2020/05/15 09:00

賛同メンバーの、可児市文化創造センターの衛紀生館長より、応援メッセージをいただきました!ありがとうございます。特にフリーランスの方々への支援、彼らへの応援メッセージという形になっています。抜粋版と、全文の両方を掲載させていただきます。衛館長、ありがとうございます。

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<抜粋版>

『32年間のフリーランス時代の蓄積が私をつくった。』
私の原点は、時間にも誰にも縛られず、関心と興味のおもむくままに、勉強したいことに好きなだけ没頭したり、そのようなフリーランス時代の気ままな彷徨が、私の財産だと思っています。40歳を過ぎて、自分らしく生きられる天職に出会えたのも、フリーランスの時代を楽天的に学びながら過ごしたからだと、心底思っています。職員を見ていて、若くから文化的な職業で食べていける時代になったのだなぁ、と思いますが、私には、彼らが持つことのできない「豊かな時間」の記憶があると少しだけ誇らしく思います。何回も夢を描いて、無残に打ち砕かれる挫折を味わえたのは、フリーランスだったからと思っています。経済的に苦しかったのは確かですし、生涯賃金では同級生たちに大きく引き離されていますが、それに代わる「豊かな時間」を持っているという誇りは誰にも負けていないと思っています。

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<プロフィール>

衛 紀生
可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 
早稲田大学中退後、虫プロダクション企画演出課に勤務。ほぼ同時に演劇批評家として雑誌「新劇」等に連載を始める。70年代後半、山崎哲、渡辺えり子、北村 想、竹内銃一郎らをいち早く評価して「第三世代」のネーミングマスターとなる。80年代後半からBSエンターテイメント・ニュースの演劇キャスターを務め、93年に地域演劇の振興と演劇環境の整備を目的に舞台芸術環境フォーラムを設立。早稲田大学文学部講師。県立宮城大学事業構想学部・大学院事業構想学研究科客員教授を経て現職。
現在、芸術文化振興基金運営委員会委員 地域文化・文化団体活動部会 部会長、長岡芸術文化振興財団アドバイザーのほか、十数地域の自治体文化行政にかかわる一方で、文化庁、財団法人地域創造などの委員を務め、あわせて日本照明家協会賞舞台部門、ニッセイバックステージ賞等の審査委員を務める。平成28年度 芸術選奨文部科学大臣賞受賞(芸術振興部門)

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<全文掲載>

『32年間のフリーランス時代の蓄積が私をつくった。』

私が物書きを生業としたのは、大学を中退した後に虫プロダクションの江古田スタジオで企画演出部に所属していた頃、亡くなった立松和平との縁で「早稲田文学」の新人特集に世阿弥の転向についての50枚近い原稿を書いたのが契機でした。その直後に、虫プロに組合をつくらなければトレースや彩色を担当している若い人たちに未来はないと思って、組織作りに動いていたことが会社に筒抜けになっていて、ケツをまくって辞めました。何しろ100時間残業の社員など掃いて捨てるほどいましたし、原画をなぞってGペンで線を描くトレースの女子社員の月給が18000円。六畳一間、共同トイレのアパートの家賃がちょうど16000円だった70年代初頭のことでした。渋谷の職業安定所に毎月通って失業保険を満額受給して、その金をすべて叩いて、9月に沖縄の先島諸島のニライカナイ幻想と土俗宗教の関連と大隅半島の平家落人の集落、出雲神話の少彦名命が渡来人で隠岐にその痕跡があるはずとの仮説を立てて、4か月半の旅に出ました。出発前に「早稲田文学」を読んで編集者から依頼のあった原稿を渡して、そのまま大きなリックサックを背負って竹芝桟橋から沖縄に向かいました。

