2019/03/21 13:14

修復中の熊本城を紹介するテレビ番組を見ていたら、「二様の石垣は両方とも清正が築いた」という話をされていました。

加藤清正と熊本城【2019年3月】 | 泉秀樹の歴史を歩く | J:COMテレビ

これまでは張り出している拡張(増築)部分は細川時代と紹介されていて、ぼくもそう書いたり話したりしてきたのですが、熊本城調査研究センター・文化財保護主幹の鶴嶋俊彦さんによれば「拡張部分が細川時代という根拠はない」とのこと。

この拡張部分が本丸御殿を立てるためのスペースを確保するためだとするなら、清正は1610年(慶長15年)から本丸御殿を建てはじめているのでたしかに清正構築と考えるのが自然かも。
ちなみに清正はその翌年、1611年(慶長16年)に亡くなっています。そして清正の息子である二代藩主・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が代わりに入場するのは1632年(寛永9年)なので、20年以上の開きがあります。

テレビではこのほか石垣の隅の部分である「算木積み」に清正の特徴が見られるとおっしゃっていました。清正は石を積んだあとに稜線を丸く削って仕上げるんだとか。

ただし1610年(慶長15年)の時点では南北に分断されていた本丸をつなぐだけで、石垣部分の拡張をしたかどうかはわかりません。
余談ですが、この分断された本丸をつないだことにより、熊本城には全国にも珍しい「闇がり通路」という地下通路ができることになりました。

闇(くらが)り通路の解説

震災による被害はほんとうに甚大ですが、修復工事によってあらたに発見されることもあるんですね。

このあたりのことも支援金を持参する際に現地取材してこれればと思っていますので、ひとりでも多くの方のご支援をお願いいたします!
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