【信長超え!祝200%突破!】島津スーツは11/30 23:59まで!

信長スーツを超えてほしい!鹿児島の皆さんの熱い想いに背中を押され、島津スーツは226%(11月29日16時現在)までやってまいりました。

 

これにより、先日お約束致しました「支援者全員プレゼント決定」となりました。

 

本当に多くのご支援、拡散ありがとうございます。

本来であれば11月29日23:59に終了する予定でした本プロジェクトですが、期間中決済システムのトラブルがございましたため、11月30日23:59まで1日延長となりました。

 

ラスト1日!どうぞさいごまでご支援よろしくお願い申し上げます!

 

 

今回、鹿児島の武将である義弘公、大阪や東京の店舗には中々行けないというお声もあり、
11月28日とプロジェクト最終日の29日の2日間、鹿児島市内で現地採寸を行います。

本プロジェクトは既に達成をしており、制作が決定しておりますので、
九州、鹿児島よりご支援頂いた皆様におかれましては、是非この両日にて採寸させて頂ければと存じます。

※採寸会場は28日と29日と異なりますので、ご注意ください。

 


【採寸会場会場】


■11月28日(月) 17時~18時 20:30~21:00
ブレインズ スタジオ


〒892-0831
鹿児島県鹿児島市船津町1-11


http://brainsstudio.com/

 



■11月29日(火) 14時~17時(予定)
慈明山 祥徳寺


〒892-0871 鹿児島県鹿児島市吉野町8557


http://syoutokuji.s1.bindsite.jp/pg187.html

 



【島津義弘スーツのお申し込み・お問い合わせ】


TEL:06-6809-2543


FAX:06-6809-2544


株式会社NFL


もしくは faavo@nfl.co.jp までメールにて。

 

■28日の採寸会後にはクラウドファンディングセミナーも開催!

28日の採寸会場であるブレインズスタジオさんにて18:30~20:30

クラウドファンディングセミナーを開催します!

ぜひ、こちらもご参加くださいませ!

https://www.facebook.com/events/2304861056321260/

 

 

「島津義弘スーツ開発プロジェクト」は初期目標としておりました50万円を達成することができました!


本件にご支援を頂いた皆様、SNSを中心にプロジェクトをシェアいただいた皆様、いいね!を下さった皆様に改めて心より御礼申し上げます、本当にありがとうございます。

 

皆様のご支援、応援に応えられるよう、より良い商品づくりを目指すため、プロジェクト終了の11/29までの期間ストレッチゴールとして200%、100万円を設定いたしました。


200%達成のあかつきには、上記写真・芋焼酎「五代川内 大綱ミニボトル100ml」をご支援者全員にプレゼント致します。

 

さつま五代の限定ラベル。中秋の名月の頃、直径35センチ、長さ365メートル、重さ5トンの大綱を引き合う国内最大規模の綱引き。


2016年で417回目ということなので、関ヶ原の戦いの前年1599年から続いていることになります。

200%目指して残りもしっかりと活動しておりますので、どうぞご支援頂いた皆様も引き続きご支援・拡散のほど宜しくお願い申し上げます。

 

追加リターンはFAAVO鹿児島メンバーのお一人、「地酒とワイン たにもと屋」さんにご協力頂きました。

 

▲本プロジェクト「鬼島津・島津義弘スーツ」のサンプル


▲左 NFL代表「川辺友之」 右 起案者「酒匂雄二」北条氏康スーツ制作時、小田原城にて。

 


こんにちは。大阪の紳士礼服メーカー、株式会社NFLの酒匂雄二と申します。大阪でスーツ作りを行う弊社NFLは縫製業界を盛り上げたい!と2014年、武将スーツを企画。

  

第1弾として、真田幸村モデル「不惜身命 真田幸村スーツ」を製作、
全国に大阪の紳士服縫製文化と大阪のヒーロー「真田幸村」の製作費では
クラウドファンディングFAAVO大阪にて全国から約246万円のご支援を頂きました。

 

続く2015年3月、愛知県の毛織物産業を盛り上げるべく第2弾「天下布武 織田信長スーツ」を開発、
続いて2015年秋には、大河ドラマ誘致を推進する小田原箱根エリアより北条スーツのオファーを頂き起案。
第3弾「禄寿応穏 北条氏康スーツ」を開発し、いずれも多くのご支援によりプロジェクト達成してまいりました。

