青年軍医鷗外とレナーテの恋、明治を舞台に長編小説で復活させたい

森鷗外『航西日記』をドイツ少女レナーテとの恋愛小説に再創造。明治人の矜持と鷗外の思想を織り交ぜた長編を、読者の皆様とともに出版したいです。

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このプロジェクトは、2026/01/31に募集を開始し、 2026/03/31に募集を終了しました

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森鷗外『航西日記』が、ここに新しく生まれ変わります

       小さき影 映る見ませと ひらく目の 
                    碧きひとみに 魅せらるわれは

レ ナ ー テ

   
    明治十七年八月、歐州留学にむかう青年軍医森林太郎は、
    船上にて不思議なドイツ少女にめぐりあう……


 私はことし七十三歳になる千葉在住の一市民です。長年温めてきた一つの作品があります。森鷗外の漢文日記「航西日記」をベースにした恋愛小説です。全集本でわずか十ページの古い記録ですが、架空のドイツ少女『レナーテ』との邂逅という物語の糸で、三百ページの長編に仕立てました。

なぜこの作品を書きたかったのか

 明治前期、ヨーロッパに留学した若き日本の知識人たちは、みな一様に強い使命感を抱いていました。鷗外もその一人です。維新国家の代表として、西洋文明に追いつき、追い越せ………そうした矜持と葛藤のなかで、彼らは何を思い、どう生きたのか。私はこの問いに惹かれ、鷗外の文学や哲学、宗教観、美学、歴史認識、さらには医学業績まで、作品の中に織り込んでゆきました。あわせて開国したばかりの明治前期という時代の空気感も髣髴とさせるよう工夫しました。

 鷗外の生きた明治という時代は国史に特筆されるたいへんな時代でした。ただし開国という点については必ずしも明治の専売というわけではありません。室町の末期にザビエルがキリスト教の布教に来日して以来、信長は西洋文明の利器に感心し、ポルトガル人やスペイン人の入国を許しました。だが秀吉が天下を獲ると各地でキリシタンの専横が報告され、しだいに外国人忌避の風潮が広がっていきました。そして家康にいたって、西洋文明の利よりも弊害の多さに辟易し、ついに鎖国という手段を取らざるを得ませんでした。これを第一次開国と考えれば、明治は第二の開国時期といえます。大政奉還という激動を経たのちの開国は徹底していました。国民は未曽有のヨーロッパ文明の洗礼を受け、いたく翻弄されました。しかし鎖国のあいだにさらに深化・発展した強固な日本文化を継承した一部の知識人は、一般庶民と異なり、外国文化に動揺することはありませんでした。その一人が鷗外です。王朝時代から明治天皇まで、とてつもなく豊饒な文化をはぐくんできた日本という国を愛する気持ちに、いささかの迷いもありませんでした。この熱烈な愛国心をぜひ作品の中で表現したいと思いました。

 また明治の読書人はまだまだ江戸期文化の名残があり、漢詩、和歌、俳句といった優雅な趣味をそのまま受け継いでいました。そこでレナーテという異国女性に対する恋愛感情の告白に、和歌を応用することにしました。これは鷗外の遺した八百を超える短歌のなかから取捨選択し、新たに加工しなおしたハイブリッド版です。
 そのなかから、まずは富士を詠んだ歌からご紹介します。

 浦賀水道をゆく船首の舷側(ふなばた)にもたれかかり、一面の三角波(低気圧接近中であった)のただなかをゆくのに身をまかせ、この東京湾の水がいずれ地中海の水につながっているのだと思うと、すこしセンチメンタルな気分になった。
 晩に近くなると外洋に出た。波のうねりはさらに大きくなった。
 群がる雲のおもてに富嶽(ふがく)が突兀(とつこつ)と聳(そび)ゆるを見た。ふとこれが富士の見納めではないかと妙な不安がよぎった。その鮮やかさ、艶やかさに、これほど富士を官能的に眺めたことはなかった。

  むかし神の 積みかさねつる 千億の 
              蒼き女人(にょにん)の 身のなれる不二

  さらばさらば 富嶽夕照 なれをまた
              相見んときは いつにかあるべき
  
 また鷗外はレナーテから浄瑠璃姫伝説を聞きました。
 その感想を求められたとき詠んだ歌…

  こひは人の 生きの酵母(かむたち) こひすとて 
               など罪の子と ものめかすらん

  憂きことの あまり辛さに わがこころ 
               石になれとも おもひけるかな

 王朝時代、宮廷人は愛の告白に和歌(うた)を利用しましたが、明治の文化人にもまだその優雅な風習は残っていたと思います。しかし残念ながら、現代日本では絶滅してしまいました。

出版社に断られた理由

 完成後、出版社の編集担当者に相談したところ「長すぎる」との指摘を受けました。市場の常識では、このボリュームは商業出版に適さないというのです。しかし私は信じています。この作品を心から愛読してくださる読者のかたが必ずいるはずだと。 
 長くなった理由は明白です。この小説の目的は二十三歳になる日本人青年と十八歳になるドイツ少女との恋の行方です。レナーテは男性ならだれでもひとめ惚れしてしまう美しい乙女でした。しかしひたすら学業に邁進する鷗外にとって、恋愛など二の次三の次の感情です。どうしたらこの「学問バカ」を恋愛の甘美なるワナに陥れることができようか、そこを作品の主眼としました。学問バカを屈服させるには学問しかありません。そこでかれの遺した厖大な学問・芸術の業績のなかから、断片的とはいえ適宜引用し、ワナとして仕掛けることにしたのです(ちなみに「業績」ということばは鷗外の造語です)。もちろん小説と論文はあい異なります。しかしストーリー展開に必要なものなら利用しない手はありません。
 鷗外を取りかこむ交際社会は、そのほとんどが有為の知識人ばかりでした。レナーテもそのひとりとして創造しました。後年、鷗外は与謝野鉄幹・晶子夫妻と親交を温めますが、その晶子に「やは肌の 熱き血汐に 触れも見で 淋しからずや 道を説くきみ」という有名な歌があります。この歌に詠まれたような恋愛感情の機微を、ぜひレナーテと鷗外のあいだにも醸してみたかったのです。武骨で無粋な学者肌の青年を恋愛のワナに陥れるには、これ以上の手段はないと考え、諸業績から(つまみ食いよろしく)活用したわけです。これが大長編になった理由です。
 作品中に引用した主な書目を並べてみます。
日本兵食論大意・横井軍医長に答ふ・日本家屋説自抄・市区改正は果して衛生上の問題に非ざるか・千載の一隅・衛生新誌の真面目・国際衛生会と国際防疫法と・統計について・売笑の利害・女子の衛生・外情の事を録す・第十回国際医学会・時事新報は医者の何者たるを知らず・於母影・夢・しがらみ草子の本領を論ず・演劇改良論者の偏見に驚く・軍医シルレルの事を記す・匈女(はんじょ)の衛生・瑞西館・衛生新論・精神啓微の評・公娼廃後の策如何・外山正一氏の画論を駁す・白湯・油画皹裂・防虎列拉法・顕微斎漫録・衛生学大意・審美綱領・西洋芝居の番付・西洋定芝居の始・洋画手引草・西班牙国首都売淫制度・審美極致論・大戦学理・露国戦役年表・露国人の防寒法・日蓮上人辻説法・人種哲学梗概・うた日記・沙羅の木・仮名遣意見・大発見・ヰタ・セクスアリス・杯・青年・食堂・普請中・妄想・新訳源氏物語序・ファウスト・安井夫人・ぢいさんばあさん・かのように・俳句と云ふもの・阿部一族・堺事件・古い手帳から………
 また航西日記のほか、久米邦武の「米歐回覧実記」や成島柳北の「航西日乗」といった当時の海外見聞録からも多く引用しました。また杉田玄白などに代表される江戸後期に活躍した蘭医学者たちの著作からも引用しました。

青年鷗外の恋人たるレナーテの人物像について

 ヒロインたるレナーテの人物造形にはあまり腐心しませんでした。このイタズラ好きなベルリン生れのヤンチャ娘は、ほかの少女といささかの変わったところもありません。ただ八歳のとき、東大医学部教授として日本に赴任した父親から、お誕生日プレゼントだといって送られてきたかぐや姫の絵本を見てから、向学心に火がつきました。ヨーロッパと隔絶した日本文化に目覚め、ひたすら勉強するようになったのです。その旺盛な好奇心はクソマジメな鷗外を何度も振りまわします。そのなかからいくつか紹介します。

          ☆     ☆     ☆

………二十七日、薩南を過ぎる。船は大隅海峡を通過している。遠く海門嶽を見る。いよいよ日本国とお別れである。船尾にたたずみ、浮かんでは消える白い波紋をながめていると、おのずと感傷的な気分に支配されてゆく。ハイネの詩を想い出す……

 浦つたひゆく あまおとめ 舟こぎよせて わがたてる
 ほとりにきたれ  われと汝(なれ) 
 手に手とりあひ むつびてよ こころゆるして わが胸に
 ながかしらをば おしあてよ 
 なみ風あらき わたつみに まかせたりてふ 身ならずや 
 そのわたつみに わがこころ さも似たりけり 
 風はあれど 潮のみちひは ありといへど 
 幾許(ここら)の玉もしずみつつ

………二十八日、舟航はなはだおだやかである。終日、甲板上に臥す。頭のうえには白布が迫りだしていて、陽の光をさえぎっている。その下に藤の寝椅子がならべてあって、快適に過ごせる。明治四年にベルリンまで行った柴田承桂さんは「籐椅子(デッキチェア)は航海中の良友である」といったそうだ。まさしくそのとおり……

 そら晴れて 日あきらかに 鏡のごとき うな原を 
 ゆたかに船は すべりゆく 風なぎて ひる静か 
 藤のふしどの ここちよく まぶたおもくぞ なりにける
 うごくもの たえてなし ぼおと吊れる DAVITに
 ふたりの水夫 のぼりゆく めをとぢつ またあきつ
 日にかがやくや 白ぺんき 水夫がふるふ はけ尖の

 ふと、目が覚めた。ぼんやりした意識のなかに、逆光に浮かぶ白いドレスの少女の姿があった。うす桃色のちいさなパラソルをさし、白いレース帽を冠った清白の乙女である。その碧い大きなひとみがぼくを見つめながら微笑んでいる。
「あなた、軍人さん?」
答えを求めない調子で少女はいった。美しいかろやかなドイツ語だった。そして透きとおるような細い指先でパラソルをくるくるまわしながら、踵(きびす)をかえして立ち去った。ぼくは白昼にまぼろしを視たような気がして呆然と彼女を見送った。

          ☆      ☆      ☆

………三十日、早朝、福建沖を過ぎる。
 左手に台湾を望む。面積は九州とほぼおなじである。島嶼というより小大陸といったほうが似合っている。元代以前、台湾はシナ人から琉求、琉球、留求などと呼ばれていた。洪武年間に中山王が明(みん)の冊封をうけて毎年進貢するようになると、それまで漠然としていたこの方面の地理が判然とし、琉球を『大琉球』、台湾を『小琉球』と区別して呼ぶようになった。十六世紀、ポルトガル人がこのあたりに進出し「あれに見える島は何というか」とシナ人船長に問うと「小琉球だ」と答えた。以後、台湾はLiquio pequenoと呼ばれるようになった。またポ人水夫のなかにはIsla Fermosaと呼ぶものもいた。たしかに緑の濃い美しい島である。
 右手に厦門(アモイ)港口を過ぎる。二島並列している。兄弟島と呼ばれているそうだ。厦門は明代、中左所とも呼ばれた。中左所とはここに配置された千古所(せんこしょ)の軍事上の名で、それが地名となった。スペイン人はPuerto de Tansusoと呼んだが、タンスソとは中左所を訛って発音したものである。千五百七十五年、カトリック布教のため神父マルティン・デ・ラーダが初めて上陸した。マテオ・リッチがマカオに上陸したのは八十二年だったから、それより七年早い。のちにフェリペ二世がシナへの友好使節を派遣する気になったのは、ラーダの訪明報告を読んだからだといわれている。
 昼食のあと、例によってデッキチェアで午睡をむさぼる。ぼくの大イビキはすっかり有名になっていて、両どなりに座るひとはまずいない。その日もウトウトしていると、またもやドイツ語で「軍医さん、軍医さん、Rintaro Mori軍医さん…」と呼ぶかろやかな声がする。ぼくはビックリして目を覚ました。
 二日まえにまぼろしのように立ち去った美しい少女が目のまえにいた。ぼくが立ちあがろうとすると「あら、そのままお休みになっていてください。ちょっと声をおかけしただけですから」
「あなたはどなたです。どうしてぼくの名前を知っているのですか?」
「わたくしRenate Dönitzですわ」
「え?それではあなた、デーニッツ先生のご令嬢ですか?」
「ええ、このあいだ父を訪ねてくださったそうですね」
ぼくはあわてて立ちあがって、深々とお辞儀をした。
「プッ、アハハ……ごめんなさい、笑ってしまって。でもあなたあまりにもお辞儀がヘンですわ」ぼくはどう返事してよいかわからなかった。
「わたくしも日本のかたのお辞儀はずいぶん見ましたが、あなたのお辞儀はひとしお変わっていらっしゃるのね」
ぼくはちょっとムッとして「そんなに可笑しいですか?」ときいた。
「そうね、まるでカラクリ人形みたいに動作がギコチないですわ。頭を地に着くほど下げるのもおかしいですし、両腕をうしろに水平に伸ばしっぱなしもヘンですわ。重ね重ね失礼を申してごめんなさいね、悪気はないのですからお許しください」
「ではどんな辞儀が滑稽に見えないのですか」ぼくはケンのある顔色をしていたと思う。
「せめて両手に力をいれないで、自然の重りでブラっと下がるようにして、からだをまっすぐにして首をおかがめなさい。こんな感じですわ」パラソルを閉じてチェアのわきに置くと、にっこり笑いながらお手本を見せてくれた。両腕は自然と垂れたまま首をかがめるが、目はまえを向いたままでふかく曲げない。
「こうですか…」ぼくは彼女をまねて辞儀してみた。
「まあ、ずいぶん良くなりました。これからヨーロッパに向かえばおのずと初対面の方々に面会されるのですから、お辞儀ひとつであなたが軽侮されてはいけなくてよ。なかには顕揚の地位におられるかたもあるでしょうから…」
あとで聞けば、立って礼をする法は、ドイツでは中学時代に教わるのだそうだ。舞踏のけいこといっしょに習うらしい。
「ありがとうございます」ぼくの彼女に対する反感はすっかり消え失せた。
「あなたのとなりに座ってよろしくて?」
「ええ、どうぞご遠慮なく…」彼女は淡い藍色のドレスのすそを靡かせながら、腰をくるりとまわしてゆったりと座った。ぼくにはその動作もなんともいえず優雅に感ぜられた。さすがにヨーロッパ生れの女性だなと思った。
「あなた、おかしいですわ」
「なにがですか?」
「だってそこに突っ立ったままですもの」ぼくは気がついてあわてて彼女のとなりに座った。
 今度はぼくも彼女の顔をしっかり見ることができた。たっぷりある黄金色の髪を三つ編みにしてそれを後頭部で丸くたばね、絹で編んだ白いふちなし帽をひたいのちょっと上にかかるくらいに冠っている。美しい碧いひとみはまるでサントレアの花のようだ。笑うとすぐった真珠のような真っ白い歯がのぞく。ぼくは泰西の画家ではラファエロが好きだが、大学図書室で見た「システィナのマドンナ像」に面影が似ている。
「お父さまがそうおっしゃっていましたわ『久しぶりに愛弟子が訪ねてきてくれた。着々と研鑽を積みかさねているようで、じつに慶賀だ』って。あなたはお友達から『駿馬(しゅんめ)』って呼ばれていたのですってね」
「なに買いかぶりです。それより先生のお部屋にはお見かけしませんでしたが…」
「わたくし、おとなりの部屋にいましたの。お父さまの航海中のお仕事のジャマになってはいけませんし、わたくしの荷物も多いことから、部屋をふたつとって、別々に生活していますの。ふたりで出かけるのは食事のときだけですわ」
「お嬢さまが日本に来られていたとは知りませんでした」
「(レナーテって呼んで、わたくしもあなたのことRinって呼ばせていただくわ)そのはずですわ。わたくし、お母さまがニースに療養に向かうときお別れして、父といっしょに日本にやって来たのですから」
「よくお母さまが日本行きをお許しになりましたね」
「むしろお母さまからお話しがあったの『いつまでもわたしの看護につき添う必要はありません、あなたはあなたの人生の第一歩を踏みだしなさい。さしあたって見聞を広めるために、お父さまとごいっしょに日本に行ってみてごらんなさい。きっとあなたの成長に大きく資するはずです』って。そこで三年まえに日本の土を踏んだのですわ」
「それでぼくは知らなかったのですね。もう大学を卒業して軍隊生活を始めていて、先生とは疎遠になって久しかったです。とくに先生が佐賀に移られたあたりから、消息がほとんど途絶えてしまって…」
「でも父はあなたのことをいつも気にかけておりましたわ。プラーゲルの衛生制度書を翻訳したときも『Rinがよくやった、よくやった』と自分のことのようによろこんでいましたわ」
「先生には感謝のことばもありません。でもどうして横浜から乗船されたのですか。長崎から乗られたほうがずっと便利だったと思いますが…」
「お父さまは今回、もう日本の地には二度ともどって来れまいと覚悟されておりますわ。そこでこれまでお世話になったかたへのご挨拶、そのほかの研究上の残務処理のため、この二か月ほど東京で過ごしました。ほら、ご存知でしょ、ヘンリーフォールズ神父さまが二年まえに離日されたので、例の指紋の件について、なにかと警視庁裁判医学校の方から問いあわせがあったり、あなたもご存知の田口和義教授…」
「ええ、ぼくの先生のひとりでした」
「田口さまが出版した解剖攬用についての問合せに受け応えしたり、それに……」
「それにPlexippoides  doenizi(デーニッツハエトリグモ)ですか?」
「ホホホ、そうです。お父さまの研究対象とはいえ、わたくし蜘蛛(クモ)はダイッキライですけど。とにかくあちらこちらからいろいろな問いあわせがあったみたいで、毎日、東京中を駆けずりまわっておりましたわ。そんなこんなでとてもあわただしい二か月でした。そしてあなたと同じように横浜から乗船したというわけです」
「なるほど、そういう事情だったんですね……」
「とにかくこの三年間というもの、毎日、見るもの聞くもの初めての体験ばかりで、まるで夢のなかで生活していたような気がします……アッという間の三年でした」
「……初めて日本に上陸したとき、どんなご感想をお持ちになりました?」
「三年まえの五月下旬ですね。ベルリンを発ったのが三月初旬でしたから、ほぼ二か月半の航海でした。いよいよ長崎に到着すると聞いてから、わたくし、夜が明けるのが待ちきれず、東雲(しののめ)にキャビンを抜け出し、船首までいって、船が長崎の港に近づいてゆくのをずっと眺めていました。美しい波の向こうに広がる岬や沿岸は、丘や山が多く、そのほとんどすべてが頂上まで段々畑になっているさまは不思議な感じがしました。水田やムギ畑、トウモロコシ畑などがあちこちに見えます。それらすべての新奇さと美しさは言語に絶していました。わたくし、太陽(ひ)の力の強弱というものを実感いたしました……」
「陽のちからの強弱?」
「はい……ふるさとベルリンの街は北緯五十二度にあります。北に二百キロも上(のぼ)ればバルト海という土地柄です。ベルリンにふりそそぐ陽の力はけして強いものではありません。それを痛感したのが、インド洋を航海していたときです。もうちょっとで緯度ゼロという熱帯の海です。陽の力はとてつもなく強烈に感じました。そして北緯三十二度の長崎に到着したわけです。季節としては晩春でしたが、陽の力はとてもおだやかに感じました。風のなかったのも幸いして、やわらかい暖かさで人のからだにふりそそぎます。ベルリンとのちがいをまざまざと感じさせる朝でした。そんな入り江のさきにある長崎の街は、水ぎわから頂上まで、鬱蒼たる新緑におおわれた高い丘に囲まれています。樹々のあいだにかくれた小さな家やお寺、神社、それらに通ずる木間がくれの石段など、すべてがわたくしの予想をこえる美しさでした」
「そんなに感動したのですか」
「だって七歳のとき、お父さまが日本にお出かけになってから、わたくし、いつもまだ見ぬ不思議な東洋世界、JAPANという国に憧れていましたから……わたくしがベルリンから離れた記憶というと、十歳の誕生月にお母さまが三週間、パリ旅行に連れて行ってくださったこと、十二の夏にスイスのサンモリッツに二か月ほど遊びに行ったことなどありましたが、そのほかにはほとんどベルリンの街を出たことがありません。それでお父さまから日本に連れて行ってやろうというお話しがあったときは、とてもうれしかったのです。こんなふうに話してはお母さまに申しわけないのですが、お母さまと離れる淋しさ以上に見知らぬ東洋を目指してゆくことにワクワクしてしまったのです」
「……そこまで日本に憧れてくださったのですね。おなじ日本人としてお礼を申しあげます。それで港に着いてからどうしました?」
「船が停泊するとさっそくハシケがやってきて荷物を移し始めました。ハシケには漕ぎ手が四人乗っていましたが、そのうちの二人は三十前後の女性でした。多分、男衆のおカミさんだったのでしょう。まだ五月だというのに、みなお顔は日に焼けて真っ黒でした。ふたりの女性はからだが一回りも二回りも小さいとはいえ、フンドシ姿の男たちに立ち交じって、重く、大きな行李を苦もなくハシケに移してゆきます。そのたくましく俊敏な動きはけして男たちに負けません。そして埠頭まで男たちといっしょになって、力強く艪(ろ)を漕ぐのです「ヘイ、ヘイチャ、ヘイヘイチャ」と掛け声をかけながら漕いでゆくのです。それらすべてがなにか夢でも見ているような気がしました……」
「………」
「佐賀に向かう船は翌日にならないと出航しないといわれたので、お昼をいただいてから、お父さまと長崎の街を散策しました。石垣のうえやアーチ形の拱橋(きょうばし)のうえでは男の子たちがタコを揚げていました。橋は欄干がなくて、危なっかしい感じがしました。タコの形はひし形で、あとでほかの地方で見た長方形とは異なりました。なかにはより高く揚げようとして、まるで釣り竿のような細長い竹のさきに、糸を結びつけて揚げている子もいました。糸の途中に破(や)れ提灯をぶら下げている子もいました。
 しばらく歩いているうちに、うしろから七八歳から十(とお)ばかりになる娘さんたちが六七人『ホランダサン、ホランダサン』といって着いてきました。ほとんどの子が背中に赤ん坊を背負っています。お父さまが屋台のひとつに立ち寄ると子供たちを手招きし『この子たちにひとつずつあげておくれ』と屋台の主人に小銭をわたしました。屋台の端には『みたらしだんご』とかかれた細長い旗がひらめいていました『レナーテも食べてみるかい』といわれて一本いただきました。甘じょっぱくてとてもおいしかったです。娘たちは『アリガト、アリガト』といって去っていきました………

