2019/10/27 01:05

バラエティロードの目玉である「野点」を行うアーティスト、きむらとしろうじんじんさんのインタビュー。第2回目(全3回)の記事をお届けします。

各地で野点を行ってきた経験から「路上」や「まち」への思いを語ってくれています。


◆じんじんさんにとっての「路上」と「山谷」

僕が言う「路上」って言うのは、ただ単に車が通行できるとか、そういう意味ではなくて、なんとなく人がうろうろしてられる、とか、日向ぼっこしてる人がいるとか、そういう意味です。人が道端でうろうろできるのが当然やと僕は思ってます。

そういう場所で「すんませーん」言うてちゃんと挨拶して、「絶対事故起こしませんので」って言って、きちんとお断りできるのであれば、本当はどこだって野点やりたいんですよ。それは山谷に限らず、どこででもやりたいし、どこででもできるはずとどっかで思ってます。

ただ、できる場所がどんどん減っていってるっていう印象があるんですよ。何某かの”(社会的な)意義”とか、”経済的な効果”とかが保証されないと路上に物を置いてはいけない、それが路上にある(社会的に)正しい理由を説明できないと路上に居れないという方角に、物事を眺めてる側も、やろうとする側も、それを見て受け取る側も、どんどん収縮していってるような感覚を、野点を20年以上やってきてすごく感じてます。


僕は、人の気配が、ちゃんと路肩ににじみ出ている、そういうまちに魅力を感じます。そういうまちのほうが信用できると思っている。

それは、良い悪いの判断ではないんですよね。人間がそこに暮らしているってことは、いろんなことがそこにある。でも、それを、隠して目に見えないようにすることが安全だったり安心だったりするような方角に、今まちが動いて行ってると思う。

だけど、おそらく山谷にはいろんな暮らしとか、その”いろんな”ってものが目に見えるんだろう、っていう予感があったと思います。


野点って、路肩にいてうっかり立ち寄ってもらってなんぼ、なんですよね。うっかり立ち寄ってくれる人の中には、野点のことが好きで最初から目指してきてくれる人もいれば、偶然見かけて、「何やってんの?」って疑問だけ抱えて声かけに来てくれる人もいれば、「普段機嫌よう過ごしてる場所やのに、うっとおしいブツがあるから一言文句言ったろ」思って声かけにくる人もいれば、スタッフの楽しげな様子に誘われてついふらふらっと寄ってくる人もいれば、一瞬だけ写真撮って立ち去る人もいれば・・・。そんなふうに、通りがかりの人がいろんな感覚で寄ってくれてなんぼなんですよ。


でもそれは、ほんとは当然起こるはず、なんですよね。いろんな人が生活してて、その道が自分にとって当たり前の場所として行き来してたら、当然起こることだと思う。

だからそういう偶然が起こらないようにまちが整理されていくことに対して、僕はめちゃくちゃ腹が立ってるんですよ。安全や、という言葉で、シュッとなんとなく納得されてしまうような…怪しげな人がいないほうがいいとか、見えないほうがいいとか…その「怪しげ」っていうのも漠然としたイメージですよね。そういうのがすごく嫌で。

でも山谷で、っていう話を聞いたときに、漠然としたイメージではあるんですけど、山谷では、文字通り”いろんな”人に立ち寄ってもらえる予感というか、確信というかがあったんです。


◆山谷で野点をやってみて

やっぱり居心地がよかった。(笑)それは野点の現場だけではなくて、自分自身の身体感覚としてもですね。

野点の期間中は、山谷周辺に滞在させてもらうんですけど、銭湯行って、安くておいしいごはん屋さんに行ってご飯食って、毎日過ごしてます。やってみて印象が変わった、というよりは、あぁやっぱりええとこやな~と思いました。また“ええとこ”なんて言うと平板すぎるかもしれないけど、僕はやっぱり“ええとこ”やと思います。

で、“そのええと”こっていうのは、“正しい”まちだとか、手放しで喜べるような状況のことではなくて、自分の身体感覚とか、当然あるべき状況があるという意味での"ええ"とこ。信用できる場所やなぁという感覚は、僕にとっては大きいんです。


この「信用できる」っていう表現は、トラブルがない、ということを言いたいのではなく、そこで起こるトラブルも含めて、という意味です。

何かをその土地に着地させたり、土地に根付かせたりしようとしたりしたときに、「やめてくれや」っていう人もいれば楽しむ人もいる。路上で起きる出来事に対しての、そこにいる人たちの感情の動きがちゃんと見える、そういう街のことを信用している。だから、山谷のことはすごく信用できるまちだと思っていたし、野点をやってから今でも信用できるまちだなと思ってます。


やっぱり、野点をやってると「なんや~!」って言って寄ってくる人もいるわけですよ。(笑)その「なんや~!」が信用できる。手放しに誉めてもらえることが信用できる、ということでは絶対ないです。「なんや~!」が“信用できる「なんや~!」”であるということが、魅力的なのではないかな。