2019/12/01 15:01

豊島区内で来年度入学・進学される子どもを持つ生活が苦しいご家庭を対象に、返済不要・成績不問の「WAKUWAKU入学応援給付金」を集めるためのクラウドファンディングに挑戦中の私達「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」。

今回は理事長・栗林知絵子のロングインタビューを掲載します。自身の子ども時代の原体験、支援の世界へ足を踏み入れた経緯から、現在の社会をめぐる状況まで幅広く伺いました。
(本記事は2015年に「マチバリー」で掲載した文章を再編集したものです)

■「おせっかい」のDNA

── 栗林さんご自身、どのような子ども時代を過ごされたのですか?

栗林:私は叔父が営む鉄工所の2階に住んでいました。隣は祖母の自宅でその隣も工場で、そのまた隣は別の叔父が木工所を営んでいて、その隣が叔父の家です。そこで働くおじさん達と家族のように暮らしていました。誰もが「ちえちゃん」と声をかけてくれるし、親戚の家に勝手に上がり冷蔵庫を開けて食べたいものを貰えました。母は叔父が営む鉄工所で経理の仕事をして、父も隣の工場で仕事をしていましたので、親に会いたくなればいつでも会える環境に居ました。夏になると両親は、仕事が終わると私を含む地域の子どもを連れて片道40分かけて毎日のように海へ連れて行ってくれました。

母は兄弟が多かったのですが、その中のひとりの公一おじさんは血が繋がっておらず、実の親から口減らしに捨てられてしまった子を、祖母のおっせかいで引き取った人だったんですね。私が小学校の時におじさんは亡くなり、今も仏壇に写真が飾ってありますが、おとなになって初めて公一おじさんの生育歴や家族になった経緯を聞きビックリしました。

また、母のすぐ下の弟は精神障害がありました。祖母の家は、3世帯同居9人家族で、昼は父も一緒に仕事をしていました。なにしろ賑やかでした。

新潟県長岡市は自然豊かなところです。冬は雪道で、夏は土手や川で思いっきり遊んだ思い出が、今では私の宝物です。その思い出と、祖母から引き継いだ「おせっかい」のDNAが、現在の活動に繋がっていると感じています。

── どのようなお子さんだったのですか?

栗林:昔からちょっと変わった子だったと思います。学校では困った子でしたね。両親が細かいことは干渉しなかったので、勉強はしないし、関心のあること以外はやらない。先生から注意されても「はい?何が?」という感じで、全然応えない。マイペースな子でした。

工業高等専門学校(高校)1年でいきなり留年したのですが、「友達が2倍に増えるね」と思う程度で、凹むこともなく学校を楽しんでいました。学校の先生もクラスメートも先輩も、私を排除することなく、いつも支えてくれました。もしかして排除されたのかもしれませんが、空気読めないので感じなかったのかもしれませんね(笑)

就職を機に上京するのですが、試薬メーカーで学術営業の仕事に就きました。退社までの8年間、社外で常に人と関わる仕事でした。学校の恩師が「ちえこが務まる仕事は、この会社くらいだろう・・・」と選んでくれた会社です。ただそれだけの理由で面接に行き、入社したのですから、将来の展望なんてことは何も考えていなかったんですね。

会社では上司や同僚に「常識の幅が、ふつうよりちょっと広いだけだよね(笑)」と言われていましたが、包容力のある恵まれた環境でのびのびと仕事ができたことに、感謝しています。

子育てがひと段落してから今年の3月までは近所の会社に勤めていました。何か興味を引くものがあると、そっちへ走っていって帰ってこないし、仕事中に妄想にふけっていましたので「サザエさん」と呼ばれていました。

■「宝物のような思い出を子どもたちにも作ってあげたい」

── そんな「何も考えていなかった」栗林さんが、子ども支援に関心を持つきっかけは何だったのでしょうか?

栗林:次男が生まれたことがきかっけです。次男は生後一ヶ月で細菌性髄膜炎で生死をさ迷い、命を取りとめました。その後小麦と卵、乳製品の食物アレルギー(アナフィラキシー)があることがわかりました。「どうして生まれて間もない次男が苦しむんだろう?」と悩みました。自分の今までの生き方を振り返ったし、命の大切さや責任感も感じました。「この子が少しでも生きやすくなるために、何ができるだろう?」と考える中で、次男の身体をつくる「水」や「食」に関心を持ち始めました。

次男は小麦が食べられないので、うどんもパスタも食べられない。お米しか食べられないんですね。じゃあ「どうやったらこの子が毎日おいしくお米を食べてくれるだろうか?」と考えた時に「青空の下で、おなかペコペコだとごはんがおいしいかもね?」と考えたんです。