          ☆      ☆      ☆

………「フーン………まあ、科学者といわれる方々の考えることって、わたくしたち凡人には及びもつかないことばかりですね」
「そうとばかりはいえません。江戸時代の詩人に『あらたふと 青葉若葉の 日の光』という短詩がありますが、これなどは芸術家の鋭い感性が直覚的に自然の摂理に反応した一例ではないかとぼくは思っています」
「アラ、それならわたくしも知っていますわ。奥の細道でしょう?」
「え、あなたバショーをご存知ですか?」
「ええ、まさかあなた、わたくしが日本に来てからこの三年間、じっと宿舎に閉じこもって、キモノやオシロイばかり研究していたとでもお思いになって?わたくしお父さまにお願いして、国文学の先生を紹介していただいて、ずっと日本文学の勉強をしていましたわ」
ぼくは驚いて彼女をみつめた「まあ、わたくしも軽く見られたものですね。そのように鳩が豆鉄砲を食らったような顔をなされなくともけっこうです」ふたりで顔を見あわせて吹きだした。
「ハハハ、それは失礼しました。でもすごいですね、芭蕉のほかに何を勉強されました?」
「古今和歌集、伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記、枕草子などですわ」
「みごとに王朝ものの古典ばかりですね。伊勢や土佐はともかく、蜻蛉や枕はけっこう大部の書ですが、読むのに苦労しませんでした?」
「もちろんたいへんでしたわ。でも毎日くりかえしていると、ある時から、ふいと急に楽に読めるようになるものですね」
「源氏物語は読みませんでした?」
「フフフ、源氏は別格です」
「別格って?」
「Rin、お父さまからあなたが日本文学にとても詳しい学生だって聞いていましたわ『Rinに不可能はない、和文、漢文、ドイツ語いずれも一流の域に達している稀有な少年だ』って。あなたドイツ文学で日本語に翻訳したい作品ってあります?」
「ずいぶん突然ですね」
「いいからお答えなさいな」
「えーと、そうですね。シルレルの詩も捨てがたいし、レッシングの脚本も典雅で好きですが、でもやっぱり、“天馬空(くう)をゆくがごとき”ファウストかな……」
「ほおらごらんなさい。どこの国にもその頂点ともいえる文学作品があるのですわ。お父さまがおっしゃいました『千古一(せんこいち)、ギリシャにホメロスあり、インドにカリダサあり、イタリアにダンテあり、イギリスにシェイクスピア、ドイツにゲーテあり、この国でいったらさしずめ源氏かな』って。わたくしもじつは源氏をドイツ語に翻訳したいと考えておりますの」
ぼくは一瞬、レナーテの美しい横顔を呆然と見つめた。レナーテは笑みを浮かべながらかるく小首を傾げた。その様子がいかにも可愛らしかった。
「そうやっていつまでもわたくしの顔を見つめていらっしゃいまし。まるで『火星にでも引っ越します』とでもいわれたようにビックリなさっているわ」
「これは失礼しました、あまりに意表をつかれたので……でもすごいですね。まだ二十にもならないドイツ生れのお嬢さんが、日本古典のなかでもとりわけ重厚長大な源氏をドイツ語に翻訳しようとは……」
「あら、そんなに驚くことないですわ。こないだケンブリッジに留学中の末松謙澄(けんちょう)さんというかたが、初めて英訳を試みられたと聞きました。でも花散里の十一帖までだとのことです。わたくしは全訳を考えていますわ」
ぼくはまた黙ってしまった。
「あらまたLe silence et d'orですか?『できるわけない、たわごとだ』とでも思っていらっしゃるのでしょ?」笑みを浮かべてこういいながら、レナーテの碧いひとみにはイタズラ好きの小鬼が踊っている。
「いえとんでもない、ぼくがそのような失礼なことを考えるものですか。ただなにもかも意表をつかれることばかりなので……」
「まああなたにとっては変竹林な女にはちがいないですね」
「いえ、何度もいうようですが、そのような失礼なことは及びもつかない。それよりあなたに対する接し方を改めなければならないと思っています」
「アラ、どのように?」
「ちょっとキザないい方かもしれませんが、ぼくと同じように学問、芸術というフィールドでたたかう戦士として遇さなくてはいけないと思いはじめています。今までは、ほかの男性と同じように、単なる可愛らしい活発なお嬢さんとばかり思っていたのですが……」
「ウフフ、あなたってホントに人をおだてるのがお上手ね。ありがとう、とてもうれしいですわ。あなたはもちろん源氏を読んでいらっしゃるのでしょ?」
「大学本科に入るまえ、伊藤孫一くんという漢文の得意な友達がいましたが、かれと一緒に五十四帖のなかにある短歌をすべて漢詩に訳したことがあります。最初は全文漢訳しようと始めたのですが、すぐに無謀だと気づいたので和歌だけにしました」
「まあ、頼もしいこと。でも全文漢訳されたらシナ人も驚く大偉業でしたね」
「源氏は読みづらいところがありますから……単に古文だから読みづらいというのではありません。学生時代にある歌会に出席したとき、松波資之(すけゆき)という安藝(あき)生れの和歌の先生とお話しする機会がありました。松波さんは皇太后宮の内舎人(うどねり)を務めておられたかたでしたが、たまたま話題が源氏になったとき、先生、諧謔交じりにつぶやかれました『源氏は悪文だからな……』それを聞いたとき、なるほどナ…と思いました」
「………」
「ぼくは源氏を読むたびに感ずるのですが、いつもある抵抗に打ち勝ったうえでなくては、ことばから意味に達することができないような感触をもちます。まあ、ぼくだけの感想かもしれませんが、どうもほかの古文にくらべて読みやすいとはいえないように思います」
「たしかに伊勢、土佐、蜻蛉、枕……いずれにくらべてもムツかしい文章ですね」
「うん、読みづらいです」
「それを聞いてますます勇気が湧いてきましたわ」
「アハハ、あなたには負けます……」

          ☆      ☆      ☆

  初四日、午(ひる)に香港を発するが、ぼくは熟睡していて気づかなかった。船が大きくなったせいか、それとも波がおだやかなせいか(多分両方だろう)、揺れがなく気持ちよく寝られた。
 三圭さんが昼食を済ませて客室に帰ってきたころ、腹が減ってのこのこ起きだした。
「どうだい、勉強になったかい」
「ええ、とても勉強になりました。さっそく要点をまとめて軍医部に報告をあげようと思います」
「ハハハ、職務熱心でけっこうだ。腹減ってないか?」
「ペコペコです」
「食堂へ行ってごらん、なにかしらあるだろう。この船はさすがに食堂が広いから、時間制限はないよ。食堂の開くのが八時、dejeunerが十時から、dinerが五時からだそうだ。そのほかの時間でも軽食や珈琲、リキュール類なら準備できるそうだ。九時まで利用できるといっていた」
「初めての食堂に独りでゆくのはちょっと気が引けますね」
「立派な軍人さんがいつまでネンネみたいなこといってるんだ。さあさあ、行ったり行ったり」三圭さんに追いだされるようにして、ぼくは食堂に向かった。
 食堂はたしかにかなり広かった。ちょっと見、メンザレーの三倍強はあった。昼を一時間ほど過ぎていたが、あちらこちらで葡萄酒や珈琲などを喫している客を散見する。よく見ると奥の窓際にレナーテと教授、丹波さん、正平くんがいっしょに座っている。
 レナーテは目ざとくぼくを見つけ、手を大きく振ってぼくを呼んだ。
「やっとお目が覚めたのですね。よくお休みになれました?」笑みを浮かべながらこういった。ぼくはちょっと照れ笑いをしながら、教授たちに会釈して、レナーテのとなりに座った。
「昨晩(きのう)は遅くまで見学したんだってね。丹波くんが非常に勉強になったといってるよ。英国の医療体制はドイツとちがって、厳格さより合理性を優先するからね」
「やはりお国柄というのは争えないものですね。おおいに勉強になりました」丹波さんがいった。
「けっこう面白かったみたいですね。ぼくもゆけばよかった」正平くんがいった。
「アラ、あなたさっき、たかが英軍の病院を見に、まる一日費やすなんて、ぼくにはとてもできないな、とかいってませんでしたっけ?」
「えへへ……」正平くんは頭をかいた。
そこへ白前垂れをかけた若いフランス人給仕がやってきて、ぼくの顔をちょっとのぞいた。
「昼のメニューはまだ残っていますか?」
「犢(こうし)のフィレ肉と苣野(チサ)のサラダですが…」
「それでけっこうです。あと珈琲もお願いします」
「わたくしも珈琲のお代わりをお願いします」とレナーテがいった。
丹波さんがそれまでの話の続きを教授と始めた。なんでも指紋の話しである。
「ヘンリーはそのとき気づいたのだ。はてね、どうしてこうも医療用アルコールがすぐになくなってしまうのか?補充したばかりなのに……その空になったアルコール瓶のそばにビーカーが置いてある。ヘンリーはさては誰かがこのビーカーをグラス代りにして医療用アルコールを飲んだのじゃないかと疑った。そこでビーカーに指紋が残っていないか確認する。そして自分の採取した数千の指紋記録と照合する。するとみごとに自分の生徒のひとりと一致した指紋が見つかったのだ…」
「その生徒はどうなりました?」正平くんが質問する。
「なに、軽くたしなめられて終わったらしい。ヘンリーは立派な学者であるとともに、こころ優しい聖職者でもあったからね。ところがそのあとで病院に夜間、泥棒が入るという事件が起った。警察はその侵入口が内部関係者以外には知られていないことから、挙動不審のヘンリーの教え子のひとりではないかと疑った。ヘンリーは『ちょっと待ってください』といって、侵入口の窓や塀などに指紋が残されていないか、一生懸命になって探したのだ。すると窓枠に誰かの指紋が残っていた。それを疑われた教え子の指紋と照合したんだね。そして教え子が泥棒でないことを証明したのだよ」
「警察も驚いたでしょうね」丹波さんが口をはさんだ。
「そうさ、それがきっかけで指紋が犯罪捜査に利用できることが実証されたのだ。もちろん、ヘンリーの発想が素晴らしかったのが一番だが、大森貝塚とか拇印の慣行とかいう日本独自の風習が一役買っていたのも見のがせない事実だね」
 やがて給仕がぼくの誂えた昼食を持ってきた。Soupe a l'oignonとCroissantを盛った小籠もいっしょだった。ぼくが食べはじめると、珈琲を注いでくれた。レナーテのお代りも注いでいった。
「では、現物をお見せしよう」といって教授が立ちあがると、丹波さんと正平くんも立ちあがって「お先に」といって食堂をあとにした。ぼくは口をモグモグさせながら顔で会釈した。レナーテはゆっくりと珈琲を啜っている。
「なにを見せるんでしょう?」
「なんでもお父さまの指紋採取の見本をお見せするようですわ」
「あれ、指紋採取の記録簿は警視庁の裁判医学校に寄贈したとか聞いていましたが…」
「それはヘンリー神父さまの集めた採取記録です。お父さまがお持ちなのはご自分のお集めになった記録ですわ。男女百人ずつ、二百人分あると聞きました。わたくしも採られましたわ。インクをべったりつけられて、右手左手の五指だけでなく、手のひらまで。まるで幼児の絵の具遊びです……」
「ハハハ、魚拓とおんなじですね」
「最初はよかったんですけど、うまく採れないとかいって、二度三度と……最後には服にまでインクが飛びちって散々でした。二度とごめんですわ」
ここでレナーテは小声になって……
「あなた、軍服姿はご立派ですが、いつ洗濯しましたか?」
「いえ、出発以来、着たきりスズメです」
「ウフフ、着たきりスズメ……あなた、江戸っ子ね」
「え?どうして?」
「だって、あなた今『着たきり雀』とおっしゃったわ」
「え?あなた着たきり雀の意味をご存知ですか?ぼくは何気なく口走ったばかりですが……」
「ええ、もちろんわかります。どこぞの銭湯でお上さんがこぼしているじゃありませんか『こちとらはどうで着たきり雀ときているから、気に入った着物をサッサと着殺すがいいのさ』……」
「ええ!あなた三馬まで読んでいるんですか!?」
「あら、わたくしが式亭先生を読んではいけないのでしょうか。だってあんなに面白い小説って滅多にありませんわ」
「ど……どこが面白いのですか?」こういって、ぼくはわれながらヘンな質問だなと思った。
「全部、面白いですわ」
「だって江戸戯作ですよ。あの好色や陋習(ろうしゅう)を下地にして、ひたすら読者の迎合ばかり狙った、上品とはいえない小説ばかりですよ」
「あら、わたくしはそうは思いません。ある意味、Rinのような広範な、というか伝統的な文学的素養をわたくしは持ちあわせていませんから、むしろ式亭先生のよさが直(じか)にわかるのかもしれません」
「でもあなたは源氏を翻訳したいと考えているんでしょう?源氏と浮世風呂ではあまりにもその落差が大きいではありませんか」
「たしかに源氏は源氏でその優美で典雅な世界は魅力です。でも浮世は浮世で、その圧倒的ともいえる独創的な文学空間がみごとに結実しています。源氏が高尚で浮世が下品だなんて単純な図式は、陳腐な国文学者の学問的怠慢ですわ」
「アハハ、キビしいご意見ですね。浮世のいったいどこがあなたのお気にめしたのですか?」
「だって江戸っ子のl'essence de l'hommeが詰まっているじゃありませんか。わたくしたち歐州人のおよびもつかない世界ですわ。あの雑多で混濁した庶民の交流の場に、一種独特の美の世界が展開されているじゃないですか。とても不思議な世界です。二度目に読んだときは『面白うてやがて悲しき鵜舟かな』という句が想い浮かびました。たとえ貧乏のどん底にあっても、すこしも貧乏であることをハジとしない、元気にたくましく、誇り高く生きてゆく江戸庶民の底力を感じましたわ」
「………」
「それにあの江戸弁というか江戸ことばのすばらしさ。Rinには単なる下品なことばにしか聞こえないかもしれませんが、わたくしたちヨーロッパ人にはとりわけ魅力的なことばとして感じます。あの独特のリズムと滑らかで機転の利いた会話。ゆたかなOnomatopoie。もしかして日本語の永い歴史のなかでも、もっとも完成、昇華された口語会話ではないでしょうか。久しい鎖国をやめ、開国という激変を迎えたこの国、この明治というdramatiqueな時代に、新たな標準語が江戸ことばをベースに固まりつつあるとお聞きしましたが、納得です。京ことばも大阪弁もそれぞれ魅力的ですが、やはりベランメエには敵わないと思います……」
「………」
「アラ、またお得意の沈黙ですか。わたくしの意見はそんなにも突飛でしょうか?」
「いえ、そんなことはないと思いますが……何分にも水平にかまえていたところに垂直に飛びこまれたような気がしたので……」
「アラ、そのいい方、面白い表現ですこと」
「そもそもあなたが日本文学に巡りあったのは、いつ頃の話しなんですか?」
「お父さまが日本に向かわれたとき、わたくしはまだ七歳の無知な子供でした。その翌年、八歳の誕生月にお父さまから誕生プレゼントだといって、一通の大きな封書が届きました。中を開けてみると、きれいに彩色された絵本、つまり絵草子というものがはいっていました。それとともに長いお手紙が添えてありました。その手紙の冒頭に『レナーテ、お誕生日おめでとう。父はおまえに何をプレゼントに贈ろうかといろいろ考えてみたが、おまえは本を読むことが大好きだから、日本のお伽噺(とぎばなし)を贈ることにした。この絵本は「かぐや姫のものがたり」といって、今から千年ぐらいむかしの日本のお伽噺だ。話しのあらすじは別紙に記しておいた。父はまだ日本語に精通していないので、このあらすじはドイツ語が得意な教え子のひとりに頼んで翻訳してもらい、それを書き写したものだ。面白かったら、また別の絵本を送ってあげよう。どうか健康に気をつけて毎日を無事に過ごしてください』とありました」
「なるほど、八歳になったとき、初めて竹取物語に接近遭遇したわけですね」
「教え子って、あなたのことではなくて?」
「ハハハ、さすがにちがいます」
「わたくしはその絵本の美しい色使いと見たこともない不思議な風俗に圧倒されました。だって、わたくしが幼児のころから接してきたヨーロッパの絵本とは隔絶した世界ですもの。そのときからわたくしは日本文学に覚醒して、ずっと恋しつづけてきたのです」
「そんなに面白かったのですか…」
「だって痛快じゃありませんか。並みいる貴公子の求婚を断りつづけ、最後には御門(ミカド)までソデにしてしまうのですから」
「………」
「千年の昔から、良識ある日本人は『女性はみな結婚を望んでいる』という通説に疑問を投げかけていた、と考えてもよろしいでしょう。五人の貴公子はありもしない五品の珍宝を探し求めるふりをして、かぐやをだまそうとしたのです。これだけでもかぐやの男性に対する嫌悪感をつのらせるには十分でした。ミカドだって優柔不断です。相手が望んでいないとわかったら、なぜきっぱりとあきらめなかったのでしょう」
「………」
「女性には男性と結婚しない、もしくはできない理由をたくさん抱えているものです。ところが男性は押しなべて女性は結婚を望んでいると考えたがるものです。わたくし思いますに、月に帰る帰らないはべつにしても、もし求婚者が男子の本懐を実現したような立派な男性だったら、ウソや誤魔化しのない真っ直ぐな性格の持ち主だったら……かぐやもこころを許したかもしれませんね」
「……ふうむ。なるほどそういった解釈もできますね」
「あら、やっとほめていただいたわ。ありがとう」
「竹取からそんな帰趨(きすう)を導きだすなんて、さすがにヨーロッパ生れの女性ですね。興味深いご意見です。それで日本文学に目覚めて、そのあとどうされました?」
「わたくし『日本語を勉強したい』とお母さまにお願いしました。お母さまはお父さまに相談してみましょうとおっしゃいました。半年ほど経ったとき、ある日曜の午後に、温厚なお顔立ちの若い日本人のかたが訪ねて来られました。お母さまが『このおかたがあなたに日本語を教えてくださいますから、ご挨拶なさい』とおっしゃって、わたくしビックリしましたわ」
「誰ですか?」
「そのかたは流暢なドイツ語でおっしゃいました『わたくしは長井長義と申します。ベルリン大学で薬学、化学を学んでいます。この度(たび)は萩原三圭先生からお手紙がありましたので、こちらにおジャマしました。デーニッツ先生には日本に向かわれる直前にお目にかかりました。親しくお話しする機会はありませんでしたが、日本の医学向上のためにご尽力されていることはよく承知しております。月に一度でよろしかったら、微力ながらお嬢さまのお勉強を補佐させていただきます』こうおっしゃいました」
「長井先生かあ、すごいかたに家庭教師になっていただいたものですね」
「細やかなところまで丁寧に教えてくださって、とてもありがたかったです。二年ほど見てもらったのちに、別の留学生のかたに家庭教師は替わりましたが、それでも十三歳までずっと日本語の勉強をつづけることができました」
「十三歳まで…そのあとはどうしました?」
「だってわたくし十三歳になってみると日本語会話が苦にならなくなりましたもの。あとは独学ですわ」
「フーム、そりゃあたいしたものです。それで源氏から三馬まで幅広く渉猟できたのですね。いや、脱帽です……おっと三時か、もう行きましょう。ところで着たきり雀の一件ですが、なにか意味がありますか?」
レナーテはにっこり笑い「あなた、すこうし匂いますよ」ぼくは困惑してレナーテの顔を見ながら、ちょっとからだを反らすしぐさをすると「いいえ、そんなご遠慮はいりません。わたくしRinなら多少匂っても平気よ。でも、この船にはまえの船とはちがって立派な洗濯室があるのですから、あとで客室係を呼んで洗濯してもらったほうがよろしいわ」
「ありがとう…」ぼくはちょっと顔を赤らめながらこう返事するしかなかった。

           ☆     ☆     ☆

………午後三時、船に帰る。
 乗船口でこれから降りようとする宮崎さんと穂積さんに出合った。
「オヤ、どちらへ?」
「今、佛郵船のOxus号が到着したところだが、日本人船客が何名かいるとのことだ。だれか知りあいでもいるかもしれないと思って、探検に行くところだよ」
ぼくもちょっと気になったので「いっしょに行ってもいいですか?」と聞くと「ああ、かまわないよ」といってくれた。するとレナーテが「わたくしもごいっしょさせていただけます?」と口をはさんだ。
「アハハ、別段なんの支障もございません。むしろ若くて美しい貴婦人のご同行は、われらムサくるしい野郎どもの光栄とするところであります」とお道化ていったので、レナーテが吹きだした。
 オクシウス号もけっこう大きな船である。食堂も広かった。真ん中あたりに日本人が五六名、リキュールかなにか飲みながら歓談しているのが見えた。三圭さんと飯森さんの顔が見えた。
「やあ、来たね。あれレナーテも来たんだ」
「三圭さん、こちらの美しいご婦人はどなたです」
「こちらはレナーテ・デーニッツさん。プロフェッサー・デーニッツのお嬢さまで、これからドイツに帰る途中です…こちらの三名が同行の留学生仲間で、宮崎さん、穂積さん、森軍医です…」
「どうも今村清之助といいます。証券売買を生業(なりわい)としているものです。今回はこちらにいる福原充さんと、陸奥宗光くんをヨーロッパに送って行った帰りです。それからこちらが圓中孫平さん、巌見鑑造さんでおふたりともヨーロッパ遊学を終えられて帰国される途中です」それぞれ挨拶を交わした。
宮崎さんが「陸奥閣下は去年出獄されたばかりですが、おからだのほうは大丈夫なのですか?」と聞いた。
「ええ、いたってお元気です。なにしろ入監中にベンサムを翻訳するほどの精力家ですからね。今度の歐米研修も発端はそもそも伊藤公に勧められたらしいのですが、二つ返事で請け負ったとおっしゃってました」
「さすがに海援隊ですね」
「いやいや今村さんもなかなかの豪傑ですよ。なんてったって澁澤氏や福知氏とともに東京株式取引所を開設した武人のひとりなのですから」三圭さんがいった。
「それをいったら、こちらの巌見さんもすごい履歴の持主です。例の岩倉使節団の一員でしたから」今村さんがいった。
「え?使節団の一員といえば、もしかして回覧實記にもたずさわれたのですか?」ぼくが聞くと「いえ、實記に関しては久米閣下がほぼおひとりでまとめられました。私どもも何かお手伝いできることはありませんかとおたずねしましたが『ありがとう、そのお気持ちだけお受けいたします。しかしこれはわたくしの仕事です』ときっぱりとおっしゃいました」
「やっぱりほとんどお一人で成し遂げられたのですね。すごい方ですね……」ぼくは感心した。
今村さんが「お嬢さま、なにかお飲みになりますか?」と聞いた。
「ええ、せっかくのお席なので、みなさまのつつがないご帰国をお祈りして、三鞭(シャンパン)などありましたらいただきとう存じます」
「そりゃあいい、なかなかサバけたお嬢さまだ。ぜひみなで乾杯しましょう」
ぼくはあっけにとられて見ているしかなかった。

