※2022/12/6追記【目標金額達成のお礼】

皆さんのおかげで目標の50万円を達成することができました! ありがとうございます。 
ご支援いただいた資金は大切に使わせていただきます。

クラウドファンディング終了までにはまだお時間がありますので、今後はネクストゴールにチャレンジさせていただきます。
ネクストゴールは100万円です!

せっかくいただいたこの機会に、最後まで走っていきたいと思います。 よろしくお願いいたします!

はじめまして。
花園敦史(はなぞの あつし)です。

1999年生まれ。
鹿児島県出身で大学時代は愛知県、現在は福岡県に住んでいます。

22歳で立ち上げた、美容と健康に関わる商品を扱う「株式会社ARCHI」の代表取締役を務めています。

今でこそ元気な僕は、5歳でウイルス感染から半年近く入院をして、小学生のときは交通事故、そして転倒による脳内出血、また尿検査でも病気が見つかり、さらには中学2年で重度の腎症を患い余命2か月宣告を受けたという病歴があります。

度重なるケガや病気で入退院を繰り返しながらも、薬の副作用に苦しみながらも、大好きなバレーボールを大学時代まで9年間続け、スタメンでエースポジションを務めることも多くありました。

そんな僕は大学時代に目標が見つかり在学中に起業。
4年生の前期に退学をしてバレーボールも辞めて現在22歳(2022年12月に23歳)。

幾度の病気の辛い経験や、生きることもバレーボールも一度もあきらめなかった僕の余命宣告からの10年の軌跡を書籍にします。

病気で苦しんでいる人に夢や希望を与えられたら。
薬で助けられたかもしれないけれど、薬は怖くて恐ろしいということも伝えていければと思っています。

自分の夢に向かって、これからもいろいろな経験と挑戦をしていきたい花園敦史の書籍出版をどうぞ応援してください!



現在、執筆中で2023年4月に出版予定の「余命2か月から10年生きた男の物語」の書籍の中身(仮)を少しだけお見せします。

自分自身を信じて「あきらめない」気持ちを持ち続けていれば、自信が確信に変わります。
僕自身の持つ病気の経験からより多くの人を救いたい。
この書籍から薬の怖さや恐ろしさを伝え、病気で苦しんでいる人に夢や希望を与えられる人になることを目指します。

※本電子書籍は 2023年4月にLaulea Publishing(代表:森永知樹)を通しての出版(予定)となります。

■花園家の3男として1999年12月に鹿児島県で出生
■クリスマスイブに全身が痛く、そして痒くなる
■揚げ物やジャンクフードは一切NG。ハッピーセットはおもちゃだけ楽しむ
■立つこともできない。車イスの卒園式

病状がよく初めて揚げ物の許可がでて
喜んでエビフライ食べている写真

■学校を代表する悪ガキが交通事故のトラウマから道路恐怖症に
■クラブチームでサッカー三昧の小学低学年
■2人の兄の影響でバレーボールに転向
■体育館で転倒して頭を強打。一時、半身マヒに

■中1はマネージャーとして先輩を支え、上下関係や人間性を学ぶ
■「成績が悪ければ部活はやらせない」。厳しい監督のもとに下宿
■中2の夏、新チームでスタメン入りも全国大会出場後に体に異変
■「長く生きても2か月です」「だったら治療はしません。バレーをやります」
■エースポジションの中3。強豪チームで全国3位に

薬の副作用で顔や体がむくんでも
バレーボールを続けた

■2人の兄が通った高校へ進学
■免疫力は通常の1/10。腰痛と高熱に苦しめられた高1バレーボール
■40℃以上の高熱が日常。エースポジションの意地と気力で退院後は病院から体育館へ直行
■変わらぬ不調もほとんどの大会を優勝に導いた高校3年生

高熱も気合いで治す高校バレー時代

■大学もやっぱりバレーボールを続けたい!愛知県の大学で寮生活
■高2で治療(薬)をやめてからの身体の変化
■学生時代にミスコンの東海事務局長を務める
■在学中に起業。「健康を仕事として伝えたい」
■自分自身を信じて行動。あきらめなかったから今がある

レベルが高かった大学バレー部


保育園に通っていた5歳のときに突然、体が痛くなり、足が痒くなりました。
次第に赤い斑点が全身に広がり「紫斑病」と診断。動くと毛細血管が破裂するからと、4ヵ月も入院して、絶対安静の車イス生活を余儀なくされました。

最初の「あきらめない」は
小学校の入学式に出たい!

