1月24日付けで、朝日新聞社の朝刊(宮城県版)に活動が載りました。仙台総局の申知仁記者が記事を書いてくれました、まだお若い。宮城に異動されたばかりで、白石を訪問するのは初めて。地元名産である温麺を食べて帰りたいと言ってくれました。これからのご活躍をご祈念申し上げます。
伝統工芸品 の付いた活動報告
1月18日付けで、地元の河北新報社の朝刊に活動が載りました。地元のこけし工人とは顔なじみがある白石市局長村上俊記者の取材記事です。村上記者は恒例行事を毎年丹念に取材されて読みやすい記事を書いてくれています。今回も端的に過不足なく要旨が伝わる記事に仕上げてくださいました。その反響でしょうか午前中に3名の方が支援者になってくださいました。
支援者の数がみごとなぐらい少ないため考えたあげくのトリッキーなタイトルですが、本当の話なので紹介させてください。新型こけしにさらに興味を持っていただけると幸いです。全日本こけしコンクール五十年誌(宮城県白石市)「全日本こけしコンクールのあゆみ~ほほえみの年輪をかさねて五十年~」が出典元で、その要旨を述べます。伝統こけしは、江戸時代末期の19世紀に東北各地で生産されるようになった木地人形のことで、産地ごとに特徴のある様式が確立していった。ひらがなで「こけし」との名称に統一されたのは昭和15年のこと。それまでは産地によって独自の呼び方があった。こげす・きぼこ・きぼっこ・でくのぼう、など。このときは「伝統」の呼称はまだ使われておらず、戦後の昭和20年代に新型こけしが出現したときに新型と区別するため「旧型こけし」と呼ばれた。当時、旧型こけしは作ってもほとんど売れないため、弥治郎や遠刈田など伝統系の木地挽たちの多くは新型こけしの白生地を白石の業者に納入する状態が続いていた。こんな話も。白石町(現在の白石市)では、昭和16年ごろから八城鉄園が制作したこけしは、新型・旧型の区別がされる以前の時代のこけしであったため「鉄園型」と言われる独自の位置づけがなされた。さらに、鉄園型こけしは昭和31年の年賀お年玉5円切手にこけし切手として採用されるなど、全日本こけしコンクール開催への熱気がみなぎっていた。写真は2代目鉄園と称した浜津千代子工人の作品で、なぜか我が家にあるこけし。切手の写真は日本郵便趣味協会のホームページから引用しました。1956年は私の生まれた年でもありご縁を感じています。ついに昭和34年に、全日本こけしコンクール第1回は白石市内のこけし業者と役員が全面的に協力して企画し運営に当たることで実現した。当初このコンクールは白石の新型こけし業を新興させ、その普及を主な目的として開催されたのである。このときは新型こけしが主流で出品作品はほとんどが新型こけしであった。旧型こけしはまだ顧みられることもなかったので、旧型こけし工人は世相を反映させた流行の名を付け、新型こけしとして出品していた。そしていよいよ昭和36年第3回のときに次の3部種が創設された。第1部:伝統こけし(旧型こけし)第2部:新型こけし(市場価値のあるもの)第3部:創作こけし(芸術的価値のある一品制作もの)このときに41人の旧型こけし工人を無審査級扱いすることが決定され、「伝統こけし」の普及・発達・保護に尽くすことが宣言されて、伝統こけしの出展数が増加し、その後の伝統こけしブームが到来する契機となった。その後も旧型こけしの名称は並行してしばらく使われていたが、伝統こけしのブームが続いたことから、第23回の昭和56年に「伝統こけし」の名称にすべて変わったのである。さらには、伝統的工芸品として宮城県の「宮城伝統こけし」が経済産業省から認定されたのは昭和56年6月22日のことである。さて、このように「伝統こけし」は「新型こけし」の後追いで生まれ定着した呼び名であることをお分かりいただけましたでしょうか。「新型こけし」があったから「伝統こけし」が着目されたのではないかと考えるようになり、「新型こけし」は「伝統こけし」の立役者であったと思う次第です。であればこそ、今の時代にもう一度「新型こけし」を磨き輝かせ、「伝統こけし」と共に継続させていきたいと強く願う次第です。オリジナル新作こけしは完成度をあげて仕上がってきています。この制作をお願いしています佐々木こけし工房の新型こけしの歴史については次回の活動報告で紹介したいと思います。