2021/01/09 12:00

 鈴木大介です。いよいよ「チーム脳コワさん」始動の2021年です。本年もよろしくお願いします。


 今日は「障害の自己理解」について、少しじっくりお話ししたく思います。

高次脳機能障害は、日常生活や仕事の中で、本当に小さな当たり前のタスクに、つまづいたり失敗したりしてしまう障害ですが、「丸っとできなくなっちゃう」ではありません。ちょっとした対策を取るとか、周囲に適切に助けを求めたり、理解を求めたりすることで「一気にやれることが増える」という傾向があります。ですから、障害の自己理解は、当事者として生きていく戦略の根幹となるものです。けれど、自己理解とは、単に障害特性がどんなものかを知識として知り、それが自身の不自由とどう結びついているかを知ることではありません。

 偉そうに書いていますが、僕自身の自己理解も、結構ぐねぐねと紆余曲折をたどって、今に至るのです。その経緯とは、どんなものだったでしょうか……。今日はそこから書きます。

障害の知識と自分の不自由が紐づくフェーズ

 まず僕は、幸運なことに、脳梗塞を発症してかなり早い段階(病棟にいる段階)から、高次脳機能障害について、何となくのあらましと、その障害が自分にあるのだということを知識として理解はしました。理解が早かった理由には、僕が病前の仕事の中で、高次脳機能障害に特性が似通っている発達障害関連の本を読んだり、専門医の取材をしたりした経験があったこと、僕自身の妻が、強い発達障害特性の持ち主だったこと、さらに急性期病院の方針だったのか、主治医からダイレクトに高次脳機能障害の残存を告知され、担当STさんから、かなり詳細な障害の説明や、当事者本として『日々コウジ中』(柴本れい)や『壊れた脳・生存する知』(山田規畝子)を勧めていただいたことなどがあるでしょう。

 とはいえ、そうした障害の知識と、自身の中に「具体的にどの障害が残っているのか」、その障害によって「何に失敗するのか」を理解するには、その後とても多くの時間がかかってしまいました。

 たとえば「何に失敗するのか」について、まず一度は「病前通りにやろうとして失敗する」ということを、あらかたやりつくす中で、徐々に知っていくしかありませんでした。これは中途障害ゆえのことでしょう。

 毎度毎度、ありえない忘れ物をする、時間通りに出かけられない、無防備に雑踏に出てパニックになる、慣れた自宅の車庫入れで車をバコバコぶつける、タイマーを付けてるのに味噌汁の鍋を焦がす、取引先とした約束をすっぽかす、自分で書いた資料をすっぽり忘れて、同じ仕事に別の資料を二つ用意する、やれると言って受けた仕事がやれると思った時間に全く間に合わない……。

 ああ、思い起こすのもつらい。自身に障害の知識があっても、その失敗を防ぐことはまるでできず、ほとんど「総当たり戦」のようにすべてに失敗する日々。なかば心折れそうになりながら、それをどんな工夫で乗り越えればよいのかを考えるということが続きました。

 元々、ある程度、障害の知識があったはずの僕ですら、このように総当たり戦になってしまうのは、病前に無意識にやれていた、あまりにありふれたことで失敗するため、「失敗に備えて身構える・注意する」ということを、毎度忘れてしまうからです。

 まさかこんなことで失敗しないだろうということに、全部失敗していく。これが全く予備知識のない当事者であれば、もっと大きな心的ダメージを伴ったことでしょう。

 けれど、こうして総当たり戦を繰り返しても、ようやく「障害の知識と自分の不自由が紐づく」の段階に過ぎません。ここから大きなハードルになるのが、この不自由を他者に開示して、理解や協力を仰ぐというシーンでした。

心を閉ざしてしまいそうだった僕

 が、この「理解と協力の要請」、中途障害の当事者だからこそ、難しいんですよね!

