聞きます。何代にもわたって同じ写真館で写真を取り続ける家族も少なくありません。そこには街の記憶が保存されています。写真館とは、いわば街に存在した、さまざま人生のアーカイヴなのだと日頃から考えています。しかし、街の写真館の数は、どんどん減っていって、私が暮らす京都でも、相当少なくなってしまっています。

 友人の紹介で新発田の吉原写真館を訪れた時、昭和初期の良質なデザインの洋風建築全体はもちろんのこと、そのスタジオに大層感銘を受けたのを思い出します。北側に大きなガラス窓が斜めに切られて、柔らかい光がスタジオ中に充たされているのは、19世紀から伝わる写場設計の基本に忠実なもので、写真を研究する私にとっては、そこで過ごした時間は夢のようなものでした。

とはいっても、そのような歴史のある写真スタジオを訪れたのははじめてではなく、博物館明治村に移設されている高田の小熊写真館――偶然にもこれも新潟――のスタジオも、京都に現存する古い写真館のスタジオも、訪れたことはありました。が、それらは現役ではなく、文化財のようなもので凍結されて保存されている訳です。それに対して吉原写真館では現役として使われているのが素晴らしい。しかも電動のブラインドを開け閉めし外光を微妙に調光できるようにしているのも感服しました。それに、貴重な背景画を修復しながら使っていたり、アンソニーカメラの三脚に、ジナー 4×5 大判フィールドカメラ+APO-LANTHARのオールドレンズ+ハッセルブラッド社製デジタルバックを組み合わせたオリジナルカメラ「アンソニー・デジタル」をデザインしているのは、伝統をアップデートして現在に活かす態度で、これこそ本当の意味での「動態保存」だと思います。

 このような前向きな取り組みをされてきた吉原写真館が、建物の補修、さらにリノヴェーションのためにクラウド・ファンディングをされると聞き、すぐさま賛同人に手を挙げました。単に現状を保存するのではなく、新しい時代の写真館の姿を模索し続けておられる吉原写真館の企てを、心から応援したく思います。

 佐藤守弘(視覚文化/メディア研究者)

吉原写真館を初めて訪れた時、階段やスタジオといった建物の随所に、祖父母の家に遊びに行った時のような懐かしさを感じたのを覚えている。吉原写真館が残してきた膨大な写真に刻まれた人々の記録と記憶は、もちろん歴史的に貴重なものである。と同時に、その歴史を刻み続けた写真館という場とその空気感もまた、ずっと残しておきたい記憶の一部であると思う。新発田の歴史を伝える特別な場所として。

濱田真由美(学芸員)

 吉原くんとは、大学に入る前の予備校に通っている頃からの付き合いで、足掛け40年になります。縁あって新潟にお世話になっていますが、ちょうど吉原くんも東京から新発田に活動の拠点を移し、新潟がどこよりも面白くなりそうな予感がありました。そしてこの度築85年の吉原写真館を「人が集まるアーティスティックな場としての写真館」として残したいとの連絡を受け、私も協力させてもらうことになりました。このことは、単に懐古書味的な発想ではなく彼の表現行為でもあるのです。

そんな吉原写真館から溢れ出る物語を皆で鑑賞しませんか。新たな気づきがきっと生まれるでしょう。

丹治嘉彦(美術作家・新潟大学教授)

新発田の地で数々の歴史と人を写真で繋ぎ続けてきた130年の歴史ある吉原写真館。今年の秋に「写真の町シバタ2022」にて写真展を開催させていただくご縁をいただき、吉原写真館を訪れました。重厚な歴史の中にタイムスリップしたような美しい佇まい、先祖代々に受け継がれた写真館への思いと風格が凝縮されていました。二階のスタジオに入ると、写真館に足を運んだ人たちの思い、記念の日を祝う家族の笑い声までが聞こえてくるようで・・・喜びに溢れている息遣いのようものを感じました。この歴史ある吉原写真館が繋ぎ続けたバトンを、更に未来の人たちに繋ぐために・・・。写真を愛するものとして「未来へ繋ぐ」を心から願います。