保育園の卒園式は車イスでなんとか出ることができました。
その頃は歩くことはもちろん、立つこともできない状態でしたが「小学校の入学式は自分の足で歩きたい」。
春休みは懸命にリハビリをして、入学式は学校まで歩いて行くことができました。

体も足もすっかり回復して小学校に通っていましたが、元気すぎる僕は友だちと追いかけっこをしながら赤信号で渡ってしまい車にはねられ体を強打。
救急車で運ばれましたが、ランドセルがクッションになり奇跡的に擦り傷ですみました。

でもその後は車や道路が怖くなり、しばらくは母の送迎でなんとか学校に通いました。

2度目の「あきらめない」は
左半身マヒでもバレーボールを続けたい!

交通事故のトラウマを克服して、小2から小5までは地元のクラブチームでサッカー三昧の毎日でしたが、2人の兄たちの影響で小6からはサッカーを辞めてバレーボールのクラブチームに所属。

家から40分かけて練習に通っていた7月のある日、暑い体育館で脱水症状で倒れて頭を強打。
目が覚めたのは翌朝で、脳内出血により左手足が動かなくなりました。

長く入院してリハビリもして、手足は動くようになりましたが、この脳内出血が原因なのか、腎臓の数値が悪くなりだしたのもこの頃です。

脳内出血の後遺症で頭痛はひどいし、腎臓が悪くなり疲れやすい、熱もでる。
それでも、どんなに体調が悪くても「バレーボールは続けたい」。
体は思うように動かず、むしろ悲鳴をあげていましたが、しばらく休んでいたバレーボール部に復活して、中学もバレー強豪の学校に通いました。

3度目の「あきらめない」は
余命2か月宣告でもバレーコートに戻りたい!

中学校のバレー部は、3年生引退後の新チームになってからはスタメンで活躍。
中2の夏には全国大会に出場するような強いチームでした。

部活と勉強の毎日に「疲れ」を感じていた中2の9月、全国大会後に初めて「部活を休みたい」と不調をうったえると同時に、42℃の高熱で倒れそのまま入院。

検査結果は重度のIgA腎症で、腎臓が2つとも機能していない深刻な状態でした。。
そして、たとえ治療をしても「余命2か月」かもしれないと宣告されました。

そのとき僕がまず頭に浮かんだのが「部活を休まないといけないな」。
顧問の先生に電話をして「入院するので1か月休みます」と伝え、担当医師には「2か月しか生きられないなら薬も透析もやらない。バレーをやって死ぬ」と伝えました。

「バレーをやって死ぬ」とは言っても、正直、死ぬなんて1ミリたりとも思っていなかったです。
同じ病室にいた僕より軽い症状の患者さんが亡くなるのを目の当たりにしても、僕は自分が死ぬなんてまったく思わなかった。
バレーコートに戻ることしか考えていませんでした。

結局は薬の治療を選び、その後、2年間は1日に28錠のステロイドや他の薬を飲み続け、顔や体のむくみ、肌荒れ、眼圧の低下、高血圧などさまざまな副作用に悩まされました。

死ぬ気がしなかった僕は余命2か月を更新して退院。
長い入院で体力がなくなっていてもそのまま体育館に直行し、調整しながら練習に励み、どの大会にも必ずスタメンで出場しました。

中学時代はその後も月に1度は救急車で運ばれ入院し、退院してはバレーコートに直行の繰り返しでした。
どんなに体調が悪くても薬の副作用がきつくても、バレーボールの練習を休むことはなく、エースポジションとして強いチームをつくり、県選抜で全国3位に導いたこともあります。

副作用のニキビに悩まされてた頃

4度目の「あきらめない」は
入退院を繰り返してもスタメンを取り戻せ!