 ………晩餐はそのままその席で済ませた。三圭さんが「あまり遅くなると教授が心配するかもしれない。森くん、レナーテを送って先にヤンツェ号に帰ってくれませんか?」「わかりました。レナーテ、行きましょう」みなに挨拶をしてオクシウス号をあとにした。
 すでに夜は更けていたが、月明かりや香港におとらぬ街区の灯り、さらに許多(あまた)の船の灯りも加わって、あたりはかなり明るかった。ぼくはさほど飲まなかったが、みなにシャンパンを注がれたレナーテは、酔いを醒ますのにちょうどよい潮風であったとおもう。
「ねえ、Rin…」
「なんです?」
「わたくし、とってもいい心持ちですわ」
「ええ、じゅうぶん飲みました…」
「それにこの夜景の素晴らしいこと、とてもRomantiqueね」
「………」
「ねえ、Rin…」
「なんです」
「あなた漢詩をつくるのがお得意よね」
「下手の横好きです」
「このステキな夜をちょっと詠んでみてくれます?」
「だってあなた、さすがに漢詩は読めないでしょう」
「ええ、シナ人のようには読めません。でも日本人だって漢文に返り点をつけて日本語になおしてから詠んでいるだけじゃありませんか。それならわたくしにもわかりますわ」
「ふうん、それではできるだけ口語に近い詩文に作ってみましょうか」レナーテは小さく拍手して「それそれ、ぜひお願いします……」
ぼくも我ながら面白い発案だと思って、レナーテのわがままにつき合うことにした。

 聞くならく いにしえシンガポールは 海辺さびしき寒村に過ぎざりしを
 埠頭いま見る 林立する船々のマスト 千をかぞえかぎりなし
 英人 まさに錬金術をふるい 黄金のみやこを築きて 
 シナインド両海の咽喉(いんこう)を扼す
 わらべ 小舟に乗りて群がり来たる 舟は狭にして小 
 瓜を剝(こ)するがごとし
 銀錢 水中に投ずるを請い 跳(おど)りて水に没し
 これを攫(かく)して浮かぶ 百に一を失はず
 馬車を雇い華苑に入るに 盆樹つかねて人形となす なおわが菊人形を想ふ
 廛(みせ)を開きて食をひさぐはシナ人なり 腕車挽くもシナ人なり
 うたがふシナの街たるかと
 土人 渾身黧黒(りこく)にして 肩腰 紅白の布をまとふ 
 麗女 鼻に金環をうがつ みな跣足なり
 フイフイ奉ずるもの 帽をいただくこと桶のごとし 
 牛の車を挽くを見るに  肩峰突起すること 駱駝に似る
 日暮 船をはなれ 樹陰に立つ 林をへだてて寺あり 梵鐘の音ゆるやかに
 走りすぎる子供を見るに みなうるしのごとき肌 灯りにきらめけり
 ただうるさきは土人の声 ひたすら彩禽をうる

「サイキンってなに?」
「鸚鵡(おうむ)やインコのことです」
「たしかにせっかくのロマンティックが台無しね。でも詩はなかなか面白かったわ」
「なに、ひどい作です。自分でつくって自分で後悔しました」
「返し歌は?」
「かえしうた?漢詩に返歌はありません」
「そんなムツかしいこといわないで、歌ってくださいな……わたくし、Rinの和歌も聞きたいのです」
「………」
「ねえRin、お願い……」
「まったくあなたはわがままですね」
「わたくし、酔っぱらうとしつこくなりますの……」
「やれやれ、それではあなたがシャンパンを飲んだときの様子でも歌ってみましょうか」
「それそれ、ぜひお願いします……」

 こと国の 人もまじりて さかづきを 
             うちあはすなり けふのまどゐに
「もう一句……」
「ヤレヤレ……」

 いはひつつ 酌むさかづきに 立つ泡の 
             まだ飲まぬ間に 消えてあとなき
「つぎはこの素敵な夜景を詠んでください……」
……酔っぱらいのわがままはどこまでもエスカレートして、とどまるところを知らない。でも少しも腹が立たないのはなぜだろう。この夢想的な港湾の夜景、街の灯り、船の灯り、異国情緒あふれた人々の喧噪、灯りを反映してキラキラきらめく乙女の碧いひとみは、半醉のぼくをどこまでもpoetiqueな気分に引きおとしてゆく。
 ひとの感情は刹那をいのちとして消えてあとなきもの……しかし形見にうたを残す。ぼくの感情そのものは、ときとして他人(ひと)を酔わすこともあろう。ただ、そのとき詠んだうたが千古の絶調にならねば、たんなる酒粕(さけかす)にすぎぬ……そんな考えがいつもぼくの意識にまとわりつき、ぼくはうたを詠むことに、いまひとつ積極的になれなかった。
 しかしレナーテの『ムツかしいこといわないで』ということばは、そのようなぼくの閾(しきい)を一気に引き下げた。千古の絶調とは……つまり秀句とは、浜の真砂のように詠みすてられた許多のうたのなかに、たまたま煌めき出でたる稀少な宝石のようなもの……数かぎりなく詠まれてゆく凡句のなかから、突如、出現する麒麟のごときものであろう……もちろん秀句を詠もうとする努力は大切だろうが、それが創造の源泉に抑制を加えるようなことがあったら、さらに秀句が生まれる可能性は下がるかも知れない。
 つまり、なぜかわからぬが、ぼくはそのときいくらでも詩(うた)が詠めるような気になった。おこがましい言いかただが、詩神がそっと舞いおりてきたような気がした。もっともあとで思いかえしてみれば、そのとき感じた不思議な昂揚は、単なるシャンパン効果による錯乱にちかいもの……だったのかもしれない。

  わが歌は 野ぶり鄙ぶり 調べあらじ 
              歌に老いたる うまびと聞かすな
「………」
  わが歌は 素ごとただこと 巧みあらじ 
              歌におごれる わかうどな聞きそ
「………」
  詩(うた)も斯(か)かれ 氷を盛れる 玻璃の盤(さら)
              ほがらに透きて 見えぬ隈(くま)なき
「ウフフ……」
  大船を くつがえすべき あら波の 
              ひそむともなき 海の面(おも)かな
「いまひとつ……」
  月の夜の 船よりぞ見し 家むらの 
              黒きを縫へる 白き街まち
「いまひとつ」
  夜の波の 刻めるごとき 輪郭の 
              うへにまたたく 白がねの星
「いまひとつ」
  血の色の 星の影さす 入り海に 
              黒き帆の舟 つと入り来たる
「いまひとつ」
  おもひでの 白き水鳥(みづどり) わが渡る 
              かぐろき波の 上を飛び過ぐ
「いまひとつ」
  風待ちて たやすく起たぬ 水鳥の 
              羽づくろひすと とまる岩かど
「いまひとつ」
  波を切る かのしらとりの 鉛直に 
              立てたる首の 動かざる見よ
「いまひとつ」
  はやぶさに 荒きは海の ならひとぞ 
              高き波には いよ高く翔ぶ
「いまひとつ」
  青海原 しばし波路の 仮りの宿 
              羽ぶりゆたかに カモメ飛ぶ見ゆ
「いまひとつ」
  波がしら 汐は静かに 流れゆく 
              白きも見えず おなじ早さに
「いまひとつ」
  紺青(こんじょう)の 水を湛(たた)ふる 海原に 
              弓なし曲がれる ま白き水沫(みなわ)
「いまひとつ」
  沙(すな)に伏し 波かづくあり SIRENEの 
              ま白き肉(しし)むら われをあざ笑ふ
「いまひとつ」
  波打ちぎはに 輪(わ)なすシレーヌ 笑(ゑ)まひ帯び
              あな我れいづくか 惹かれてゆくらむ
「ウフフ……いまひとつ」
  みなみかぜ 波濤ゆるがす 午空(ひるぞら)の 
              ちぎれ白雲 よれつもつれつ
「いまひとつ」
  風をなみ ゆふべむら立つ 白雲の 
              濃きところどころ やや黒みゆく
「いまひとつ」
  海の端に たたなはりたる 夏雲の 
              つひにくづれぬ ひと日なりけり
「いまひとつ」
  ふるさとは いつ立ち出でし 夕陽かげ 
              あすもかはらぬ 陽は出でなん
「いまひとつ」
  恐るるは 沖のはやてか 荒なみか 
              はらへ涙も 世の憂さも
「いまひとつ」
  わが想ひ そこはかとなく 浮かびくる 
              やがてぞ消ゆる 波のまにまに
「いまひとつ」
  かたらひも CABINのそとに ふる雨も 
              しめやかなりき さ夜ふくるまで
「いまひとつ」
  夜のうみ 見はるかしつる うへ見れば 
              晴れたる空に 萬玉のほし
「いまひとつ」
  うづ寶(たから) 獲つとほこりし 手には櫃(ひつ)
              玉(たま)はみそらに 星とかがやく
「いまひとつ」
  星模様 彩は織りたる 錦にあるを 
              抜きなばいかに 絲のひとすじ 
「いまひとつ」
  千よろづの 寶の数を 列ねんと 
              夜一夜きそふ 星のなが橋
「いまひとつ」
  月にこそ 日にこそ蝕(そく)の あらばあらめ 
              星よなど虧(か)け など地に隕(お)つる
「いまひとつ」
  あまの川 涸れて密(みそ)かに 夜ごと逢ふ 
              星のほぐらん 雨かとぞおもふ

「いまひとつ」
「……もうこのくらいにしておきましょう。キリがありません」
「ウフフ、やっぱりあなた駿馬ね。わたくしの期待どおりの吟遊詩人(うたよみびと)です」
「あなたには勝てません……」
「………」
「………」
「ねえ、Rin……」
「なんです」
「波の音が優しいわ……」
「………」
「ねえ、Rin……」
「なんです」
「このままふたりでどこか遠い世界に逃げてゆきたいわ……」
ぼくは一瞬、立ちどまってレナーテの貌(かお)をのぞいた。薄あかりに美しい貌が照り映えて、シャンパンの効果で淡いピンク色に輝いている。碧いひとみは永遠の希求とでもいったように、ぼくの顔を透かして虚空を見つめている。いまひとたびシレーヌということばが想い浮かぶ……
「バカなこといってないで早く船に帰りましょう」ぼくはレナーテの手を握ってちょっと早足に歩き始めた。レナーテは黙ってぼくについてくる。このときぼくの心のなかはChaosであった。しかしかぎりなく甘く麗しいカオスであった。
 ぼくはレナーテを部屋に送ったあと、教授にちょっとご挨拶して自分の部屋にもどった。
 寒暑針八十五度。

            ☆     ☆     ☆

………そこへ給仕がグラスを持ってきて、シェリーを注いでくれた。スープと茹でたキノコを散らした野菜のサラダもきたので、ぼくはガツガツと食べはじめた。しばらくするとメインデイッシュの若鶏のソテーがきた。レナーテはシェリーを嘗(な)めながら笑みを浮かべてぼくを見つめている。シェリーの効能か、シンガポールの夜に見たように、白い肌がつやつやして淡いピンクを呈している。
突然…「つかぬことをおうかがいしますが、在原業平は男色(なんしょく)だったのでしょうか?」
ぼくは思わず鶏肉をまちがったところへ呑みこむところであった。ゴホゴホとひどくむせかえった「まあ、たいへん。大丈夫ですか?」レナーテはさも心配そうに中腰になると、ぼくの顔をのぞいた。
「大丈夫、大丈夫です………が、またとんでもない質問をなさいますね」
「あら、そんなに驚かせました?」
「いったい誰からそんな話をきいたのですか?」
「西鶴さんがそうおっしゃってますわ」
「え?西鶴がそんなこといってました?」
「はい、男色大鏡で………あなた、西鶴はお読みになりませんでした?」
「世之介だけは読みましたが、なにしろ虚実ない交ぜの、趣味のかたよった饒舌家という印象をもったので、ほかの作品は読みませんでした」
「あら、ずいぶん低調なご評価ですこと。わたくしもたしかにウソや誇張の多い文章とは思いましたが、なかなか面白い作家だと思いましたわ。多分ここまで徹底しているのは、世界広しといえども日本だけでしょうね」
「男色がですか?」
「ええ、そうです。安倍晴明とかいう怪しげな占い師は『世界いっさいの男、美人なり。女に美人、稀なり』などとずいぶん失礼なことまで申しているそうじゃありませんか」
「まあ、とにかく『売らんかな』に徹した浪花の浮世草子作家ですから……なんでもありでしょう」
「それではむかしの日本人が男色を好むということそのものが虚構でしょうか?」
「いえ、そうはいいません。男色はたしかに日本人には珍しいことではありません。仏教の僧侶に『女犯の戒』というものがあって、坊主は女性と交わってはいけないと禁止されています。しかし戒律を守る僧侶もいるが、守らない僧侶もいます。守らない連中は『女と交わっていけないのなら、男と交わる分には文句もあるまい』と勝手に解釈し、むかしから坊主どものあいだでは男色はあたりまえの慣習になっていました」
「まあ、ずいぶんな屁理屈ですね……」
「男色についてはドイツの精神科医クラフト・エービングなどが病理として詳論していますが、歴史をさかのぼってもなんの珍しいことでもありません。法華経を始め、正法念経、十不善業道経、五戒相経、造像功徳経、沙弥十戒儀則経(さみじっかいぎそくきょう)、僧護経、阿含暮経(あごんぼきょう)、四分律、五分律、僧祇律、有部律(うぶりつ)、十誦律(じゅうじゅりつ)、五百問論、瑜伽論(ゆがろん)などなど、みな男色を戒めています。つまりブッダ在世時よりごくあたりまえの風習でした」
「………」
「周の穆王(ぼくおう)のとき、菊慈童(きくじどう)というものがおりました。衛の霊公のとき、弥子暇(びしか)というものがおりました。漢の文帝のとき、鄧通(とうつう)というものがおりました。同じく漢の哀帝のとき、董賢(とうけん)というものがおりました。そのほか孟郊といい、安陵といい、龍陽といい、みな有名な男色者です。龍陽についてはひとつエピソードがあります。龍陽が魏(ぎ)の安釐王(あんきおう)とともに肩をならべて釣りをしていたとき、大きな魚を釣りあげて喜ぶ王を見て龍陽が涙を流しました『どうして泣くか』と問われ『今、ご寵愛を受けているわたくしも、より美しいものがあらわれるとご寵愛を失ってしまうかもしれません。そのことを考えると悲しくて涙があふれるのです』と答えました。これを聞いた王は『今後、予に美人を献上するものあらば、そのものを処刑する』と宣したそうです」
「ウフフ……」
「大悲華経では男色のことを狎甎(こうせん)と呼んでいます。シナでは非道と称えることもありました。わが国では若道(にゃくどう)とか衆道(しゅどう)とか呼んでいます」
「江戸時代の呼び名ですか?」
「まあ、たしかに江戸期は男色が隆盛を迎えたときではありましたが……あなた、織田信長という戦国時代の武将をご存知ですか?」
「もちろんですわ。信長公記(しんちょうこうき)、読みました」
「………」
「あら、どうなさいました?」
「……まったくあなたには驚かされます。まあいいや、気をとりなおしてお話ししましょう。公記にも同じ記事が見えますが、永禄四年五月に信長は西美濃を攻め、飛騨川をこえて梶村(かじむら)に陣をとりました。敵将、長井甲斐守、日比野下野守(ひびのしもつけのかみ)は洲股(すまた)より出張り、森部口のあたりで合戦し、両将とも戦死しました。これより先、両将のもとへ近江猿楽の旅役者の一行が訪れましたが、両将とも娼童の美なるを選んでこれを贖(あがな)い、側(そば)近くに召し使いました。森部口合戦のとき、この二人の少年はおおいに奮戦しましたが、武運つたなく、主従ともども枕をならべて討ち死にしたということです。近国のもの相伝えて美談としました。これは續武家閑談という書に載っている話ですが、著者の木村高敦(たかあつ)は延宝生れの幕臣です『娼童とは今の歌舞伎子供のたぐいなり』と注していますから、つまり永禄のころからすでに男娼が存在していたということになります」
「フーン……」
「天保の末、老中水野忠邦は風俗匡正のため、種々の規制を発令し、芝居小屋の郊外移転、寄席の廃止など、庶民の娯楽に大ナタを振るいました。これを天保の改革と呼んでいますが、とくに七代目市川團十郎の江戸追放は天下の耳目をあつめました。改革以前は江戸市中にカゲマと呼ばれる娼童の数多く、江戸會雑誌にはこんな記事が載っています『按ずるに府下に男娼の行われたのはいつのことであるか。石谷貞清町奉行のとき、ことごとくその額髪(ひたいがみ)を剃って「野郎」としたことなど考えあわせると、寛永のころにはすでに盛んに行われていたと思われる。あるいは「女歌舞伎」を停められて「若衆かぶき」となった以降のことか。そののちも踊り子となり、香具師(やし)となって諸家に出入りするものがあったが、これも禁じられた。しかし市中には密売するものあとを絶たず、安永天明のころ、比較的取り締まりのゆるやかになったときは、芳町、木挽町、湯島天神社内、麹町平川天神社内、神田塗師町代地、芝神明前、神田花房町、市谷八幡社内など八九ヶ所あったが、その後ようやく衰え、天保改革のころにはほぼ半数に減ったという…』…」
「………」
「湯島天神社地伝にはこんな記事が残っています『正徳の末、旅役者津ノ国屋清六というものが来往し、妙齢の弟子を抱えおき、遊客の酒宴に侍せしめた。社地に男娼あることはけだしこのころに始まる。そののち同業のもの追々に増えて、天明年中には鳥居のきわより半町ばかりのあいだ、西側に抱え主十三軒あり、東側揚屋(俗に子供呼出料理茶屋という)十七軒あり、これを全盛時とする。その後少しずつ衰退し、天保十四年に営業を停められたときは、抱え主、揚屋あわせてわずかに八軒、娼童は二十二人だった』とあります」
「………」
「……妙齢の婦人が聞くような話ではありませんね。もうこのくらいにしておきましょうか」
「いいえ、ダメです。とっても面白いし、興味深いです……『好奇心のカタマリ』の知識欲を十二分に満たしてください」
「ヤレヤレ、あなたには勝てません……それでは坊主の話しにもどりましょう。戒律を守らない僧侶を破戒僧、または生臭坊主といいますが、実際ソフィストみたいな連中が多かったのです。室町の末期、天文十八年というから千五百四十九年のことですね、イエズス会士フランシスコ・デ・シャヴィエルが鹿児島に上陸して説教をこころみましたが、かれのゴア宛の書簡に『ここの坊さんたちは、その寺のなかに武士の子弟をたくさん集め、読み書きを教えるかたわら、子供と罪を犯している。一般の人々はそれが習慣となっているので、それを好まないにしても、べつに不思議とも思っていない』という一文があります」
「………」
「そのほか五戒という戒律を守らないことも糾弾しています。五戒とは僧侶の守るべき五つの戒律のことで不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫、不妄語、不飲酒(ふおんじゅ)のことです『むかしは五戒をやぶった坊さんや尼さんは領主がそのクビを切った。すなわち姦淫の罪を犯したもの、魚や獣など生物(いきもの)の肉を食ったもの(つまり僧侶は穀物野菜以外のものを食べてはいけないと禁じられていたのです)、人を殺し、ものを盗み、あざむき、酒を飲んだものがクビを切られた。だが今はそのオキテもすたれ、坊主も尼さんも公然と酒を飲み、ウラにかくれて魚を食い、巧みにウソをつく。恥を恥とも思わず、平気で姦淫し、罪の対象たる少年を囲っている。わたしがそれを詰問すると「こんなことは罪ではない」と泰然自若としている。そして国民のあいだにもこの悪風が瀰漫し「坊さんがやっているのだから俗人は当然のことだ」と考えるようになった』と記しています」
「まあまあ、日本人は寛容すぎますね。その当時は仏教を奉ずるものに男色が多かったということですか?」
「一概にそうともいえません。おなじく聖フランシスコが薩摩を出て山口に向かったとき、ところの領主は大内義隆というものでしたが、この男は放蕩をこのむ殿様だったらしく、小小姓(こごしょう)を可愛がることも格別だったといいます。小姓というのは殿様の身の回りの世話をするものをいうのですが、『小』が頭につくと元服まえのごく若い小姓を意味し、ウラでは男色の対象者も意味します。フランシスコが義隆に目通りを求め、興味をもった義隆がその天狗と会ってみよう(ポルトガル人は鼻が高いので当時の日本人は天狗、天狗と蔑称しました。もっともフランシスコ自身は生粋のスペイン人でしたが)といったので、かれは城に出かけていきました。そしてキリスト教の教えを順々と説いてゆくうちにSODOMIAの罪を詰る場面になりました。すると義隆はにわかに顔色を変え、怒りの表情を見せ、側近のものに命じてその場で退席させました。つき添った通訳のフェルナンデスはいつフランシスコの首が飛ぶか、非常に心配したとのことです」
「おやおや、むかしの日本人はホントに自由奔放でしたね」
「キリスト教にいう原罪という考え方を日本人は持ちあわせていませんからね。そもそも宗教家がUrnigthumやLesbosを恐れるのは『産めよ増えよ地に満ちよ』の信条に反するからです。Homosexualが蔓延すると出生率が減少するのではないかと危惧するからです。まあ単なる取りこし苦労ですがね、日本人はそんな心配をしたことなど一度もありません」
「LesbosてSapphoのこと?」
「アレレ、よく知っていましたね」
「詳しくは知りません。説明してください」
「………」
「アラここまで来て急停止ですか?」
「まいったな、つい口が滑った……」
「ん?」
「ウーン……お父さまには絶対にナイショですからね」にっこり笑いながらコクリとうなずいた。
「女性が女性と交わることをTribadismus(擦淫)ということはあなたもご存知かもしれませんが、多く娼婦、女囚のあいだに見られる現象です。パリではSaphismusが一般的です」
「サフィスムス?」
「ええ、これはさらに説明がムツかしい……漢語で表現しましょう『〇〇〇〇〇』といいます」
「まあ、お逃げになるの?ダメです、ちゃんと日本語かドイツ語で説明してください」
「ウーン……」
「毒を食らわば皿までっていうでしょ?」
「ヤレヤレ、あなたには敵(かな)いません……あくまでContrare Sexualempfindungにおける検証のお話しですよ……『〇〇〇〇〇』ことをSaphismusといいます」
「フーン……」
「近代ヨーロッパ小説においては、このようなLesbierinもしくはそれに類する二女相愛するの内情を描いた作家の多きにたえません……BalzacでいえばLa Passion au desertやSeracine、La Fille aux yeux d'orなど、DiderotならLa Religieuse、GautierではMademoiselle de Maupin、FeydeauではLa Comtesse de Chalis、FlaubertならSalammbo、BelotならMademoiselle Giraud ma femme、WilbrandならFridolins's heimliche Ehe、Graf StadionならBrick und Brack、Sacher-MasochならVenus in Pelzなどなど……」
「日本にはLesbierinはおりませんの?」
「もちろんそんなことはありません。最近の新聞雑報をみても『下野足利の士人渡辺氏の娘スエといへるが三歳年上の上総屋の商売女ハナと同死せり』とあります。また『芝浜松坊の寄席の娘で十九になるモトが年二十一の女髪結いワカと同死せり』という記事も見えます」
「心中までいってしまうところがいかにも日本女性らしいですね」
「いえ心中までいかないケースも多々あります。まあ外情(げじょう)については万国共通、古今東西いずこもおなじです。強いていえばヨーロッパでは宗教がらみで犯罪あつかいされることが多く、日本の場合はせいぜい眉をひそめるくらいのもので、罪に問われることはまずありません。ちょっと前まで英米ではPaderast(少年を好む男色家)は死刑に処せられました。現在のドイツ、オーストリアの法では最長五年の収監です」
「なにか日本人の寛容性が際立っていますね」
「まあ有史以来、異国に領土を蹂躙された記憶もないし、太古のむかしからわが国民はノンキで気楽な民族でした」
「アラ、そんなことおっしゃってよろしいの?日本の医学生が、というか日本の軍人さんがそういったと告げ口しちゃいますよ」
「アハハかまいません。そうでなきゃ浮世風呂や好色一代男なんていうヘンテコな小説は書けませんでしょ…」
ぼくがほぼ食事を終えたころ、給仕がやってきて軽く腰をまげぼくの顔を見た。ぼくが「いいよ」というと、皿やナイフ、フォークなどを片づけはじめた。シェリーはいつのまにか空(から)になっていた。
ぼくが珈琲を注文すると、レナーテも「わたくしもいただくわ」といって、給仕に目配せした。
「あなたは上方の浮世草紙とか、江戸の戯作にはあまり興味がお有りなさらないようね」
「そんなことはありません、近松は天才だと思いますし、馬琴や京傳、春水などはけっこう好きです」
「フフフ、八犬傳ですね…」
「え?まさかあなた、八犬傳を読んだなんていうんじゃないでしょうね」
「あら、全巻読みましたわ。七五調でとても読みやすいじゃありませんか。つい声に出して朗読したくなるような、歯切れのよい、雄渾な文章じゃありませんか。そのうえあの合戦場面の構成力、スピード感、大局的な視点からdetailを積みかさねてゆく手法、もし曲亭先生がシナ直伝の勧善懲悪などという固定観念にとらわれず、日本人の血脈に滔々と流れる『ものの哀れ』の精神、そうですね、源氏や平家物語などに具現化された日本固有の精神性で八犬傳を描いたら、世界有数の文学になっていたでしょうね」
「ハハ、宣長みたいなことをいいますね」
「ノリナガって本居宣長のこと?」
「え?まさかあなた宣長まで読んだっていうんじゃないでしょうね」
「さすがに古事記傳は読みません。でも宇比山踏は読みましたわ『詮ずるところの学問は、ただ年月ながく倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてよかるべく、さのみ関はるまじきことなり。いかほど学びかた良くても、怠りてつとめざれば、功はなし。また人々の才と不才とによりて、その功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されどたいていは不才なる人といへども、怠らずつとめだにすれば、それだけの功はあるものなり。また晩学の人も、つとめはげめば、思ひのほか功をなすことあり。また暇(いとま)のなき人も、思ひのほか、いとま多き人よりも、功をなすものなり。されば才の乏しきや、学ぶことの晩(おそ)きや、いとまのなきやによりて、思ひ崩(くづお)れて、止むることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくづおるるは、学問に大きに嫌ふことぞかし……』わたくしたち『ものまなび』を志す学生にとっては、とても勇気づけられるおことばですわ」
「………」
「どうされました?」
「………」
そこへ給仕が珈琲をもってきた。ぼくはひどく咽喉(のど)が渇いているように感じたので、さっそく飲もうとすると……
「ところであなた、若道(にゃくどう)のご経験は?」
ぼくは一瞬、噴きだしそうになったのを無理やりおさえたので、ふたたび激しくむせ返ることになった。
「ゴホ、ゴホ、ゴホ…」
「あらあらまた大変、大丈夫ですか?」
「あなた、わざとやりましたね。先ほどの件もそうでしょう?ぼくが周章狼狽するのがわかっていてやったのでしょう」
「まあ、バレました?ごめんなさい。悪気がないことはご承知でしょう?許してくださいね……」レナーテの碧いひとみにはまたもやいたずら好きの小鬼が踊っている。
「あら、あなた涙がこぼれていますわ」そういうとレナーテは立ちあがって卓の上に身を乗りだし、隠しから白い絹のハンカチをだすと「ちょっと動かないでくださいね」といって、左の手のひらをぼくの頬の下にあて、右手でぼくの下まぶたのあたりを優しくぬぐった。微醺をおびた健康な乙女のすがすがしい香りがぼくの鼻をくすぐった。
 正直にいう、ぼくはレナーテの白い手がぼくの頬に触れた瞬間、まるで全身に電流が奔ったかのような激動に襲われた。生れて初めての体験だった。それと同時に、心中の動揺をおもてに表すまいとひじょうな努力をした。「官能」ということばがあるが、こういうことをいうのではなかろうかと思った。
「さあ、そこで?」
「そこでって何です……」
「アラ質問に応えていただいておりませんわ。あなたの若道のご経験の有無ですわ」
「そんな質問にはこたえられません。というかこたえたかありません!」
ぼくはかなり強い調子で断固としていったつもりだったが……
「まあ、それではやっぱりあなたも……」
「ちょ、ちょっと待ってください、ぼくには若道の経験などありません」
「ホントですか?」
「ウソをついてどうするんです。ぼくはいつも逃げまわってばかりいたのです」
「アラ、何からお逃げになっていたのです?」
ぼくは覚悟を決めた。レナーテの好奇心を封じ込める手段を、自分は持ちあわせていないと思ったからだ。
「それではやむを得ないので、学生時代の経験をお話ししますが、絶対に他言無用ですからね。それだけは堅く約束してください」
「もちろんですわ。陶器製のヒキガエルのように口をへの字に曲げて黙っておりますわ」小首をかしげ、にっこり笑いながらいうのである。この笑顔に抗することのできる男はこの世にいまいと思わせる、例の笑顔である………

