「時代がどれだけ進んでも、『悲しい』『寂しい』という人間らしい気持ちは無くならないはず。どこにいたらいいのか分からない、どこにも所属できてないという苦しみを抱えた人のために、何かできたらと思ったんです」
そう話すのは、家冨万里(いえとみ・まり)さん。オールバックにまとめた金髪にゴールドのパーカー、なによりも快活な笑顔が眩しい。
家冨さんは現在、クラウドファンディングプラットフォームのCAMPFIREで「元ガングロ。東北にセンター街を作る!」を実施中だ。
東京の大田区で生まれた家冨さんは、現在31歳。渋谷のセンター街で青春を過ごしたのち、7年前に岩手県の遠野に移住した。地域と関わる活動をする中で、かつて自分を救ってくれた居場所「センター街」を、遠野にも作りたいと考えるようになったという。
彼女が遠野の商店街に作ろうとしている「センター街」とは、カフェや宿泊の機能を持ち、異世代間の交流を生む施設のことだ。地元の子どもたちがそこで多様な価値観に出合い、「自分らしく生きていいんだ」と気付いてほしい、と家冨さんは語る。
「渋谷のネオンをイメージした衣装を、今日のために旦那さんと選んできた」というチャーミングなエピソードから始まった今回の取材。
家冨さんの話からは、エネルギッシュな印象の裏に隠された「弱さ」もまた見えてきた。弱いからこそ生まれた強さ、さらに、そこから生まれた「居場所作り」への熱い想いをお届けする。
週6日、日焼けサロンに通って「ガングロ」になった
渋谷センター街とは、東京都渋谷区宇多川町にある商店街のこと。主に、渋谷駅ハチ公口から、井の頭通りと文化村通りの間を西に進むメインストリートを指す
ーー家冨さんは10代の頃、渋谷のセンター街に通われていたんですよね。
ええ、元「ガングロ(※1)」ギャルなので(笑)。友達とパラパラを踊ったり、路上でだべったり、放課後になるとセンター街にいつもいましたね。
※1「ガングロ」……髪を金色やオレンジ色に脱色し、肌を黒くするファッションの一種。1990年代後半〜2000年代初頭を中心に日本の若い女性(ギャル)の間で流行し、渋谷センター街に多くのガングロギャルたちが集まった。
高校が渋谷の近くだったこともあり、センター街へは15歳の頃、友達と初めて遊びに行きました。そこから髪を染めてギャルのメイクをするようになって、多い時は週6日、日焼けサロンに通って肌を焼いていましたね。
しかも、1日に2軒はしごする時もありました。元が色白なので、それくらい通わないとすぐ元の肌色に戻っちゃうんです。
その頃に肌を焼き過ぎたダメージはやっぱりあって。この間、全身のほくろの数を数えたら全部で256個ありました(笑)。紫外線でほくろが増えちゃうんですよね。
ーーそこまでして肌を焼いていた理由ってなんだったんでしょう?
うーん、なんていうか、黒い色って強そうじゃないですか(笑)。今思えば、肌を黒くすることで、自分への肯定感を高めていたのかもしれません。
あとは、みんなで肌を黒くすることで、ギャル同士の仲間意識も高めていたのかなと。その根っこには、大人とか社会へ対する怒りがあったんだと思います。
家庭にも学校にも居場所がなかった
センター街に集まる子たちには、家庭や学校などの環境に適応できなくなり孤独感を抱えた人が多かったんです。彼女たちのほとんどは、そんな孤独感をまた味わうことを極度に恐れていて。だから、無意識に群れようとしていたのかもしれません。
ーー家冨さんの孤独感はどこから来ていたのでしょう?
私の場合、大きな原因は家庭不和です。中学校でいじめを受けた経験から人を信じるのが怖くなっていたのですが、中学校~高校にかけて親との関係も上手くいかなくなり……どこにも自分の居場所がなかったんです。それに「みんなと同じようにしないといけない」という空気にも息苦しさを感じていました。
自分らしさを発揮できないもどかしさから反抗的な行動をとるようになり、さらに周囲との関係が悪化してしまう負のスパイラルに陥ってましたね。
そんな風にどうしようもなくなっていた頃に、センター街に出会ったんです。
そこには奇抜な服装や髪型をした、多様な見た目の人たちがいました。彼女たちを通じて、生まれた環境に関係なく、その人の個性や特性を尊重して好きに生きてかまわない場所があることを知ったんです。
そこでやっと、ありのままの自分でいいんだと思えるようになりました。ギャルの仲間たちもでき、センター街が居場所になったんです。
ーーやっと安心できる環境に出会えたんですね。
はい。センター街の場合は身近にAV勧誘のような裏の世界への入り口が潜む環境でもあったので、安心できる場所だったと言えるのか難しいところですが……(笑)。
ただ、そうした緊張感の中で、危険を察知し、自分を守る力も自然と身についたことは確かだと思いますね。
無理しなくてもいいと感じられた、大学での出会い
ーーセンター街に居場所を見つけてから、家冨さんの中で変化はありましたか?