山崎エリナ(写真家 ) 

現在、全国順次劇場公開中の『リング・ワンダリング』という映画を制作する時、劇中に登場する昭和の写真館を取材するため、新潟新発田の吉原写真館を初めて訪れました。 写真を撮る=「記憶を、記録として残す」ことによって人は家族や配偶者との想いを深める。 かつての写真館はそういう大切な場として各地の街に根付いていたのだな、と短い滞在でしたがしみじみと感じました。 その実感は、『リング・ワンダリング』の中で安田顕さん演じる写真館館主が彼の後ろ姿に感じさせる歴史の重みと、館主の妻=片岡礼子さん、娘=阿部純子さんのかけがえのない日常を生きる健気な姿に、少なからず託せたのではないかと思っています。 この映画の中でも過去に撮られた写真が、現代を生きる主人公に様々な気付きを与え、かつて生きていた人たちへの想いを抱かせるに至りますが、そんな写真の大切さを息長く伝えていこうとなさっている吉原悠博さんのご活動に、映像作家・アーティストとしての氏の作品に対してと同様、深く敬意の念を感じております。 過去の記憶を未来に引き継いでいく、という大切な取り組みのため、吉原写真館の「修繕」「復元」「復活」に、ぜひ皆さまのお力添えを頂けると幸いです。

金子雅和(映画監督 『リング・ワンダリング』など)

吉原君が新発田に帰ってきて写真の町シバタやまち遺産、展覧会やコンサートの企画等々新発田が面白くなってきたと思う。故郷を歴史文化の薫る街にしたいと熱く語るピュアな彼の想いはとても大切だ。そして自ら率先してお洒落なおじいさんの想いがいっぱい詰まった昭和モダンのアールデコの面影遺る写真館を修復し遺し活用していきたいという。きっと多くの共感の輪が広がっていくと確信している。頑張ってください。

渡辺斉( 元新潟県職員、大地の芸術祭の企画や中越大震災からの復興を担当、新潟大学非常勤講師を経て現在は新潟県建築士会顧問、にいがた庭園文化交流協会副会長、新発田市景観アドバイザーなど。)

鈴木直之(グラフィック・デザイナー)

髙橋綱男(金升酒造株式会社; 運営統括責任者)

高校生の頃、学校の暗室にこもって汗だくになりながら本を片手にモノクロ写真を現像していた。誰も教えてくれる人はいなく、考えられないようなミスをしながら試行錯誤を繰り返していく作業が面白く、その後にデジタルとアナログを両方やりながらも根底にあったのは、真っ暗な暗室の中で引き伸ばし機の光を通して映し出されるイメージであった。暗室作業という暗闇から光を見る作業や、考えれない失敗をする作業、それが今となっては貴重なものになっている。
吉原写真館で復元される暗室から未来のイメージが映し出される時、今までに見えなかった光が見えてくるのではないでしょうか。

水島優(写真家)

古いものを守り、新しいものを作る。常にそういった視点から音楽を作ってきました。吉原写真館へ何十年振りかに足を踏み入れた2022年早春。そこには過去と現在が交差していました。私の中のモノクロの記憶が、鮮やかな色彩の今に変わっていくとき、板の廊下を歩く音が、遠い昔からこだましてくるような感覚になりました。この歴史的建造物を未来への遺産として残していきたいと心から願います。古いものを守り新しいものを作る活動、吉原写真館改修、応援いたします!