 

そして今回、FAAVO鹿児島のリニューアルに伴い、鹿児島でクラウドファンディングの勉強会を開催したご縁などから、武将スーツ第4弾は絶大な人気を誇る、島津家17代当主・島津義弘スーツを制作致し、2018年の大河ドラマでも盛り上がるであろう鹿児島を更に応援したいと考えております。

 

薩摩島津家は、現代も続く数々の大名家でも屈指の名家です。
鎌倉時代から約800年という長い日本の激変の時代の中でも絶えることなく、
時代の節目に名を残す名君が輩出されてきました。鎌倉時代に薩摩に渡り、土着から始まった島津家・薩摩勢が明治維新の中心に居たことは皆様もご存知の通り。


九州の南端、幕府の目が届きづらい地でありながら、逆にそれを最大限に活かし、海外の情報・最新技術を取り入れ、歴史の岐点に存在していたことから、


今なお「島津に暗君(あんくん)なし」という言葉で根強い人気を誇っているのでしょう。

  

それら数々の名君の中でもモチーフに選んだのは島津家の当主の中でも抜群の人気を誇る、島津家17代当主・島津義弘公。
寡兵で何度も大軍に挑み、絶望的な逆境も機転を利かし、関ヶ原の戦いの絶体絶命の状況も打開、
一族の結束で乗り切ってきました。

 


勇猛果敢な島津勢の戦いは伏兵戦術の「釣り野伏(つりのぶせ)」や関ヶ原の戦いにおける「敵中突破・捨て奸(すてがまり)」などでも知られ、この戦いぶりが多くのファンを惹きつけていると想います。

特に朝鮮出兵の戦いぶりは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として朝鮮・明軍から恐れられ、徳川家康も「前代未聞の大勝利」と奇跡の勝利を賞賛。
これらの活躍が「鬼島津」の異名を今に伝えます。

 

そんな猛々しいイメージの強い島津義弘ですが、愛妻家で家族想い・兄弟想いであることが伺える文献も多く、敵味方関係なく死者を弔うなど情が深かった一面も。
豊臣秀吉は島津家を恐れ、兄で16代当主の島津義久を冷遇、義弘を優遇し、兄弟の対立による弱体対化を謀ろうとしたが失敗したとも。
義弘の死後、殉死(後追い死)を禁止していたにも関わらず、13名の殉死者が居たことからも人望の厚さが伺えます。

 


さらに、武術だけでなく茶の湯や医術、学問にも秀でた才能を持つ文化人であり、文武両道を体現したような人物であったことが伺えます。

この人柄を投影するようなスーツに仕上げ、現代のビジネスマンにも、是非このスーツを着用頂き、奮起して頂ければと考えます。
競合他社や大手取引先にも屈せずに頑張るビジネスマン、そして家では良き父であり、趣味を嗜む事も忘れない。

 


がむしゃらに戦うだけではなく、義弘のような器の大きな人物に・・・そんな想いを込めました。

毎回こだわるボタンには、薩摩の高級伝統工芸品である薩摩ボタンを。そして胸に備え付けたチーフには大島紬を採用するなど、
今回もご当地素材をあしらっています。

 


この島津義弘スーツを制作するに辺り、2015年11月、2016年5月の二度鹿児島へ渡り、仙巌園、尚古集成館などを中心に義弘公の足跡をたどりました。

5月の鹿児島は雨。後述する吉兆の「島津雨」ということでしょうか。島津家に所縁の深い、仙巌園・尚古集成館を訪問して参りました。


島津家28代当主島津斉彬公から始まったとされる集成館事業の一環として、1923年5月22日に開館した「尚古集成館」を訪ねました。こちら、現在は島津興業によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などが展示されています。

 

今日、よく見かける丸に十の家紋は、江戸時代以降に使われたものだそうで、当時はこの十字紋だったそうです。仙巌園に飾られている島津義弘公の鎧にも丸十が描かれていますが、当時の文献からわかりうる範囲での復元とのこと、より伝わりやすくするためとご説明を頂きました。