同じ境遇の仲間ができたことで、寂しいと思う時間が減りました。その結果、自分とちゃんと向き合い、頭の中を整理できたんです。
そこで気づいたのが、人や社会に反発する行動は別に面白くないな、ということでした。仲間とつるむことは楽しかったですが、だんだんそこに意味を感じなくなっていったんです。
ーーそれは大きな変化でしたね。
みんな、非行に走りたくて走るわけじゃないんですよ。当時の私も、実はすごくまっとうな生活を送りたいって心から願っていましたし。
それで、大学に進学することを決めたんです。元々、勉強は好きだったので美大の建築学科に合格することができ、キャバクラのバイトをしながら通いはじめました。
ーーどうして建築学科を選んだんですか?
小さな頃から間取り図のチラシを見たり、「理想の家」を想像したりするのが好きだったんです。
大学ではコミュニティの在り方を考える、空間のデザインについて勉強しました。卒業制作では「IDOKORO(いどころ)」という名前で、地元の蒲田で若者の居場所になるようなスペースの設計に取り組みました。
そんな大学生活を通して、みんなで協力しながらものづくりをすることの楽しさを知りました。当時も私はギャル風の見た目だったのですが、その「派手さ」にアイデンティティを感じることもなくなってきて。
ありのままの私を認め、受け入れてもらえる環境で過ごすようになったことで、以前のように無理に自分を強く見せる必要がなくなったのだと思います。
ーーガングロギャル時代に纏った鎧が、一つ外れたというか……。
はい。大学時代に自分の本音に気づいて、見た目だけではなく、本当の意味で強くなるきっかけを与えてもらったことにすごく感謝しています。それ以来、前向きな姿勢で、どんどん自分から出会いの場へ飛び込んでいけるようになりましたから。
この時の経験を通じて、居場所には「自分を認めてくれる人」の存在も重要なんだと学ぶことができました。
震災を機に、生きる力を身につけるため遠野へ移住
ーー大学卒業後はどうされたんですか?
就職はせずに、遠野へ移住しました。東日本大震災がきっかけです。私は震災の年に就活をしていたのですが、ビルの22階で選考を受けている時に地震が起きました。
窓から遠くの工場のタンクが燃え盛る姿が見えて、地上ではたくさんの人がパニックを起こしていて……気づいたら私も過呼吸を起こしていたくらい、人生で一番恐かった瞬間でした。
ーー多くの人にとって、忘れられない日だと思います。
その衝撃が忘れられなくて、この先東京で働いていけるのか不安になったんです。
それに加えて、食への疑問も抱くようになりました。東京の私たちが食べている野菜は、東北の方たちが作っていたものも多いはず。でも野菜がどうやって作られ、どのように私たちの元へ届くのか、私は何も知らない。自分がどうやって生かされているのか、学ばなくてはと思いました。
そこで、若者の農山村での活動を支援するNPO「緑のふるさと協力隊」へ応募し、遠野へと派遣されたんです。
そこでまた、人生観が変わる体験をしました。
「食べ物ってこうやって作られているんだ」「トマトの葉っぱってこういう形をしてるんだ」と、私たちの食の成り立ちについて、野菜の成長を間近で見ながら勉強できたんです。
それに、冬になると家の水道が凍るんですが、そのときに一人でどうやって対処するのかとか……まさに「生きる力」を身につけるための1年でした。
ーー大変ではなかったですか?