茂野雅道(映画音楽家)

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景色の中で、歴史ある建物が取り壊されていくのに諦めや慣れが出てきているのを自分の中に感じる。建物の維持は容易ではない、と嫁いだ家を思い他人ごとではなく感じるからだ。

そんななか、吉原さんが代々続く写真館であり自邸の大改修をするための挑戦について聞いた。大きな責任と覚悟を感じ、背筋が伸びる。アーティストである吉原さんだからこそ、のやり方で、描いた目的に向かう姿勢。ある一族が暮らした建物の保全が、その町や国の歴史を紐解くときの大切な糸口になることを、歴史家とは違う視点で証明するだろう。「写真の町シバタ」もさらに活気づくだろう。私も新発田の孫。感謝とともに、賛同します。

五十嵐奈穂子(フリーター主婦、「KYAF(キャフ)勝手にゆいぽーととかアーツファンズ」の屋号で、新潟市で滞在制作するアーティストとの交流やお節介を趣味とする。市民団体にいがた映画塾会計。)

吉原写真館は新潟県新発田市にある歴史ある写真館です。私はこの写真館で20代の後半から30代の終わりまで約11年間学ばせてもらいました。6代目の吉原悠博さんは写真館館主であると同時に美術家であるという姿勢を貫かれています。写真館での家族写真の撮影をはじめ、パブリックアート、映像作品、インスタレーションなど形を変えながらも常にその根底には芸術表現の価値とそのあり方を根本から問うものが感じられました。

写真館に残る吉原家の家族写真、そして毎年写真館で家族写真を撮影されていくご家族の写真を拝見するたびに、家族のあり方、時間の節目やその集積に籠もる表現の力強さのようなものを感じてきました。ここでは芸術と日常がすべて地続きであるという感覚があります。吉原さんの周りや新発田で知り合った方々の中にいつも感じられるこうした垣根の無い雰囲気はひょっとしたら写真本来の価値と根本で繋がっているのかもしれません。人間ひとりの人生の長さをゆうに超える時間に触れるということが、写真を通じて常に経験され得るからです。

写真館での生活の中で、出会って間もない頃から吉原さんに言われた言葉で、今でも良く思い出すのは「音楽が得意なら音楽の感覚を使って写真を観ればいい、特にデジタルであれば共通点は多くあるはず」というものです。これはその後も自分なりに反芻してきましたが、その残響は今の自分の活動にも響いていると感じます。

そして今、吉原さんは未来について以前よりも増して強く意識されているのかもしれません。写真館のクラウドファンディングもそのひとつでしょう。今後もこれまで通り、いやそれ以上に芸術と日常の垣根無く豊かな時間を作り出されていくと信じています。

福島諭(音楽家)

「写真館は、地域社会の中にあって、様々な人々の記念を記録してきた。しかも吉原写真館は6代も続く。それだけ地域の人々の膨大な記憶を記録してきた、民衆史の宝庫だ。しかも、写真館の現当主、吉原悠博は世界的に活躍するアーティストでもある。アーティストは、自分の個人的な思いを表現するのが仕事だ。けれども写真館の仕事は、地域の人々の思いを記録する。だとすると、地域社会の創造的発展に、どのように寄与するのか、吉原写真館の役割はきわめて興味深い。新発田の地域コミュニティ再生のために、本プロジェクトを応援したい。」

加藤種男(クリエイティブディレクター、Active Archipelago 共同代表、

アーツカウンシルしずおかアーツカウンシル長) 

吉原さんには長徳寺の建物の改修や永代墓ハクラの建立の際に、美術家としての幅広い見識と鋭いセンスで指導をしていただきました。 吉原さんの活動は、芸術作品制作の範囲を超え、地元新発田の町づくりまで広がり、たくさんの仲間と共に新発田の魅力にこれまでにない角度から光をあてられています。長徳寺もその中の一つです。 今回、そんな吉原さんの原点であり、活動の拠点となっている吉原写真館が、本来の姿を取り戻し、新発田に魅力的な空間が誕生するというプロジェクトが始まります。 私も微力ながら協力させていただきたいと思っています。

関根正隆(長徳寺住職)

寺田雄一(グラフィック・デザイナー)

星野良緒(焙煎珈琲アーティスト)

今から18年程前、吉原写真館さんと出会いました。私が新潟大学の美術科の学生だった2004年頃です。当時、地元・新発田に住んでいた私は、勿論存じ上げていたものの、特に個人的なお付き合いはなく、現館主・吉原悠博さんが非常勤講師として大学の授業にいらっしゃった事がキッカケで、先輩方のご紹介もあり、1年半程お世話になりました。