          ☆     ☆     ☆

 二十日、舟航すこぶるおだやかである。
 朝食を済ませた三圭さんが船室にもどってくると、原稿にむかっているぼくに……「あした午後二時から、レナーテの誕生日パーティーを計画しているから参加してくれたまえ」といった。
「え?あした?九月二十一日がレナーテの誕生日なのですか?」
「うん、十八歳の誕生日だ。日東十客は全員参加するよ」
「そりゃよろこんで参加しますが、こまったな、プレゼントがないなあ…」
「いいんだよ、そんなことは気にしなくても。出席するだけでレナーテはよろこぶのだから」
「三圭さんはなにかプレゼントを用意されているんですか?」
「うん、私は誕生日を知っていたからね。日本を出るまえから準備しておいた」
「どんなプレゼントなんですか?」
「ハハハ、そりゃあすのお楽しみにとっておこう……」
 ふと気づいたことがあって、ぼくは行李の紐を解き、ふたを開けた。今回、旅行鞄のほかに行李を二つ持ってきたが、いま紐といたのは、出航以来、いちども開けたことのないほうである。
「オヤ、なにかプレゼントになるものでも思いついたのかい?」
「いえ、そのう……ぼくが今着ているのは通常の軍服ですが、ドイツで必要になると思い、礼装用の軍服ももってきました。あす着るために、今からシワ伸ばししておこうとおもいます」
「アハハ、そりゃあいい、立派なお誕生日プレゼントだ。レナーテも泣いてよろこぶぜ…」

 二十一日、レナーテの誕生日である。
 午後二時に食堂にむかうと、けっこう賑やかである。日東十客はもちろん、食事中やデッキ散歩などで顔だけ見知っている歐人の家族などがいる。船長や水夫長などの顔も見える。テーブルにはシャンパンやシェリーなどいろいろな酒瓶やグラスがならんでいる。船長がスプーンでワイングラスをチリーンと鳴らした。
「紳士、淑女のみなさま、お集りいただきましてありがとうございます。本日はレナーテ・デーニッツお嬢さまのお誕生日です。この麗しき乙女の十八度目のお誕生日を、みなでお祝いしようではありませんか。レナーテお嬢さま、なにかスピーチはありますか?」
レナーテは笑顔を見せながらかぶりを振った。ちょっと頬を紅潮させているようだった。
「それではみなさん、お手近にあるグラスをお取りください…」給仕がふたり、シャンパンを注いでまわった。
「それではレナーテ嬢、お誕生日おめでとう!」
「おめでとう!!!」
そこへシェフが大きな盆にUn gateau d'anniversaireをのせてきて、レナーテのまえにおいた。四角いケーキのうえに十八本の蠟燭が円形にすえてある。シェフが火を点ずると「さあ、レナーテお嬢さま」とうながした。レナーテは頬をふくらませて、一息で炎を吹き消した。拍手がわきおこる。「ありがとう、みなさん、ありがとう」とレナーテがすこし涙目で礼をいう。
「レナーテ、おめでとう」こういいながら教授は小さな箱をレナーテに手わたした。
「まあ、開けてみてもいいですか?」
「もちろんだとも…」
「あら、綺麗なペンダント」径一寸強の丸い玻璃の円盤が、渦巻くような藍色とピンクに煌めいている。
「七宝焼きだよ、フタを開けてごらん」
「あら、お母さまとわたくしの写真が…」
「日本にもどる直前に、みなで写真館にいって撮ったものだよ。憶えているだろう。おまえとお母さんとふたり並んでの半身像がことのほかよく撮れていたので、それを素材にして七宝焼きに仕立てあげてもらった。日本の職人はいつもながらみごとな仕事ぶりだ」
「ありがとう、お父さま……」レナーテはペンダントを首にかけると、教授に抱きついた。教授はやさしくレナーテの背中をさすって「おまえには本当に苦労をかけてすまなかったね。たいせつな少女時代もお母さんに任せっきりで、お父さんとしての役割を果たせなくてたいへん申しわけなかった。でもよくここまで成長してくれた。お父さんはなによりうれしく、誇りに思うよ…」誰ともなく拍手がわきおこった。
 つぎに三圭さんが「おめでとう、レナーテ。私も出航まえから準備しておいた」といいながら小箱を手わたした。
「まあ、ありがとうございます。開けてもよろしくて?」
「ああ、開けたまえ」
「あら、これは歌加留多(うたがるた)!」
「教授から聞いてるよ。正月になると女学校のお友達の家を訪ねては、夢中になって興じていたそうだね。お友達は冗談交じりに「道場やぶりがきた!」と騒いだそうじゃないか。そこでこんなものを用意してみた。もちろんカルタの中身は変えられないが、外箱は意匠を凝らすことができそうだと思って、知りあいの日本画家に頼んでみたんだ…」
「それでこんなにオシャレなんですね。桐の箱ですね。金箔が貼られていてとっても綺麗。そしてこの十二単衣(ひとえ)の女性はこのわたくしがモデルなのですか?」
「うん、画家にきみの写真を見せて、髪は金髪、眼はブルーとつたえた」
「まあまあ、たいへんに手間がかかっているのですね。ありがとうございます」そういうと三圭さんにも抱きついて感謝の気持ちをあらわした。
「Renate.Veuillez accepter ce cadeau」
六七歳に満たないとおもわれる可愛らしい女の子が小箱を手わたした。レナーテは流暢なフランス語で「まあ、Helene、あなたまでプレゼントを用意してくださったの?とってもうれしいわ…開けてもよろしくて?」Ouiと女の子はこたえた。
「鴾色のリボン、なんて素敵なのでしょう。エレン、わたくしの髪の毛に結んでくださる?」そういうとレナーテはエレンのまえにしゃがんで背中を見せた。エレンと呼ばれた女児はちょっと覚束ない手つきでリボンをレナーテの髪に結んだ。そのうしろで心配そうな顔をして見ている十五六歳ぐらいの女性はエレンの姉と思われた。
「ありがとう」レナーテはエレンを抱きあげて頬にキスした。
ここでも拍手がおこった。
 もうこれ以上、プレゼントをわたす人はいないと思ったので、ぼくはおずおずとレナーテのまえに立った。
「レナーテ、お誕生日おめでとう。ぼくも粗末なものながらプレゼントを用意したので、受けとっていただければ光栄です……」レナーテは一瞬、意外という表情を見せたが「Rinも気を使ってくださったの?とてもうれしいですわ」ぼくは十枚ほどの原稿の入った封筒をレナーテに手わたしながら……
「なにせ今日があなたのお誕生日であることを三圭先生から聞いたのは、ついきのうのことなのです。なにかプレゼントになるものをと考えたのですが、さすがに思いつきません。ようよう行李の底に、船旅の無聊をなぐさめようとして『現代ドイツ詩人選集』のレクラム版があったことを思いだしました。そのなかから適当に選んで日本語訳してみました。ぼくはこれまで短編詩はいくつか訳したことがありますが、長編詩は初めてです。ですから出来不出来については論外の作品です。その心意気だけ受けとっていただければうれしいです」
「まあ、たいへんなお勉強でしたね、ありがとうございます。とてもうれしいですわ」レナーテは封筒をあけてぼくの原稿をとりだし、しばらく黙ったままながめている。このとき宮崎さんが「フロイライン・デーニッツ、よろしかったらみなのまえで朗読してみてくれませんか」といった。ぼくは「それは困る!」と思ったが、レナーテは「わかりました、みなさん聴いてください」といって、ぼくの許可も待たずに朗読しはじめた。美しい日本語であった。

いずれをきみがこひびとと わきて知るべきすべやある 
貝のかむりとつく杖と はける靴とぞしるしなる 
かれは死にけりわが姫よ かれはよみぢへ立ちにけり
かしらのかたの苔をみよ あしのかたには石たてり 
ひつぎをおほふきぬの色は たかねの雪とみまがひぬ 
なみだやどせる花の環(わ)は ぬれたるままに葬りぬ

きみをはじめて見てしとき そのうれしさやいかなりし 結ぶ思ひもとけそめて
笛のこゑとはなりにけり 
想ふおもひのあればこそ 夜すがらかくはふきすさべ
あはれと君もききねかし こころこめたる笛のこゑ 
流れさやけきライン川 きよき波間に月うかぶ そこにねぶれる龍さへも 
ききて夢をばさますらむ

きみをはじめて見しときは やよひ二日のことなりき 
君があたりゆ風ふきて こころのかすみはらひけり 
おぼろ月夜のかげはれて さやけき光そのうちに みゆるかつらのその花は 
うれしや君が名なりけり 
うらはづかしとよそを見て 奥へなふかくいり玉ひそ 
おばしま近くかへりきて しばしは聴きねわがうたを
逃げつつ君はかくるとも わがふく笛はやまざらむ 
かげをば君はかくすとも 君ゆくかたに響きてむ 

そのふく笛の音(ね)に添へて おのが想ひは伝へなむ
そのふくこゑを頼みきて さきのうたをば謡ひなむ 
ほとりに立ちてわれ吹けば 風もこころやありぬらむ 
その音を遠く君がすむ 城のうちへぞつたへたる
千たび百たびくりかへし ふく笛の音はかはれども 
こひしきひとのこひしさに ふくとこそきけそのこゑを

うれしとしばしは思ひしを はや哀しみの巡りきぬ 
わが身のさちと頼みしを はや憂きことの巡りきぬ 
かれの出立つそのさまは 雄々しくたけくみえにけり 
ををしくたけくありながら 優しきさまもみえにけり 
さはさりながら恋人の 身は兵卒にあらざれば 
せめてこがねのフリースの 士官の身にてあらむには
おもひをかけしわが星は 光をかくしいづこにて 誰のためにか輝ける
心もそらに浮くものを
 
わが世楽しくなりなむを おもへば果敢なき世なりけり
かかる思ひを吹き払ふ この夕暮れに風もがな 
涼しくしげる夏木立 なにを優しくそよぐらむ 
みどり色こき大空は なにをやさしく見下ろせる
かれはいづこへゆきにけむ 浮世は偽りおほかるを 
イタリヘこそ行きにけむ かしこの女(むすめ)は仇(あた)ときけ

花うるはしくかざりおき 朝夕きよめし閨のうち ひと見ばいかにわれながら
いぶせきまでに乱れたり 
さうびの花も撫子も うちしほれつつわれを見つ 水とおもひて酒をしも 
忘れてわれはそそぎけむ 
のきば離れぬ白鳩は うゑに啼くなりこの夕べ 
かごの鶯こゑせぬは あたへむ餌(え)をや忘れけむ
白たへならむ編みものに など交へけむ赤き糸 五(いつ)色なりと思ひしに 
これはたおほし白き糸 
わがよむ文(ふみ)の見えざるは かざしの匣にや入れつらむ 
いづこゆきけむその文よ 小櫛とともにや包みけむ 
つげの小櫛に花かざし ともに文箱のうへにあり 
迷ひにけりなわがこころ あまりに人のこひしさに

遠くうき世にいで去りぬ われに別れを告げやらず うたひ歌ひてゆく君よ
こころと頼むわがきみよ 
語りあひたるほどもなく 覚めしはまことの夢なるか
苦しかりけり わが恋は 哀しかりけり わが恋は 
などかの人に逢ひにけむ などかの人を恋にけむ 
苦しかりけり わが恋は 悲しかりけり わが恋は
いつか帰りてきますらむ 果敢なき別れとならんには 
神に祈らむわが背子(せこ)を 汝(な)れ知るらむか わがこころ

うれしき夢を見てましを きみが手枕しのびつつ 高ね過ぎゆくくものみか
樹々にもさわぐ風のこゑ 
けさの別れのこころをば そらにも知らむ村しぐれ
いづこにこの身わかるるも いかで忘れむ きみひとり 
啼きて過ぎゆく夕影鳥(ほととぎす) 死出の山路のしるべせよ 
想ひは千々にうち乱れ こころはなりつ そらにのみ
身の行く末は知らねども 繁くやあらむ憂さ辛さ さらぬも寂しきひとり旅
かねのこゑさへ響くなり
 
しほ風あらき荒磯に 吹かれて立てるそなれまつ よせくる波に打ち折られ 
岸をばとほく離れゆく みどりの波のそのうちに 浮きつ沈みつ見えにけり 
かもめの鳥の数あまた 飛びてあたりを巡るなり
夜ふかき波に月さえて おきべを遠く舟ぞゆく をりをり歌のきこゆるは
ものおもふ人や漕ぐならむ

あはれラインの岸にわれあらば 汝(な)れに語らむ わがこころ 
あはれふるさと ふるさと懐かしや 
岸のいわほにまくらして ものおもふ身こそ悲しけれ
葦のもとには波よせぬ こころのうちに夢うかぶ
 
イタリの女(むすめ)はわが目にも おそろしくのみ見えにけり 
かれの姿は優しくも いかでか我は惑ふべき
アルペン山のそのふもと ラインの川のそのほとり 
ひともと立てり花さうび おのが想ひは今そこに

すみれかたばみ枯れ果てて むかしの色も今はなし 恋しきひとを振りすてて
わがゆく道ぞ雪ふかき 
み雪のふかく積りきて 世は白たへになりにけり 火桶に焚き木をりそへて 
ひとりむかしを偲ぶなり たきぎも尽きて火も消えて いまは灰とぞなりにける 
燃ゆる想ひはつきねども これやわが身の終りなる
今よりものはおもはじと ひとりこころに誓へども 笛みるたびに吹くごとに
なほ懐かしや わが姫よ
 
歳もくれけり姫はいかに いよいよ勝るわがおもひ
ふたたびみたびくりかへし 呼べども姫の声はなし
あはれ恋しやわが姫よ こころもそらになりにけり 
われを泣かせんばかりなる ひとのなきこそ悲しけれ

雄々しくたけきますらをも いまは哀しやかごの鳥 
恋しきかたに翔らむと おもへど甲斐もなかりけり 
むかしはラインの川岸に 面白き音もふきたるに 
日ごとに笛は手にとれど むかしの歌は今いづこ 
朝夕ふえは吹くなれど いまは明るき玻璃まどの 
システィナ寺てふ奥つ城に 悲しき歌のみうたふなり

 朗読を終えたレナーテの碧いひとみにはうっすら涙がにじんでいた。誰からともなく拍手がわきおこった。それはレナーテの美しい朗読に対しての拍手とも、ぼくの拙訳に対しての拍手ともわかりかねた。宮崎さんが「森くん、丶山(ちゅざん)仙士を越えたね」とほめてくれた。ぼくはちょっとうれしくなって宮崎さんにかるく会釈をした。
 そのとき突然、レナーテがぼくの首に手をまわし、伸びあがるようにしてぼくの額(ひたい)に接吻した。なにがなんだかわからぬままにレナーテの熱き唇がぼくの額に触れるのを感じた。
 レナーテの手を洩れた原稿はゆかの上にすべり落ちた。座は水をうったように静まりかえった。
「おいおいレナーテ、Rinが目をまわしてぶっ倒れてしまうよ。わが愛弟子をあんまり驚かせてはいかん…」教授が冗談めかしていったのであとは大爆笑となった。そしてなぜかみな拍手をした。レナーテは涙で潤んだ目で照れ笑いを浮かべていた。ぼくは茹でエビのように真っ赤になってその場に直立していた。

 それからみな椅子にすわって飲食をはじめた。ぼくはいつの間にかレナーテのとなりにすわっていた。シェフ自慢のHors-d'oeuvreがならんでいる。向かいにはあの可愛らしい少女とその姉らしき美人がすわっていた。
「そうそうRin、ご紹介するわ。こちらがエレンちゃん、まだ六歳よ。そしてこちらはお姉さんのTherese、十五歳になったばかり…こちらのおふたりがManerville夫妻、ご姉妹のご両親です」
「はじめまして、Felixと申します」
「Marieと申します。よろしくお見知りおきください」
「どうもRintaro Moriです。日本陸軍軍医です。おふたりともドイツ語がお上手ですね」
「妻はウィーン出身のオーストリア人なのです。私の父はブルゴーニュで葡萄酒醸造所を経営していますが、私が鉄道技師になりたくて大学進学を希望したとき、風紀のわるいパリの大学は許可してくれませんでした。ようやく許してくれたのがウィーン工科大学でした。その地でマリーと巡りあったというわけです」
「なるほど、それでドイツ語がご堪能なわけですね」
すると、テレサのとなりにすわっていた若い紳士が立ちあがって、たどたどしいドイツ語でこういった。
「初めまして、Mori軍医殿。William Robertsonといいます。ロンドン出身です。レナーテ嬢とはたまたまおとつい、知りあったばかりです…」
そういいながら握手を求めてきた。背の高いがっしりした体格の英国青年である。
「Rintaro Moriと申します。日本陸軍軍医です」
そのとなりにすわっていた品の好い五十がらみの紳士も立ちあがって…
「どうも初めてお会いします、Glennといいます。ウィリアムの父親です。貿易関係の仕事をしていますが、わたくしも商売柄、ドイツ語はもちろん、佛、伊、それにシナ語もすこし話せます。だがウィリアムは現在、ドイツ語を鋭意努力して勉強中です。ちょっとお聞きづらい点があるかもしれません…」にこにこ笑いながらこういった。
「いえ、それだけ会話できれば十分だと思います、どうぞよろしくお願いします」
「ご紹介がおくれてごめんなさいね。ウィリアムはお父さまについて研鑽を積むために、シナとインドを廻っていらっしゃるの。でもご出身はRoyal Military Collegeとのことですわ」
「え?すばらしい出身校ですね。さしでがましい質問かもしれませんが、どうして軍人の道をお選びにならなかったのですか?」
「ええ、わたくしの性格として、軍人には向いていないと早々に自覚しましたので、父について貿易商の道を歩むことにしました」
「おふたりともコロンボからお乗りになったの。わたくしデッキで散歩中に親しくなりましたわ」
レナーテの人柄か、ぼくの交際範囲も広くなるばかりだ。
「Rinはお医者さまなの?」エレンが聞いた。
「そうです、兵隊さん専門の医者です」
「いま日本は戦争がありまして?」テレサが質問する。
「幸いわが国は現在、いずれの国とも戦争しておりません」
突然、エレンが「Rinはレナーテさんの恋人なの?」と聞いた。
ぼくは絶句した……
レナーテが「あら、よいご質問ね。さあてどんなご返事があるのかしら」にこにこ笑いながらこう応えた。
ぼくは顔を真っ赤にしながら「どうしてそんなことを聞くのです」とようやくいった。
「だって、さっきレナーテさんがキスしたわ」
「そうそう、そんなことがありましたね」人ごとのようにレナーテがいう。
「………」
「エレン、あまりぶしつけな質問をしてはいけません。軍医さんがこまっておられます」マリー夫人が救い舟を出した。
「日本語がわからないわたくしには、先ほどの翻訳詩はもちろん理解できませんでしたが、いったい誰の詩なのですか?」グレン氏が話頭を転ずるように質問した。ぼくはホッとした。
「ヨーゼフ・フォン・シェッフェルの『ゼッキンゲンのトランペット吹き』です。ただしかなりの長編なので意訳、抄訳しました。また頭の部分にはシェイクスピアからも一部拝借しております」
「ほうシェイクスピア。なにを引用されました?」
「オフェリアの歌です」
「それは面白い。かなり自由に翻訳されたのですね」
「じつはヨーロッパの詩人を現代日本語に翻訳するこころみは、ついこのあいだ始まったばかりなのです。ですからわたくしの場合も暗中模索の産物です」
「でも、よくできていたとわたくし思いますわ」
レナーテがこういうと、テレサが「だってレナーテ、あなた読み終わったとき涙ぐんでいたわ」
「あら、あれは目にゴミがはいったのです」みなでアハハと笑った。エレンもなにかわからないままに笑った。
 