私の生き方を決定づけた『底辺の美学』の著者で私淑していた、詩人で評論家の松永伍一先生は、そんな無鉄砲な私を思いついたらすぐに行動に移すところは「ナルシスト」とおっしゃって、上石神井のお宅に伺ったときに愉快そうに笑っておられました。和っぺいとの縁で書き始めたのが21歳の時で、それから53歳で県立宮城大学・大学院の教員になるまで、私は32年間、フリーランスという「潜在的失業者」を通していました。両親の介護と死を挟んで、20代はクラブマネージャー、ライブハウス雇われマスター、メッキ工場の工員、チリ紙交換、鉄屑回収業、飯場に泊まり込んでの南武線と武蔵野線の線路工事など、どちらかと言えば「汚れ系の肉体労働」で生活費を賄い、その合間に連載の原稿を書くといった日々を過ごしました。何しろ当時の原稿料は400字の原稿用紙1枚500円から800円という安価。たまに入る富士ゼロックスのPR誌「グラフィケーション」は1枚5000円ももらえるので、一人前の物書きになったようで夢のような気分でした。寝たきりの両親を見送ってからの30代前半は、物書きとクリエーターの感覚を生かして、ヤマギワ電気、日本航空、トヨタ自動車、明治生命、パルコなどの広告のコピーライターやアートディレクター、TBSのラジオドラマ脚本、『ポパイ』とか『 ブルータス』とかの若者向け雑誌に、編集者の「誰それ風の文体で」というかなり無責任な依頼に応えるなどの「綺麗系の仕事」をしながら、演劇評論家として読売演劇大賞審査員、朝日新聞年間ベスト5の選考委員、NHKラジオの演劇月評などをやりながら、30代半ば過ぎには演劇系の物書きを生業とする生活に近づきました。

沖縄行から12月に東京に戻りましたが、とりあえず何かアルバイトでもして食つなぐか、とかなり楽観的に構えていました。これが「若さの強味」なのでしょう。ところが留守中に原稿依頼が来ていたのです。「新劇」、「新潮」、「読書新聞」からの依頼で、おそるおそる編集部に電話して「原稿料は頂けるのですか?」と聞いて、「ええ、些少ですが」の返事を聞いて、しばらくはこれで食いつなごうと思ったのですが、原稿料が前掲のように、文字通り「些少」だったのです。40代初め、1990年代になって東京の演劇を評価する仕事にむなしさを感じ始めていました。その頃には、女性誌や週刊誌など12、3本の連載を抱えて、NHKBSの「エンターテーメント・ニュース」の演劇歌舞伎のキャスターとNHKの「ラジオ深夜便」の宇田川清江さんの回のレギュラーなどをして、年収はそれでも600万円~700万円になっていて、確定申告をすれば30万円前後の還付のある「身分」になっていました。当然、生涯賃金では同級生には到底及びませんが、何とか大人らしい所得になったと感じていました。

ところが前述したように劇評という仕事にむなしさを感じるようになっていました。当時は「笑ってる場合ですよ」というタモリの「笑っていいとも」の先行番組で「ネアカ」と「ネクラ」という選別語が人口に膾炙し始めていて、「評論家」は「ネクラ」に分類されて「ヒョーロンカ」と雑誌には表記される有様でした。そこで、テレビとラジオの番組が終わるのを機に、13本あった連載を一本だけ残して編集者と喧嘩しても連載を途中で辞めて、地域に出ることにしました。先日鬼籍に入られた、蜷川さんの芝居で札幌に来られていた文学座の坂口芳貞さんと飲んだ時、「衛紀生は狂った」と皆が言っていたと聞きました。年収は10分の1になりました。それでもかつての米国の「リージョナルシアター運動」のように、地域演劇と地域文化の健全性で、東京を包囲しようとの妄想に駆られたのです。松永伍一先生の慧眼が見通した通りの「ナルシスト」ぶりを発揮した自分自身にはいささか呆れていました。40歳を過ぎて年収60万は呆れますが、蓄えた金で地域の施設や市民運動や文化的な福祉活動をめぐって全国を歩いたことが、いまの私の生き方をつくっていると思っています。いまで言う発達障害の子供たちと1年かけて15分程度の芝居をつくる青年との出会いがありました。蜷川幸雄さんの芝居と比べるのも何ですが、別の評価軸ではこの子たちの舞台も価値があると思ったものです。

思いつくままに書き綴りましたが、私の原点は、時間にも誰にも縛られず、関心と興味のおもむくままに、勉強したいことに好きなだけ没頭したり、そのようなフリーランス時代の気ままな彷徨が、私の財産だと思っています。40歳を過ぎて、自分らしく生きられる天職に出会えたのも、フリーランスの時代を楽天的に学びながら過ごしたからだと、心底思っています。職員を見ていて、若くから文化的な職業で食べていける時代になったのだなぁ、と思いますが、私には、彼らが持つことのできない「豊かな時間」の記憶があると少しだけ誇らしく思います。何回も夢を描いて、無残に打ち砕かれる挫折を味わえたのは、フリーランスだったからと思っています。経済的に苦しかったのは確かですし、生涯賃金では同級生たちに大きく引き離されていますが、それに代わる「豊かな時間」を持っているという誇りは誰にも負けていないと思っています。

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