当時、世間知らずで平凡な学生の自分が、実家から近いことも幸いし、吉原さんの横でレタッチ(の手前の作業)をお手伝いさせていただく機会に恵まれました。(本当にラッキーでした。)そこで感じたのは乾板写真の重厚さ、写真を通して伝える・表現することの使命感でした。家族写真を「つくる-撮影する」ことは、撮影する側と撮影される側との、ひとつのコミュニケーションであり「歴史」です。その積層される時間を大切につくってくれるのが、新発田・吉原写真館なのだと感じます。

名機・アンソニーデジタルの誕生も断片的に拝見させていただきました。この誕生は古いものを残しながら、新たな手法を取り入れ、文化スペースを構築されていくためのスタートだったように感じられます。そして、撮影や活動を通した動きは、多くの人を巻き込み、魅了してくれます。この吉原写真館の取り組み、新発田のプロジェクトが、写真館をベース基地として発信する吉原さんのひとつのアートワークであり、地元民にとってのコミュニティの創出です。

単なる懐古趣味や、プライベートなものと捉えられる方もいらっしゃるかも知れませんが、決してそうではありません。次の世代のクリエイターにとっては、表現するコミュニティスペースになることが期待され、私の父親のような昔吉原写真館さんとお仕事させていただいた世代にとっては、文化が残ることへの喜びを感じることができると思います。吉原写真館は、残さなければならない、唯一無二の文化財です。地元の写真館であり、アートスペースであり、創造を生む場所です。

短い間でしたがお世話になった吉原写真館さん。いち平凡なサラリーマン・インハウスデザイナーになった今でも、大きく影響を受けていると感じる瞬間があります。そして吉原さんには、いつも多くのことを学ばせていただいております。

ぜひ皆様、未来の吉原写真館に投資しませんか? 魅力的過ぎるリターンばかりですよ。

篠田有里(デザイナー)

新発田高校時代の自主映画「いなほ一号大爆破」など長年映画ともゆかりのある吉原さん。近年は映画塾企画などにも積極的に出品していただいています。 リニューアルを期に新たな映像作品が生まれる場所になることも期待しています。新潟から世界に向けて発信していきましょう! 

市民団体にいがた映画塾



正直言いますと、数年の間、悩みました。大金を使って修復を続けるべきかどうかと。切りがないほど修理箇所が多いからです。それを理由に建物を壊し、廃業することも考えました。しかし一地方の小さな写真館といえ、代を超えて撮影を続けている御家族も多数います。また、写真館が町の記憶装置として大事な役割をはたしているのも知りました。やめてしまうのも、無責任ではないかと考えて、雨漏りに耐えながら、どのような手を打つべきか思案しつつ、現状を維持してまいりました。


そんな折り、古い建物を残そうと活動する「シバタ町遺産の会」のメンバーと、残された家族写真を大切にしようと活動している「写真の町シバタ」のメンバーの心温まるエールを受けて、私も前向きに残す方向で頑張ってみようと考えるようになりました。その流れの中で、国の有形文化財に登録された事も大きかったです。国から認定された訳ですし、頑張らないとと思いました。



その後、徐々にモチベーションが高まり、この写真館を「よりクリエイティブな場所」に再デザインし、地域や世界を活性化させる核にできないか? と思うようになりました。写真に興味を持つ若い世代のために、より魅力的な場所にリノベーションすることにより、継続的に人が集まる創造の場所を作りたいと思うようになりました。最近では、写真が学べる学校で博物館機能のある写真館であり、お洒落なカフェやアートレジデンスも作れるかもしれない、少子高齢化が進み空き家が増え続ける地方都市を再生させるヒントがあるかもしれない、などとポジティブな妄想をするようになってきています。

ガラス乾板の撮影&現像実験/三田村邦彦氏



「よりクリエイティブな写真館」にリ・デザインするために、雨漏りの補修が大前提ですが、最初にやるべき事を考えました。 ①屋上バルコニー復元 ②3階にギャラリーを作ること です。