 マリー夫人が「レナーテさん、音楽はお好きですか?」と聞いた。
「大好きです!」
「そうですか。テレサ、お誕生日のお祝いになにか一曲、弾いてさしあげたら…」
食堂の奥には一段高いステージが設(しつら)えてあって、グランドピアノが置かれていた。
「レナーテ、ピアノはお好き?」テレサが質問する。
「大、大、大好きです。ぜひ聴かせてください」
「それではお耳汚しになるかもしれませんが…」そういって立ちあがるとピアノに向かった。ぼくはレナーテとともにテレサのうしろ姿を見送ったが、革椅子にすわり、鍵盤の蓋をゆっくりあけても、ほとんどだれも気づかなかった。
 そして曲は突然始まった。
 序奏めいた最初のフレーズは、まるで巨大な重い鉄の扉でも開けるがごとき曲想であった。
「まあ、リスト!それもハンガリアン・ラプソディ二番……」レナーテが感嘆符を挙げた。
座客の視線が一斉にテレサに向かった。談笑の声がぴたりと止まる。

 音楽は流動する建築である。人の眼にうったえる絵画でもなければ、人の想像にうったえる詩でもない。この芸術は人の感情を籠絡して自在にこれを昂上させ、また低下させる。いやしくも感情あるもの、これを聴くときはたちまち歓喜して天外に飛び、憂愁して泉下におちる。そのさま、あたかも見ることのできない魔法のツエがあってこれをさしまねき、あらゆる感情の変幻、調和、激動の階梯を上下(しょうか)させるがごときである。
 たちまち歓呼し、たちまち沈思し、たちまち堕涙嗚咽し、たちまち恍惚として、そのおどろくべき媚態のまどわすところとなる。あるいは叱咤鼓舞して剣を按じ闘いにおもむかしめ、あるいは急湍(きゅうたん)する忿怒(ふんぬ)の感情にかられ、おそるべき現実に覿面(てきめん)させる。あるいはまた突如、こころの安静がおとずれ、風やみ雨おさまり、鏡のような海面(うなも)に碧空のかげを印するがごとく、みずから想起して平和な静寂世界を現出させる。
 そのもっともおどろくべき点は、毫(ごう)も思惟や想像をかりることなく、人心の叡智をおどりこえて、本体の核心すなわち感情の影絵たるMotivに肉薄し、不可思議に共鳴させることである。
 あらゆるほかの芸術はみな心内映像のちからをかりて効果を成す。ただその影絵にこれを外に現示すると、これを内に生起するとの相違あるのみである。
 詩は言語をもちいて期するところの空像を幻出する。詩を読むものはこの空像の、平生の実歴とあい類するをもって、これと並行するところの感情を喚起することができる。また建築、彫塑、絵画は、かの思惟を生ずる言語に替えるに、覚官上、観照をもってする。
 ひとり音楽のみは影絵をかりる迂路をとらずして、ただちに正鵠にあたり、核心にいたる。音楽は観照もしくは想像の介することをまたずして、ただちに覚官神経の振動より、かの人間本体の神秘なるところに潜める悲喜苦楽のちからに達し、これをして無対象なるに似た興奮の態におちいらしめる。
 詩はその効果、最間接にして、音楽はその効果、最直接である。
 音楽は感情を模す。あるいは感情は音楽を模す。しかしこれを分析することはもっともむずかしい。否(いな)、不可能といってよい………

 ぼくはテレサのピアノを聴きながらこんなことを考えていた。曲は豪奢な指の乱舞とでもいいたいような、激しい感情を吐露して突然終わった。
 食堂にいる座客全員から拍手がわきおこった。正平くんはよほど感激したのか、立ちあがって「BRAVO!BRAVO!」とさけんでいる。あちこちから「ENCORE!」とか「BIS!BIS!」とか声がかかる。テレサはピアノの肩にかるく手を添えて深々と二度ほど辞儀したが、やがてふたたび革椅子に座りなおした。拍手が鳴りやみ、堂内をまた静寂(しじま)が支配した。テレサはさきほどとはうって変わって、いつくしむように鍵盤のうえに指を滑らした。
「まあ、今度はコンソレーション三番。ステキ……」レナーテが小さな声で感心したようにいった。曲は先ほどとはちがって、まるで夢みる乙女をそのまま鍵盤にのせたかのような繊細な曲である。
 曲は静かに始まって、静かに終わった。また大きな拍手がわきおこった。今度はテレサは一回辞儀したのみで、さっさとステージを降りた。
 席にもどると正平くんが追いかけてきて、三圭さんのうしろに立った。
「テレサさん、素晴らしい演奏でした。ぼくは感激に打ちふるえました。まさしくVIRTUOSEです。いくらお誉めしても誉めたりないような気がします」
「ありがとうございます。でもパリでもベルリンでもウィーンでも、これくらいお弾きになる方はたくさんおられます。現にお母さまはわたくし以上の名手です…」
「ええ、そうなんですか…」
ここで三圭さんが「正平くん、そうやってうしろで突っ立ったまま話されるのは、ちょっと落ち着かないね。席を譲るからここにすわって話したまえ」
「え?よろしいんですか」
「ああ、遠慮はいらない。私はきみがすわっていた席に移るから…」
「それではわたしも稱吉くんの席に移ろう。若い者は若い者同士がいいだろう」レナーテのとなりにすわっていた教授がいった。
「重ね重ねありがとうございます。稱ちゃんもよろこびます」
ふたりがとなりのテーブルの端っこにいた稱吉くんのところに移ると、替わって稱吉くんがやってきた。
「教授が席をかわれっていってきたけど、レナーテさんのとなりじゃないですか」
「あら、なにかご不都合でも?」レナーテが笑みを浮かべながら聞いた。
「だってオレ、まえにレナーテさんに失礼なこといったから、ちょっと気が引けて……」
「あら、そんな遠いむかしのことなど憶えておりませんわ。さあ、ご遠慮なくお座りください」稱吉くんはちょっと照れ笑いを浮かべながらレナーテのとなりに座った。
正平くんが……
「きのうデッキで散歩中にレナーテさんからご紹介をいただきましたが、マリー夫人はとてもテレサさんの母親には見えません。ご姉妹(きょうだい)かと思いました」
「まあ、なんてお世辞のお上手な方なのでしょう。でもうれしいおことばです…」
「ちょっと見、二十代半ばにしか見えません。いったいいつごろテレサさんをお産みになったのですか?」
「わたくし、テレサを産みましたのは十七歳のときでした」
「えーと、すると今、三十二歳なのですか。とても三十過ぎには見えません。お若いです」
「まあ、婦人に年齢をあからさまに告げられても困りますわ」
「どうもすみません。それでもどう見てもお姉さんにしか見えません。それにテレサさんのピアノの腕前はとても十五歳には思えません。ぼくは途方もなく感動しました」
何だ、それをいいたかったのか。それにしてもずいぶん回りくどい会話をするやつだ。テレサに惚れたのか?……こう思いながらレナーテを見ると、こちらも今にも吹きだしそうな顔をしている。
「じつは私もマリーと出逢ったのは、彼女が十五歳のときだったのです」フェリックス氏が口をはさんだ。
「それって、ウィーンの街で?」
「ええ、ウィーンでした。私が大学に通いはじめたころ、学友が週末になると好んで参加する貴婦人のサロンがありました。私も誘われて行ってみました。四十半ばを過ぎてもまだ美しい髪がたっぷりある伯爵夫人の居宅でした。金曜の夜ともなると若い士官や学生、詩人や画家、彫塑家などがつどい、時流(とき)の芸術談議に花が咲くといったサロンでした。友人のいうには、伯爵夫人には二十二歳を筆頭に、妙齢の美しいお嬢さんが三人もいて、その婿さんさがしも兼ねたサークルだとのことでした。
 何度か通ううちに、それまで見かけたことのない母娘(おやこ)連れを見かけました。その娘さんがいかにも可愛らしかったので、友人に誰だとたずねたのです『あれは伯爵夫人の十(とお)ちがいの妹で、今までベルリン住まいだったが、ご主人が急逝されたので、一人娘を連れて故郷のこの街にもどって来たのだ』といいました。伯爵夫人が……
『この子はピアノの名手なのです。マリー、みなさんになにか弾いてお聴かせして…』請われて彼女は演奏を始めたのです。熱情ソナタの第三楽章でした。なんという流麗かつ強靭、まるで疾走する情熱とでもいっていいような、圧倒的な演奏でした。とくに驚いたのは打鍵の強さです…」
「打鍵の強さ……」正平くんがくり返した。
「ええ、ピアノのまえに座るまでは、こんないたい気で華奢な少女がどのような演奏を聴かせてくれるのか、いささか不安もありましたが、いざ第一音を叩くと、男性ピアニスト顔負けの、強く、激しく、正確な指さばきを披露したのです。そのさま、あたかも作曲者自身が憑依(ひょうい)したかのごとき超絶的な演奏でした……私はひどく感激し、半年後には結婚を申しこんでいました…」
「あなた、おしゃべりが過ぎますわよ」マリー夫人が微笑みながら、たしなめるようにいった。何度も聞かされているのだろう、テレサとエレンからも笑みがこぼれた。
「よいお話しですね。音楽の感動は人に勇気と行動をあたえます。もっともヨーロッパ音楽にかぎっての話しですが……」正平くんがテレサの顔を見ながらいった。
「日本にはヨーロッパのような音楽はないのですか?」テレサが質問した。
「日本の音楽ですか?ウーン困ったな……林(りん)さん……」
救いを求めるように正平くんがぼくの顔を見た。やれやれ、ここにも歩く百科事典とカンちがいしている人間がひとり……でもまあ、たしかにこの話題に関しては、以前、興味をもって調べたこともある。まあいいや、ここは正平くんの顔を立てておこう……
「わが国にはヨーロッパのMUSIKというものはありません。ヨーロッパでOPERAを観てきた洋行者流が、日本に帰って来て、人形浄瑠璃は日本のオペラだ、などといっていますが似て非なるものです……と豪(えら)そうにいってもぼく自身、オペラをみたことなど生れてこのかた一度もありませんが…」夫妻やグレン氏、テレサから軽い笑いがさざめく。
「ヨーロッパ音楽は、みなさんご承知のとおり、三つの基本から成り立っています。
Rhythmus(拍子)、Melodie(旋律)、Harmonie(諧調)の三つです。日本の音楽にはリズムとメロディはありますが、ハーモニーはありません。この点がヨーロッパ音楽の決定的な優位性だと思います。メロディーは音曲の波のおもてに煌めくもので、ハーモニーはその底に潜めるものです。この総合のうえにMUSIKが成り立っていることはみなさんご存知のとおりです。
 はるかむかし、歴史をさかのぼれば、東洋西洋問わず、音楽楽器の出現は笛と琴とのたぐいでした。わが国では古事記、日本書紀といった古典歴史書に『琴』の記述がみえます。常陸風土記という古典地誌には『天(あめ)の鳥笛』の記述があります。
 古代ギリシャには笛とLyra(亀甲琴)とがありました。これらの楽器を『舞い』や『Recitativo(叙唱)』の伴奏に使ったため、舞踏よりリズムを得、レシタティヴォより表情言語と競争する力を得ました。『表情言語』とは審美学上の用語で、感情をおもてにあらわすという意で、特色あることばづかいを意味します。たとえば鳥獣の声を模したものがそうです『春になりました。霞はじめます。村の沼である晩コロッ、初ガエルです。これに和するカエルたちコロッコロッ。さて追い追いと数が殖えコロッコロッコロッコロッコロッ……』(笑いあり)、また諸国都鄙の方言を模したもの、官吏とか巡査とかのクセの強い職業人の口調を模したもの、声色といって個人を模したもの、そのほかわが国によくみられる行商人の売り声なども意味します。ちょっと真似てみましょう……しじみ~しじみ、なっと納豆~、あさァりむッきん、はまぐりむッきん、ひしほ金山寺~醤油のもろみ~、菜漬けなら漬け南蛮漬け~なづけはようござい、あやめ~あやめ~いときりあやめだんご~、花櫚糖(かりか~)かりか~どっこいさのさ……(大笑いだった。エレンもむじゃきに笑っている)
 さてメロディーとハーモニーは音楽の内部より発展したもので、外部より触発されたものではありません。メロディーは途切れることなく相つづくもの、ハーモニーは協和して相たもつものです。ここではメロディーがさきにうまれ、そのあとハーモニーが追随しました。メロディーはまた叙情詩と相性がよく、あまたの名曲がうまれました。
 ちなみに楽器には肉声に近いものと遠いものとのちがいがあります。近いものを能唱の楽器といい、Violin、Violoncello、Clarinetなどなど……遠いものにはPiano、Organなどが挙げられます。Piano concerto以外にピアノがオーケストラに組み込まれるのが少ないのは、搬入搬出の問題のほかに、このような楽器の特性も関連しているかもしれません。
 すなわち楽器はまず舞踏を伴奏して舞楽を成し、次にレシタテイヴォを伴奏して表情言語に近づき、最後に叙情詩と相和して曲譜をなしました。舞楽はリズム上より進歩し、音楽の表情言語に近いものや、叙情詩と相和するものは、感情のうえより進歩しました。ここにいたってそれぞれ音楽とは別の芸術のたすけを借りましたが、その借りたものは音楽の本質にいささかも影響することはなく、音楽は音楽独自で発展してゆきました。たとえばショパンのWalzerの譜はワルツなくともよく独存し、そのほか流行(はや)りの舞踏が消滅して音楽だけは残ったり、もしくは新たに生じた例もあります。一例としてMenuettなどがあげられます。
 またMUSIKには二つの方向性があります。ひとつは『音曲の形式で組み立てたもの』という点、いまひとつは『音曲の感情を含蓄するもの』のふたつです。
 音曲形式には数理が潜んでいます。ライプニッツはかつて『音楽を聴くもの、意識せずして数学の問題を解く』といいました。つまりKONTRAPUNKT(対位法)です。
 対位法のラテン名は十二世紀には出現しています。そして十五世紀以降、つまりルネッサンス中期から後期にかけての時代となりますが、オランダ寺院楽において完成をみました。おもに北フランスからオランダにかけて活躍したフランドル楽派と呼ばれる作曲家たちが、新しい対位法の確立によってPOLYPHONY(多声音楽)最盛期の基礎を築きあげたのです。
 しかしポリフォニーの進化発展は教会音楽、とくにミサ曲において、肝心の歌詞、つまり典礼文がよく聴こえないという弊害を生みました。この点を改めたのが十六世紀後半に活躍したイタリア人音楽家パレストリーナです。かれはそれまでの複雑な対位法によるミサ曲が、ややもすれば典礼文の歌詞を埋没させ、ミサ曲本来の意義が失われるのではないかと危惧しました。そこで対位法としての利点を生かしつつ、かつ典礼文も聴こえやすいミサ曲を工夫したのです。かれの作曲したMissa sine nomineは、MESSE in h-mollの構想を練っていたバッハにも大きな影響をあたえたといわれています。
 同時期、つまり十六世紀末葉にはイタリアにオペラが登場しました。そして対位法によるポリフォニーのために圧せられたメロディーを抽(ぬ)きとり、これをハーモニーの礎のうえに安置しました。音曲の感情を含蓄するものは、ここにいたってはじめて発展の途(みち)につき、俗謡のメロディーに非ざるメロディーが日の目を浴びるようになったのです。
 オペラはギリシャ劇を再興しよう動機からうまれました。千五百九十七年、フィレンツェのジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵のサロンで、古代ギリシャ劇を上演してみようとこころみたのが、オペラの始まりといわれています。みなさんご存知だと思いますが、サロンの常連であったヤコポ・ペリーが作曲したダフネが史上初のオペラです。ギリシャ劇はたしかにこれによって再興されました。しかし音楽上からみれば、現行のオペラはギリシャ劇の旧態ではなく、新たなる創造の産物となりました。
 わが国古代にも郢曲(えいきょく)や唱歌といったものがありました。催馬楽(さいばら)、風俗歌(ふぞく)、朗詠、今様歌(いまよううた)、和讃などなどありましたが、まあ、どれも俗謡(はやりうた)のたぐいです。後世にいたって小唄、長唄などもうまれましたが、いずれも三味線などの簡易な楽器の伴奏をともなう単純な歌唱でした。強いてヨーロッパ音楽に比すれば、A capella-recitativeやRecitativo seccoに近い、といえばいえるかもしれません。
 現代の審美家で音楽を論ずるものに二派あります。重きを音楽形式におくものはウィーンの法学者エドアルド・ハンスリクです。もう一派、つまり重きを音楽の想髄におくものはグラーツの法学者フリードリッヒ・フォン・ハンセガーです。今の歐州で音楽を楽しむ公衆中、八十パーセントはただ音楽を官能のうえより快しと思い、十八パーセントは音楽の形式上の美を感ずるとのことです。しかしその形式上の美を感ずるものは、その個人の資質によって、音楽の想髄をあわせ味わうことに深浅があります。音楽の想髄とは音楽の含蓄した感情のことです。
 イタリアオペラを発端とする新音楽は、まずことばをともなう方向にむかって進みました。いわゆるORATORIUM(聖譚曲)としてバッハ、ヘンデルを出し、オペラとしてはグルックを出しました。
 ついでことばをともなわない方向に向かいました。ハイドンの交響曲がそれです。モーツァルトのジュピター交響曲、ベートーヴェンの初作などが出て、形式がようやく整いました。やがて第九交響曲などが登場し、ついに音楽の想髄を主としたABSOLUTE  MUSIK(絶対音楽)が完成したのです。これが現代にまで通ずるヨーロッパ音楽の歴史です。
 オランダ寺院楽の肉声は、強いて感情なき音にはさむのにことばを以てしましたが、ベートーヴェンの曲の肉声の場合は、諸楽器の感情ある音に添えるのに、ひとの咽喉(のど)をも楽器のごとくあつかって作曲したのです。絶対音楽とはすなわち純粋音楽のことです。音楽は永いあいだ詩や舞踏の継子(ままこ)でしたが、ここにいたってはじめて孤高のパルナッソスに登りつめたといえるでしょう。
 以上のような経緯から申しあげます。ヨーロッパ音楽は独立独歩の至高芸術です。わが国にはこのような音楽は存在しません………」
しばらく誰もなにもいわなかった。
グレン氏がようやく口を切った。
「軍医、あなたほんとうにヨーロッパへゆくのは初めてですか?」
笑いが起った。
「アハハ、すべて付け焼刃ですが、おおむねまちがったことはいっていないつもりです…」
「それにしてもよくお勉強されましたね…」マリー夫人が感心したようにいった。
「ね、面白いおかたでしょ?」レナーテがいらぬひとことを挿む。
「たしかに日本ではまだオペラが上演されたこともないし、オーケストラもせいぜい英米の軍楽隊が記念日に演奏するていどのもので、西楽の普及はようやく始まったばかりといっていいです。ぼくなんぞは毎週日曜に近所の教会へ行って、オルガンと聖歌を聴きながら渇きをいやしているような状況です」正平くんが残念そうにいう。
「それじゃあピアノの演奏会などもありませんのね…」テレサのことばに正平くんが…「いえ、一回だけありました。ねえ、林(りん)さん……」
「ああ、ルーサー・ホワイティング・メイソン先生の音楽講演があったね…」
「メイソン先生はボストン音楽アカデミー出身の音楽教師でしたが、今から四年まえに文部省に招かれて日本を訪れました。二年まえに惜しくも離日されましたが、忘れもしません、来日初年、サツキの花が満開のころ、大学講堂にグランドピアノを持ちこんで、ぼくらにとって最初で最後の名講演をされました……」
「あのときはすごい人出だったね。きみは最前列に陣取っていたが、立ち見が出るほどの盛況で、ぼくも席を確保するのがたいへんだった…」
「そのとき先生はこう口を切られました……
『学生諸君、わたくしは日本人が風雅の国民であることをよく承知しております……諸君は東京師範学校長の伊澤修二氏をご存知だと思いますが、かれは五年ほど前、北米合衆国に留学され、マサチューセッツのブリッジウォーター師範学校からハーバード大学とわたり歩き、幅広く学問研究に勤しまれました。聾唖(ろうあ)教育にも熱心に取り組まれ、グラハム・ベルからVisible Speechなども学びました「日本国から吃音者(きつおんしゃ)を一掃したい」といっておられました。また西洋音楽に関しても思い入れがふかく、毎日のようにわたくしのもとに通っては、音楽の基礎を徹底して勉強されました「帰国後、この素晴らしい芸術をあまねく国民に知らしめることが、わたくしの責務だと考えています」と目を輝かせてお話しになったのを憶えています。そのような経緯から昨年、文部省音楽取調係を拝命されると、さっそくこのわたくしに書をお寄せになり「どうぞ、西洋音楽をこの国に導入するための礎(いしずえ)になっていただきたい」とのご依頼がありました。つまり伊澤氏の留学時代からの頑固一徹ともいえる執念によって、わたくしは晴れて「お雇い外国人」になることができたというわけです(笑いが起りました)。
 そんなことから来日まえの伊澤氏などを通じて、わたくしは日本人の国民性というものを深く考察する機会を得たのです。日本人が風雅の国民であること、日本人のsensibility、つまり「琴線」というものの本質を理解する時間をあたえられたのです。
 この二月にサンフランシスコを出航したわたくしは、三月に横浜に到着しましたが、この国が水と緑の豊かな国であることは容易に気がつきました。四季の変化に敏感で、花を愛で、詩(うた)を詠み、月を眺めては酒を酌み交わす……じつに風雅な国民性であります。もっともここ最近は観桜会、夜桜見物などでcherry blossomばかり見せられましたが……(笑いが起りました)
 それでは月を眺めながらどのような感興を催しているのでしょう。具体的にどのようなものかと指摘するのはなかなかむずかしいものです。月を詠んだ詩をみても、感じ方は人それぞれです。歐米の国民も月を愛でるこころに変わりはありません。しかし歐米には日本とはちがった方角に発達したMUSICというものがあって、月を愛でる音楽を作曲したのです。ちなみにミュージックの語源はギリシャ神話のMUSEから来ています……』そういって先生はピアノにむかうと、月光ソナタの第一楽章を演奏されました。じつに典雅な響きです。ぼくは陶然となりました……
『ただし今、弾いた曲はけして作曲者本人が月をイメージして作曲したものではありません。ベートーヴェンの死後五年が経過した三十二年に、ルートヴィヒ・レルシュタープという音楽評論家が「スイスのルツェルン湖で月のひかりに照らされて揺らぐ小舟のようだ」と表現したことから、月光ソナタと呼ばれるようになったのです。その愛称が定着したこと自体、歐米人が月に対してどのようなイメージを懐いているかわかると思います。そしてその情感がみなさん日本人にも、直接、耳をとおして実感することができるのです。
 もうひとつ例をあげましょう。一昨年、わたくしがまだボストンにいたころの話しですが、伊澤氏が毎日のようにわたくしのもとを訪れたことはさきほど申しあげました。ある日、わたくしは一計を案じ、ワルトシュタイン・ソナタの第三楽章をかれに弾いて聴かせ「伊澤さん、いまの曲を聴いてどんな感想をお持ちになりますか?」と訊ねてみました。かれはしばらく考えてから「そうですね、憧憬(あこがれ)でしょうか……」とお答えになりました。さてみなさんはどのようにお感じになるでしょう…』
そういって先生はRONDO~Allegretto moderatoを演奏されました。講堂を埋めつくした学生はみな、この曲の表現する高踏的で夢想的、かつダイナミックな曲調に圧倒されました。演奏が終わったのち、先生はにこにこ笑いながら『いいのですよ、みなさん。どのような感想をお持ちになろうとも。この曲に憧憬を感じなくても、みなさんの聴覚神経がズレているという証拠にはなりませんから(笑いが起りました)。つまるところ、伊澤さんとは別の感想を抱いたとしても、それはみなさん個々の自由なのです。その自由こそ、文芸や絵画、彫刻といった芸術ジャンルとは一線を画す、音楽のみにあたえられた特性なのです』
先生は続けて……『さてそのような音楽の表現するLYRICISM、つまり抒情性についてもう少し考えてみたいと思います…』そうおっしゃると再びピアノにむかい、今度はショパンのノクターン二十番を演奏されました。講堂全体がその透明感のある美麗な音色に酔いしれました。
『さて、今の曲もなんと表現していいか、ことばを失います。つまり音楽というのは詩にも絵画にも彫刻にも転化できないものなのです。歐米人とてこのノクターンのリリシズムを説明せよといわれても答えられないでしょう。音楽をことばで説明すること自体できません。だから音楽なのです。この曲を聴いているときだけ現出する夢まぼろしだと思ってよい。
 モーツァルトやベートーヴェンと同世代人であったゲーテはエッカーマンにこう洩らしています「かれらの音楽には魔力がひそんでいる。人間の叡智のおよばざる高所にあって、感性あるもの、誰ひとりとしてこれに動かされぬものはいない。それゆえ宗教上の儀礼は音楽を廃することができない。音楽は不可思議に人心を動かす主たる方便のひとつだ」……』
 それから先生は、ヨーロッパにおける近現代音楽の沿革を縷々(るる)として説かれたのち、講演の最後にベートーヴェンのソナタを演奏されました。
『さて、日本の将来を背負ってゆく選ばれし学生諸君。西楽はようやくこの極東の地に新たなる地歩を築こうとしています。これからオペラやシンフォニーといったヨーロッパ音楽の精華が順次紹介され、諸君も至福のときを迎えることになると思います。わたくしもぜひこの場でフィガロや第九交響曲をご紹介したいが、残念ながらここにはピアノが一台あるのみで、オーケストラも合唱団もおりません。そこで現代ピアノ曲の最高到達点ともいえるベートーヴェンの後期のピアノソナタから二十九番を紹介して、この講演を終わりたいと思います。
 ショパンの優美で愛らしいピアノ曲もまた一方の雄ですが、ベートーヴェンのシンフォニックなピアノ作品もまたまた一方の雄です。ベートーヴェンに関しては、その後期から晩年にかけて、モーツァルト以来、発展しつづけたピアノ音楽の最高峰に到達していると申しあげてよろしい。ここまで音楽の表現力をある意味、極めつくした作品はほかにない。
 もうすこし説明をくわえますと、モーツァルトもショパンもそのもっとも善良なる音楽精神をピアノという楽器にあわせてみごとに表現しました。たとえばこんな曲です…』
そういって先生はショパンのワルツ六番を演奏されました。
『これはショパンの恋人だったジョルジュ・サンドが飼っていた仔犬が、自分のしっぽを玩具(おもちゃ)にしてクルクルまわる様子を見て、即興的に作曲したものだといわれています。いかにも小粋で可愛らしい曲ではありませんか。また、こんな曲もあります…』
そういって先生は今度はリストを演奏されました。
『これはLiebestraume、英語でLove Dream、諸君の大好きな「愛の夢」であります(満場で笑いが起りました)。いかにも恋人同士の甘い語らいを思わせるではありませんか。また、こんな曲もあります…』
そういって先生は短いソナタを演奏されました。
『この作品番号Kochel 545は、モーツァルトがピアノ初心者向けに作曲した練習曲だといわれています。たかが練習曲とはいえ、かれの天才にかかるとピアノ楽器の愛らしさ、可憐さの極美に到達しています。以上三曲はピアノの魅力を存分に伝える名曲ばかりです。
 しかしベートーヴェンがピアノソナタで表現したものは、これらの美しく可憐で優雅なピアノ曲とはその方向を異(こと)にしています。とくに後期のソナタはまさしくベートーヴェンそのひと、Ludwig van Beethovenという一個体を表現しているといってよろしい。ここまでピアノという楽器を通じてその全人格を表現した音楽家は空前絶後でしょう。つまりわたくしたちはかれのピアノを聴きながら、かれの生身の人間性に肉薄できるのです。もっとも生身といっても、けしてかれの汗くさい体臭を嗅げといっているのではありません(笑いが起りました)。あくまでかれの音楽に昇華された生身の肉体です。
 さてそんなわけで、ピアノ音楽ひとつをとってもヨーロッパ音楽のふところの深さを感じていただけると思います。
 なお、これからご紹介するソナタは四十分は優に超える長い曲です。途中で眠くなるかもしれません(また笑いが起りました)。それでいいのです。音楽を聴いて眠くなったら、至福の夢にめぐり逢えるというものです……ただし、イビキはご法度(はっと)です(ここで大爆笑となりました)』
 そういって先生はピアノのまえに座られました。そして、有史以来、久しいあいだ惰眠をむさぼってきた日本人の聴覚神経に、Hammerklavierの最初の鉄槌が撃ちおろされたのです。
 ぼくはひどく感動し、魂がはげしく揺り動かされました。それ以来、ピアノが、つまり西洋音楽が大好きになったというわけです…」正平くんは眼を輝かせてテレサに説明している。
「そんなにピアノがお好きなかたにお誉めいただくなんて、わたくし名誉に存じます…」テレサが正平くんの熱意に応えるようにいった。夫人も笑みを浮かべて正平くんを見つめている。
「お母さま、ここまでわたくしたちの音楽を誉められたら、お母さまもお弾きにならなくてはなりませんね。レナーテさんばかりでなく、ピアノを愛する日本の方々の期待にこたえるためにも…」
「そうですね、弾きましょう…レナーテさん、よろしくて?」
「ええ、ぜひお願いします」
「エレン、お母さまのショパンが聴きたい……」それまで静かだったエレンがにわかにこういった。
「はいはい、ショパンを弾きましょうね…」そういうとマリー夫人はステージに向かった。
マリー夫人はその日、うす紫の絹のドレスを着用していた。褐色のツヤのある髪は頭のうしろに畳(たた)なわるように束ねてあった。径二寸ほどの真っ白い象牙かなにかのイヤリングがとてもよく似あっている。立ち居振る舞いから何からなにまでヨーロッパ貴婦人の優雅さをそのまま体現しているなとぼくは思った。
 演奏は毅然として始まった。レナーテが……
「まあ、幻想即興曲。さすがにお上手だわ…」とつぶやいた。正平くんがうれしそうにチラッとレナーテを見た。
 曲はなんといってよいのだろう……いろいろな色彩が典雅に空(くう)を舞う。はじけるような音が次のはじける音を呼ぶ。あまたの宝石が流れる小川に両手を浸し、そのままそらに向かってまき散らしたごとく、めくるめく音の宝石が空間に満ちあふれる……かと思うと、牧歌的なメロディーが流れ、草原の片すみで恋人たちが静かに語りあっているといった光景が目に浮かぶ……しばらくいい心もちになって、ぼくは眼を閉じていた。
 曲は静かに終わった。拍手がわきおこる。正平くんがまた立ちあがって「ブラボー」という。ステージの近くにいた三圭さんや船長が「アンコール」などといっている。マリー夫人は一度深々と辞儀すると、また革椅子に座りなおして、鍵盤のうえに手をかざした。
「今度はノクターン、それも二十番ではなく、一番ですわ…」
レナーテがこうつぶやくと、正平くんがまたチラと見てうなずいた。
 なるほどこれはピアノのリリシズムとしかいいようのない曲である。日本人にとって未知の感応である。それをたちどころに感じさせてくれるヨーロッパ音楽の素晴らしさに、いまさらのように舌を巻いた。
 曲が終わると鳴りやまぬ拍手のなか、マリー夫人は軽く辞儀してステージを降りた。席にもどってくると…
「さあ、弾きました…」といってレナーテの顔を見た。
「とても素敵な演奏でした。たしかにテレサが自慢するだけのことはありますね」
「ありがとうございます。さて、あなたは?」
「?」
「フフフ、かくしたってダメです。レナーテさん、あなたもピアノを弾くのでしょう。顔にそう書いてありますわ…」
「あら、そうですか」そういいながら顔をぬぐうマネをした。笑いがおこった。
「さあ、あなたの番です。聴かせてくださいますよね?」マリー夫人がうながすようにいった。
「わかりました。夫人やテレサのようにうまく弾けませんけれど……僭越ながらお耳を拝借いたします…」この時点ですでに正平くんが軽く拍手をはじめた。稱吉くんもつられて拍手する。
「あなた、ピアノも弾けるのですか…」ぼくがこういうと…
「人生は驚きの連続です」といってぼくにウインクして立ちあがった。
 レナーテがステージに立つと、夫人に負けぬ気品と凛々しさが漂った。ぼくは「ほんとうにうまく弾けるのだろうか」とちょっと心配になった。それは杞憂であった。
 曲は鍵盤のうえを十指(じっし)がくるくる舞い踊るような美しいメロディーで始まった。
「フフフ、テンペスト、それも第三楽章。さすがにお上手…」夫人がこういうと、テレサも「ホント、テクニックも完璧だわ…」と相槌をうった。ぼくはなぜか自分が誉められたような気がしてうれしくなった。
 曲は空中高く飛びまわっていた告天使(ひばり)が舞いおりてきて、静かに羽を閉じるように終わった。ステージの近くにすわっていた教授が真っ先に立ちあがって「ブラボー」と称賛する。三圭さんや船長や水夫長も立ちあがって「ブラボー」と拍手する。正平くんと稱吉くんも「ブラボー」といったり「アンコール」といったりする。レナーテは例のごとく辞儀すると、ふたたび革椅子にすわった。アンコール曲は低く静かなモノローグで始まった。
「まあ、モーツァルト。幻想曲ニ短調…」夫人から軽いためいきが洩れた。
 美しいメロディーの底に悲しみが宿る。諦念(あきらめ)にも似た癒やされぬ悲しみ。この淋しさ、辛さを知るものはどこにもいない。それでも胸の奥に秘めながらひたすら生きてゆく……ときには垂れこめた雲の段(きだ)をやぶって暖かい日差しがさすこともある……いろいろなことを感じさせてくれる曲であった。
 曲が終わったとたん、驚いたことに教授がステージにあがってレナーテをきつく抱きしめた。教授は激しく泣いていた。レナーテはとまどっている様子だった。みな拍手も忘れてこの様子を呆然と見つめていた。しばらくするとレナーテを解放して、教授は座客にむかい、ぽつりぽつりと涙声で語りはじめた。
「どうもみなさん、老人の挙動不審をお許しください。娘もなにが起こったかわかりますまい。どうぞ説明させてください。
 わたくしが微力ながら医学向上のため、極東に位置する日本国の土を踏んだのは十一年まえのことでした。ここにおります娘はまだ七歳でした。
 妻はエリザベートといいますが、わたくしが日本に旅立つ直前に、親しき友人をつどえてお別れ会を開いてくれました。そのとき、最後の最後に弾いて聴かせてくれたのが、ただ今の曲でした。
 娘はようやくバイエルを習いはじめたばかりの頃でしたが、わたくしは妻の演奏にふかい注意も払わず、いつもながらの巧みなピアノだくらいにしか考えませんでした。
 ところが今、娘が演じてくれたこの曲は、わたくしの目がたいへんな節穴だったことに気づかせてくれました。妻エリーゼはわたくしの極東行きを、なんの恨みがましいことばもなく、気持ちよく送りだしてくれましたが、その胸のうちをわたくしはまるで理解していなかったのです。
 妻はこの曲を演奏しながら、その千々に乱れる複雑な胸中を、万感の思いをこめて鍵盤に託したのでした。表むき気丈にふるまっていても、こころのなかではとり残される淋しさ、辛さ、苦しさを如何(いかん)ともしようがありません。それでもことばでそれを告げることは許されず、だからこそ音楽にその思いを託したのでした。
 さきほどシェッフェルの訳詩が朗読されました。その一節に………

