2020/12/31 08:00

こんにちは! 高次脳機能障害当事者になってもうすぐ6年生、鈴木大介です。この度は『チーム脳コワさん』プロジェクトとクラウドファンディングにご興味を持ってくださり、ありがとうございます。おかげさまで走り出しは順調で、現時点で60%達成することができています。ご支援くださいました方には深く御礼を申し上げますとともに、一層のご協力を賜ればと思います。

さて今回は、高次脳機能障害ってどうしてそんなに「分かりづらい」と言われているのか? その分かりづらいことで、当事者には仕事の場でどんなことが起こりうるのかを、少し知っていただこうと思います。


「あなたとは喧嘩したくないので、この電話、切っていいですか?」

仕事部屋で携帯電話を片手に、涙をボロボロ流しながら、しどろもどろな口調で電話を切ったのは、僕が脳梗塞を発症し、高次脳機能障害の当事者になって3か月ほどたった初秋、深夜のことでした。

電話の相手は、物書きである僕の仕事のパートナーであり、生命線でもある、担当編集者。まだ急ぎの仕事の打ち合わせが終わっていない。決めなければ仕事を進められない議題もある。けれど、どうしても耐え切れずに、僕は電話を一方的に切り、その後自分を消し去りたくなるような自己嫌悪に苛まれました。

どうしてこんなことになってしまったんだろう……。

当時、退院したばかりだった僕は、家族や取引先などと電話をする中で、何度か異様な体験をしていました。話をしていると、電話口の相手の、言葉の意味を聞き取るのが、とても難しくなってくるのです。日本語なのは分かるのに、簡単な日常会話をしているのに、相手の言葉がとても早口で、難しいことを話しているようで、意味が入ってこない。ピンポイントで聞き取った相手の言葉を理解しようと考えているうちに、相手はどんどん話してしまうし、話が進めば進むほど、相手の話し始めの内容が頭の中に残っていなくて「結局この人は何を言いたいの??」となってしまう。

 一方的に話す相手に、自分の言葉を差しはさむ隙もなく、そんな時の僕は何か「言葉というムチ」でビシビシ叩かれているような気持ちになるのです。もう、心の中がいらだちや不快感でパンパンになってしまう……。


「この電話、切ってもいいですか?」

 そんなこんなで、結局僕は全ての取引先に「電話に出ることはできません」の宣言をするに至りました。なんとかとっさの電話に対応できるようになったのは、発症後4年以上が経ってからのこと。いまも電話での打ち合わせはできなくなっているままです。

病後5年経つ今も、取引先から送られてきたメールの指示が不明瞭だったり、複数の要件が整理されずに書かれていたりすると、混乱して相手の要望の一部にしか返事ができなかったり、返信そのものにものすごく時間がかかったりします。たった一枚の請求書を書くのも難しくて、今年の夏には1時間かけて書き上げた請求書に、書式や記載ミスがあって「4度も」書き直しさせられるという苦い経験もしました(A社の経理U様、本当にごめんなさいでした)。

こうした困難は高次脳機能障害となった僕が抱える不自由の、本当にごくごく一部ですが、それでも僕が完全に失職せずに今に至るのは、僕が運よく在宅ワークの文筆業という個人事業主で、取引先もそれぞれ深い人間関係で結ばれた方々だったからに過ぎません。

これがもし会社勤めだったら、ちょっとヤバい感じがしますよね……。


けれどここで、不思議に思いませんか?

僕はプロフィールなどを見ていただければ分かる通り、病後に自身の障害関連の書籍だけでも5冊の本を書き上げて、こうして今も文章を書いています。

え? 本を何冊も書ける人間が、電話に出られない? 業務メールの意味が読み取れない? 一枚の請求書すらまともに書けない? そんなことがありうるのか?

そう思われるのは、ごもっとも。

けれどこれは、この障害がいかに「分かりづらいか」の好例。そして実は、この分かりづらさが、多くの当事者にとって「お仕事の場」で大きな困難の原因になってしまうのです。

当事者が「就労の現場」で抱える困難、よく起こりうることとしては、次に紹介する2つのケースがあります。

まずひとつは、僕の例と同様「本が書ける人間が電話に出られないはずがない。メールを読めないはずがない」といった職場の判断から、困難になってしまった業務に対しての配慮を得ることができないケースです。

これは、いわば「障害の苦しさを無視されてしまう」、「障害の存在をないものにされてしまう」タイプの困難。実際には、連絡は電話ではなくメールにしてもらうとか、メールは返信が必要な要件ごとに番号で整理して、「イエスorノー」で済むぐらいの明瞭な指示にしてもらうといった配慮があれば、ずいぶん不自由が緩和されますが、ここで相手側が「いやいや、だって本が書ける鈴木さんが電話できないはずがないじゃん!」となると、当事者はお手上げになります。

そして、この「お手上げ状態」を加速させてしまうのが、当事者の多くに共通するコミュニケーションの困難(談話障害)です。

僕は言葉の意味を理解したり、話をするのが困難になったりするといった失語症の診断は受けていませんが、病後の日常生活や仕事の中でもっとも難しくなったことに「相手に自分の状況を説明し、誤解を解く」というタイプの会話がありました。

