安土城再建を目指し信長がローマ法王に贈った幻の屏風絵を探す
以前から文化庁が安土城を再建する条件に屏風絵の発見があり、滋賀県や旧安土町でも調査団を派遣していたが、未だ見つかっていない。既に当会も海外でも有名な写真家 杉本博司と探す屏風絵探索プロジェクトなどの支援をしているが、発見までの道のりは長く、多難である。
そこでフランスに在住している当会会員も屏風絵調査を開始し、日本、イタリア、フランスで連携しながら、調査を進める。屏風絵はイタリアとフランスのどちらかにあると思われ、より多くの方に調査に加わっていただくことで、発見の確率をあげていく。
クラウドファンディングで文化財調査と安土城再建支援者を募る
夢の実現(屏風絵発見⇒安土城再建)に向けて、歴史・文化マニアの方は、是非応援・支援し、ご一緒に、時代を動かす主人公になっていただきたい。ハードルは高いが、地道な活動により、実現可能と判断している。行政やTV局なども巻き込んで、大きな調査体制が構築できれば、発見の可能性はより高まるでしょう。もし発見できれば、滋賀県及び近江八幡市だけでなく、日本の観光・経済及びまちづくりへの効果は図りしれないでしょう。
支援金の使いみち
調査渡航費40万円の補填、返礼品、クラウドファンドの手数料に使用します。
実行スケジュール
11月10日~16日にイタリア(ヴェニス、マントバなど)を訪問し、現地視察や当会会員及び関係者と組織化及び調査計画を打ち合わせします。その結果をレポート(A4 5枚くらい)にまとめて報告書をつくります。来年1月から2月に近江八幡市内のイタリアンレストラン ヴィーテ(下記地図参照:近江八幡市役所隣の近江八幡文化会館内)で昼食をしながら、視察状況と組織化に向けた報告会を開催します。
*下図左が内藤案のイメージ図です。中央部の地下に宝塔とその上には十数メートルの吹抜けの空間があります。その中上部には4m四方の舞台があり、信長が右図のように幸若舞敦盛を踊っていたとされています。最近の調査で越前幸若舞は祈祷の舞であり、信長の先祖はその舞の発祥の地の神官(織田剣神社:上図)であることがわかっています。信長は、生涯この舞を踊っており、安土城は天下統一に向けた、祈りの城(神殿という言い方をする人もいます)であり、あらゆる宗教の要素を取り入れた特別な建物でした。反対されている方々は、天守指図は想像上の図面で信憑性がなく、安土城も当時の城と同じように戦いの城と主張されています。吹抜けの空間には、一般的な部屋があり、その周囲に武者走りがあったとのことです。その設計では明かりが十分取れず、実際には暗くて住めない。信頼できる記録の「安土日記」(村井貞勝の見学記録)に書かれている配置ともあっていない。など無理があります。
信長は一人でこの建物に住んでおり、武者走りなど無用の長物です。当時は石山本願寺、比叡山焼き討ち、加賀・長島一向一揆との戦いなど宗教勢力の制圧に苦労しており、安土山山頂に蛇石を運び、安土城天主に盆山の石を祀ったりしていました。それほど、当時は寺社勢力が政治・経済力をもっていたのです。地元の浄厳院で行われた「安土宗論」では法華宗が浄土宗へ法難をしかけ、信長はそれを仕掛けた「法華宗」を罰しています。一方、荒木村重の謀反(これは宗教的な要素もからんでいます。荒木村重、明智光秀、松永久秀は熱心な仏教徒)を抑えた高山右近や宣教師オルガンチーノなどのキリスト教徒を優遇し、安土セミナリヨ建設に多大な支援をしました。信長は武闘派のイメージもありますが、宗教改革者という側面をもっています。信長は幸若舞を舞うことで、自らを鼓舞するとともに信奉している大六天魔王や弁財天に変身し、天界へ昇るイメージをこの城で描いていたと考えています。
信長は、安土に寺、神社、キリスト教など全ての宗教施設を建設しており、安土城もその一つでした。商売の楽市楽座と並行していまでいう信教の自由都市をつくり、それを日本中に広げたかった。いかにも先進的な考えの為政者であったことが安土城再建で見えてきます。
当時は天道思想がベースで天下統一するには、運や神頼みなどシャーマン的な要素も必要であったと信長は考えていたようです。確かに、神がかり的な桶狭間の戦いの勝利と前日清州城で舞った幸若舞敦盛は祈祷そのものでしょう。そのおかげで、今の日本があるといっても過言ではありません。人や国の運命も地道な努力もありますが、別のところで決まるものかもしれないですね。
● お問い合わせ先
NPO法人安土城再建を夢見る会 尾﨑 信一郎
523-0041 滋賀県近江八幡市中小森町658-4
メール:azuchijyo.saikenyume.777@gmail.com
携帯電話:09063210943