仁徳陵築造1600年前にまで遡る鍛冶屋という生業
2025年6月に仁徳陵から新たな副葬品が発見された事が報じられました。

金メッキの銅板に覆われたヒノキの鞘に収まっている鉄製のナイフだそうです。5世紀前半から後半にかけてのもので、当時の先端技術であり、金属加工の職人達が国内外いろんなところから技術を集結して仁徳陵を築造した事が想定できます。およそ15年の歳月を要してると言われています。土木工事の道具はもちろんですが、副葬品としても大刀や銅鏡などが出土しています。また、現在世界文化遺産の百舌鳥古市古墳群は45箇所49基あり、その規模は計り知れない労力を要したと想定できます。
金属の加工を生業とする職人は堺の周辺に住み、現在の堺周辺には鉄の文化が育まれたのではないでしょうか?


鉄の鋳物から鉄砲生産への下地が広がり、戦国時代には堺の鉄鍛冶産業は繁栄する
平安時代末期には鉄の鋳物作りが盛んになり、河内鋳物師(かわちいもじ)という集団が堺には住んでいました。

1543年室町時代に種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商人(橘屋又三郎)は種子島に行き、2年の月日をかけて鉄砲の製造を習得します。紀伊国で鉄砲を持ち帰った商人から鉄砲製造を習得した者も堺に移り住み(芝辻氏)、全国で堺は鉄砲製造の中心になりました。時は戦国時代の中、堺の鉄鍛冶産業は鉄砲製造により益々繁栄しました。
また鉄砲製造は3部門に分業される事で精密加工の技術が向上し、また技術の流出を防ぐ事にも成功しました。

労働集約型の産業である自転車製造の分業制の取り組みと技術が、この頃に鉄砲製造により培われていきます。

江戸期には料理包丁なども手掛けていた堺の鍛冶産業ですが、明治期になると鉄砲製造の規制などで製造数が減少してしまいます。
欧州では自転車の始祖とも言われるドライジーネが1817年にドイツで誕生します。1815年にインドネシアでタンボラ山が大噴火し、世界的な異常低音気候となり、馬が大量に死んでしまいました。ドライスが馬車の代わりになる乗り物を考案したのが始まりと言われています。

ドライジーネの前輪部分ににクランクとペダルをつけたミショー型の自転車ベロシベートが1863年にフランスで制作されました。ミショーとは生産した会社の名前で、ベロシベートとはラテン語で(早足)という意味です。今でもフランスでは自転車の事をベロと呼びます。
日本に最初に輸入されたのは、このミショー型と言われています。(1870年頃と推定)

現在の自転車の原型である駆動方式(チェーン)のものはセーフティ型とされ、1885年にイギリスのスターレー、ハンバー、BSAらの手により生まれました。ローバー安全型自転車として販売され、イギリス全土に広まりました。1888年にはスコットランドの獣医師ダンロップが、空気を注入したゴムのタイヤを考案しました。乗り心地と速度が飛躍的に向上し、イギリス発祥の自転車はヨーロッパ、全世界へ輸出されたのでした。
実は、現在の形の自転車完成車をイギリス、また日本で初めて制作したのは、元々は鉄砲の製造業者だった人達だったのです。

1870年頃に日本では欧米から自転車が輸入され、堺では貸し自転車として普及し始めます。
自転車は当初、大変人気となりましたが、高価な乗り物で不慣れな者が多く、故障などが多かったそうです。その自転車の修理を請け負ったのが、堺の鉄砲鍛冶職人だと言われています。堺にはまだ400台くらいしか自転車はなく、完成車製造に関しては輸入のみという状況でした。

1914年に第一次大戦が欧州で始まると、自転車の輸入はストップしてしまいます。
修理用の部品などを製造していた鉄砲鍛冶職人たちは、急速に自転車の部品の製造に注力し、瞬く間に自転車の製造へと業態転換しました。
鉄砲製造と自転車製造は精密な部品を必要としており、軽量で頑丈なものを作る事は同じだったと言われています。
タイヤ、チューブ、チェーン以外の部品を全て製造する様になると、1916年に堺輪業購買組合が設立されました。堺の自転車産業が成立した時です。
そして精密な部品を組み立てる分業と集約のノウハウを持つ自転車の一大産地として、多くの会社と共に堺の自転車産業は発展していきました。
1936年には当時の最高の技術で、皇太子殿下に自転車を献上しています。