①屋上バルコニー復元

この写真館が竣工した昭和11年当時、屋上バルコニーは大変珍しいものでした。当時、屋上や楼閣造りが、日本中で流行しており、高台を作り花火見物などで人集めをし、賑わいを作ろうとしていたのです。皆高いところが好きですから。(レベルは違いますが、浅草凌雲閣、東京スカイツリーなども同じ発想かと思われます。)復元した昭和モダンの雰囲気漂う屋上バルコニーで、花火見物、トークショー、焙煎珈琲茶会、映像上映会などのイベントを企画しようと考えています。


②3階展示ギャラリーを作る

3階に二つの展示ギャラリーを作る計画です。写真館を地元新発田の文化発信基地にすることは、私の夢です。新発田に大切に保管されていた文化財の展示して、市外県外世界に発信していきたいと考えています。また、美術家でもある私は、多くの美術家や音楽家の友人がいます。その友人と連携して、文化発信も可能です。例えば、東京の蔵前にある瞑想スペース空連房、新潟の砂丘館との連携など。

>東京蔵前の空連房

>新潟の砂丘館


次に、簡単に吉原写真館の歴史を紹介させてください。当館の歴史は、1870(明治3)年頃、内科医だった吉原秀齋が新発田藩三条寺町にて写真を撮り始めた時に遡ります。そして1890(明治23)年に、2代目玄琳が新発田町西ヶ輪(現在地)へ移転。屋号を「吉原写真館」としました。当時の新発田は田園に囲まれた商業の都としてまた軍都として栄えていたこともあり軌道にのることができました。昭和10年の大火により全焼。翌年、4代目秀長が再建。それが現在の建物です。その後、昭和から平成と、5代目俊雄と妻・邦子が写真館を守り続け、現在、6代目の私が館主です。

吉原写真館ウェブの歴史をご覧ください。

>吉原写真館アーカイブス


現在、私は地元で写真館主をしながら、地元の活性化や文化活動に尽力していますが、、15年程前まで 東京を拠点に美術活動に邁進しておりました。当時は公私とも充実しておりましたので、新発田に戻るつもりはありませんでした。しかし長男の身、実家を思い出すたびに重たい気持ちになっておりました。


2003年、正月に帰省した時、土蔵の中をじっくりと観察して回りました。今の状況では私が長男で後継者、土蔵の後片付けも私の仕事になるだろうと考えたからです。とりとめなく物色していると、調度品の間にある大量の写真が目に留まりました。土蔵の中はとても寒かったのですが、惹きつけられるように見入りました。写真の人物の存在感が、胸に迫ってきからです。 全て親族だと考えて呆然としました。これらの写真が破棄されるのを想像して、ゾッとしました。写真の祖父が、寂しそうに私を見つめているように感じました。「自分の家族の歴史を捨てるつもりなのか? それが、お前の目指す「アート」なのか?」と語りかけているようでした。自分の中ですが、祖父の言葉は、かなり響き、正直参りました。その後、さらに様々な経緯があったのですが、結局、地元・新発田に戻り、写真館を継ぐことに決めたのです。それが、美術家の仕事であると心から感じたからです。写真を撮影すること、表現すること、残す意義の事を真剣に考え始めたのは、このころからです。

※以上のエピソードは、風の旅人25号に特集されています。リターンに用意されています。

>風の旅人25号スライドショー



1960年新潟県新発田市に生まれる。東京藝術大学油絵科卒業。ニューヨークのアートスクール留学。150年の歴史を持つ「吉原写真館」六代目館主。古写真を収集し展示、そしてアーカイブ化するプロジェクト「写真の町シバタ」実行委員長 。2017年、第20回映像『培養都市』文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞

>培養都市

二階堂 現 新発田市長様から、メディア芸術祭受賞を祝して頂きました。ありがたいです。


その後、取り憑かれるように新発田に大切に保管されていた古写真のリサーチにのめり込みました。日本の歴史に関わる重要な写真も町中から大量に発見されて、本当に驚きました。地元、新発田は日本に於いても重要な拠点だったことを知りました。私は、2011年に、「写真の町シバタ」を地元の仲間と立ち上げました。古い写真を収集し、展示することにより、町の活性化になればと考えたのです。「写真の町シバタ」のイベントは、今年で12年目になります。


最初の写真は、旧吉原写真館の写真です。現在と全く同じ場所にありましたが、1935(昭和10)年に新発田大火で全焼しました。その翌年1936(昭和11)年、祖父・秀長が、再建。それが現在の写真館です。現在で、築85年になります。建築中の写真も多数残っております。当時の建築は、まるで祭りのようだったのでしょう。吉原写真館という法被を着ていることから想像できます。もう1枚の写真は、竣工後の記念写真。真ん中にいるのが、私の祖父・秀長です。この法被、現在でも、5点ほど残っております。そして、祖父の着る法被は特別仕様で、ローマ字でH.Yoshiharaと染め抜きしてあります。最近、講演会の時、この祖父の法被を着ることにしています。


写真の町シバタを立ち上げてから、古い写真や資料を持ち込まれる方も増えました。貴重な写真も多く、大切に保管し、また発表する責任を感じてます。その他、ご縁があり、田村活版所の活版と印刷機を譲り受けました。現在、写真館の奥にある倉庫を改造し、使える状態にしました。今後、活版印刷を学べる教室を開きたいと考えています。

この度、リターンで用意させて頂いた活版名刺は、この活版印刷機で作ったものです。

※以上の記事は、新潟日報に著作権申請し1年間の使用許可を頂いています。


ここ15年の地元リサーチを通して、吉原写真館と新発田の歴史の素晴らしさを知りました。その意味で、私はようやく、父や祖父、先代の残した宝を受け取ることができたわけです。次に私がやるべき仕事は何か? その宝を未来の若者のために残す事だと考えています。跡を継ぐのは、息子かもしれないし、また別の誰かかもしれません。どのみち、この写真館が、継ぎたい残したいと思うくらい素敵でなければ、いけないと考えています。私は、多くの人が写真の大切さがわかり、先代の志や技術を学べるような場所にしていきたいと考えています。


令和4年3月9日に、吉原写真館は、新発田市の歴史的景観形成建造物指定を受けました。とっても励みなります。ますます頑張って行こうと思います。


添付概算概算見積もりは、3階改築(ルーフバルコニーとギャラリー)と暗室新設に費用です。合計950万円。準備できるお金が600万円、350万円不足です。リターンにかかる経費が約60万円、CAMPFIREの手数料(17%)が、約70万円。480万円を、なんとか集めなければなりません。

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■工事スケジュール

7月より、約一ヶ月


城下町新発田は、現在でも新発田城を始め、名園や歴史的な建物が数多く残っております。また、食のレベルが非常に高く、セカンドハウス的に住まわれる東京の御客様も増えているようです。また、近くには、とても人気のある月岡温泉も控えております。とても、住みやすい文化都市です。是非とも、一度、遊びに来てください。


コロナ禍、そして不安定な世情、はたして資金が集まるのか? 不安です。衣食住、生活の基本的な要件と比べ、写真やアートは、後回しになりやすいと思うからです。確かに写真は腹を満たしません。しかし、私は信じます。人の根源的な存在から立ち上がる写真やアートは、未来に向かう勇気を与えてくれるのだと。

そして、私は、このクラウドファンディングで、世に問いたいとも思っています。「写真やアートは果たして必要とされるのか?」 「吉原写真館は必要なのか?」 と。 

私は、「写真やアート、そして吉原写真館」も必要だと信じています。この場所を、必要としている人がいると思うからです。だから、この場所を、より磨き、未来に残したいのです。

興味もって頂ける方々、是非ともお力添えの程、よろしくお願いします。貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。

>吉原写真館ホームページ

<募集方式について>

本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

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