それから毎日、2歳違いの息子ふたりを自転車の前後に乗せて、握ったおにぎりと水筒、子どもの着替え一式を持って、いろいろな公園や遠方のプレーパークまで出掛けていきました。同居の義父母の目を盗み、来る日も来る日もおにぎり持って公園で遊び呆けていましたよ(笑)そこで一緒にたくさん遊んで、おにぎりを外で食べることによって、なんとかお米を毎日おいしく食べることが出来たんです。

そんな日々の中から思ったのは「私には自然があり、冒険できる環境で育ち、夢中で遊んだ思い出があるのだけれど、この子たちに冒険できるような環境が少ない。宝物になる思い出をつくる環境を創りたい」ということでした。その思いの中から、豊島区内で「自然の中で子育てしたい」母親グループが出来て、さまざまな子育て情報や思いを共有しました。その一つに、「親であっても子であっても、人は対等であり、互いを尊重する関係だ」という考えに出会いました。

目上の人に逆らうたびに「年上に向かって、その口のきき方はなんだ!」と言われ、頑張って成果を出すと、欲しいものを買ってもらえる・・少なからず、そんな誘導的な育ちをしてきた私にとって「人は対等・尊厳を守る」手法は目からうろこでした。忘れていた「子どもの頃に感じた苛立ちの感情」を思い出して、私は子どもには同じことをしないぞ!と決めました。

いま、話しながら気づいたのですが、私自身あの時に「負の連鎖を断ち切ろう」としていたんですね(笑) それからは「子どもの尊厳」を守る子育てに、努めました。

■いきなり代表に! 池袋本町プレーパークの勃興

── 2004年に、豊島区内の冒険遊び場「池袋本町プレーパーク」の運営に関わり始めます。それはどういった経緯だったのですか?

栗林:全国に広がるプレーパークのほとんどは、子どもが遊ぶ環境を守るため市民が繋がり、行政に要望し協働で創る市民運動です。しかし豊島区の場合「区政70周年事業」と称し、行政主導でプレーパークづくりのワークショップが開催されました。私はそのワークショップに参加したのですが、プレーパークの開催場所も、開催時期もあらかじめ決まっていたんです。そのため市民からの文句も多くて、コーディネーターが交替したり回を重ねるたびにメンバーが減って行きました。

ワークショップ当初、現役子育メンバーは4組いましたが、最後まで残ったのは私だけでした。あとは町会推薦で指名された育成の方と、地域の男性、合計3名です。

なんとも心細い発足でしたが「ここでやらなかったら豊島区でプレーパークが実現することはないな」と思っていました。

いろいろ批判もあるけれど、とにかく始めないことには。そんな思いから、唯一残った現役子育て世代というだけの理由で、私がいきなり「池袋本町プレーパーク」の代表になってしまったんです。

── そうして2004年にスタートした「池袋本町プレーパーク」ですが、当時はどのような運営状況だったのですか?

栗林:子ども達は多い日では80人。寒い日などは遊びに来る子も少なく、5人しか来ない日もありました。外遊びが好きな子は、毎回やって来て一日プレーパークで過ごしていました。なかには困難を抱えている子もいました。

プレーリーダーは有償のボランティアでシフトを組み、開設していましたが、リーダーが2人いないと開催出来ません。ボランティアは大学生を中心にお願いしていますので、平日は来られないこともしばしばで、リーダーが2人が揃わないと私が会社を休んで出ることもありました。土日曜日はリーダーがいてもいなくても私もプレーパークに行き、地域の子どもたちと継続的に関わるようにしていました。

── 運営していく中で、悩みはありましたか?

栗林:プレーパークを開設した場所は、地域の方が「ひろばの会」を結成して長年管理していた防災ひろば(空地)です。そこを水曜、金曜、土日祝日をいきなりプレーパークが使用したわけですから、地域住民の理解を得ることは難しかったですね。

「子ども達が野放しで、危なっかしいことをやっているじゃないか!」「好き勝手遊んでいる。なんで注意しないんだ!」という苦情が区役所に届きましたが、年々苦情が減り、「子どもの声、賑やかでいいわね」と声をかけていただけるようになりました。

苦情が多かったころは「栗林さんが辞めるっていったら、いつでもやめるわよ」という感じで、私が「やめる」といえばこの取り組み自体がなくなってしまうな、と感じていました。だからしんどくても「絶対にやめられないぞ」「子どもの遊び場をなくすわけにはいかないぞ」と思っていましたね。

