クラウドファンディング期間が残りわずかになってきました!
あなたに向けて動画を撮影しましたので、ぜひご覧になって下さい!!
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僕はそう聞かれた時、
過去の僕のように人生の葛藤を抱えている人に、「一人じゃないこと」と「大丈夫だよということ」を伝えたいから。
そう答えました。
飯田淳也と申します。
この度は、当プロジェクトをご覧になっていただき、ありがとうございます!
さっそくですが、この場をお借りて、「僕、飯田淳也とはどんな人間か」又、「なぜ本を出版したいのか」お話させて下さい。
僕の半生を知っていただけるとその理由も見えてきますので、読んでいただけたら嬉しいです!!
飯田淳也(いいだじゅんや)
facebookページはコチラ(どんなこと書いてるか見れます)
1982年12月27日生まれ 現在35歳
東京都足立区で生まれ、3歳の時に父の仕事の関係で埼玉県行田市に引っ越して来ました。
現在は、最愛の人と子供2人、黒猫2匹に囲まれながら、同じ市内で暮らしています。
僕は、心配性でネガティブ思考、世間体をとても気にする喜怒哀楽の激しい母親の影響を多く受けて育だちました。
「自分の期待に応えているか」がものさしの母親。
例えば、テストの点数が良ければ優しく、悪ければ悲しさを醸し出したり、凶変するそんな母親でした。
だからいつもどこかで、母の顔色を伺って過ごしている子供として育ちます。
その影響からか、僕は「人に認められるように行動すること」が大前提の価値観となり、中学生の頃から自分に対して、劣等感を感じることが多くなっていきます。
結果を人と比べて、自分の欠陥を見つける行為はどんどんエスカレートしていき、それはだんだんと「できない自分への怒り」として自分の中心に大きく残り、ひどい時には、自分で自分を殴るようにまでなっていました。
さらに、同級生の1人から突然いじめを受けるようにもなってしまします。
登校すると下駄箱の上履きの中に画鋲が敷き詰めてあったり、ゴミ箱に捨ててあったり、机の中には「死ね」というメモ書きが入っていたり、1つ上の怖い先輩には「飯田が悪口言ってる」という身に覚えのない噂が流れ、登校時や放課後に待ち伏せしていた先輩に殴られるようになります。
学校に登校するのが嫌になり、「今日は何をされるのか…』そんなふうに恐怖に怯える日々を送っていました。
それでも親には言えず、通い続けながら
「どうして僕は生まれてきたんだろうか」
「こんなに辛い思いばかりするなら、生まれて来なればよかった」
本気でそう思っていました。
そんな人間でしたから、高校生になってからも人に対して怯えるばかりで、自分から壁を作り、一匹狼のように過ごしていきます。
「強い人になりたい。もう二度と、いじめられたくないし」
そのような想いから、夜になると駅前に集まってくる若気の至り系のグループの中に居ることも多くなります。
そんなある日、18歳の時です。
そのグループの中の先輩1人が、ある日突然「俺、ダンス始める!」と言い始めました。
それを聞いた僕は、
「自分の体で何かできたら、少しは自信が持てる人になれるんじゃないか!?」
そう思って、週に数回、一緒に地元のダンサーが集まっていた市民体育館へ通うようになりました。
この未知の世界との出逢いが、僕を横道から戻してくれます。
そして、僕はすぐにダンスの魅力に惹かれ、夢中になりました。
ダンサーたちは、年齢も学校も様々でしたが、ダンスを通してリズムと動きで語り合っていました。
共通の話題でも盛り上がれるし、とにかく一緒に居て楽しかったです。
「ここには自分の居場所がある」
そう感じられて、人生最高に嬉しかったことを今でもよく覚えています。
・仲間という存在のありがたさ
・共同作業で進める作品作りの楽しさ
・クリエイティブな遊び心
・人前で何かを披露するという体験
・人前に立つ爽快感
など、本当に大切なことを教えてもらいました。
22歳の時に、僕は初めて社会人をスタートしましたが、この初めての職場でトラブルに巻き込まれてしまいます。
当時、介護職員として働いていた僕は、12月31日〜元旦にかけて夜勤をしていました。
その日、出勤した時点で熱が出ていた利用者さんのところへ様子を見に行った時のことです。
利用者さんの部屋は真っ暗ですから、廊下の灯りで巡視は行います。
利用者さんは発熱のため、脇の下や股関節を冷やしていたので、そのクーリング材の位置がズレているかもしれないと、布団をめくりました。
その時です。
ベッドのシーツが黒っぽく見えました。
「…血?」
そう、それは血のシミでした。
よく失禁をしてしまう利用者さんだったため、僕は最初、血尿が出てしまったのかと焦りました。
「血尿=命に関わる 」