そもそも誤解を解くタイプの会話とは、とてもたくさんの思考を要する会話です。相手はどこをどう勘違いしてしまっているのだろう。どう話せば相手に分かってもらえるだろう。いくつもの思考を複雑に組み合わせて、さらに誤解を深めない、間違いのない言葉を選ばなくてはならない。

そんなプレッシャーの中で言葉を出そうにも、当事者となった僕の頭には、最適な言葉がまったく思い浮かびません。やっと思い浮かんだ言葉を頭の中で組み立てようとしても、思い浮かんだ言葉、組み立てた言葉が、頭からどんどん消えていってしまう。苦心してようやく声に出しても、相手の言葉にさえぎられてしまう。ましてや相手の返答が想定しなかったものだと、またゼロから組み立て! こうなるともう、頭の中は真っ白です。

そんなこんなで病後の僕は、結局相手に何も伝えられないまま、一方的に相手の言い分だけ聞いて終わりの時もあれば、冒頭の担当編集とのやりとりのように、こちらが感情をコントロールできずに言い争いのようになって、余計に誤解を深めたり、関係性を悪化・断絶させたりしてしまうこともありました。

相手はどうして「そんなことも」できないのか分からない。当事者ができない理由を「説明できない」。最悪のケース、「甘え」「わがまま」「詐病」の文脈で判断されてしまう。これが続く限り、その職場は双方にとってハラスメントと苦痛に満ちた、耐え難いものになってしまうでしょう。


一方、ふたつ目のケースは、この「電話に出られない、メールが理解できない」といった不可能の一面だけで当事者の持つ能力を決めつけられてしまうというものです。

再び僕の例に置き換えると、本を書く能力がまだ残っていることに気づいてもらえず「鈴木さんはメールの意味が分からないらしいから、メールを使う仕事はもう無理ですね、本を書くのももう無理ですね」といった扱いをされてしまう……。

ひとつ目とはとは逆の「障害の過大評価・潜在能力の過小評価」といったタイプの困難ですが、これはこれで当事者にとっての地獄です。

実際僕も、病前と比べれば僕は文章を書くスピードが大幅に低下しましたし、いくつかの「書くのが苦手になったタイプ・内容の文章」もありますし、執筆環境を整えなければ文字を書くことができません。誤字脱字や誤変換も病前とは比較にならないほど多い。けれどそれは「書けない」では決してありませんでした。


ひとつ目の「障害をないことにされる」に比べ、この「やれることをやれない扱いされてしまう」のケースは、実は同じ高次脳機能障害でも、診断を受けて就労支援サービスなどにつながっている当事者から、良く聞き取るものです。

頭脳ワークでキャリアを長年積んできた方が、当事者になって、落ち着いた環境でじっくり取り組みさえすれば、病前の経験を発揮した仕事ができる可能性があるのに、「この人にはメール対応するレベルの知的スペックもないから、単純作業しかできない」という、ズレた評価を与えられてしまう。

そして、病前とは内容的にも収入的にも比較にならないような仕事を紹介される。これはもう、病前の仕事にキャリアがあればあるほど、耐え難い屈辱でしょう。


先日は料理のお仕事の方が当事者になって「危ないので火を使ってはいけません」と指導された話を目にしました。コンロの火をつけっぱなしにしてしまうとか、火がついていることに気づかずに危ない行為をしてしまうことと「料理ができなくなる」ことは、全くの別物です。そして料理人から火を奪うことは、尊厳のはく奪です。

もしそれが「支援」だというのなら、「こんな支援だったらいらない!」と、せっかくつながった支援の手を跳ねのけてしまうことだって、大いにありえるでしょう。

自分にやれる能力が残っていることに気づかない当事者もいます。ちょっとした手助けを人に頼むことができれば「やれないと思っていることがやれる」という気づきに、至ることができていない当事者もいます。


全てに共通するのは「可能性の損失」です。

ですが一方で、当事者が仕事の中で何につまずくのか、どんな対応によってつらい思いをするのかは、当事者の脳の受傷部位だけでなく、年齢性別、キャリア形成度、職場での立場、職種業種によって、全く変わってきます。僕自身も、ずっと携わってきた「書くことや出版業界」の場で当事者に起きうることは想定できても、これがデザイナーだったら? カメラマンだったら? となると想像もつきませんし、全く他業種の建築業だったら他職種の営業職だったらとなると、もう完全に濃い霧の向こうの出来事です。

今回の企画は、こうした当事者によって非常に個別性の高い困りごとの事例を、できる限り精緻に掘り起こし、それぞれの当事者の体験を経験知として積み上げることを第一の目標とするものです。

なんだか(いつも通り)蒸し暑い文章ですが、高次脳機能障害は、脳に何らかのダメージを負えば、誰もがなりうる、誰の家族にも、誰の大事な人にも起きうる、非常に身近な障害であり、当事者は「その後の人生」を生き抜いていかねばなりません。

多くの当事者が生き抜いていく戦略を作っていくため、そしてこの分かりづらい障害を独りでも多くの人にご理解いただくため、引き続きご支援をよろしくお願い申し上げます。