仙巌園の記念スタンプにもこの家紋がありました。



今回、スーツにメインの織りネームはこの十字。
島津家の家紋には3種存在するそうですが、一番有名な十文字紋は初代・島津忠久が源頼朝から授かったものとされ、お馴染みの丸がない十字紋であったそうです。これは、2匹の龍をかたどったという言い伝えの他、1189年の奥州藤原氏攻略の際に源頼朝が箸で十字の形をつくってこれを家紋としたという言い伝えも。

 

島津家の初代忠久所用と伝えられる鎧や、蒙古襲来時の絵などに十字紋の旗が描かれていることから鎌倉時代には家紋として使用していたことが伺えます。
これが16~17世紀頃に丸十文字紋へと変化するが、その具体的な変化時期や理由は明らかになっていないそうです。【織りネーム監修・協力:戦国魂】

 

上記の織ネームを着けたサンプルを持って鹿児島・島津興業の方々にスーツを見て頂き、ご意見を賜る機会に恵まれました。 

 

その場で尚古集成館様より、スーツの刺繍に使用許可を頂いたのがこちらの薩摩十字。  
モチーフが島津義弘の時代であるなら当時の十字と少し形状が異なるというご助言を頂き、襟裏の刺繍は尚古集成館様から頂戴した十字を採用。さら時代が異なる「丸十」のデザインは極力使用しない様にし、袖ボタンのみにするなど、鹿児島から戻り、何度も改良を重ねました。

  

西軍の敗北が濃厚になる中、ただでさえ少数の島津軍は四方を敵に囲まれ絶体絶命の危機を迎えます。

 

その時に島津義弘が家臣に尋ねます。「敵はどの方面が最も勢いがあるのか?」と。

 

家臣は答えます「東側の敵が最も勢いがある」と。

 

そうすると、義弘は家臣に言い放ちます。

 

「では、その最も勢いのある軍勢に突撃せよ」と。そうして300あまりの軍勢が80,000の敵軍へ突撃すつ前代未聞の退却劇が始まります。これが今なお語り継がれる敵中突破「島津の退き口」です。

 

300の兵士のうち、薩摩に生還できたのは80名あまりとも言われています。

この壮絶な退却劇があってこそ、島津家・薩摩藩は激動の時代を生き抜いていくのです。

 

今回の島津義弘スーツでは、これらの故事を取り入れ、鹿児島県の伝統素材も使用して制作しました。 

  

■こだわり1:十字紋の織ネーム

織田信長、北条氏康に続き、今回も戦国プロデュース集団・戦国魂さんがグッズに使用されているロゴデータをご提供いただきました。黒地に白銀色の十字が映えます。 

■こだわり2:釣り野伏せっぱ(つりのぶせっぱ)

島津家が得意とした伏兵戦術として「釣り野伏せ(つりのぶせ)」というものがあります。

 

全軍を3つに分け、2部隊を左右で伏兵させて、敵を三方から包囲する戦法。
まずは中央の部隊が正面から敵と対峙、敗走を装いながら後退するのが「釣り」
そして敵が追撃を開始すると、左右の伏兵に敵を攻撃させる「野伏せ」で完成。

 

シンプルながら、敵に察知されないように動く部隊の連携、冷静な判断を強いられるなど高い訓練度を要する非常に難易度の高い戦法と言えるでしょう。
島津家は、これらの戦法を駆使し、耳川の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦いなどで勝利し、一時的とはいえ九州をほぼ統一することに成功しました。

  

本来は袖のボタンがあるところの穴かがりに見せた切羽(せっぱ)と呼び、
ボタンホールが開いていて開閉ができる袖を本切羽(本開き)といいます。

その切羽の裏袖にICカードを伏兵のように収納できるポケットを装備。

 

袖で改札機をタッチすることでスムーズに出入りできます。忙しいビジネスマン、迅速で練度の高い島津家の行軍にあやかる仕様。差し込み口には落下防止のスナップボタンが付いています。  

■こだわり3:丸十ボタン・小返しの五本鑓ボタン 

小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)とは、関ヶ原の戦いにおいて敵中突破退却戦の際、下馬して戦場に踏み止まり、島津義弘を救うために奮戦した家臣5人、川上忠兄、川上久智、川上忠智、川上久林、押川公近、久保之盛を顕彰した呼び名。

