2021/09/12 06:00

 いよいよクラウドファンディング最終日となりました。ここまでのみなさまのご支援にあらためて御礼申しあげます。

 今回の本は、私の所属する日本環境教育学会公害教育研究会と公害資料館ネットワークとの協働の産物であると理解しております。2016年以来の両者の行き来があり、それによって生まれたつながりがあって、本書を編むことができました。それぞれの世界の第一線で活躍されている50人もの皆さんにメールやお便りひとつで原稿をお願いするという我ながらまことに大胆不敵なアプローチをさせていただいたのですが、どの方もご快諾くださり、まことに濃密な書き物の束が出来上がりました。ほんとうにありがたく思います。発刊のあかつきには、ぜひお手にとって、じっくりお読みいただきたいと願っております。

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 1959年生まれの私にとって、公害は文字通り同時代ドラマでした。神奈川県内で生まれ、小学校2年生のときに静岡市に移り住みました。東海道線に乗ると、晴れた日であっても富士市に来ると薄暗くなり、強烈な臭いが車内に立ちこめたものです。
「ヘドロ」という言葉は日常語でした。三保の松原付近に海水浴にでかけ海に入った途端、体にべとりと重油らしきものがこびりつき、あわてて海から飛び出すといった経験もしました。テレビでは、年中公害が取りあげられていました。
でも、その様相が80年代に入るとどんどん変わってしまいます。たしか82年夏に卒論を書くために初めて四日市に行ったのですが(そう言えば、四日市公害訴訟判決からちょうど10年目した)、「四日市には青空が蘇った」ということが盛んに言われていました。訴訟の拠点となった磯津の横の鈴鹿川の河口では、親子が海水浴に興じていました。インタビューしたある先生に「ぼくたちは、公害教育ばっかりやっているわけにいかないんだよ」と叱られたことも忘れられない思い出です。

 数年前、チェルノブイリ原発から数十キロのところにあるベラルーシ共和国のホイニキ市を訪ねました。伝えられていたとおり、多くの聚落が「埋葬」され、一面に平原が広がっていました。看板ひとつなく、ほんとうにただの平原。案内してくださった副市長さんに、思わず「皆さんは、忘れることによって前進できると考えているのですか、それとも忘れないことが大事だと考えているのですか?」と尋ねました。彼女は少し考え、こう言いました。「やはり忘れないことが大事です。私たちは、こうした『埋葬された村』の場所に村の記録を書いたプレートをたてることをいま検討しています。」
なんだかほっとしたことをよく覚えています。


 本書は、書き手のみなさんのご協力によって、公害を通して現代史を見直し、未来を考えるテキストになりました。ぜひみなさん、おひとりで読み終えられたあとには、複数で本書を読み合い、語り合う様々な機会をつくりだしていただければと思います。


 それではあと1日、最後までよろしくお願い申し上げます。