一方で、年に4回のイベントでは少ないボランティアと運営者では手が足りなくて苦労しました。しかし、そのたびに町会推薦で運営に関わってくださいました副代表が、地域の青年団や育成委員会のみなさんに協力を仰ぎ、毎回多大なるサポートをお願いすることが出来ました。ウォータースライダーやそうめん流し、ドラム缶風呂など多くの方のご協力で、子どものやってみたいことが実現できました。

10年がかりで学んだことは、地域の中で活動する場合、地域のみなさんの応援や見守りがなくては活動はできません。ですから活動を理解していただく努力が大切だということです。まずは、自分が地域で協力できることに参加して、初めて地域の方が私の声に耳を傾けてくれる。地域活動は地域と繋がらなければ上手くいかないと実感しました。

結局、共に活動を分かち合う仲間を作ることは難しかったですね。現場の運営の立場では孤立していました。ただ、ボランティアに来てくれていた学生とは、子どもひとりひとりについて共に考え、悩んだことが楽しかったです。

■「WAKUWAKUネットワーク」立ち上げから「あさやけ子ども食堂」へ

── 2010年に、湯浅誠さんらが主宰する講座「活動家一丁あがり!」に参加されます。

栗林:はい。プレーパークで子どものSOSを受け止めながら、自分の無力感やもやもや感を持っていました。2009年の正月、テレビで「年越し派遣村」のニュースを見て、社会問題と地域の子どものSOSに何か合点がいきました。それからしばらくしてからですが、たまたまつけたテレビに年越し派遣村村長の湯浅さんが出演されていたんです。番組最後に「活動家一丁あがり講座を始めました」というアナウンスがあったのを見て、じゃあ行ってみようか、と講座第二期生募集に申し込みました。

私は「子どもの貧困」や「相対的貧困率」という概念、「雇用」や「住まい」「社会保障」の問題にも無知でした。講座に参加して初めてそれら社会問題を知ることが出来たんです。そして、子どもが抱えている問題は、自己責任ではないと確信しましたね。

ただ、受講した当時は「なんだ! こんな話を聞いたところで、うちのまわりの子ども達の暮らしは何にも変わらないじゃないか! 意味ないじゃん!」などと思っていましたが(笑)

いろいろ問題は知ったけど、これでおしまいか?解決する道筋が見えないよ!と納得いかず、二期終了後も引き続き三期生講座も参加しました。講座始まって以来の留年生ですよ(笑)。そうこうしている頃「なくそう!子どもの貧困ネットワーク」が設立されて、子どもの貧困に関係する集会に顔を出し、その中で「無料学習支援」(※家庭環境にかかわらず、十分な学習が担保できない子どもに対し無料で勉強などを教える活動)の取り組みを知ったのです。それで「なんだ、じゃ家でやっちゃえばいいじゃん」と思い立ち、当時プレーパークへ遊びに来ていた中学三年生のT君のために自宅を開放して無料塾を始めました。

当時T君は都立高校への進学を希望していたのですが、経済的に余裕はない。そのため、受験のための塾代費用を「東京都受験生チャレンジ支援貸付金」で賄えないか?とT君のお母様に提案しました。ただ申請は保証人が必要です。一方で保証人の見当がつかないT君一家。そこで私が保証人を引き受けました。

12月30日、ようやく地域の塾にT君を繋げることが出来ました。一方、塾代の貸付額は二十万円で、T君が高校進学したら償還免除の制度なんですね。保証人を引き受けたものの、T君が高校合格しなかった場合に私が返済できる能力もないわけです。今度は私が「困った人」になってしまった。よく困っているのに相談出来ず抱えこんじゃう人っているじゃないですか? まさに自分がそうなってしまい「どうしよう」と困りっている時、たまたま湯浅さんと再会したんです。

── それが2011年ですね。

栗林:「福島原発の爆発」直後の大みそかです。経産省のまわりで年越しを迎えました。湯浅さんと水島宏明さんはじめ活動家一丁上がり講師陣が集まり、年越し対談中継をやると聞き、友人と見学に行きました。久しぶりに会った湯浅さんから「栗林さん、最近どう?」って聞かれたんです。

保証人になったけれど、返済のあてもなく困っている状況を湯浅さんに伝えると、「一緒に学習支援をやっている仲間と分担すればいいじゃない」といわれて。なるほど、と思ったのですが、学習支援サポーターは皆さん学生です。そこで現在WAKUWAKU事務局長の天野敬子さんに相談をしたのです。年始の挨拶代わりに、私の困りごとをメールしました。天野さんは、「地域のみなさんにサポーターになってもらいましょう。くりちゃんはT君のこと伝えるためにできるだけ詳しく経緯を書いてね」と言ってくれました。早速T君の現状を可視化し、「T君の抱える困難は彼の自己責任ではないのでみなさんでサポートしてほしい。」と呼び掛け文を作り、1000円のカンパを募りました。

