2013/05/10 19:09
水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』(光文社親書)より

「なんか不謹慎な気がする」。出たよ。ある日のtwitterでの『モンケン』に対するつぶやきだ。「不謹慎」。使い勝手のよい便利な言葉だ。自分の立場はあいまいにし、そうを言うことで、ある事象に対しもっともらしい意見を述べているような気分になれる。「不謹慎な気がする」オーケィ。で、その先に続く言葉は何? それを言わないと、どうにも転がっていかない。オレは件のつぶやいた人物に対してそれを訪ねた? 「私は事件のことはよく知りませんが、犠牲者もいるようですから、それがゲーム(=おふざけ)の題材になることは不謹慎だと思います」と返って来た。また逃げられた。

「不謹慎」と指摘することは「世の中にあってはいけない」と繋がっていく。GTA3は神奈川県で有害図書指定を受けた。湘南あたりのサーファーたちは傑作ゲームを県内では調達することが出来なかった。そしてゲームメーカーは過剰な自粛をしていく。君子危うきに近づくな。そりゃそうなる。

でも待ってくれ。現実の出来事をゲームとして遊ぶことがイカンとしたら……。それはゲームが持つ可能性のひとつを奪ってしまうだろう。

『映像の世紀』というドキュメント番組がある。例えば戦争を取り上げた回では、対立する国家のそれぞれのカメラマンが撮影したフィルムが交互にモンタージュされる。ある国家の元首がいる。自国のカメラマンが記録したフィルムと対立国のフィルムに残っているのは同一人物だが、記録者の立場によりその像はものすごく異なる。『映像の世紀』にはそうした「差異」がなんども現れ、僕たちは記録がかならずしも真実ではないことを知る。あるいはそれぞれの真実がある。

ゲームのような体験的なメディアで、不謹慎かもしれない出来事をモチーフにする理由はここだ。『モンケン』は治安する立場でプレイのだが、それと並行して敗走するテロリストとその足取りが描かれる。あるコミニュティから孤立し、凶行に至る若者たちの姿が間接的に描かれる。ゲームとしてそれを体験することは、これまでの記録や記憶を再点検する意味を持つ。それは、あたらしい歴史記述の方法だろう。

問題を「不謹慎な気がする」という言葉であいまいに遠ざけることはもはや罪だ。そのひとことが積重ねられ、ゲームではロック出来なくなってしまった。もちろんオレたちも悪い。でも、「ゲーミフィケーション」はシャバいマーケティングの言葉ではない。「ゲームがあたらしい歴史の記述法になり得る」のだ。この重要なポイントにうなずける方は『モンケン』をぜひ支援してほしい。

連合赤軍からは犯罪者が生まれたが、その発端は20代の若者たちの「世の中をよくしたい」という思いだった。歴史は繰り返す。「オウム心理教事件」の信者たちもそうだった。彼らもやはり「世界をよくしたい」と思う若者だった。それがなぜ活動を続ける中で反社会的な行動へと逸脱し、あげくおそろしい事件を起こしてしまうのか。彼らは例外的な存在なのか? ぼくはそうは思わない。

「ゲーム感覚で人を殺す」というのんきな事がいまだに言われ続けている。人を殺すのは人間で、ゲームにそれは出来ない。問題のすりかえもういい。もっと先に進めよう。現実と創作の関係性の中に何らかの違和感が生じて「不謹慎」という感情が生じる。その本質的な問題は僕たちの日常の中にある。ゲームの力でそれを浮き彫りにすることが事が出来る。それを丁寧に扱っていくことは世界をよりよく変えるということだ。
Power to the Game.Power to the People.
もっと支援を。

(報告者:飯田和敏)