 実際、僕が一冊目の闘病記『脳が壊れた』を発行したのは当事者になって一年後のことでしたが、その巻末には「苦しいと言わなくても理解し、助けてと言わなくても手を差し伸べてほしい」という、ちょっと無茶なお願いが切々と書いてあります。

 そう、実はこの時点では、自己開示も協力要請も、全然できてないんです。

 僕がそうだった理由には、まず、僕に一番近いところにいる妻、高次脳機能障害に近い障害特性の中で生き抜いてきた妻が、僕から何の説明もしなくても「できなくなったのが当たり前・苦しいのが当たり前」という前提で支えてくれたことがあります。

 けれどその一方で、回復期病棟やその後のリハビリ通院の中で接した医療職の方々に、自分の不自由を説明しても「きちんとできてるから大丈夫」「それは障害じゃない」というように、妻とは全く逆の扱いをされてしまった結果でもありました。

 言っても分かってもらえずに傷ついたり、説明できないことを必死に説明しようとして頑張っても「やっぱ理解してもらえない」という徒労感を味わうぐらいなら、何もせず分かってくれる妻のような人を探す方がいい。そんなふうに僕は、心を閉ざしてしまっていたのだと思います。

そんな僕ですから、最も難しかったのが、仕事の場での自己開示や協力要請でした。

 取引先には、「電話で打ち合わせするとパニックになる」とか「3人以上の打ち合わせはパニックになる」「一つの仕事が終わるまで他の仕事はできないし、発注そのものしないでほしい」といった無茶なお願いをしていましたが、それができたのは、どうしてもいまその仕事をやり遂げなければならない相手(僕が仕事やれなかったらあなたも困りますよね?的な関係性の相手)限定で、そうでない取引先には説明することそのものを諦めてしまったからなのです。

「それじゃ仕事にならんでしょう!というお願いばかりで、迷惑をかけてしまう」
「戦力外と判断され、キャリアに傷がつく」
「理解してもらえずにパフォーマンスを発揮できないなら、その仕事はしない方がマシ」
「詐病や甘えと誤認されてしまうのは嫌だ」
「どうせわかってもらえない」
「ちょっと言ってみたけど、分かってくれなかったアイツ嫌い!!」

 そんな感情が渦巻く中、僕は多くの取引先に心を閉ざしてしまいました。あのままだったら、どうなってしまっていたんだろう……。いま思うと、ちょっとゾッとします。

プロの神対応で分かった戦略的配慮の要請

 けれど、そんな僕の状況を変えてくれたのが、一冊目の闘病記を読んで興味を持ってくださった、リハビリ職の方々でした。最も劇的な体験は、発症一年半ほどで対談仕事でご一緒した、北原国際病院(八王子)の峯尾舞OTとの出会いです。

 対談当日、初めて訪れる版元の会議室、初対面の編集と記者さんという緊張する場で、僕は、対談開始と同時にカメラマンがバシャバシャと炊いたフラッシュの光にすっかりパニックを起こしてしまい、人の言葉の意味が全く頭の中に入らない状況に陥ってしまいました。

 対談の頭から相手の話を聞いていないというのは、文字通りの「失態」です。焦って話に集中しようとしても、フラッシュが脳内の思考も言葉も全部消し去ってしまう。訪れる過換気呼吸寸前の胸苦しさ!

 けれど、目の前にいるのは、高次脳機能障害の当事者支援ばかりをやっているプロ中のプロである峯尾さんです。頭の中の何もかもがかき回されているような混乱の中、なんとか僕が

「いま言葉が全く入らなくなっています」

と言うと、峯尾さんはハッと気づいたように、カメラマンを制し、その場にいるスタッフ全員にいま僕に何が起こっているのかということ、フラッシュのような唐突で大きな刺激情報にパニックを起こしてしまうのは高次脳機能障害の当事者にごくごく普通にあるということ、そして、今してほしい配慮など、僕が言いたくても言えない、言ったとしても分かってもらえそうにないことを、全部代弁してくださいました。

 あの時の峯尾さんの言葉のありがたさ、そしてその言葉によってその場の皆さんが配慮してくださったという安心を得たことで、パニックが一気に緩和されたこと、失われた聞き取りや思考の能力が取り戻されていく感じは、あれから4年経つ今でも、何度も何度も思い出すものです。