 遠くうき世にいでさりぬ われに別れを告げやらず うたひうたひてゆく君よ
 こころとたのむわが君よ 
    思ひをかけしわが星は 光をかくしいづこにて たれのためにか輝ける 
    心もそらに浮くものを
 嬉しとしばしは思ひしを はや悲しみのめぐり来ぬ 
 わが身のさちと頼みしを はや憂きことの巡りきぬ 
 語りあひたるほどもなく 醒めしはまことの夢なるか
 苦しかりけり わが恋は 悲しかりけり わが恋は 
 などかの人に逢ひにけむ などかの人を恋にけむ 
 苦しかりけり わが恋は 悲しかりけり わが恋は
 いつか帰りてきますらむ 果敢なき別れとならんには 
 神にいのらむわがせ子を 汝(な)れ知るらむか わがこころ

 ………このフレーズはじつに妻の切ない気持ちを如実(にょじつ)に表現したものでした。愚かなわたくしはそれとも気づかず、さほど未練も残さず、ベルリンを旅立ったのです。そしてたった今、娘のピアノを聴いて、はじめて妻がこの曲に託した想いを理解できました。
 思えばわたくしはじつに罪深い男です。エリーゼに対して、十一年もの永きにわたって、理解なき夫を演じてきたのですから。今こそ妻の深く広く嫋(たお)やかな愛情をひしひしと感ずることができます。
 レナーテ、もう一度抱かせておくれ。おまえを通じて愚かなわたくしの、エリーゼに対する罪滅ぼしをさせておくれ………」
 レナーテも激しく泣いていた。ぼくも泣いた。三圭さんも泣いていた。船長も水夫長も泣いていた。マリー夫人もテレサも正平くんも稱吉くんもみな泣いていた。ひしと抱きあった親子に対し、いつしか拍手がわきおこり、いつまでもやまなかった。
    音楽は不思議なことをする………

           ☆     ☆     ☆

 二十二日、朝、目が覚めると三圭さんが「森くん、今日も忙しいぞ」と告げた。
「どうしたというのです?」
「十時からレナーテのキャビンで歌がるたの会を開くことになった。正平くんと稱吉くんも呼んである。きみも参加して都合四人で対戦だ」
「三圭さんは?」
「ハハハ、私は名誉ある読み役にまわされた。まあ、レナーテのわがままにつき合ってやってくれたまえ」
「誕生日プレゼントが想わぬ余波をうみましたね」
「でもきらいじゃないだろ?」
「そうですね、じつはぼくは歌がるたについては懐疑派なのです……」
「へえ、どうして?」
「だって同じことばで始まる歌が、百首のうちにいくつあるということを諳んじてしまって、初五文字を詠んでしまわないうちに、どれでもいいように、二三枚のカルタを押さえてしまうことができなくては、上手下手の評にのぼることができません。もうあんな風になってしまえば、歌のせんはない、子供のするイロハがるたも同じことだと思います。もし歌がるたに価値があるとすれば、それは百首の歌を諳んじただけで、同じことばで始まる歌がいくつあるかなんという、器械的な詮索をしないあいだの楽しみに限られていると思いますね……」
「アハハ、よっぽど過去においてクヤしい思いをしたことがあったようだね」
「アハハ、そのとおりです」

 三圭さんとレナーテの部屋にむかうと、すでにみな集まっている。ソファにはテレサとエレン、ウィリアムも坐っていた。レナーテの部屋に入るのは初めてだったが、乙女の部屋に似つかわしく、明るい華やかな雰囲気があった。
 すでに取り札が二十五枚ずつ、四つの区画に並べられ、右側、手前から稱吉くんと正平くんが畏まって坐っている。どうやら自陣の取り札の位置を一生懸命記憶しているようであった。
 レナーテはエレンのまえにひざまずいて、なにやら絵本らしきものの説明をしている。となりに坐ったウィリアムも色鮮やかな大判冊子をのぞいている。
「あら、ちょうどいいところへ大先生がいらっしゃったわ」こういってレナーテはぼくの顔を見た。
「なんです?」
「ほら、これ…」
「これは歌麿の繪本蟲撰(えほんむしえらみ)じゃないですか。よく手に入りましたね」
「こちらはもっと大変でしたわ」
「吉原傾城新美人合せ自筆鏡!京傳の傑作浮世絵。すごいですね、知ってはいましたが現物を見るのは初めてです」
「どうです、立派なコレクションでしょ?」
「あなた浮世絵まで手を伸ばしていたんですか」
「まあ、手を伸ばしていたなんて失礼ないいかたですわ」
「おっとごめんなさい、ハハハ、いい直しましょう。浮世絵の趣味までお持ちだったのですね」
「ウフフ、いけません?江戸戯作に興味をもてば、いずれ浮世絵にはしるのは当然のなりゆきです。だって戯作と浮世絵は切っても切れない縁ですもの。草双紙もその挿絵がなければ魅力半減です。式亭先生が黄表紙名作二十三部をお選びになったので(お姉さまにもお願いして)古書店巡りをして、できるだけ蒐(あつ)めました。残念ながら十八部しか見つからなかったけれど…」
「古本屋で黄表紙さがし…」ぼくはことばを失った。
「行李の底にはもっとお宝が仕舞ってあります…」
「…?」
「富嶽三十六景、東海道五十三次、木曽街道六十九次………」
「ウーン、あなたには負けます……江戸の文化をそっくりドイツに持ち帰ろうというのですね。並みの蒐集家の域を超えています。まったくあなたには驚かされます」
「いえ、ごく自然の成り行きです。Rinは馬琴や春水とともに京傳も好きだっておっしゃったけれど、わたくしも山東京傳が大好きなのです。洒落本や黄表紙の作家というだけでなく、浮世絵師としても大好きなのです。写楽や北斎のような飛びぬけた才能というわけではありませんが、その外連味のない、奥ゆかしさがわたくしの感性にぴったりくるのです」
「………」
「産まれは深川木場だったそうですが、少年時代に父親が江戸京橋銀座一丁目に引っ越したなんてステキじゃないですか。江戸っ子のPRINZ(貴公子)ですね。鳲鳩斎榮里(しきゅうさいえいり)の描いた肖像画を見ると、そのおだやかな表情に優しさと男気があふれていて、とても素敵な男性だったことがわかります。あなた京傳勘定をご存知でしょ?」
「ええ、ワリカンのことですね。京傳が元祖だといわれていますね」
「曲亭先生もおっしゃってますわ。ケチでもなければ、金を出すのを渋ったわけでもなく、仲間内における金銭のもつれをきらった、いわば『君子の交わりは淡きこと水のごとし』といったような理由でワリカンを求めたんだって……花魁(おいらん)を身請けした前妻は残念ながら病没してしまいましたが、後妻もやはり吉原から迎えたという逸話も、京傳の女性に対する偏見のない、世間体など気にかけない、優しいおおらかな心根(こころね)が感じられてじつに慕わしい性格だと思います」
「………」
そのとき三圭さんが「おいおい、浮世絵談義もけっこうだが、正平くんたちがお待ちかねだ。そろそろカルタに移ろうではないか…」
「そうでしたね、ごめんなさい」レナーテがこういうと正平くんが…
「なに、ちょうどいいと思っていました。自陣ばかりでなく、敵陣の札もかなり記憶できました」といった。
「それではおふたりに負けてしまうかもしれませんね」
「そんなことはありません。おれは百首のうち、せいぜい二十枚くらいしか覚えていない」稱吉くんがいう。
「それでは正平さんの対抗がわたくしですね。稱吉さんの対抗はRinですね…」
「ぼくはカルタが得意ではありません。稱吉くんにも負けてしまうかもしれない」
「それじゃあ、おれにも勝ち目はあるかも。さすがにビリッケツはイヤですからね」
三圭さんが笑って「結果はすぐわかるよ。それでは始めようか」といって読み札を取った。
「この場での競技ルールとしては、残り二十枚になった時点で終了とし、各自の取り札の枚数で順位を決めます。一位には私から賞品をさしあげます」
「えー、賞品ってなんですか?」正平くんがたずねる。
「それはお楽しみ。では第一首を詠みます……」

  瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の 割れても末に 逢むとぞおもふ

          ☆     ☆     ☆

 二十四日、おとついから続いていた風が午(ひる)に至ってやむ。
 食後、甲板に出て、久しぶりにデッキチェアでくつろぐ。ウトウトしているとだれかクスクス笑うものがいる。目を開けるとエレンとテレサだった。
「Rin、船尾デッキでKegeln(九柱戯)を始めました。よろしかったらいっしょに遊びませんか?」テレサがいった。
「ウーン、わかりました。あとで行きますから先にやっていてください」
「エレン、待ってるから…」そういって二人は立ち去った。
 レナーテの誕生日以来、RKが結成されて、メンバーはそろって毎日の行動をともにしている。RKとはぼくの勝手につけた略称でRenate Klubのことである。番号もつけてあって、Nummer1がレナーテ、Nr.2がエレン、3がテレサ、4がウィリアム、5と6が正稱コンビである。この倶楽部仲間は二十一日以来、昼のあいだはほとんどいつも行動をともにしている。昼食もいっしょ、夕食もいっしょ、デッキで運動しているかと思うと、レナーテの部屋か、テレサ、エレンの二人部屋に集まって遊んでいるようだ。まるで学校の寄宿舎生活である。
 そこで二号と三号が多分、一号の指示を受けて、ぼくを誘いにきたのであろう。
「Rinの運動不足はなんとしても解消しなければなりません。エレン、ちょっと行って誘ってきてくれる?」とでもいったのであろう。もちろん、サークルの名称も、メンバー全員に番号をつけているのも、ぼくだけの秘密である。バレたらどんな怖るべき報復を受けないともかぎらない。ぼくは九柱戯など興味がないからまた居眠りを決めこむことにした。
 ウツラウツラしていると、まただれか近づくものがいる。含み笑いからかすかに声が洩れる。またエレンかなと思って、ぼくはわざと目を閉じたまま、寝たふりを続けた。
「まだ、寝てる…」エレンの声である。
「ウフフ、よほどお疲れね…」レナーテの声である。
「夜、寝てないの?」
「夜はねえ、キャビンのなかは暑いからなかなか寝れないといっていたわ」
「でも昼寝ばかりしていたらますます夜は寝られないわ」
「エレン、ホントにかしこいお嬢ちゃんね。そのとおりだわ」
「起こしてやろうかしら」
「いいえ、このまま寝かしておいてやりましょう。でもいつまでも寝ていたら、左手に見えてきた大きな島を見そこなってしまうわね…」
「島ですって!」ぼくはパッチリ目を開けた。
「ほら、ネ…」
「ホントだ、タヌキ寝入りだ」エレンが笑いながらいう。
ぼくは顔を赤くしながら「それって速哥多喇(ソコトラ)島じゃないですか?」
「ええ、正平さんがソコトラだろうって…」
「ちょっと、ごめんなさい…」ぼくはむっくり起きあがると、船首左舷に足ばやに向かった。後ろからクスクス笑いながらエレンとレナーテが着いてくる。
 たしかに左前方に大きな島が見える。丹波さんと片山さんが船べりにもたれかかって談笑している。RK軍団も海を見ながら何やら指さしてはしゃいでいる。
「ソコトラに着いたのですね」
「ああ、ようやくアラビア海の核心部まで来た……アデンまであと一日二日だ。きみはソコトラの名称の起源を知っているだろう?」片山さんがぼくに問うた。
「サンスクリットのDvipa Sukhadharaに由来するとのことです。『幸福の島』という意味ですね。でも、やはり山骨峨々(さんこつがが)として不毛の岩山ばかりですね。緑が見えません」
「まあ、アラビア砂漠をそのまま海上に移したような島だからね。年間降雨量もたいしたことはないが、そのほとんどが季節風によってもたらされた湿った風が、山にぶつかって発生する霧によるものだということだ。とても植物が繁茂するような条件ではない。それでもかの有名なDracaena cinnabari(龍血樹)の特産地だよ」丹波さんがいった。
「食べ物はあるのでしょうか?」
「むかしはナツメヤシが豊富だったらしいが、今はどうなんだろう。あとヤギが放牧されていて、乳(ちち)を飲んだり肉を食らうということだ」
「周りを海に囲まれているのに、漁業は盛んではないのですか?」
「むかしはけっこう盛んだったらしい。アデンを出港してインド西海岸を目指したアラビア船は、この島に寄港しては魚の干物や塩漬けなどを積みこんだということだ。でも帆船時代と現代(いま)の航海日数では雲泥の差があるからね。立ち寄る理由がなくなってきていることはまちがいないだろう……」
「林(りん)さん、さっきクジラの群れを見ましたよ」稱吉くんがいった。
「ほんとうかい、どれどれ……、なにも見えないな…」
「ついさっきまで遊弋(ゆうよく)していたけど、海中に潜っちゃったみたいです」
「エレンも見たかった…」
「また見えますよ」テレサがいった。
「多分、捕食中だと思うからまた浮かんでくるだろう」片山さんがいった。
「何クジラだったんでしょう?」
「うん、おれも目を凝らして見ていたが、はっきりとわからなかった。多分Physeter macrocephalusではないかと思うんだ。マッコウクジラだね…」
「え?片山さん、海洋生物にもお詳しいのですか?」
「いや、とくにクジラに興味があって調べたんだ。子供のころ、遠州灘に海水浴に行ったとき、浜に大きなクジラが打ちあげられていてね、その巨体にひどく驚いてクジラの勉強を始めたのさ」
「そのときは何というクジラだったんですか?」
「あとから調べたので正確かどうかわからないが、ザトウクジラの子供だったようだね」
「このあたりはマッコウクジラが多いのでしょうか?」
「うん、きみは龍涎香(りゅうぜんこう)を知ってるだろ?」
「ええ、高価な漢方薬として有名ですからね。一抱えもあれば、むかしは千両万両があたりまえの貴重な香料だったそうですね。でも龍涎香については丹波さんのほうがお詳しいと思いますが…」
「おっと、こっちに振ってきたか……それじゃ聞くが、きみは周去非(しゅうきょひ)を知ってるかい?」丹波さんが逆質問で応えた。
「ええ、南宋の官僚ですよね。読んではいませんが、たしか嶺外代答(りょうがいたいとう)を著した地誌家だと記憶していましたが……」
「うん、そのなかにこんな一説がある『アラビアの西の海には龍が多く生息する。龍は海の底で岩を枕に眠るが、そのとき垂れたヨダレが海水中に固まって浮遊したのが龍涎香である』……」
「アハハ、十二世紀のシナ人はまだ龍の存在を無邪気に信じていたんですね…」
「十六世紀、アフリカ東岸のブラヴァをいう港市(こうし)に上陸したポルトガル兵は、宮殿に押し入り、宝物庫のトビラを開けた。数えきれぬ黄金や銀、宝石に交じって、大量の龍涎香が保管されていた。初めてこれを見たポルトガル人は『こいつらはなんのためにこんな牛のクソを大事そうに保管しているのだ』とあきれたという」
「天下の名香を牛糞あつかいかァ……アハハ」
「Ambergrisの効能はアラビア人が発見したのだが、シナには唐末ごろに伝わったようだ。時代はさがって十六世紀、オランダ人リンスホーテンの著したITINERARIO(旅行記)には、クジラのアワだとかクソだとか、いや、そうではない、海底の泉から湧出したBitumenすなわち瀝青(チャン)が浮かびあがったものだとか、いろいろの説が紹介されている。ヨーロッパでも神秘の香料だったみたいだ。ところが十三世紀末にジェノヴァ軍に捕虜として収監されたマルコ・ポーロは、ソコトラ島の記述、いや口述で龍涎香についてはっきり『マッコウクジラの腹から採取する』と明言している。マルコのことを『ホラ吹き男』とバカにしたそのころの学者こそ怠慢だったというわけだ……そのとき、当時の捕鯨の様子も口述しているからよかったら話そうか?」
「それ、ぜひ聞きたいですね」稱吉くんがいった。RK軍団はたちまち丹波さんを取り巻いて謹聴の様子である。
「アハハ、そんなに期待されるほど面白い話しじゃないよ。それでは東西東西(トザイトーザイ)……」
レナーテがプッと吹きだした。
              ( 中 略 )
 そのとき、突然洋上に数頭のクジラが躍(おど)りでた。
「クジラだ!」みなの視線がいっせいにむかう。三頭ほどのクジラが巨大な口を開けて水面に飛びだすと、そのまま沈んでいった。
「どうしたのでしょう?」
「あれは捕食行為だね。たぶんイワシの群れを海面上まで追いこんで、ひといきに呑みこんだのだろう。このあたりは秋口になるとイワシの大群が押し寄せるそうだから」片山さんがいった。丹波さんがつけ加える。
「イブン・バットゥータがアデンから四日ほどかけて対岸のザイラまで行ったとき、あまりの悪臭に耐えかねて街に泊まることができず、乗ってきた船で一夜を過ごさざるをえなかったと書いている。悪臭の原因は腐乱した大量のサカナと、路地裏で屠殺するラクダのおびただしい血の臭いだったそうだ。魚はSARDINだね。わが国でもイワシはよく食うが、こちらではとてつもない数の群れが押し寄せるそうだ。大量に獲れるイワシは天日乾燥させ、ラクダや羊のエサとしたそうだが、秋にとれたイワシだけで一年分の飼料として充分間に合ったらしい。その量たるやたいへんなものだったんだろうな……」

          ☆     ☆     ☆

 九月二十六日、アデン港に至る。セイロンよりここまで二千百三十五里。
 紀元前後からアラビアとインドをむすぶ要港で、紅海の入り口にあたっている。西南は海に面し、周囲を岩山が囲っている。ほとんど雨が降らないのであろう、岩と砂、乾いた土ばかりで寸緑を見ず。
 九時過ぎに正平くんが開けっぱなしの扉からぼくに声をかけた。
「林(りん)さん、市街見物、行きますよね?」
「ウーン、ちょっと体調が今一なんだよな…三圭さんは行きますか?」
「私は前回見学しているから、今回はパスだ。軍医、初めてだろう、行ってらっしゃい、RK軍団といっしょに…」
「RK軍団ってなんですか?」ぼくはアセッた。三圭さんには冗談交じりに話してあったからだ。
「わかった、出かけよう。出発は何時?」
「十時ごろ蒸気船が出ますから、それまでに下船口に降りてきてください」
「了解」
 きのうからからだが重だるいような気がしていた。まあ、外に出ればすこしは気分も変わるだろうと思って承諾したのだが、正直、あまり乗り気ではなかった。
「歴史上、そうとう重要な港市だったみたいですが、今はどうなんでしょう。やはり観光の目玉としては、貯水ダムが見ものなんでしょうか?」
「むかしは冠馬也(カンバヤ)、俄亜(ゴア)、曼俄老留(マンガロール)、花里加土(カリカット)といったインド西海岸諸都市との交易拠点だったのだ。とくにアラビア馬の出荷地だった。インドでは土地柄、馬が育ちにくいので、軍馬はほとんどアラビアから調達した。ちなみに当時の世界最良馬はアラビア種だ。逸物は七百serafijsもしたということだ。一セラフィンは一両だと思えばいい。次点がペルシャ、三番目は大きく劣ってカンバヤ種だったとのことだ。貿易拠点とはいえ、ひどく熱く乾燥した土地柄なので、産業が発展することはなかった。見るべきものもきみのいったアデン・タンクくらいのものだ」
「最近、英人が修復したそうですね」
「雨水にたよるしかない街なのでね。夏季、といっても四五月に集中的に降る驟雨がメインらしいが……そのとき降った雨水を溜めるしか手段がなかったようだ。伝説ではソロモン王が岩山だらけのこのあたりの地形を見て、洞穴(ほらあな)に石灰を施し、雨水を流し入れて溜め池にしたという。むかしは飲み水だけは郊外の井戸から馬車で運んだらしいが、三十九年に英国が海軍基地を設けてから、ようやく水道を引いたみたいだね」
「ダムは埠頭から遠いのですか?」
「ふもとまで馬車で行けるけど、見学そのものは堤道(つつみ)をゆるゆる登っていかなくてはならない。何層ものダムを巡覧するのはけっこう体力が必要だよ」
「この熱いのにですか……」
「うん、私の経験でも、この土地あたりが全航海中、もっとも熱くて息苦しい地点だね」
「柳北が『同行の人、上陸するもの多いが、予は日光の赫々(かっかく)として、風塵おもてを打つに耐えず、ついに船を出でず』といってます」
「正解だよ。まあ行ってごらん。ふーん、なるほど、こんなものかってところだ」
「ちょっと行く気がしなくなってきました」
「でも約束しちゃったじゃないか。よかったら私の鳥打帽(ハンチング)を貸そうか…」
「ありがとうございます、ですが……」
「そうか、軍服姿にハンチングは似合わないね…アハハ」
「アデン・タンク以外に見るものはないのでしょうか?」
「……きみはAfonso de Albuquerqueを知ってるかい?」
「十六世紀初頭に活躍したポルトガル艦隊司令長官ですよね。そのていどの知識しかありません」
「……当時、アデンには港がふたつあってね、外海(そとうみ)に面しているほうをフォカテ港といって、周囲を高い城壁が囲み、街を守っていた。反対側の湾内の港をウジュフェといって、これが現在のアデン港だ。湾内のほうが船舶の停泊地としてより適切に思われるが、当時は水深が浅かったため、吃水のふかい大型船はもっぱらフォカテを利用した。
 インド、マラッカ、アラビアの覇権を画策していたアルブケルケは、千五百十三年三月にソコトラ島で水を補給したあと、アデンの城塞都市の正面にその艦隊を集結させた。かれは部隊をふたつに分け、千四百名からなる本隊は海岸からそのまま上陸させ、ハシゴをつかって城壁をよじ登り、街を攻撃することにした。もうひとつの六百名からなる部隊は、街と本土側をつないでいる高台の通路を占拠させることにした」
「………」
「艦隊から何十艘もの小艇(バテル)が繰りだされ、横ならびに六人が同時に登れる幅びろの木製ハシゴが何本も持ちだされた。そのほか踏み台にするベンチ、大槌(おおづち)、ツルハシ、火薬などの資材も持って行った。これはハシゴを登るだけでなく、城壁のどこかに穴をあけることができるかどうか調べ、そこに火薬を詰めて爆破しようと考えたからだ。
 上陸するやいなや、兵士たちは競って先陣争いに加わり、ハシゴを登ろうとした。ハシゴの到着を待ちきれない隊長たちは、部下がマゴマゴして迅速にハシゴをおろせないのに業を煮やし、みずから水に飛び込んでバテルまでもどり、ハシゴを引っ張りおろすと『城壁を目指せ、城壁を』とさけびつつ、そろってハシゴを打ち立てた……」
「六人も横ならびに登れるハシゴってすごいですね…」
「……ところが『ハシゴには最大十二名以上乗ってはいかん、それ以上乗ると木造のハシゴはもろく崩れる』と指揮官が忠告していたにかかわらず、功名心に燃える兵士たちはわれ先にとハシゴに群がった。結果、ハシゴは折れてしまい、下にいるものは上から落ちてきた兵士に押しつぶされてしまった。これを見たアルブケルケはかれを警護していた鉾槍(ほこやり)兵に『ハシゴの下までいって、ハシゴを支えよ』と命じた。しかしハシゴを登る兵は、あとさき考えず大挙して押し寄せたため、ふたたびハシゴは折れ、下にいた鉾槍兵は押しつぶされてしまった。落ちてきた人々もその多くが鉾槍に突き刺さってしまった。ついにほとんどのハシゴが崩れ落ちて、城壁の下は阿鼻叫喚が支配した。これに勢いを得た敵は、城壁や望楼から大砲を撃ちつづけ、石を投げおとし、煮えたぎる油をまき散らし、ポルトガル兵を蹴散らした。四時間におよぶ戦闘ののち、利あらずと見たアルブケルケは全軍に退却を命じ、アデン港を去ることになった……」
「過度な先陣争いが敗因ですか…」
「そうだ……そんな歴史の証跡として、アデンの古城壁をぜひ見たいものだと思っていたのだが、残念ながら史跡として残っていないようだ」
「帆船時代の『強兵(つわもの)どもが夢のあと』ですね」
「うむ、歴史というのはある意味、じつに果敢ないものだ。どのように過去の文献をたどっていっても、あれこれ浜の真砂にも似た資料の断片をひっくり返していっても……現実は私のささやかな願いさえかなえてくれないというわけさ……」
「………」
そこへ稱吉くんが顔をだして……
「林さん、そろそろ行きましょう…」と声をかけた。
「よし、行こう」ぼくは自分を鼓舞するようにいった。

 炎天下にされされた下船口にいってみるとかなり混んでいた。日東十客はもちろん(教授と三圭さんはいなかったが)、RK軍団、マネヴィル夫妻やグレン氏、そのほかの乗客でごった返していた。レナーテがぼくの顔を見て、ちょっとうなずいた。梯子段を下りてゆくと、自分のからだになにか力が入らないような気がした。
 ぼくはいつしか気を失っていた……………
              ( 中 略 )
 ぼくはレナーテの夢を見た。碧いひとみに涙をいっぱい溜め、なにもいわずにぼくの顔を見つめている。ぼくはことばをかけようと努力するが、どうしても声が出ない。やむを得ずレナーテの手をとって、その場を立ち去ろうとした。レナーテは動かなかった。やがてぼくの手を振りほどいてみずから立ち去った。ぼくは茫然とそのうしろ姿を見送った。

 ふと目が覚めた。
 下船口で意識を失ったことを思いだした。自分のベッドに寝かされていた。
 はっと気がつくと、目のまえに、転寝(うたたね)をするレナーテの貌(かお)が見えた。下から見上げた美しい容貌に思わず息をのんだ。
 男は妙齢の女性の貌を下から見あげることは滅多にない。美しい頤(おとがい)、ふっくりした白い頬、厚くも薄くもない唇、すっきりした鼻梁とかたちの良い鼻孔、長いまつ毛、ほつれかかった金色の髪、ぼくはここでも官能ということばを思いだした。
 日本人は上(うわ)まぶたの脂肪組織があつく、眉弓(まゆみ)の張りがすくなく、鼻根部がひくいので、一重まぶたが多く、まつ毛があまり見えない。ヨーロッパ人は上まぶたの脂肪が少ないため、凹んだ影となり、二重まぶたが多く、まつ毛が長くみえる。
 ヨーロッパ人の鼻形は大きく三つに分けられる。いわゆる希臘(ギリシャ)鼻とは鼻梁の線が直線的でクセがすくなく、鼻根部の陥凹(かんおう)もすくない、つまり西洋美術で理想とされている直鼻(ちょくび)のことである。つぎに羅馬(ローマ)鼻とよばれる釣り鼻、段鼻、そして猶太(ユダヤ)鼻とよばれる鷲鼻(わしばな)、以上三つがヨーロッパ人の典型的な鼻形である。日本人は鼻梁の高い低いを問わなければ上記三鼻もみられるが、そのほか鼻底面がまえを向いて開いている胡坐(あぐら)鼻、綾(かど)のすくない丸みの多い団子(だんご)鼻なども見られる。
 ぼくがレナーテの艶やかな貌を見あげながら、こんな感想にふけっていると、その大きな目が見開かれた。
「あら、お気がつかれたのですね」
「ぼくは気絶したのですか?」声がしゃがれていた。
「ええ、みなビックリしましたわ。あわてて男衆(おとこしゅう)があなたを担ぎ上げてこのベッドにまで運びました」
「………」
「お父さまが軽い熱中症だろうって。三圭さんが、軍服を脱がして、すずしくして、目が覚めたらできるだけ水分を摂らせるようにとおっしゃいました」
「………」
「そうそう、今、レナーテ特製のレモン水を作りますからね」
そういうと小卓(こづくえ)におかれた盆のうえの水差しをとり、コップにそそぎ、蜂蜜のビンからスプーンで蜜を少しばかり取りだしてコップに入れ、半分に切ったレモンを絞り、スティックでかき混ぜた。
「さあ、できました。からだ起こせます?」
ぼくは上半身を起こしながら「これが特製なんですか?たんなるLemonadeでしょ?」
「まあ、気を失った病人のくせに、減らず口だけは忘れないかたですね。お砂糖の代わりにハチミツをつかったところがRenateadeの特製たるゆえんです」
「アハハ、とにかくありがとう」ぼくはコップを傾けて一息に飲んだ。旨かった。
「もう一杯いかが?」
「ええ、すこし経(た)ったらいただきます」
レナーテは椅子に座りなおすと、足もとに落ちていた扇子を取りあげ、ぼくの顔をあおぎはじめた。紺地に銀泥で月とむら雲が描かれ、金泥で雁(かり)が描かれている。
「ぼくが寝ているあいだ、その扇子を使ってくれたのですか?」
「素敵でしょ。お姉さまに買っていただいた舞扇(まいおうぎ)ですわ。こんなふうに活用できようとは思いませんでしたが」
「ありがとう、あなたってホントに優しいかたですね」ぼくはちょっと涙ぐんだ。
「まあ、あたりまえのことをしているだけです」
「でも、市街見物がおシャカになってしまったでしょ」
「ええ、それよりRK軍団が心配して出かけるのをやめようとしたので、説得するのに苦労しましたわ。もし出かけないとRinがあとで負い目を感じて、つらい思いをするでしょうから、ここはこのままお出かけなさいって」
「アレ、RK軍団はバレてました?」
「三圭さんが教えてくれました。でもなかなか面白い呼称です」
「バレたらおこられると思ってました」
「そんなわけないじゃありませんか。それよりわたくしがバタバタしていると三圭さんが『オニのカクランのたぐいだから、何も心配することはないよ』っておっしゃってくださいましたが、どういう意味ですの?」
「アハハ、そりゃ三圭さんのいうとおりです。霍乱というのは日射病のことです。鬼がつくと『ふつうはありえない』ことを意味します」
「わたくしが必要以上に心配するのを、引きとめていただいたおことばだったのですね」
「レナーテードのお礼にちょっと面白いお話をしましょう。むかし今大路道三(いまおおじどうさん)という医者がいました。生薬師(しょうやくし)として有名でしたが、薬の調合をする弟子が三十年勤めたのち、のれん分けをしてもらい、京都の大通りに薬店(くすりだな)を出しました。さて売り物の霍乱の薬の大看板を師匠に書いてもらいました。この弟子はもともと文盲(もんもう)で、はじめは一丁字だに知りませんでしたが、老いてのち勉強して書を読むようになりました。さて字を覚えてから師の書いてくれた看板を見ると『はくらんの薬』と書いてあります。こりゃおかしいと思い、久しぶりに師の家まで出向き、その仔細をたずねました。師は笑いながら『うろたへたる言(こと)を聞くものかな。霍乱と知るほどの人、いかでか売薬を求むべき。無学のものには「はくらん」といはでは通ぜぬなり。看板はあのままにておけかし』といったそうです…」
「アハハ、たしかに面白いけど、よく考えてみるとひどいお話しですこと……」