その結果、まわりの友人たちを経由して顔が見える繋がりが広がり、T君のサポーターが100人くらい集まったんです。彼が都立高校に合格したことで、私が塾代の肩代わりする必要はなくなり、それでも今回のことで出来た繋がりとお金を有効に使いたいね。という思いから「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」が設立しました。

── 立ち上げ後の2012年4月に「あさやけ子ども食堂」をスタートします。

栗林:WAKUWAKU設立5か月後の11月、子ども食堂店主の山田さんが大田区にある子ども食堂「気まぐれ八百屋だんだん」を見て来て、「自宅で子ども食堂をやりたい」という提案をされました。私もT君を支援する過程で見えてきた孤食の問題を何とかしたいと思っていました。12月には助成金も申請しました。そして翌年の4月から子ども食堂がスタートしたんです。3時からスタッフのみなさんが食事作りを開始して、17時30分開店です。私は18時過ぎに、子どもを連れて行く係でした。

── 「あさやけ子ども食堂」がこれほど成功した原因は何だとお考えですか?

栗林:まずは山田さんの覚悟ですね。スタートする前、山田さんに「子ども食堂のスタッフがみんな来れない日はどうする?」と聞いたら「僕はひとりでもやる」って答えられたんです。味噌汁とご飯だけなら自分でも作れるからって。そんな彼の思いや覚悟を聞いてスタッフのみなさんも、山田さんひとりでやらせるわけにはいかないぞ、と思っています。山田さんのお人柄や思いが周りの人を動かしたんです。

それと、WAKUWAKUが子どもの孤食や貧困に至る原因を提起し、国の子ども貧困対策の施策などに対して繋がり・交流の場、食のサポート、そして場をオープンに行うことの大事さを説明する。一方で山田さんがちゃんとそれを実践し実現する場を毎回作っていく。両輪が噛み合ったことで、注目されるようになりました。

── この間、子どもの孤食や貧困、地域コミュニティの問題など、さまざまな問題意識から子ども食堂に取り組む団体が増えています。このような他の活動に対して、先輩から何かアドバイスを頂けたら。

栗林:私は「子ども食堂」はどんな形で行ってもいいと思っています。地域の公共の場所や空き店舗を、高齢者用の施設を借りてもいいし、食堂の休業日を一日借りてやってもいい。これだけ「子ども食堂」的な活動が広がったのは、子どもの育つ環境や、問題が深刻だと知った人が、何かできることはないだろうか?と試行錯誤してつながり始めたからでしょう。

おなかをすかせた子、困難を抱えている子どもは全国にいるわけじゃないですか。だから、この活動が全国に広がってほしいと思います。どんなやり方でもいいから、まずは始めて、繋がりを作っていかないと。

これから始めるNPOなどにひとつアドバイスするなら、なるべくその地域との繋がりを作ることですかね。もちろん啓蒙も大切ですが「地域のみなさま、ご協力いただけますでしょうか!」という旗を立ててください。地域との繋がりを作ることは、なかなか難しいかとも思うのですが、なんとかその地域と繋がってみる。町会を介して子どもや人的な繋がりを提供してもらい、一方でNPOは仕組み作りのノウハウを提供する。そんなコラボが出来れば素晴らしいと思います。

■プレーパークの危機! 繋がりが生んだ奇跡の移転

── ここまで順調に展開されてきたWAKUWAKUネットワークですが、2014年にプレーパークが閉鎖され、その場所に中学校が建つという危機が訪れます。

栗林:そもそもスタートの時点から、防災ひろば(プレーパークの場所)は暫定利用だったのです。しかし、いざ使えなくなる期限が近づき、区に代替え地で活動を継続したいとお願いしても、場所がないから・・と説明されるだけでした。それでもプレーパークの存続は諦めていませんでした。私、しつこいんです(笑)

ちょうどそこ頃、土地を売りたいと考えていた地主さんが女性区議さんに相談を持ちかけました。その土地がプレーパークにうってつけの場所でしたので、区議さんが区のプレーパーク担当課に情報を提供してくれたのです。女性区議さんはT君の受験サポーターでしたので、プレーパークの存亡事情もご存じだったんですよ。

本当にすごい偶然と絶妙なタイミングでプレーパーク代替え地が担保出来ました。しかも、既存プレーパークと、新プレーパーク予定地は目と鼻の先で、今まで遊んでいた子ども達がまた遊びに来ています。プレーパークで出会ったT君を支えたつもりが、まわりまわってプレーパーク存亡の危機を救ってくれました。

── そうして移転したプレーパークですが、以前の場所と比べて変化した点はありますか?