高校は2人の兄と同じ学校にバレーボールの特待で入学。
高校に入ると練習量が増え、体力がついていかずに高熱を出す回数も増えていきます。
またケガにも悩まされました。
疲労で腰を痛めて、歩くこともままならないほどのかなりの痛みでしたが、コルセットをしながらでも練習をして試合に出ていたこともあります。

高1の頃は2歳上の兄と一緒に大きな大会に出ることが夢でしたが、このケガによってスタメンに選ばれず、大会に出場できずに悔しい思いをしました。

体調の悪さはもちろん、体力も気力もついていけずに辛い1年間でしたが、「来年はスタメンになってやる」。
けっしてあきらめませんでした。

薬の副作用でむくんでいた高校入学式

高2になると新チームが結成され、体調の悪さと腰の痛さを我慢していた僕はエースポジションでスタメンに選ばれました。

この頃の僕の免疫力は通常の1/10。
相変わらず40℃以上(ときには44℃)の高熱やウィルス性の髄膜炎などで入退院を繰り返していましたが、「チームに迷惑をかけたくない」「大会に出たい」「優勝したい」。
この一心で、退院後はそのまま体育館へ行き、3日間で調整して大会に挑むなんてこともありました。

高3になっても変わらずよく高熱を出していましたが、県内の大会ではほとんど優勝をするような強いチームでプレーをすることは楽しくてやりがいを感じられました。

その頃の僕の高校のバレー部は無敵といってもいいほど、ほとんどの大会で優勝するのですが、肝心なインターハイと春の高校バレーだけはライバル校に勝てずに常に2位どまりで悔しかったことも懐かしい思い出です。

賞状を持っているのが僕です

5度目の「あきらめない」は
自分を信じて一つずつ夢を実現していく

「薬に頼りたくない」。
高2で薬を飲むことをやめて副作用はおさまったものの、定期的にやってくる発熱や体調不良は大学に入っても同じでした。
しかし大学は親元を離れて愛知県で寮生活。
救急車で運ばれるわけにはいきません。

食生活を見直し、自分(体調)と向き合う時間をつくり、自分自身のことをわかったうえで行動することにしました。
過去の経験から日々の生活に気をつけることができ、大学生の間に救急車で運ばれたのは唯一1度だけ。

全国から選りすぐりの逸材が集まったレベルの高いチームでプレーできることが楽しく、大学時代は必ずしもスタメンのエースポジションとはいかなくても3年生の後期まで続けました。

ケガや病気で体力的にも精神的にも辛くても、余命宣告をされても、大学生になっても大好きなバレーボールを続けてきた僕が、ついに4年前期で大学も部活も辞めました。

将来的にやりたいことがみつかり、学校もバレーボールも辞めておもいきって起業をしたのです。

夢を実現させるにはどんな逆境でも負けない強い意志が必要になりますが、僕にはどんなことも「あきらめない」自信があります。

自分を信じて一つずつ夢を実現していきます。
夢を「あきらめきれない」から。



2012年に「余命2か月」宣告されてから今年でちょうど10年になります。

あの時のことを振り返ると、母は「生きることしか考えていない。バレーコートに戻ることしか考えていない子が死ぬ想像ができなかった」と言います。
僕も、バレーボールも自分の命も「あきらめる」気はなく、死ぬ気がしなかったから「1か月だけ部活を休む」と顧問の先生に電話をしたのだと思います。

あれから10年。
病気で辛かった僕の経験がなにかの役に立たないかと大学に通いながら模索していました。

そんなときに声がかかったのが、とあるミスコンの東海地区の事務局長の仕事。
学校とバレーボールを両立しながら、1年契約でミスコン開催に携わりました。

ファイナリストのみなさん

学生時代にアルバイト経験はありましたが、人生初めての「仕事」の難しさを実感しました。
またミスコンは運営側、裏方、ファイナリストの方などたくさんの「人」が関わります。
「人」を動かす難しさも感じましたが、バレーボールで長年、チーププレーをしていたからこそ、僕にとっては「人」と関わることは得意分野でした。