いえ、まさにこれが私の求めていたことだと感じました。震災のように、これから何が起こるか分からない。だからこそ、その「生きる力」を学びたかったんです。
また、地縁や血縁が一切ない場所に飛び込み一人で暮らしたことは、自分への自信にもなりました。遠野は言い訳せず、本当に自分で最初から築いたといえる特別な居場所です。
そのまま遠野で仕事を始め、結婚もし、今日まで7年間住み続けていますね。
地方での居場所づくりにかける想い
ーー現在、家冨さんは遠野でどのような活動をされているのでしょうか。
2016年から「Next Commons lab (ネクストコモンズラボ)」(※2)という組織に参加し、地域の人と関わりながら、ラボメンバーの遠野での事業づくりを応援しています。
※2「Next Commons lab」……異分野で活躍するクリエイターや起業家を地域に誘致し、地元資源と彼らをかけ合わせて新しいコミュニティや産業をつくる組織。ラボメンバーはビールの醸造家、料理人、広告プロデューサー、デザイナー、建築家などさまざま。
Next Commons labの活動を通じて、たくさんの子どもたちに出会いました。遠野は田舎ですが、昔のように山で自由に駆け回って遊ぶのが危ないという声も多く、親御さん世代からは「安全な公園がほしい」と聞くこともあります。今の時代に合った子どもの遊び場が、充分にないんです。
コンビニも本屋も家から何kmも離れた場所にあるため、どこに行くにも親に車で連れていってもらう必要があります。しかし親も仕事で忙しいため、ずっと子どもに時間が割けるわけではない。つまり、遠野には子どもたちが自由に過ごせる環境がほとんどないことに気づいたんです。
さらに、地域特有の狭いコミュニティのなかで息苦しさを感じていたり、画一的な教育の中で個性が認められず、苦しんでいたりする子どもに出会いました。
彼らは渋谷のセンター街に出会う前の私のように、自己実現できる「居場所」を求めているんじゃないか?と感じるようになり、今回のCAMPFIREでのプロジェクトを立ち上げたんです。
ーー東北につくろうとしている「センター街」とは、一体どんな場所なんですか?
私が遠野に作ろうとしているのは、人と情報が集まる地域の拠点です。
商店街の空き店舗を改装した空間で、大人たちがお茶飲み話をしている横に、宿題をしている子どもたちがいる。映画鑑賞やものづくりワークショップ、勉強会などの会場にもなる。宿泊機能もあり、遠野を訪れる外の人たちもやってくる。
そんな風に多様な大人と子どもが交流できる場所をつくりたいんです。
はい。そこで地元の子どもが新しい価値観や、目指すべきロールモデルに出会うきっかけをつくれたらと思っています。
さらに、それぞれの独自の能力が可視化され、かつ、相手に伝えても大丈夫と思えるような環境を用意したくて。
例えばですけど、私は事務をやらせたら全然駄目なんですよ(笑)。でも、急に移住を決めてしまえるような行動力は人一倍あります。そんなお互いの得手不得手を認め合った上で、地域でマッチングが起これば面白いなと。「草刈りならすごく得意で上手にできます!」って子がいたら「じゃあ俺の庭、刈っといてよ」みたいなことでもいいんです。
ーー家冨さんが遠野に移住して学んだ「生きる力」にも通じますね。
そうですね! 若者たちが多様な大人とリアルに触れ合うことで、たくましく生きていくために必要な学びを得られる場が生まれてほしくて。
さらに春からは、行動療法士の資格を持つ方が仲間に加わる予定です。専門的な視点を持つ方と連携しながら、生きづらさを抱えている若者へのアシストにも力を入れたいと思っています。
地域でも家庭でも、人は誰しも生まれてくる環境を選べません。だからこそ、その人の個性を認めて肯定してくれる場所が外部に必要だと思うんです。そこで成功体験を積み重ねることが、今後の前向きな姿勢での挑戦につながっていくはず。
最初から100%のものを生み出せなくても、まずは1%のきっかけを膨らませることはできる。そんな風にゴールではなく、スタートのような場所を作れたらと考えています。
ーー素敵な場所ができるよう、応援しています。
ありがとうございます。今回の遠野はあくまで第一歩なんです。
いずれは全国各地に、同じように多様性を尊重する開かれた場所を作るのが夢で。「東北のセンター街」が、その大きなうねりを引き起こすきっかけになれば、と願っています。
全力でもがきながら自分に正直に行動する中で、同じ方向を見つめる仲間に出会い、今日も自分らしく、格好よく生き続ける家冨さん。
体に刻まれたホクロは彼女が今日までサバイブしてきた軌跡であり、その場を照らしてくれるとびきりの笑顔とともに、それは彼女だけの個性であり、魅力なのだと感じた。
そんな彼女が今、全力で取り組む「元ガングロ。東北にセンター街を作る!」プロジェクト。東北に生まれるセンター街は、きっと彼女の笑顔と同じように、多くの若者の背中を前へと押してくれるに違いない。
元ガングロ。東北にセンター街をつくる! 目標金額 3,500,000円 内容 渋谷センター街で育った元ガングロギャル&現スナックのママが、 多様な人が行き交い誰にでも開かれた場所をつくります。 プロジェクトURL https://camp-fire.jp/projects/view/53436