2022/03/02 18:00

皆さまこんにちは。ジュマ・ネットの稲川です。


少し難しい話が続いていますが、前回に引き続きチッタゴン丘陵地帯の歴史についてです。

今回は、1947年、インドとパキスタンが分離する時代から始まります。


パキスタン時代

1947年のインドとパキスタンの独立に際して、この地域の人々は、インドもしくはビルマの一部として独立することを望みましたが、そうはなりませ んでした。そのため、東パキスタン時代(1947年~1971年)には、彼らと政府との緊張関係が高まり、憲法改正の末1900年マニュアルの権限が徐々 に制約されていきました。

さらに、1962年にはアメリカの援助でチャクマ族が多く住むランガマティ盆地に発電を目的としたダムが建設され、10万人近い先住民族が移住を余 儀なくされました。そのうち6万人は十分な補償が得られなかったと言われています。また平野部からもベンガル人が徐々にこの地域に移り住むようになり、緊張感は高まっていきました。


バングラデシュ時代から現在まで

バングラデシュ時代(1971年~)に入り、先住民族リーダーは、1900年マニュアルにあった権限回復を訴えますが、完全に新政府から無視されます。抑圧の危機に立たされた先住民族リーダーは、こうした動きに対抗するため72年に政治団体であるチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(Parbattya Chattagram Jana Sambati Samiti, PCJSS)を結成しました。さらに73年にはシャンティ・バヒニ(平和軍)という武装部門が結成され、バングラデシュ政府軍と事実上戦闘状態に入りまし た。この地域への外国人の立ち入りが禁止され、軍が日常的に駐屯し、紛争は92年の休戦宣言まで続きました。

さらに79年になると、政府は平野部のベンガル人を入植させる政策を進め、紛争は深刻度を増していきました。83年までに約40万人近いベンガル人 が政府からの土地、現金、食糧配給を前提に入植し、先住民族と入植者の数は、ほぼ1対1という状況にまでなってしまいました。ベンガル人の入植者の存在 は、この地域の政治をさらに複雑にしました。紛争が続く中、政府による大型開発事業が展開され、多くの先住民族は開発事業のため立ち退きを余儀なくされて いきました。

紛争の激化によって国外に一時非難した先住民族の土地をベンガル人入植者が不法占拠するケースも目立ち、土地を失った先住民族は12万世帯に上ると 言われています。さらに入植者との小競り合いなどがきっかけになり、過去13回を超える虐殺事件が発生し、殺害を恐れて約6万人の先住民族がインドに逃れ 難民になりました。問題解決がきちんとされない理由として、軍や警察の入植者への意識的な加担があるとされています。


和平協定以後

和解を模索する話し合いが何度かあった末、1997年12月にPCJSSと政府の間で和平協定が結ばれました。難民の安全な帰還、土地の返還、軍 の撤退、先住民族を優先した政治体制などを条件に、2,000人近いシャンティ・バヒニの武装解除が行なわれ、難民も無事帰還しました。チッタゴン丘陵に 平和が訪れるのではないかと多くの人は希望を持ちましたが、現時点に至っても和平協定の多くが実施されておらず、政府と先住民族との間の緊張感はまだ続いています。

さらに和平協定の内容に満足できず完全自治を求める先住民族リーダーがUPDF (United People's Democratic Front)を98年に結成し、先住民族の活動は二つに分断される形になりました。その後PCJSSとUPDFの間で、互いのリーダーを誘拐・殺人する報復合戦にまで状況が悪化し、和平協定完全実施のための先住民族の提言活動も効果をあげていません。

弱体化を余技なくされた先住民族の人々は、その後なんとか土地を奪おうとするベンガル人入植者の襲撃や弾圧が続くようになっています。土地収奪から 発生するトラブルは毎日のように発生していますが、その中でもマハルチャリ事件(カグラチャリ県 2003年8月)、マイシュチュリ事件(カグラチャリ県  2006年4月)、サジェック事件(ランガマティ県 2008年4月)等、死傷者が出る大きな事件が発生しています。

以上のように、和平協定が結ばれながらも、実施は不十分な実態が存在しております。また内部分裂の結果、新たな被害者が生まれてしまうことも現実に起きています。

 

イメージが湧きにくく、難しい話ではありましたが、同じアジア地域にこのような問題で苦しんでいる人々がいることを共有させていただきました。

調査チームの子ども達も、こうした紛争における被害児童です。ぜひ、共に彼らの未来を応援できればと思っています。

最後までお読みいただきありがとうございました。