出場者のみなさんにかわいがってもらいました

このミスコンでの仕事から縁があり、また母がきっかけとなり大学4年で起業をしました。
僕の病気の経験を通して「美容と健康」を伝える会社です。
2022年の7月には法人化をして、毎日、忙しいながらも充実した日々を過ごしています。

体調管理がしっかりとできているので、最近は熱をだすことも、調子が悪くなることもなく、しばらく病院に行っていません。
今は自分がどんな状態かはわかりませんが、きっと健康だと思います。
不調を感じることがないので、難病指定ははずし、障がい者手帳ももらっていません。

「あきらめなければ」
余命宣告された病気だって治すことができる。
なんだってできるということをたくさんの人に伝えたい。

体力づくりとスタイル維持のために
筋トレもしています

「これからもがんばろう」と
念願のオーダースーツをつくりました


ご支援いただいた資金は電子書籍と書籍の出版費用に大切に使わせていただきます。

【資金の使い道】

目標金額:50万円

■電子書籍・書籍出版費用
■CAMPFIRE等手数料

【実施スケジュール】

■2022年12月 クラウドファンディング終了
■2023年1月   準備の整ったリターンから実施
■2023年4月   電子書籍・書籍出版


■電子書籍:2,000円

■書籍:3,000円

■書籍と個人スポンサーセット:5,000円

■書籍10冊と企業スポンサーセット:50,000円

■花園敦史直筆サイン入りユニフォーム+メッセージ入り書籍:100,000円

■書籍を手渡ししてお礼を伝えます:10,000円
※福岡駅からの交通費別途

他にも魅力的なリターンを各種そろえています。
詳しくはリターン一覧をご覧ください。

【パソコンから見る場合】
画面右側、プロフィール下の「リターン」
【スマートフォンから見る場合】
プロジェクト本文下の「リターンを選ぶ」


毎日1ミリでも前に進むための努力。
それさえあれば何かしらの変化はあります。

自分を見失っている方、病気と闘っている方。
今は自分自身を信じて行動し、けっして「あきらめない」こと。

『自信は確信に変わる 』
『自信を確信に変える』

最後には結果として残ると思います。

今の僕の夢。
・オーダースーツをつくること
・自分自身の経験を書籍にすること
・社長になること
・眉のアートメイクをすること(笑)

このうち2つの夢は実現できました。
3つめとなる次の夢が書籍を出版すること。

僕はこれからもどんなこともどんな夢も「あきらめません」。

僕の詳しい病歴や薬の副作用、そしてなにごともあきらめなかった23年間の人生は電子書籍と書籍でご覧ください。
花園敦史の挑戦と書籍出版の応援・ご支援をどうぞよろしくお願いします!


本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

  • 2023/04/04 16:28

    株式会社Laule'a出版の森永知樹と申します。この度はクラウドファンディングのご支援ありがとうございました。出版時期のご予定ですが、5月6月頃となりますので、ご報告いたします。ご支援いただいた皆様には大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さい。

  • 2022/12/23 12:39

    クラウドファンディングも残すところ7日となりました。現在までに57名のみなさまから温かいご支援をいただき、目標金額も139%達成しました。引き続き、書籍と電子書籍の出版に向けて、頑張って活動していきたいと思います。残りの7日も応援・ご支援よろしくお願いします!12月22日に「令和龍馬会」という...

  • 2022/12/06 13:57

    本日、目標金額を達成いたしました。おかげさまでで2週間で40人ほどの方にご支援いただきました。ご支援とともにお一人お一人の温かいメッセージに涙しています。本当にうれしいです。ありがとうございます!僕のプロジェクトの一番の目標はたくさんの方に本を届けること、読んでもらうこと。パソコンやスマホで気...

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