第2次大戦の後、高度成長期に堺の自転車産業は最盛期を迎えます。1972年の国内の自転車生産量で、完成車(941万台)の20%、部品の48%は堺で製造されていました。
また当時の堺の自転車の会社は260にもなり、関連会社など合わせると、かなりの数になりました。
自転車フレーム、塗装、ハンドル、クランク、ペダルなどの主要部品、完成車への組み立てなど自転車製造の分業が整備されていた堺は、急な注文にも対応する事が可能で、スーパーなどの販売を支える事で発展しました。
その後も、ミニサイクルの登場や世界的なマウンテンバイクの流行により、堺の自転車産業は輸出により繁栄する事となります。

しかし、近年はニーズの多様な変化と熾烈な価格競走の中で最盛期の10分の1以下の生産量にまで衰退しているのです!
ひとつはアルミやカーボンなどの素材の取り扱いが遅れたと言われている。
2009年には全世界で1億3000万台の自転車が製造されましたが、その66%は中国製となりました。
何故堺の自転車の会社や工場は減少したのか?
自転車は労働集約型の産業で、分業する部品の製造や組み立て工賃が安いと製品も安くなります。堺の自転車メーカーや工場は中国との価格競走に負けたという状況です。なので、自転車の完成車は現在日本では生産していないのです。
世界遺産百舌鳥古墳群仁徳陵の側で26年目の営業を迎えるアートサイクル堺一条通店と申します。ご視聴頂きありがとうございます。
自転車のECサイトや近くに大型量販店が増えた事で、堺の個人自転車店は事業の継続、継承が難しくなりました。
堺の自転車産業の今後の展望について
堺の自転車産業を盛り上げるには?
オーダーメイドの自転車、オリジナルバイクの作成の提供をしたいと考えています。そして事業継続、継承に向けての取り組みの可能性を広げていきたいと考えています!
事業を継続する事について
店主は今年79歳になります。自転車業界には56年目になります。近くに大型量販店ができる事で、売り上げが減少しています。
大型量販店についての話し
売り上げは減少しますが、アフターサービスと親切な対応を心掛ける事で大型量販店にも勝負出来ると考えています。
アートサイクルの様な個人自転車店に頼むメリットとは?
全てはマーケット次第ですが、皆様にご支援いただく事で、1600年前の仁徳陵築造から伝わる堺の鉄鍛冶産業、鉄砲製造業、自転車産業の歴史の真髄を後世に伝えて行ける取り組みができます!

アートサイクル堺一条店として前回5月にプロジェクト初挑戦させていただきありがとうございました!ご支援いただいた支援金は広告宣伝費、チラシ作成や商品の販促資材の購入などに充てさせていただく予定です。
しかし、残念ながら前回は思う様な結果が得られませんでした。リターン品の調達や支援の事ばかりに気を取られ、狭い視野でしかプロジェクトを見れなかったのかもしれません。私個人としてアートサイクルの在り方を見つめ直し、考える良い機会をいただけたととらまえ、アートサイクルが存続する為の何かを模索しています。
今回自転車の産業が堺のまちの歴史と、どの様に関わり、人々はどの様に自転車を生業としていったのかを考察しました。自転車産業は労働集約型の産業です。部品製造や組み立ての分業、集約が整備されていた堺は飛躍的に売り上げを伸ばした。そこには仁徳陵築造から伝わる職人達の技術の助け合いや分かち合いの心があったのではないでしょうか?
全てはマーケット次第の現況ですが、アートサイクルが1600年前の仁徳陵築造から伝承し、後世に伝えなければならない事があるはずだと考えています。
今回はその礎として再挑戦させていただきました。
また堺市は自転車のまちというブランドの確立のための施策を展開しており、12〜3年前からサイクルシテイ堺としての取り組みをされておられます。
新たな視点による自転車の価値魅力を創出し、新たな自転車文化を創出。堺の有する自転車に関する資源を活用し、自転車の文化を普及する。またホームページやSNSを活用し、より良い自転車の利用環境、文化を発信するなどです。
このプロジェクトにつきましては、堺市役所のサイクルシティ推進室様にも声を掛けさせていただいております。
今後はもし何か連携して実行させていただける事があればと考えています。


自転車のまち堺のブランド確立に貢献させていただく事、そして今までアートサイクルを支えてくださった方々のために、今回の挑戦を成功させたいと考えています。
よろしくお願いいたします!
大阪府堺市堺区一条通13-16
アートサイクル一条通店

令和7年8月クラウドファンディング開始
令和7年11月12日〜リターン返礼品の実施







コメント
もっと見る