そう思い込んだまま、帰り支度をしていた看護士を急いで呼んで診てもらうと、血の正体は利用者さんの腕の血でした。
腕の白い肉が見えるほど、ぱっくり切れていたのです。
すぐさま病院へ行き、20数針縫って真夜中に帰ってきましたが、なぜそんなことがあったのか理解できないまま、とにかく朝まで業務を続けて帰宅しました。
夕方、施設長から急遽呼び出されたため、会議室へ向かいましたが、到着して話が始まると、すぐにいつもと違うことに気づきます。
「何か恨みでもあったの?」
そんな質問を受けるのですから。
「え…」
本気で耳を疑いましたし、「これは夢の中か?」とも思いました。
まさか疑われるなんてこれっぽっちも思ってなかったからです。
納得できるわけがありません。
やってないものはやってないのだから。
結局、らちのあかない話し合いがこの日からしばらく続きます。
僕は、「警察を入れてほしい」と訴え続けてましたが、施設側は、この件を隠ぺいしようとするし、結局、約1ヶ月後に警察が入ることになりました。
「早く自分の無実を証明したい」
僕はその想いだけでした。
しかし、警察が入るようになったことで、僕はさらに恐怖を感じる環境に追い込まれてしまいます。
警察が施設に現場検証に来たその日から、僕を疑いにかかる場所が施設の会議室ではなく、警察署の取調室になってしまったからです。
約1ヶ月前、「警察が守ってくれる」と信じきって、自信満々に「警察を入れてくれ!」と言っていた自分がバカらしくなった瞬間でした。
警察署の取調室は、本当にテレビに出てくるような個人まわりした薄暗い空間に、テーブルとパイプ椅子があるだけでした。
「日本は世界で一番えん罪事件が多い国…」
何度も頭の中に浮かびます。
第1発見者としてどうにか人を助けようとしただけで、何なんだと心底思いました。
この日から、何の前触れもなく警察に呼ばれては取り調べを受けるという期間が続き、寝ても覚めても、「えん罪にされて人生狂ってしまうかもしれない」という崖っぷち感に疲れていました。
正直言えば、本当はこんな施設すぐにでも辞めたかった。
でも、ここで辞めてしまったら自分が認めたと勘違いされちゃうと思ったので、それだけは絶対に嫌でした。
だから自分の信念を貫き、「明るいはずの自分の未来」を自分で守るしかなかった。
こうして悶々とした日々を続けながら、不定期で警察に呼び出されていましたが、トラブル発生から約9ヶ月後(4回目)の取り調べの時、取調室に「ある装置」が準備されていました。
それは、嘘発見器でした。
その時初めて、世の中に実際に嘘発見器があることを知りましたが、今までの人生で一番大きな恐怖を感じる瞬間となりました。
だって、その得体の知らない機械に、僕のこれからの人生全てを託さなければならなかったのですから。
取調室に毎回入るだけで、不安とストレスで鼓動は激しくなり、吐き気をを起こしそうになるくらいの状況下で、嘘発見器の登場です。
考えたくなくても「こんなに緊張していたら間違った波形が出るんじゃないか」と、最悪の情景が頭に浮かんでしまいます。
そんな不安は御構い無しに取り調べは進みました。
体のあちこちに装置を取り付けられ、「質問に全て【いいえ】で答えなさい」と。
Q:「あなたが〇〇さんの腕を切り裂いた刃物は、家から持ってきたものでしたか?」
A:「いいえ」
Q:「〇〇というお店で購入したものでしたか?」
A:「いいえ」
Q:「あなたが〇〇さんの腕を切り裂いたのは、計画的でしたか?」
A:「いいえ」
Q:「衝動的でしたか?」
A:「いいえ」
このようにすべて僕が犯人前提の質問に、全て「いいえ」で答えます。
さらに、装置が動いてる波形も僕に見えていたため、大きく振れるたびに気が遠くなる感覚でした。
その日から1週間後くらいだったと思います。
施設長に呼び出され、「警察はもうこれ以上、あなたに対してもこの事件に関しても調べることはありません」と告げられ、この人生最大のピンチは幕を閉じます。
「やっと終わった…」
当時は自分を守るために必死で動くしかなかったのですが、僕はこの出来事から
「自分を信じることは、自分を大切にするということ」
「人の評価はどんなに真実を伝えても、変えることができないこと」
「すべては自分の受け取り方が人生を創って行くこと」
を、体感的に教えてもらいました。
それからの僕は、もっと色んな世界を見たくなり、施設を去って、自分が生きている意味、生まれてきた意味を知るため、自分探しをしていました。
その過程中の25歳の時です。
父が急に倒れ、末期の肺ガンだということがわかりました。
病院に行ったその日に即入院し、余命6ヶ月と宣告され、案内された病室のベッドで泣き崩れる父を見てました。
「どうにかしてあげたい」
心底、そう思いました。
その日から父の闘病生活がスタートし、試せる治療は何でもしましたが、末期になると、ガンは色んな場所に転移してしまうため、父の場合も脳に何度も転移がありました。