 

彼らの奮戦がなければ、後世まで語り継がれる壮絶な退却劇「島津の退き口」は成立しなかったかもしれず、その勇猛果敢な5人をイメージし、通常は4つが多いスーツの袖ボタンを5つ配しました。

左右の第一ボタンのみ、丸十のプリントを施しました。 

■こだわり4:大島紬の伏兵チーフ

大島紬(おおしまつむぎ)は手で紡いだ絹糸を泥染めし、手織りした平織りした布、あるいはその布で縫製した和服を指します。

鹿児島県奄美大島の特産品である大島紬が薩摩の記録に登場するのは1720年、薩摩藩の指示により、島役人以外の着用を禁じるというもので、薩摩藩の重要な財源となっていた事が伺えます。古くは734年に、奈良東大寺の献物帳に記録されている1300年以上の歴史がある日本が誇る織物です。

 

従来のスーツでは袋地が縫い付けてあり普通のポケットになっていて、フォーマルな場ではシルクのチーフを胸に挿します。島津スーツではこのポケット地に贅沢にも大島紬を使用、つまんで取り出し、ポケットチーフにすることができ、商談や重要な会議の場でも簡単にドレスアップが可能。こちらも島津家得意の伏兵戦術にならいました。

 

※大島紬は生産時により生地が変わる可能性がございます。


■こだわり5:鶴丸城モチーフのポケットフラップ(フタ)

関ヶ原の戦いの後、18代当主家久(忠恒)によって築城された鹿児島城の別名。鹿児島では一般的に別名の「鶴丸城」の名で親しまれ、案内図や看板なども「鶴丸城」の表記でほぼ統一されているほどです。この名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから付いたとされます。

 

鶴丸城にちなんで、ポケットフラップの裏地には鶴の織柄が入った純白の西陣織を使用。鹿児島の素材ではありませんが、西陣織の由来にもなった応仁の乱では島津家は事実上、東西に分かれて参戦、10代当主の立久が東軍、叔父の季久が西軍に属し、どちらが負けても家が存続するようにしていたためであると言われています。 

■こだわり6:火縄・留め紐

火縄銃の導火線をモチーフにした江戸紐のボタン留め紐。

 

鎌倉から続く名家としての誇りか、関ヶ原の戦いでも島津義弘は平安・鎌倉時代に多く着用された「大鎧(おおよろい)」で臨んだと伝えられています。そんな古式の鎧をまとっていたとされる一方、火縄銃をいち早く手に入れ、大将自ら銃を持って戦ったとされる島津勢(尚古集成館様より教示)、関ヶ原の退却戦でも殿(しんがり)を務めた部隊が火縄銃で応戦、島津家臣の柏木源藤(かしわぎげんとう)が徳川の重臣・井伊直政を狙撃、直政はこの傷が元で亡くなったと言われています。

 

 

※限定コースでは島津家・島津義弘公にちなんだ薩摩ボタンをあしらう特別仕様をご用意しています。

薩摩ボタンはご支援順に1つ1つ作家による手作りのため、お届け日は最長時期を記載しております。スーツお仕立て時は通常のボタンをお付けしますのので、島津スーツやお手持ちの衣類雑貨へは縫い付けはご自身でお願い致します。 

■こだわり7:襟裏十字刺繍

鹿児島訪問時、尚古集成館様よりご提供頂いた十字の家紋を襟裏に刺繍。これまでの武将スーツではオプションにしておりましたが、リクエストが多いことから、今回は標準でお付けすることにしました。 重要な会議、大きな商談、プレゼンが控える朝はこの襟を見つつ、ピシッと立てていざ出陣!

