2021/02/06 23:45

2019年3月
金沢21世紀美術館で開催されたもやい展。そのブースの一つに、震災後の福島に関する詩歌表現を集めたコーナーがあった。そこで上映されていた動画作品中で、今春の解体が決まった浪江町の浪江小学校校歌が流れるワンシーン。

アコーディオンのイントロが流れるや否や起立し人目もはばからずに校歌を歌い出した一人の女性がいた。

井上美和子さん。肩書きは文筆朗読家。でもその肩書きは震災以降に生まれた。本職はギター職人の奥様、自らはギター屋の嫁と名乗る。

浪江で生まれ震災当時は南相馬市に家族四人で暮らしていた。崩れゆく原発の姿を見て移住を決意。今は京都府の北部で暮らす。

言葉にできない震災の惨状は却って人の心にしまわれた言霊の眠りを覚ますのか?
ある出来事がきっかけで、
「喪失の先に浮かび上がるぬくもり」
「失望と無念の中で去来してくる想い出のふるさと」
をテーマに避難後の関西での出逢いや気づき等をモチーフに書き留めてきた。

それらは「ほんじもよぉ語り」という朗読作品となって、2019年秋から朗読公演が行われている。




もやい展20201東京展では4月3日の正午より展示ホール内の特設ステージで開催!
震災後10年の悲喜こもごもの人間ドラマと四季折々の小さな暮らしのスケッチが浪江弁で語られる。 乞うご期待!!

井上美和子さん、応援メッセージありあとうございます。


『節目の解ける刻・2021』      井上美和子

朝ぁ目ぇ覚めっと。
あぁ。今日だな。
今日になっちまったなぁ。
て思うのな。
布団さ入ったまま
壁のカレンダーの方さ、
頭だげグルーンて回して目ぇ凝らす。
やーっぱなあ。
わがってっけっちょよぉ。
ため息ついだり。
無駄に一回、布団ズリ上げて潜ってみだりよ。

なんちゃねぇわい。
今日さえ過ぎっちまえばよ。

だのって、我あごど何回かなだめだぐれにして。

毎年設定のアラーム鳴る14:46。
祈った。故郷の方角向いて。

まーた足先さぽたぽた涙落としっちまー自分はよ。

張ってねえつもりが気ぃ張っちまってだんだなぁ。
ほうでもねーどいらんにぇがんだべな。

そんじもほのうぢ
なんぼか肩の力抜げでくる。
3月11日の日ぃ暮れっ頃。
まる一年が暮れる2012年のとっきがら

まる二年が暮れる2013年、

まる三年が暮れる2014年、
毎年そうだ。


ほぼほぼ今日1日をやり過ごさっちゃ安堵が、
ちんとずつ自信になるみでな。

夕方6時は、そんな、ほどげでくる時間なんだよね。


ほして開けたほの次の朝。

カレンダーの12日を、じーっくど見でよ。

昨日が足跡になってぐ、私らの新年度を、迎えんだよね。

よーぐ落っこんねーで来らっちゃなぁ、私。

みんなで真っ直ぐ、前の方、見据えでよ。


そんな事を、書いておく、311から10年の夕方だ。


2009年8月の盆の入りの頃。地元の夏祭りに浴衣を着せて行くはずが、娘達が爆睡で大誤算。夜になってから目覚めたところ。後ろの洗濯物の部屋干しが滝の様。今は笑える。懐かしい。


2017年の大晦日前日。秋口、隣(と言っても徒歩3分)のポニー牧場の場長さんが、井上家が埋もれる程の雑草を見かねて草刈りを申し出てくれた。おかげで冬枯れの景色として収まっている。感謝してもしきれない。手前の立入禁止の看板は、除染完了後まもなく、粗大ゴミの不法投棄に見舞われたのを受け、夫が急いで南相馬へ帰宅、私の父(浪江の避難者)と片付けた後に設置したもの。敷地は除染建設作業員との事前打ち合わせ通り、花壇や畑も剥ぎ取られ、運び去られて無くなっていた。


『文筆朗読家への導き』

2017年10月、京都で上演された、
中村敦夫さんの一人朗読劇
「線量計が鳴る」を最前列で観賞し、
感動と共感で大いに高揚した私は、その帰り道で、
「原発避難した母親版があったらいいのにな」
と考えていた。

あの夜、中村敦夫さんの舞台から与えられた、
私たち福島人の可能性。
私は嬉しくなってその気になって作品を書き始めた。
それが、私の小さくて大きな一歩だったと思う。

原発立地自治体・周辺自治体に暮らし、
東電構内に仕事があったり、
東電を顧客として生計を立てていた地元住民の人達。
私は自分も含めて「原発により近かった人々」と表す。

事故発生から10年の間に生じた、数々の見解や偏見。
事故発生直後の、より近かった住民達の避難報道の記憶は、
「事故の検証」という言葉を機に急速に薄れていった。
一人一人の記憶から既に消えかけている、
原発により近い住民達の、避難の実態や変遷を、
どうしたら残せるのだろうか、、、と考え続ける10年だ。

