2020/10/15 17:01

SNSが当たり前の世界になったことで、文章としてみるその人が本性なのか出会って話すその人が本性なのかよく分からなくなってるから不思議な世界ですよね。何が言いたいかというと僕は全然怖くなくて優しいお兄さんですよってことです。本当に。


僕は海外渡航経験が多少あって(イタリアとかドミニカ共和国とか)、文化の違いってすごいなあって毎回思います。

イタリアはとにかくコーヒーが好きで常にコーヒー飲んでるような、、、朝起きてコーヒー、お昼前にコーヒー、昼食後にコーヒー、おやつ休憩にコーヒー、夜はワイン飲んで締めにコーヒーって感じです。

ドミニカ共和国は島国なので、のんびーりとしてますね。集合時間が2時間遅れなんて当たり前で、今日が楽しければまあいいさ!お金もないけど、明日のご飯どうするかは明日考えればいいこと!そんな感じです。

文化の違いといえば聴覚障害者、日本手話を第一言語として生きているろう者も日本に住んでいながら文化はちょっと違ってきます。言語が違えば人間関係のあり方が変わるので。

日本語は遠回しに伝える文化があって、ストレートにズバッと言うことは失礼なこととされてる感じありますよね。

ろう者の文化ははっきりズバッと言う方が割と多いので、そこですれ違いが起きることもあります。日本手話はどちらかと言うとストレートに伝えることが多い英語に近いです。

日本1つ見ても県民性や家庭環境などで全然違う文化があって、なんなら血液型でカテゴライズしてあなたはこんな人!って決められてしまうことも、、、

他人のことを無意識に決めつけてしまうのは仕方がないことですし、「人を見た目で判断するな」とか「一部分だけ切り取ってみんな一緒だと思うな」とかずーーっと昔から議論されてきたことです。流行り廃りもありますしね。

1年前の当たり前が簡単に当たり前じゃなくなっていく現状の社会において間違いなく大切なのは、相手の価値観を受け入れることなんじゃないかなあと。

生まれた子どもが男の子の身体だから「〇〇くんだね!」って気軽に言うのもちょっと考え直さなきゃいけないって、数年前の価値観では全然なかったことです。

実は僕は保育士と幼稚園の免許を持っていて実習も何回か行きました。

その時に入ったクラスの1人の男の子(保育園の枠組みとしては)から「先生ちゅーしよう」と言われたことがあります。

もちろんしませんでしたが、この子に対して「そういうことは男同士でするもんじゃないよ」って、、、言えませんよね。この子にとって自然に出た感情だとしたらその言葉はナイフに近い言葉で、、、ってことが一瞬で頭を巡って「だめー!」って言えたのでまだ及第点なのかなと自己解決してますが。

だからこそ僕は「障害」という言葉のいまの在り方を変えることもできると思ってますし、誰もが自分らしく他人の価値観を認め合って生きることがそんな難しいことじゃないと思ってます。

他人から見たその人の悩みって小さく見えてもその人本人にとってはものすごく大きい悩みかもしれなくて、その人本人からすると自分の悩みがくだらない小さいことだと笑われたらどうしようって思うかもしれません。

「珈琲が飲めるようになった」
飲める人はなんだそんなことかって思いがちでも、その人にとっては珈琲が飲めたこと+アルファの大きな喜びが隠れているかもしれない。自分らしく生きるって、自分らしく(他人との比較じゃなく)がんばること。

漠然と考えると無謀なことも紐解いていくと意外と近くに感じることができて、あとは声をあげる人が増えれば少しずつでも変わっていけるはず、、、