栗林:移転した2014年11月からは以前のプレーパーク同様に水曜・金曜の午後と土日曜と祝日、開設時間も10時~17時の開設でした。2015年4月からWAKUWAKUが受託して開設日時が水曜~日曜と祝日の10時~17時の常設プレーパークとなりました。1日平均100人前後の来場者でにぎわっています。また、平日の開設時間が10時からにりましたので乳幼児を連れた親子も遊びに来ます。

先日もひとり親で孤立ぎみだったお母さんとプレーパークで繋がることが出来たんです。この方は「このままいったら虐待してしまうのではないか」と自身の不安を抱えていらっしゃいました。

こうやって繋がることによって、声をかけて誘い合い、お子さんは元気にプレーパークで遊んで過ごすようになりました。子どもが元気に遊べば親の笑顔が増えます。子どもが安心して成長する環境は、親が笑顔で子どもに接することがなにより大切ですよね。

みなさん、子どもをきちんと立派に育てなければと、がんばりすぎているんじゃないかしらね。

── 移転後の現在、活動は理想通りにいっていますか? 今後改善していきたい点などありますか?

栗林:前のプレーパークでは直火で火遊びもが出来ましたが、移転後は直火禁止となり防災釜戸を利用して遊んでいます。なるべく煙が出ないように炭を使うなどの工夫もしています。なにしろ民家と隣接したプレーパークなので、仕方のないことですね。地域の理解があっての活動なのでね。

私は今年(2015年)の3月に、今まで勤めていた会社を辞めてプレーパークにほぼ毎日詰めています。地域の住民から「栗林さん、新しい場所でもプレーパークやっていいけど、そのかわりそこにあなたがいるんでしょうね?」と、釘を刺されていたもので、覚悟を決めて仕事を辞めちゃったんです(笑)

私は現場と近隣住民の繋げ役は担うことができても、子どもが一緒に木登りや穴掘りがを楽しめるプレーリーダーとしては無理なんですよ。現在、専従プレーリーダーの募集をしていますが見つかっていません。子どもと向き合うスタッフの充実が一番の課題です。

■「見える」と「繋がる」が「子どもの貧困」を解決する

── 栗林さんが子ども支援に関わるようになって約12年ですが、この間、現場で「子ども」をめぐる問題の変化は感じますか?

栗林:特に変化は感じていません。深刻な問題は深刻な問題のまま、見えにくい問題は見えにくいままですし。本質的な問題は変わっていないと思っています。

ただ問題を抱える子の人数が増えたこと、格差が広がっていることが問題で、何か手を打たなければ!という瀬戸際に、この国は立っているんじゃないでしょうか?

── それほど長期に渡って活動に関わってこられたモチベーションは一体どんなものなのでしょうか?

栗林:あまり頑張らないことですかね。暮らしの範囲に活動があるといいますか。活動場所(子どもの居場所)は全て自宅から自転車で5分以内ですから、電車なんて滅多に乗りません。

以前活動に孤立感を感じていた頃は、自分が辞めるといったら活動自体がなくなってしまうプレッシャーがありました。今は仲間がいるのでエンパワメントできますしね。

── 「子供の貧困」はさまざまなデータが既に提示され、誰もが重要だと感じながらも、なかなか具体的な解決へ進みません。それは何故だと考えていますか?

栗林:前にもいいましたが、見えにくいからだと思います。高齢者の問題が解決されるのは、高齢者自身が「困った!どうしたらいいか?」と訴えることが出来るからですよね。一方、子どもは自分から相談窓口に行かないし、どんな酷い環境でもそこにずっといれば、それが普通だと思ってしまう。また、しんどい親御さん、そのしんどさを隠して頑張っていたり、相談する余裕が無かったりね。

だから私は子どもの声を代弁し、現状を見えるようにする役割を果たしたいと考えています。可視化する仲間が増えて「町の子どもの問題を、町の人に伝え、共感者を増やし、さらに直接子どもと関わる場を創っていく」すると、テレビの向こうで聞いた問題が、自分たちの問題へと意識が変わると思います。

プレーパーク(公園)のような屋外交流拠点は、場所と子ども、高齢者と子ども、お母さんとお母さんなど多様な人と場が出会います。繋がり交流する場があれば、そこからニーズに合った何かがまた生まれるかもしれません!繋ぐ人がいることによって、まちの機能が何倍にも広がっていく。まちに「おせっかいな人」がいれば全国どこでも出来ることなんじゃないかしら。[了]

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