 「あれ? どうせ分かってもらえないものと、一度は心を閉ざしたけれど、自分から不自由を開示して、配慮を要請していった方が戦略的じゃないか?」

 あの日から、ようやく、そうした気持ちが僕の中で育ち始めたのだと思います。

 その後も、各地方の高次脳機能障害の支援拠点などで講演講師としてお呼びくださった多くの支援職の方々との交流の中で、僕はたくさんのことを学ばせていただきました。「何をされると困るのか、どうしてほしいのか」を上手に伝え、きちんと配慮してもらえれば、苦しい思いや失敗をせずに、自身のパフォーマンスを発揮できるということです。

・講演内容を詰めていくメールのやり取りや指示を、具体的に、シンプルにしてほしい。
・時間通りに話せないので、あらかじめ用意した台本を読むスタイルにしてほしい。
・当日は公共交通機関より自家用車の方が楽。
・日帰り可能な場所でも一泊させてほしい。
・当日の登壇前に、関係各所からの挨拶や、名刺交換はやめてほしい。
・スポットライトやスライドの光の位置を調整し、撮影はフラッシュなし。
・ハンドマイクではなくピンマイク希望。
・対談相手がいる場合は自分の右側に座ってもらう。

等々等々、お願い事は日々増えていきます。

もちろん、これら全てが失敗の中で学んだ配慮のお願いです。地域を代表して高次脳機能障害に携わるような立場の方々でさえ、こちらの伝え方を誤ると、配慮をいただけず、信頼関係も築けないというちょっと寂しい経験もしましたが、今思えばその経験もありがたかったように思います。なぜなら、そうした経験の中で僕は「この障害をどう伝えれば分かってもらいやすいのか」をその都度学ばせていただき、その応用の中から支援職でない一般の人たちに対しても、相手の職種や立場や反応を見極めたうえで「自己開示度のチューニング」ができるようになっていったからです。

戦略的な自己理解の終着点

 僕ら就労世代の当事者、つまり、何とか仕事を続けて、食べていかなければならない当事者にとって、障害の自己理解の終着点に設定したいのは、障害の知識をその後の人生に「戦略的に活かせるようになること」ことではないでしょうか。

 世の中にはまだ障害の無理解ははびこり、障害という言葉を聞いただけで身構える人、過小評価や戦力外視をしてくる人、無駄に過剰な配慮をすることでこちらを傷つけてくる人だっています。

 けれど、僕ら当事者は「今をよりよく生き抜く」ことが最優先で、そういう人たち全員にその都度根気よく説明して自身を理解してもらうことや、いつになるか分からん「社会が真にダイバーシティに拓けるとき」を、膝を抱えて待つのは、全くもって戦略的ではありません。

 戦略的な自己理解とは、自身の障害を知識として知り、自身の不自由と紐づけること。最も安全な専門職に自己開示してフィードバックをいただく中で「伝わりやすい自己開示や援助希求の言葉」を学ぶこと。さらに最終的には、支援職以外の仕事関係や知人関係、地域社会に対しても「正しい相手に正しく援助希求ができる」ようになることです。

「この人なら、障害を全開示、協力を全面要請しても大丈夫」
「この人には部分的な開示と、ちょっと配慮のお願い」
「この人には障害の有無は伝えず、無理にでも健常者のふりをした方がマシ」
「こいつには近寄らない」

といった、助けての声のチューニングまでできるようになるのが、自己理解の終着点だと思うのです。

 言うまでもないと思いますが、これは、当事者のみでは無理で、支援職の協力なくしては、とても成しえないことですよね。一方で、支援職のみでも決して成しえず、当事者と支援職の協働体制があって、初めて作り上げられるものです。なにしろ、僕らの障害は、外から見えませんし、検査で見えてくる障害なんて氷山の一角ですから。

 ということで、改めて、支援職の方々には、まず当事者の訴えを無視したり、徒労感に陥らせたりすることのない「安全な聞き手」であると同時に、当事者のありがたい代弁者であってほしいと思います。また、当事者はその支援職の「理解や代弁」を下支えできるよう、自らの不自由を冷静に観察し、振り返り、開示してほしいと思います。

 今回、当事者の就労の場での不自由を聞き取っていくこのプロジェクトが、僕らからの多様な自己開示になること、当事者と支援職をつなぎ、僕らの生存戦略につながることを、切に望みます。

引き続きのご支援ご協力をお願いいたします。