2016/07/01 09:37

2015年5月19日~5月23日 Wさんより

 

震災から5年…わたし達親子は震災があった月の3月20日新潟〜小樽のフェリーで小さなカバンに3日分の衣類とパソコンのみで元旦那と3人で土地勘もない北海道へ自主避難をしてきました。
ホテル暮らしを転々としているうちに食費やホテル代がかさみ、慣れない生活の疲れなども含め元旦那は「友達は誰も避難していない、仕事をしたい」と福島へ1人帰り帰っていきました。

それから母子避難という形をとり、いろんな情報をかき集め沢山の方々からの支援により生活をしてきましたが、知らない土地での就職先を探すもなかなか決まらず、貯金を切り崩し生活をしていました。

二重生活や金銭面での苦痛もあり、私は余震の続く中での避難中に見たムスコの血の池のような鼻血を見て、もしこの子に何かがあったら謝っても何しても足りない、でもこの子から父親がいなくなるなるのは可哀想だから福島へ帰ろうかと散々悩み色々考え、話し合いの結果「息子を守る」その意思を固め別れを選択し、パパのいない生活が始まりました。

同じ避難者の皆様や支援者の皆様のおかげで何とか最低限の生活を取り戻すことはできました。
ですが体調を崩す度に私に何かがあったらこの子はどうなるのだろうか、「福島に帰って来なさい!」という母の一言が心に刺さったり、私の腎臓に腫瘍の影があると聞かされた時には絶望さえ感じ、福島に帰ろうかと思った時期もありました。

福島に残してきた家族に会えない寂しさや、ニュースから流れる福島のテレビ番組、故郷を思わせる音楽が流れる度に家族を思っては涙が止まる日はありませんでした。

やっと北海道という土地に慣れてきて仕事先が決まっても車のない生活で、往復約1時間半の通勤。いくら働いても通勤、託児料、病院代とかさむ費用に悩まされ家族に会いに行くことすらできず、やっと細々と貯めた貯金で避難から2年後福島へ1度帰省し家族と会えた時がありましたが、やはり外部被曝、内部被曝が気になり楽しみつつも不安が募りそれ以来3年会うことができずにいました。

そんな中私の両祖母が心筋梗塞、脳梗塞、原因不明の血液の病気で入院生活を繰り返すうち、祖父を脳梗塞で亡くしお葬式すらでられず、体調も崩れていきどんどん生活が苦しくなっていきました。

そんな時[パパに会いたいプロジェクト]を見つけうちにはパパがいない…我が家には叶わないことだけれども、でもクリック1つで誰かしら一人でも家族に会えるならばと1日1度クリックで応援をしていました。

ある日たまたまつけていたテレビで福島の特集が組まれた番組を見て「バァバに会いたいなぁ」その息子の一言が胸に刺さりダメ元でもと思いきって息子を祖母に合わせたいのですがと相談をしたところ、有難いことにこちらのプロジェクトにより私の母が北海道に来れることになりました。

そして18日の昼フェリーで母が来札することができました。
今までは電話やスカイプなどで話したりしていましたが、震災前は毎週のようにあっていた家族とあえなくなり、笑ったり、泣いたり、時には叱られたりもしますが、顔を見て話せる事がどれだけ大切か触れ合う事の大切さを身に染みて実感しています。

母は1週間と言う期間の滞在ですが私達親子の生活や北海道の良さを知ってもらうためレンタカーを借りたり、友達のご好意で母と息子と私3人の楽しい時間を過ごせている事にとても感謝しています。

特に息子が母に甘え今まで見せた事のないような笑顔を見てとてもうれしくおもいます。
初めて北海道に来た母も北海道の良さを知り、また家族みんなで北海道へ会いに来ると今からとても楽しみにしています。

それもこれもこのプロジェクトを立ちあげてくれた皆様、そして賛同しご協力いただいた皆様のおかげと、感謝してもしきれない思いでいっぱいです。

このプロジェクトのおかげで不安定になっていた私の精神も安定し、食欲さえなくなっていた私が食欲も出てきて、子供に戻ったような気持ちで安らげています。

そんな親子がいる事を少しの人でも知っていただけたら…
母子家庭の母子避難で不安や、悲しみ、辛さを抱えている人は私だけではないはずです。
このような機会で救われる思い、助かる命がある事を知っていただけたらと思います。
この度は本当に有難うございました。感謝してもしきれないです。

 

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ご事情によりお母さんとの再会支援をさせて頂きました。

パパだけではありません。

家族がなぜ離れて暮らすこととなったのか。

どうかその気持ちをご理解ください。

安心だ、危険だということ以前に、この現実を見てください。

そしてご理解いただけたなら、力をお貸しください。