 そのとき、開け放した扉の向こうにだれか顔を出した。エレンとテレサだった。
「ご容態はいかがですか?」テレサが訪ねた。
「アラ、おふたりともお見舞いに来てくださったの?大丈夫、すっかり元気になりましたわ」
「入ってよろしくて?」
「ええ、どうぞ」レナーテが応えた。
ぼくはベッドから脚をおろすようにして横座りになって「どうもご心配をおかけしました。かなり気分がよくなりました」
「エレン、驚いた……」
「ぼめんね、エレン。もうRinは元気いっぱいになったから大丈夫だよ」ぼくはエレンに詫びるようにいった。
「お母さまがこれをRinにプレゼントだといってわたしてくださいって」
そういうとテレサは折りたたんだ白い衣服らしきものをレナーテに手わたした。受けとったレナーテはそれを広げて「あら、これは麻の上着ね。筒袖(つつっぽ)のボタンつき単衣(ひとえ)ですね。肌触りはわるくないわ。街にお出でになったとき、お求めになられたのね。これは涼しそうでいいわ」
「お母さまがこの土地の平服(ふだんぎ)だといってました『まだ暑いうちは、軍服をお脱ぎになって、これでお過ごしになればおからだが楽でしょう』って…」
「わざわざ買ってきてくださったのですね。ありがとうございます。お母さまによろしくお伝えください」ぼくがお礼をいわなくてはならないのに、レナーテがすべて代弁してくれた。
「それではさっそく着替えましょう。さあ襯衣(シャツ)を脱いで…」
「え?今ですか?」
「善は急げです。今、着替えなくてどうするのです。それにもうすぐ夕食です。シャツのまま食堂にゆくわけにいかないでしょ?」
「でも………」三人のうら若い乙女のまえで、上半身とはいえ、ハダカになるのはさすがに気が引ける。
「立派なニッポン男児たるものが、なにを恥ずかしがっているのです。あなたはご病気なんですよ、看護婦の指示に従わなくてはいけません。しかもあなたはお医者さまではないですか」
ぼくは口ごたえがムダなことを痛感し、しぶしぶシャツを脱いだ。
「ア、ちょっと待って。さきにおからだをお拭きしますから」
今まで気づかなかったが、見ると小卓の下に水を張った真鍮の金盥(かなだらい)がおいてあって、白い手拭(てのごい)が浸してあった。ぼくが気を失っているあいだ、たぶんこれで額の汗を拭っていてくれたのだろう。レナーテは手拭を絞ると「さあ、さっぱりしますよ」といいながらぼくのからだを拭こうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください、自分のからだくらい自分で拭きますから」そういうとぼくはレナーテの手から手拭を奪うようにしてとると、自分のからだを拭きはじめた。
 そのあいだエレンとテレサは微笑みながら黙ってぼくの仕種(しぐさ)を見つめている。ぼくは急に顔が赤くなるのを意識した。
「もうそのくらいで充分でしょう。さあ、着てみてください」
ぼくは袖に手をとおした。
「どう?」
「ええ、とても涼しくて快適です。ありがとうございます」ぼくは三人にお礼をいった。
「ちょっと大きいかしら…」レナーテがいった。
「いえ、むしろ余裕(ゆとり)があるほうが、肌と布とのあいだに空間ができて涼しさを助長してくれるようです…」
「まあ、気に入っていただいてよかったわ」テレサがいった。
「Rin、この街の人みたい…」エレンがいった。
ぼくはさらに顔を赤らめながら「まあ、ぼくは色が黒いからよけいそう見えるのでしょう…」
テレサが「それでもお母さまが『土地の普通の人は白い綿布(めんぷ)を腰に巻くだけで、上半身はハダカですから、上着を着ている人はお金持ちにかぎりますね』といってましたわ」
「それじゃあRinはお金持ちなのね…」エレンが笑いながらいった。
「エレン、『人は見かけによらない』ってことばを覚えておいてくださいね」ぼくがこう弁解するとみなでアハハ……と笑った。

 夕飯は早めに済ませた。レナーテが看護婦よろしく、ぼくにつきっきりだった。いまひとつ食欲が振るわなかったので、サラダとクロワッサンだけ食べた。みな食後、氷糕(ひょうこう)を食べたが、お代わりを頼んだのはぼくとエレンのふたりだけだった。
「そんなに食べたらお腹(なか)を冷やしてしまいますよ」テレサがいった。
「だってお母さまが一日二皿までなら食べていいっておっしゃったもん…」
「それならゆっくりお食べなさいね。あわてて飲みこむように食べてはいけませんよ」
エレンが給仕に「アイスクリームのお代わりをください」と頼んだとき、ぼくもおずおずと手を挙げて「こちらにもお代わりをお願いします…」というと、なぜかRK軍団がいっせいに声をあげて笑った。

 食後、蒸し風呂のようなキャビンにもどるのがイヤだったので、デッキに残って、レナーテとならんで夕焼けを眺めていた。出港直前だったが、あたりは静かだった。
「夕陽はステキだけど、海は黄色くよどんでいますね…」
「風に運ばれてきた砂漠の土ぼこりが、そのまま沈まずに表面に浮いているのでしょうね」
「でも、お顔の色がもどってきてよかったです。さっきまでそれこそ土気色(つちけいろ)でしたから…」
「あなたには感謝のことばもありません……ヤンツェ号のカルメン・シルヴァですね」
「まあ、ルーマニア王妃に准(なぞら)えていただくなんてとても光栄ですが、でもなぜですの?」
「エリザベータ王妃が戴冠詩人であることはあなたもご存知だと思いますが、また戴冠の看護婦であったことはあまり知られていません。七十七年に始まった魯土(ろと)戦争のさなか、夫カロル公とともに従軍した公妃(彼女が王妃に就いたのはほんの三年まえでした)は、ルーマニア軍の前線病院において、みずから手をくだして傷を裹(つつ)み、食事をあたえて、看護の業務に専心しました。やがていつしかMume ranitilor(傷を負いたる人の母)という尊称で人々が呼ぶようになりました。とくに手あてを受けた傷病兵は『ただ一瞥のみで病いを治していただいた』などといい伝え、まるで女神のごとく尊崇しました。ウッディンの攻囲線においてルーマニア軍の戦時任務は完了し、カロル公が軍を引きあげたとき、公妃も看護の業を辞めて夫とともに帰国しました『わたくしのごときが従軍し看護婦のまねごとをおこなうなど破格のことです。また一種の不幸です。庭に咲く花、かごの鳥たち、本棚にならぶ愛読書はわたくしの帰りを心まちにしています。いまは帰ることがとてもうれしいです……』そういったそうです」
「ルーマニアの伝説を好んで詠(うた)った女流詩人だと思っていましたが、立派なかただったのですね」
「彼女は静物や風景を描かせても一流の画家だという話しです。またことのほかピアノの名手とも聞いています。そんなところもあなたに似ていますね」
「まあ、とっても光栄ですわ。ありがとう……」     
「ふなばたに 魚やよりこん ファンタジア こゑつたはりて さざ波ふるふ」
「ウフフ……」
「金色の 龍のウロコか ピアノ音の しみいる波に 浮きてはしづむ」

 そのとき出航を告げる汽笛が鳴った。船はゆっくりと動きはじめた。
「ようやく出航ですね。六時出航と聞いていましたが、ちょっと遅れたみたいですね。それでも心待ちにしていましたからいっさい文句はいいません」
「あら、なぜですの?」
「さっき食堂の寒暖計を見たら九十度でした。ここアデンは北緯十二度四十五分にあります。これから紅海をひたすら北上してスエズ港に至れば北緯三十度です。あと五日ほどガマンすれば緯度を十七度もさかのぼることになります。まあ一日一日と涼しくなるわけです。これを朗報といわず、なにを朗報といいましょう……」
「ほんにねえ……あなたのお気持ちはとてもよくわかります」
「このぼくを意識不明にまで追いやった溶鉱炉の熱さから、ようやっと逃(のが)れることができます。どうして出航をよろこばずにいられましょうか」
「そのお気持ちも詩(うた)に詠んでみません?」
「……漢詩にですか?」
「ええ、和歌でも俳句でもpoeme lyriqueでもpoeme epiqueでもなんでもけっこうですわ」
「ハハ、さすがにフランス語の作詞はムリですね……」
「でも今日はあなた、いつぞやのようにお身(み)のめぐりに詩神が漂っているような気がします」
「アハハ、そりゃおだて過ぎです。でも……まあ、この熱海(ねっかい)に辞別の意味をこめて、七絶に詠んでみましょうか…」レナーテはにこやかに笑みを浮かべながら、かるく拍手してくれた。

  誰か得ん 相見て笑口(しょうこう)ひらくを
  おどろくに堪(た)ふ 波上 黄埃(こうあい)を浮かべるは 
  蒲柳(ほりゅう)にあらずといへども なんぞよく耐へん  
  赤日(せきじつ)山を焦がし 海を煮て来たる

「フフフ、怨嗟(えんさ)の声に満ち満ちたうたですね。なかなか面白いです」
「大自然にうらみ節をならべても仕方ありませんがね。セイロンで三圭さんが『子供は生まれる国を選べない』とおっしゃいましたが、いま、つくづく実感します。ぼくは温暖な気候帯に属し、水と緑のゆたかな日本国に生まれてほんとうによかったです……」
「ほんにねえ……」
「ハハ、今日はやけに『ほんにねえ』を連発しますね」
「ほんにねえ……」
「アハハハハ…」

 いつのまにかあたりは昏くなり、星が明るく輝きだした。
 船はしだいに速度をあげてゆく。船の動きにつれて潮風が顔にあたり、なかなか気持ちいい。
「星が奇麗なこと……」
「日本では見れない星も見えますね」
「ここから南十字星は見えないのでしょうか」
「さあ、どうなんでしょう。調べておけばよかったですね。日本でも沖縄や小笠原諸島だったら、水平線のかなたにちょっぴり見えるらしいです。シンガポールからだったらあるいはもっとよく見えたかもしれません。あすこはほぼ赤道直下ですから……」
「わたくしが気持ちよく酔っぱらったところですね」
「ええ、あなたがUne jeune fille reveuse et romantiqueであることを告白したところです」
「ウフフ……
 天の川 涸れてみそかに 夜ごと逢ふ 星も解(ほぐ)らん 雨かとぞ思ふ
……あの晩にお詠みになったなかで、わたくしの一番好きな歌です」
「ありがとう……でもあのときはみなさんにシャンパンを注がれて『いったいどうなることやら』と心配しました……」
「あら、まだ怒っていらっしゃるの?」
「どうしてそんなことでぼくが怒りましょう。たとえ酔っぱらっていたとはいえ、あなたの夢みるような瞳はとても美しく見えました……

    小さき影 映る見ませと ひらく目の 
              碧きひとみに 魅せらるわれは
「ウフフ……」

    こがね髪 ゆらぎし乙女 夏の夜の 
              さよ更くるまで 咲きにほひしを
「………」

    髪ゆらぐ やさしき面輪(おもわ) 
        一尺(ひとさか)も 一寸(ひとき)もきみに 近(ちか)うと思ひぬ
「………」

    星月夜 かの懐かしき 海のみちを 
            しるやかなたへ 君とともにゆかまし

 そのとき、船べりにもたれていたぼくの右腕にレナーテが左手をからめてきた。
 振りむくとレナーテはぼくの顔を見あげながらしずかに微笑んでいる。
 ぼくも微笑みかえした。

 星空のもと、船はさらに速度をあげ、ひたすらバブ・エル・マンデブ海峡にむかって進んで行った……………

           ※      ※      ※

 鷗外は陸軍軍医でしたから、兵卒の健康管理についても日々研鑽をかさねる毎日でした。まず兵士の食事について留学前から膨大な資料を読み解き、みずから人体実験までおこない、成果を報告しました。また当時、世界中の軍隊において梅毒が蔓延し、性病対策が急務でしたが、これについても(売春問題もからめ)その解決方法を模索しました。十九世紀前半は歐米においてまだまだ男性優位の時代で、女性の権利はほとんどゼロのような時代でしたが、その女性の人権についても深い洞察をめぐらせています。これらも作品のなかで取りあげました。
                  ※
 明治は日清、日露という二つの大戦に翻弄された時代です。二国との決戦は宿命づけられたものといえます。絵画教師として招聘されたお雇い外国人のビゴーは、有名な「魚釣り遊び」という風刺画でこの世相をからかっています。川の両岸で釣りをする二人の男、一人はチョンマゲ姿のサムライ、今一人は辮髪のシナ人、魚の背にはCOREEと書かれています。近くの橋のうえでは、煙草をくゆらしながら様子をうかがう怪しげな西洋人、帽子にはRUSSIEと書かれています。
 明治二十七年八月、鷗外は大本営直轄中路兵站軍医部長の辞令を受け、九月に宇品を抜錨し、直ちに釜山に上陸します。当時、韓国は未開の地が多く、まず道路といえるものがありません。せいぜい馬一頭がかろうじて通過できるほどの野路で、輜重車(しちょうしゃ)を通すには道路整備から始めなければなりません。また、飲み水にも窮し、地元の農民は河水を飲んで渇きを癒やしていましたが、近くに河がない場合は漉水器を利用するしかなかったといいます。たまたま泉などを発見しても鉄分などが多く、飲料に不向きで、井戸も在ることはあるが泥水しか得られなかったと嘆いています。
 翌年五月には新たに台湾総督府陸軍局軍医部長に任ぜられ、台湾三貂角に上陸します。そのとき「高砂の これや名におふ 島根なる 遠くもわれは めぐりこしかな」という歌を詠んでいます。このときの軍医部報告書は全集本細字で百ページを超えるかなりの量でした。
 清に打ち勝った日本はわずか十年後、宿敵ロシアと一戦交えます。鷗外は今回、第二軍軍医部長として従軍しました。そもそも帝政ロシアの野望は「シナ、朝鮮半島、日本の領土をひっくるめて我が物とする」というとんでもない策略でしたから、鷗外もその準備に余念がありません。三十六年にはクラウゼヴィッツ「戦論」の訳本を上呈し、そのほか「露国戦役年表」「防寒略説」「露国人の防寒法」「凍冱仮死の一実験」「冬期作業準備品報告」「冬季医療勤務要綱ならびに冬季立哨に関する意見」「人種哲学梗概」「黄禍論梗概」等々、防ロシア対策の論稿を矢継ぎばやに発表しました。戦場は主に満州の旅順などでしたが、鷗外は清国兵などとちがいロシア兵の優位は、その防寒対策にあると考えていました。温暖な気候に慣れた日本兵にとって、寒地での戦いはまず防寒を徹底するにあると考えました。戦時の報告書は全集本で二百四十八ページ(かなりの細字です)もありました。現在、原本の所蔵先は陸上自衛隊衛生学校とのことです………鷗外の軍人たるべき経歴に着目したのは、その軍人精神に深く共感したからです。鷗外はサムライの子でした。その武士魂がそのまま軍人精神として生涯を貫きました。この点についても作品中に折り込みました。
                 ※
 鷗外は審美学者としても一流でした。E・ハルトマン、J・フォルケルト、K・ラップ、M・シャスラー、O・リップマン、K・グルースなどの翻訳だけで、全集本一巻を成しています。また日本芸術史という膨大な書き抜き資料も残しています。これは編纂まえの未定稿で、百三十以上もの日本美術関連書目から必要と思われるものを抜き出し、カード式に書き溜めたものです。書目には翁草、吾妻鏡、神皇正統記、折焚柴記、讀史餘論、扶桑画人伝、甲子夜話、光琳百図、蒔絵大全、葛飾北斎伝、利家夜話、三河後風土記、常山紀談など著名なものもみえますが、全体として私にも初見の書目ばかりです。その全集本五百ページ近い膨大資料から、面白そうなものをピックアップして作品中にちりばめました。
                 ※
 また西洋音楽についても明治人らしからぬ見識をみせています。明治二十九年三月、ヨーロッパでの音楽修行をおえた幸田延子(露伴の妹です)の家を訪れ、彼女の巧みなピアノ演奏に感服した鷗外は「あなたの好きな音楽家は誰ですか?」と問いました。女史はためらうことなく「モーツァルト、ベートーヴェンですね」と答えました。「ワグネルはお嫌いですか?」「その前期は取ります。後期はダメですね」この返答を聞いた鷗外はわが意を得たりと喜びます。鷗外の持論は「グルック、モーツァルトはすでに乾宣叙調を発展せしめ、モーツァルト、ベートーヴェン等はすでに楽劇の詠嘆調を戯曲らしくした。宣叙調をして肉声に戯曲らしき表情の能を賦せしめ、詠嘆調の器楽をして宣叙調に純楽らしき伴奏をそえなければ、詩と音楽との権衡を保つことはできない。この業はRichard Wagnerが初期の作にみられる。しかしその後期の作における詠嘆調の擯斥と宣叙調の偏勝とは、音楽を解するものの取らざるところであろう」……まだヨーロッパ音楽の伝来が始まったばかりの明治日本において、このような意見を開陳できる鷗外は、かなり豊かで鋭い感性をもっていたといえるでしょう。その卓越した音楽論も本文抜粋中にあるように、しっかり応用させてもらいました。
                 ※
 留学から帰った鷗外は、日々更新される歐米の政治・社会・文芸にも、強い関心と興味をいだいていました。月々送られてくるドイツその他からの雑誌や新聞の切り抜きなどに目を通し、これを翻訳し「椋鳥通信」として雑誌「昴」に連載しました。これは明治四十二年から大正三年まで続き、全集本九百ページに及びます。たくさんあるエピソードの中からふたつ紹介します。

『Rodin嫌いのひと数人を呼んでBernard Shawが下絵をみせた「これがロダンの最近のデッサンです」……一同、罵詈を極めた。ショウいわく「あ、失敬しました。まちがってミケランジェロの下絵をお目にかけました……』

『米国ではナイフ、フォーク、スプーン等一切を使用せずに飲食させる宴会が流行る。珈琲に砂糖を入れて人差指でかき混ぜるにいたってはずいぶんひどい……』

つまり日本人もバカかもしれないが、歐米人も負けず劣らずバカであるという鷗外の諧謔精神が垣間見えます。ここからも引用しました。
                 ※
 大正六年、陸軍を辞した鷗外は新たに帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任ぜられます。晩年の著作として帝謚考、元号考があります。帝謚考は歴代天皇の謚(おくりな)の出典を考証したもの、元号考は大化改新以来明治にいたるまで二百四十有余の年号の出典を考証したものです。残念ながら七分ほど完成した元号考は、鷗外の死去のため未完となってしまいましたが、残りの三分は図書寮編集官吉田増蔵が病床に臥す鷗外の依頼を受け完成させました。
 鷗外の皇室に対する深い崇敬がうかがわれる明治四十五年日記より抜粋します。

〇明治四十五年一月一日(月)晴れ。拝賀に参内し、東宮御所にもゆく。長谷場文相、原内相、閑院宮、久邇(くに)の宮、石黒男爵などの家に刺(し)を通ず。乃木大将の家にて、午餐に稗(ひえ)の飯を供せらる。米一升にまず蒸したる稗を一合加ふとなり。

〇三日(水)晴れ。元始祭に賢所(かしこどころ)にまゐる。

〇五日(金)晴れ。新年宴会のため参内す。宴を開かるるに先だちて、岩佐純、卒倒す。急にその身辺にいたれば、岡玄卿まず在り。岡、人工呼吸を行ふ。予これを助く。岩佐はついに起たざりき。*岩佐純は陛下の大侍医を勤めたこともある宮中顧問官。ベルリン留学中に鷗外は親しく交際した。

〇二月十一日(日)晴れ。賢所に参拝し、宴を賜ふ。

〇三月八日(金)晴れ。午前軍医部長などを率いて参内し、拝謁す。

〇二十六日(火)北風微寒。陪食を命ぜらる。その食単にいわく……一鶏肉羹、一洋酒煮鮃、一煮物若鶏、一牛酪焼牛肉、一蒸焙鴨、一湯煮独活、一プーダン・ド・フランクフォル。陛下の右、伏見宮、左閑院宮、前渡辺宮省。予の右、松川敏胤(としたね)。左、嶋川文八郎。前、岡市之助。*独活とはウドのこと。プーダン~は焼きプディング。

〇四月二十二日(月)晴れ。白雲。華族会館に済生会評議員会を開き、伏見宮貞愛(さだなる)親王の令旨を賜ひ、晩餐を供せらる。

〇五月十八日(土)晴れ。経理学校卒業式に幸(みゆき)せさせ給ふ。参列して謁を賜ふ。

〇二十八日(火)陰晴不定。ときに数点の雨あり。士官学校卒業式に臨む。主上、行幸せさせ給ふ。

〇三十日(木)晴れ。主上、幼年学校に臨幸せさせ給ふ。

〇六月九日(日)雨。茉莉(まり)、杏奴(あんぬ)を伴ひて博物館にゆく。たまたま皇孫殿下、来観せさせ給ふ。

〇七月二十日(土)晴れ。ところどころ白雲あり。暑し。風あり。退衙後、聖上ご不豫(ふよ)のことを承る。*不豫とは天皇・上皇のご病気をいう。

〇二十一日(日)晴れ。暑し。朝、参内す。

〇二十二日(月)陰り。朝、椿山荘にゆく。宮内次官来談中なるゆえ辞して帰る。上原陸軍大臣、局長を集へて聖上ご不豫に関する訓示をなす。

〇二十三日(火)雨。上原大臣、主上のご病状を伝ふ。

〇二十四日(水)陰り。ときどき小雨ふる。上原大臣、陛下のご病状を伝ふ。

〇二十五日(木)半陰。灰色の雲。暑さ甚だしからず。大臣、陛下のご病状を伝ふ。

〇二十六日(金)半陰。灰色の雲。岡次官、大臣に代りて主上のご容態を伝ふ。

〇二十七日(土)半陰。白および灰色の雲。暑さ甚だし。主上、食塩注腸を受けさせ給ひしを聞く。

〇二十八日(日)晴れ。聖上、ご病症午後増悪せるにより参内し、午後十一時まで宮中に居る。

 堀の縁(へ)に 集へる見れば ふみよまぬ 人も君をば 思ふなりけり

 黒きもの 結びそへては 見なれつる 日の御旗とも おもほえぬかな

〇三十日(日)晴れ。薄き白雲。午前零時四十三分、天皇崩ぜさせ給ふ。朝、聖上皇后、皇太后のご機嫌を伺ふ。夜、雨点々下る。蒸し暑し。大正元年と称することとなる。

 長々と引用したのはほかでもありません。じつは作品のなかに(畏れおおいのですが)明治天皇陛下との対論の場を設けさせていただいたからです。当時、東南アジアは歐州列強の軍門に降っていました。インドを筆頭にマレーシア、シンガポール、インドネシア、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジア、香港と、おしなべて歐州列強、つまりイギリス、フランス、オランダ各国に牛耳られていたのです。シナ南部にまで触手を伸ばしていた列強は、とうぜん日本国も視野に入れていたことでしょう。そのなかでも帝政ロシアの脅威は喫緊課題でした。
 ご生涯をとおして、陛下は「国民の生命と財産、領土領海を守ること」を国是とされました。これが当時の政治家の覚悟であり、鷗外の覚悟でもありました。その篤いお志しを描きたく、作品のなかに一章を設けさせていただきました。


プレゼン版を作り、ついに世に出すことに決めました

 この作品はワード文書A-4(1440字詰め)で300ページに及びます。そこで物語の世界観をよりお気軽にご体感いただけるよう、180ページに凝縮したプレゼン版をご用意いたしました。レナーテと鷗外の交流はもちろん、明治初期の社会・文化の混乱に、当時の文化人がどのように対応していったのか、その一端をご紹介できる内容となっています。
 ご希望されるかたにはメール添付させていただきます。以下のアドレスに『プレゼン版希望』とご記入になり、送信してください。もちろん無料です。また個人情報の取扱いについても徹底させていただくことをお約束いたします。もし読後のご感想をいただければとてもうれしいです。また『最初の読者』として無事、出版まで見届けていただけましたら、これに優る幸せはありません。
  tappong66@gmail.com

実現したい未来

この作品を正式に出版し、読者の皆様とお会いする出版記念パーティーを開催したいのです。 支援していただいた皆様には、著者による手書きサインを入れた上下巻本をお送りします。 あなたの応援が、七十三歳の一人の執筆者の夢を形にする力になるのです。

皆様へのお願い

出版から記念パーティーまで、総額千二百万円が必要です。これは決して小さな金額ではありませんが、この作品が世に出ることの価値、そして皆様との出会いを思うとき、実現できると信じています。もしお心にかなうようでしたら、どうか応援の手を差し伸べていただきたいのです。明治という激動の時代を生き抜いた一人の偉大な知識人の足跡と、その心の奥底にあった人間的な葛藤を、一緒に感じていただけたら幸いです。

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