腫瘍ができる場所によって、時には右半身が動かなくなり、時には言葉がわからなくなったりして、その都度、放射線レーザーで消してはでき、また消してはできを繰り返しました。
それでもめげずに病気と前向きに闘う父の姿はとても勇敢で印象的でしたし、自分が一番辛いはずなのにお見舞いに行くと、笑顔で出迎えてくれる父が居ました。
それから2年間、父は戦い続け、ある朝、病室で息を引き取りました。
その時に、僕はあるものを見つけます。
父が霊安室に運ばれた後、病室の片付けをしてた時にボロボロのカレンダーが出てきました。
それには、父の字で自分の名前や日付、正の字などが書いてありました。
きっとリハビリのつもりだったのでしょう。
いびつな字で、何度も何度も練習するように書いてありました。
「元気になること諦めてなかったんだ」
そんな父の姿勢が伝わってくるメモでした。
そこには、家族に当てた「父の意気込み」も書いてありました。
一部ですが、
「みんなにメイワクかけて本当につらく、なみだが出ます。
何とか早く退院出来るよう今はガン張ます。」
とても歪んだ字で、漢字もまともに書けてません。
でも、思うように動かなくなってしまった手で、一生懸命に書かれてありました。
「こんなに愛されてたんだなぁ…」
あの日、僕に溢れ出てきた涙は、
・今まで僕自身が自分を責めて、人生のありがたさを見落としてきたこと
・他人の顔色ばかり気にして、自分自身のことを一番無視してきたこと
・人や環境のせいにして、ずっと受け身の状態で生きてきたこと
など、多くのことを気づかせてくれました。
お分かりの通り、僕は優秀な人間ではありませんし、かなり不器用な人間です。
しかし、今までの経験があったから、感受性が磨かれたし、自分と向き合うことがたくさんできたし、素敵な仲間を知ったし、自分を信じる大切さを体感したし、自分の人生に本気になる意味も知りました。
そして、それらが僕の感性や知識や使命となりました。
だから、一人でも多くの人に伝えたいんです。
僕は、孤独感を知っています。
だから、同じように葛藤しながらがんばっている人に、「一人じゃないこと」「大丈夫だよということ」を伝えたいんです。
この世の中、今見ている世界のように辛いことだけじゃないことも、もっとも〜っと愛おしい世界もたくさんあること、伝えたいんです。
同じ仲間として。
過去の僕のように人生の葛藤を抱えている人に、「一人じゃないこと」と、「大丈夫だよということ」を伝えたいから。
・自分を好きになれない人
・自分を責めてしまう人
・自分に自信がない人
・自分に劣等感を持ってる人
・自分よりも他人を優先してしまう人
・人の顔色ばかり気にしてしまう人
・幸せを感じれてない人
・人に自分の思いが伝えられない人
・人と自然体にコミュニケーションが取れない人
・勝つか負けるかでいつも物事を考えてしまう人
・これからはもっと人生を楽しく歩みたい人
対象は、これらに1つでも該当し、不安や恐怖を感じながらも頑張っている人たちです。
今までfacebookをメインにSNS媒体で、メッセージを多くの方々に向けて発信してきましたが、やはりSNSですと「読みたい言葉」を探すだけで一苦労なのです。
そのため「エールブック(応援本)」という形にできれば、
●必要としている方々の手元に実際にお届けできる
●いつでもページをめくっていただける
●なるべく近い距離で「一人じゃないよ」「大丈夫だよ」ということが伝えられる
と、思いました!!
本の制作費にさせていただきます。
100部ほど印刷したいと思っています。
その印刷代が約30万円ほどするので、ご援助いただけたら嬉しいです!!
※どんな内容の本になるかは、飯田のfacebookをご覧ください。
①3,000円:
本1冊 + ありがとう動画メッセージ
②5,000円 :
本2冊 + ありがとうメッセージ付き + 制作仲間として個人名掲載(最後のページ予定)
③7,000円:
本3冊 + ありがとうメッセージ付き + 制作仲間として個人名掲載(最後のページ予定)
④11,000円:
本5冊 + ありがとうメッセージ付き + 制作仲間として個人名掲載(最後のページ予定)
⑤30,000円:
企業様向けリターン 本10冊 + クレジット掲載【社名+ホームページURL】
この活動を通して、僕のできる世の中への貢献の仕方で、多くの人に夢や希望を描いていただくお手伝いがしたいし、世の中を少しずつでも明るくして行きたいと本気で思っています。
一緒にそんな温かい世界を創っていきたいと感じていただけたなら、ぜひ僕の本を手に取ってみて下さい。
宜しくお願い致します!!
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