2017/03/27 20:18

 二週間が経過し、間もなく四分の一の達成となります。ご支援いただいた皆様に、心からお礼を申し上げます。必ずや、ご期待に沿うような内容を作り上げるべく、日々頭の中で練っております。企画の成功のため、拡散などにご協力いただけたら幸いです。

 活動報告、と申し上げましても、具体的な何かをしたというよりは、まだ書籍を作るにあたっての、ぼく自身の気持ちや態度を整える下準備という段階なのですが……。

 神戸に伺う機会があったので、1995年の震災を知るために、上の写真にある「人と防災未来センター」や、ひどい火災に襲われた下の写真の長田区に足を運び、お話を伺ってきました。足で街を歩いたり、展示を見たり、直接お話しすることで、さまざまな発見があり、震災が何を変えるのか、経験の伝承の問題、あるいは一人の心の中での「過去にならなさ」のようなものを肌で知りました。

 阪神・淡路大震災から22年経った今。東日本大震災からも6年経った今。それでもなお咀嚼できない何かを抱えながらも、伝承すべきことを伝承しなければならないと使命感を抱き、活動し続けた多くの方がいらっしゃることを知り、襟を正しながら、「初心者」として多くのことを学びました。

 以下、いささか抽象的な「文学論」、ぼくが準備のために「考えたこと」の報告となります。ややこしいかもしれませんが、ご勘弁ください。

 神戸と東京を往復する新幹線の中で、村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいました。結末部分で東日本大震災を描くこの作品は、村上春樹による、東日本大震災への応答と見てよいと思います。しかし、いわば「ポストモダン・ファンタジー」として東日本大震災に向かい合う態度が、いささかひっかかりました。

 兵庫県出身の村上春樹は、1995年の阪神・淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件にショックを受け、『アンダーグラウンド』と題するノンフィクションの作品を発表しました。「地面の下」を意味するこの作品は、地下鉄サリン事件に関わった人たちへのインタビューなどで構成されています。村上の発言により、阪神・淡路大震災とオウム真理教には、何らかの(象徴的・無意識的なレベルでの)繋がりがあるものであると村上が考えていることがわかっています。

 一般に、この作品は「デタッチメント」(社会に対する非関与)の姿勢から「コミットメント」(社会に対する関与)へ、村上春樹が姿勢を変更した証と考えられています。

 今まで、ポストモダン的な批評を書いてきた自分が、被災地の当事者の言葉を集めて「文学」としようとしていることと、村上春樹が、いきなりノンフィクション作品を作ってしまったことを、どうしても重ねてみてしまいます。何か、その動機が、そこまで突き動かされるショックが何であったのか、ほんの少し、以前とは理解が変わった気がしました。しかし、『騎士団長殺し』では、そのようなノンフィクション的な姿勢が消えている。このような、メタファーに満ちた寓話として「東日本大震災」に処するのが良いことなのか? どうも、ぼくには限界を感じます。あるいは、ぼく自身が、かつて村上春樹が通った道を、遅まきながら、とぼとぼと歩いているのかもしれません。ともかくも、ぼくは今、『アンダーグラウンド』を書いたときの村上春樹に、どちらかと言うと、シンパシーを感じています。

 一つの「事件」を繰り返し変奏して描くことで何が事実なのか不明確にする作風の大江健三郎も、かつて、『ヒロシマノート』という作品を書いています。広島に取材しなくてはならないと彼を突き動かしたものは何なのでしょうか。そのような「事実」への接近の衝動の意味と、その後の彼らの作品の意味はなんだったのか。ぼくは今、途方に暮れながら考えています。

 「文学的」に、「事実」あるいは「真実」とは、どういう意味を持つのだろうか? こんなことばかり日々考えています。文学に、あるいは、言葉になった時点で、全て「事実」そのもの「真実」そのもではない、と原理的に言うことはできる。しかし、「事実の手触り」としか呼びようがないものは確かにある。それは文学にとってどういう意味か。あるいは、文学は、事実や真実、現実に対して、どのような意味を持つのか。

 ノーベル文学賞受賞作家アレクシェービッチが、チェルノブイリの周りにいる人々の言葉を集めて作り上げた『チェルノブイリの祈り』。大岡昇平が、自身も従軍したレイテ島の戦いを理解しようと何度も繰り返し描いた『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』、また、解説とも言える『文学における虚と実』。90年代に「私小説」という時代遅れの手法を使い、「反時代的」に露悪的な記述を行っていた車谷長吉の『漂流物』『贋世捨人』……。「事実」と「文学」のややこしい関係を整理するために、必死に、そのヒントとなる本を読み漁り、どういう態度でこの本を作るべきなのかのアイデアを練り続けています。

 どうすれば、この本が、作られるべき必然性のある、重要なものとなりえるのか……。それが、「文学的価値」を持つのか。あるいは、「文学的価値」のために、「事実」「真実」「現実」を暴き立てたり、それを開示することを要求することの暴力性はないものか。それでもやらなければならないとすれば、何故か……。

 倫理的であり、繊細でもあるべく、しかし、文学的に意義を持った本として屹立させるには、どういうコンセプトにして、どのように被災した人々と関わっていけばいいのか、どのように言葉を求めていけばいいのか……。今、手探りの最中です。