不安と恐怖の発信源となった東電福島第一原発。
あの絶望的な原子炉建屋の緊迫映像。
「一巻の終わり」という言葉が頭をよぎっていた。
飲み水から。農作物から。地面から。側溝から。
計り知れない放射能汚染の実態が次々と明らかにされ、
多くの人が自分の身を守る為に
ニュースに釘付けだった日々。
その頃。
原発からより近い場所から避難した人々が、
何を思い、どうしていたのか。どうしているのか。
あきらめと喪失と共に飲みこんだ言葉。
飲みこんだ言葉はため息に代わり。
お酒に代わり。鬱に代わり。
生きる事そのものの苦しみに代わる事を、
私たちは目の当たりにしてきた。
腹の底に蓄えた想いや叫びを聴き合えない閉塞感。
私たちが共感できる何かを探し続けて来た。

中村敦夫さんの公演後に抱いた、
「避難の母親版」への想いを温め始め、
一年半が過ぎた2019年5月。決断。
「一人朗読劇を始めます!」とSNSで宣言、
だらしない自分の退路を絶って(笑)作品を書き、
準備を進め、2019年9月、京都府のみとき屋さんで
『ほんじもよぉ語り』の初演を無事に迎え、
翌週には京都市内で公演、そして次の公演、次、次、
と繋がり、イベント出演に朗読でとお誘いが来たり、
文筆朗読家・井上美和子がスタートしたんだと思う。

それからも口コミとご紹介の糸は結ばれて結ばれて、
コロナ禍でもオンライン公演により結び目は作られて。
この度、もやい展で出演させて頂けるご縁はまさに、
もやいの結び目に繋がった。そう私は感じています。

2021年の今回のもやい展は東京会場という事で、
どうしても聴いて欲しい方がいます。
もちろん!中村敦夫さんです。
あの日、京都でうずくまっていた私に、
大きな橋をかけて下さった中村さん。
間違ってでもいいから私の朗読『ほんじもよぉ語り』を、
聴きにいらしてくれますように!!(笑)

この先もずっと掴まえていたい記憶のあれもこれもを、
心を込めて。朗読でお届けします。

避難先で迎えた5度目の早春。2016年1月の味噌づくり。早朝暗いうちに起き出し炉に火を入れる。大豆を薪ストーブで煮ている。「豆を煮る」が生まれた朝。


帰還困難区域内にある父方の先祖の眠る墓地。2019年8月、私は事故後初めて立ち入った。イノシシが掘り返した土を父がクワで均す。すると私が首から下げていた線量計の数値はみるみる上昇。最大で2.8μSv/hに。ここで溢れた想いを書いたのが「墓参り」だ。


2020年2月中旬。フォトグラファーの中筋純さんが私の「紅梅の木」を読んだ後、作品の主役である浪江の実家の木の撮影に急行下さった時の一枚。「今は更地となったこの季節の紅梅」を、中筋さんの写真で震災後初めて見る事が出来た。

「もやい展と私」

もやい展との出会いは最近。
2019年3月。金沢21世紀美術館。
彫刻家・安藤栄作さんの作品を観に行った。
そこが、もやい展だった。
思うがままを許された展示。
常識破りの祭典。
もやい展は超芸術祭だった。

中筋純さんとの出会いはその1年前。
2018年3月の御殿場。
部屋を取り巻くような帯状の写真。
そこは浪江町の新町通り。
見慣れた看板の文字。建物の配列。
年毎に同じ地点で撮影されている。
私の生まれ育った町。


嬉しくて2011年3月までの記憶と照合。
年を追うごとに増す写真への違和感。自分の無力さを突き付けられている。頭の中に写真から消えた風景を探しても
私の残像は存外に頼りなかった。
長い時間が過ぎてしまったのだ。
現実の景色が消えるのは切ない。
その上まさか自分の記憶の景色まで
消えかけているなんて情けない。

浪江町の中心街(上:2014年 下:2018年))写真にビンタされた。私は。そして写真に諭された。私は。
それは絶望の直後に湧く希望。
中筋純さんの写真が故郷だ。
故郷に帰りたくなったなら、
純さんの写真に。
飛び込めばいいんだ。



井上美和子プロフィール
福島県浪江町生まれ。
文筆朗読家。詩人。ギター屋の嫁。原発賠償関西訴訟一次原告。
2011年3月12日、ギター職人の夫・子供2人と共に南相馬市から避難。
家族4人で京都府綾部市に暮らす。
「喪失の先に浮かび上がるぬくもり」
失望と無念の中で去来してくる想い出のふるさと。
避難後の関西での出逢いや気づき等をモチーフに書き留めてきた。
2019年秋それらを台本として『ほんじもよぉ語り』朗読公演(井上美和子)を始動。
理不尽な現実を泣き笑いの記憶に溶かし込んだ作風が持ち味。
2020年のコロナ禍はWEB開催の朗読会実施。9月からリアル公演を再開。
文筆朗読を通じ、聴く人の胸に福島県人の風を送り続ける。
作品には浪江町津島のばあちゃんの味噌作りの記憶「豆を煮る」や
原発事故避難当初置き去り余儀なくされた飼い犬ぺぺの奇跡「告白」等


私の母校。2020年12月、浪江中学校の解体は既に決まっている。事故後最初で最後の訪問は、校舎との別れの時間。「学校と放送」に書いた校舎だ。