2017/03/15 17:34

立教大学山岳部部長で同大教授の辻荘一(1895~1987年)の文書が公益財団法人日印協会(東京都中央区)に残されていた。

日印協会は1903(明治36)年、大熊重信、渋沢栄一らによって組織され日本、インド両国民の文化、経済交流を促進する目的で設立された。

辻は「日印協会会報 第六十号」(1936年=昭和11年12月発行)に「ナンダコット聖峯探検に就いて」と題して寄稿している。

辻は当時、堀田弥一をはじめ部員を毎週自宅に招き、ドイツ人登山家バウアーの原書を読み進めて登山技術を一緒に研究していた。辻自身、神戸一中の生徒のころ、日本アルプスの存在を世に知らしめたウェストンと上高地で会ったほどの登山家だった。辻の息子は、毎日新聞北京支局長をしていた。その毎日新聞社(当時、東京日日新聞、大阪毎日新聞)は後に立大山岳部をサポートすることになるのだから不思議な縁である。

辻の寄稿文を読むと、「この事業に日印協会の協賛を求め、その一般的援助を受けるのは協会の趣旨にも添う事でもあり、またその機関紙の上において登山者としての我々の考へを披露して印度に興味を持つ会員の注意を喚起するのは大いに意義があると思う」と書いている。

辻は、資金の援助を得る目的で日印協会を訪問。会員企業からの支援を受ける見返りなどとして寄稿したのだろう。

堀田弥一も後輩の貴族院議員の子息に働きかけ、この子息を介して大阪毎日新聞社、東京日日新聞社に後援依頼を取り付けている。山岳部一丸になって資金を集め、遠征費を念出し、夢の実現に奔走した。

隊員達の遠征費積算の元は、1929年に出版されたバウアー著書「ヒマラヤ探査行」で、この本には食料、装備などのほか経費まで記録されていた。その経費は約4万マルクで、堀田達は1マルク50銭と換算し、当時の円で2~3万円を集めれば、ナンダ・コートに登れると踏んでいた。

辻、立大山岳部員は、その金額を経費の目安にした。同時に新聞紙上でも募金を呼びかける。堀田達の報告書などを見ると、遠征資金は約3万円を集めたと記録されている。

1930年代の1万円は、現在の貨幣価値にして約640万円。大卒の月給は平均125円とされた昭和10年代である。現在の貨幣価値にして約1920万円もの大金を集めたことになる。

日印協会は第二次大戦中にインド独立運動に協力したとして連合軍によって活動を禁止された時期がある。その苦難を乗り越え活動を続ける日印協会で、立大山岳部の足跡に出会えたのは幸運だった。

寄稿文の末尾には「追記」を掲載している。原稿締め切りのあとに、ナンダ・コート初登頂の吉報を受け、急きょ補足したのだ。その一節。

「私達はこの計画を発表して以来、諸方面の絶大なる援助に対してここに報ゆることが出来たのを何よりの喜びと思うものである」

http://sangaku-e.com/nandacourt/