俺のしごとは社会のためになれへん会社のためにもなれへんでも、ひとりの女の子がきれいになってちょっと自信をつけて帰っていく姿をみてたらうれしなる。あるとき學さんはそう話してくれました。いつのまにか世の中は、ソーシャルグッドな価値観をもつ人が増えていて「グッドデザイン」は、表面的なカッコよさなんかじゃなくて社会の仕組みそのものをリ・デザインしていく革命児、みたいな役割をも担うようになった。(いや、もともとデザインってそうだよ、という話はおいといて)人にやさしい、社会にやさしいデザインがモテているぞ、でも、都市のデザイナーたちと、地域でがんばるデザイナーたちがみな似たようなデザインをするようになったな、とも思っている。そこそこ、みんなうまい。デザインの見本は、たぶん発注者の段階で、ピンタレストから検索しまくって「こんなかんじでー」とか言われるんだと思う。言われるし、言うこともあるし。そんななかで、へそ曲がりなので、バッドなデザインはバッドなのか?(下手糞といういみではないよ)とかおもってて。まあ、そんななかで自分たちのやってることをぐーーーーっと引きでみてみると、何をしてんだろうと考えるのです。おねーちゃんの裸の絵を描くのが好きだから描く、それ以上でも以下でもなかった東學が、ボディペイントをはじめてちょっと変化があったのです。それが冒頭のフレーズ。絵を、生身の女性の身体に描くことによって温度をもったというか。絵が、コミュニケーションし始めた。絵師のまえで裸をさらした女性たちが8時間ぐらいの共犯作業の後にシャワーでその絵を洗い流した時にとてもスッキリした顔して帰っていくという。東はそれをみて「うれしなる」という。社会というものは「たったひとりのあなたやわたし」でできている。きょう、死んでしまいたいぐらい泣き崩れているオトコノコやオンナノコが生きていく力をとり戻す。CURE知らず知らずにやってきたことだけど女たらしで、人たらしの役割なのかな。たぶんそうだ。いつか刺されるぞ、と思いつつ。wたくさんの応援ありがとうございます。まだまだ続けます。