 

■こだわり8:座禅陣シートピース

 座禅陣(捨て奸)は、関ヶ原の退却戦で少数の兵が敵軍を足止めする戦法で、特にあぐらをかいた兵が銃で敵の指揮官を狙撃するものを指します。
座ることによって敵から見つかりにくくした、射撃の命中率向上を狙ったとされています(諸説あり)

敵中突破を模したV字の切れ込みはシートピース、またはVカットと呼ばれるデザインで、
ベルトループが腰帯に縫い付けられているものとは異なり、V字の切れ込みとループが独立してついています。
オーダーでは人気の仕様ですが、スリットがはいっていることにより、腰まわりが楽になり、
また、ベルトで独立ループが引き上がることにより、ヒップを持ち上げ、スタイルを良く見せる効果があります。

 

更に、右腰前にもこっそりポケットが。今ではコインポケットやチェンジポケットが主流の呼び名ですが、かつてはウォッチポケットと呼ばれ、その名の通り懐中時計を入れるポケットでした。

 

島津義弘公は朝鮮出兵時、時計代わりに猫7匹を朝鮮に連れて行き、猫の目の瞳孔の開きで時刻を推察したとされています。また、明治維新にも第29代当主島津忠義が西郷隆盛に懐中時計を贈ったことも知られています。

 

■こだわりスペシャル:さらに限定・特別仕様のスーツには薩摩ボタンを使用!ラペルピン・ボタン単体でもお返しをご用意しております。


室田 志保さん/薩摩焼絵付け師


1975年鹿児島県生まれ。95年に白薩摩焼窯元の絵付け部に入社。2004年に鹿児島県青年会議所の海外留学派遣事業留学生に選ばれ、『薩摩焼をインテリアに取り込む』のテーマでイタリア・フィレンツェに短期留学。05年に金沢国内留学、九谷焼人間国宝工房にて技術指導を受ける。同年、白薩摩焼窯元を退社し、鹿児島県大隅半島にアトリエを構える。07年に初個展。09年日本ボタン大賞展審査員特別賞優秀賞受賞。

 

今回の島津スーツは、鹿児島が世界に誇る高級伝統品である薩摩ボタンを採用。島津家・島津義弘公の故事をモチーフに、海外でも高い評価を受ける新進気鋭の薩摩ボタン作家・室田志保さんにオリジナルで製作頂きました。フランスやアメリカなど海外でも高い評価を受けるその芸術品を復活させた匠。

  

かつては薩摩藩が独自に参加したパリ万博でも高い評価を受け、その名を世界に轟かせました。

薩摩ボタンは、鹿児島の伝統工芸品「白薩摩」に薩摩焼の技法を駆使し、金をはじめとする豪華絢爛な配色を施し、ミリ単位で作品を描いていきます。

 

 

着物などの和服やオーダーメイドなどの洋服の装いに、さらに上質な気品をまとわせるためのジュエリーにも似た芸術品といえます。

▲鹿児島にある室田さん(写真中)のアトリエを訪ねました。

▲アトリエには繊細に描き上げられた、まばゆい薩摩ボタンが飾られていました。絵付けは作家さんが、ひとつひとつ手作業で行うため、お届けにはお時間を頂戴致します。

 

▲猫神様内ポケットボタン(左)・狐火/島津雨ラペルピン(右)装着例

■狐火と島津雨

狐(お稲荷さん)の周囲にカラフルな狐火が焚かれ、上部から「時雨軍旗」に描かれた雨が降るデザインです。

 

島津家の稲荷信仰は島津忠久誕生伝説が源流で、丹後局は住吉大社で雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を出産したと言われています。
また、16世紀の合戦にも狐の話が出てくる。天文23(1554)年の岩剣城の戦いの際には狐火が灯ったと言われ、
文禄・慶長の役では紅白3匹の狐が明軍に突撃したと伝えられている。このようなことから島津氏と狐は関係が深く、稲荷信仰が領国に根付いていた。

また、雨の降る日に初代島津忠久が誕生したことにちなんで、島津家では雨をめでたいことが起こる吉兆とし「島津雨」と呼んでいた。
戦国時代、義弘の父・島津貴久が使用したとされる「時雨軍旗」はその故事をもとに作成されたものとされています。

 

■猫神様-義弘公に時を知らせた猫

豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~1598年)の際、島津義弘は朝鮮に7匹の猫を連れていき、猫の目の瞳孔の開き具合で時刻を読み取ったとされ、7匹のうち、生還した2匹の猫を祀った神社が尚古集成館がある仙巌園に、日本で唯一猫を祀っているという「猫神神社」です。そのうち、一匹は三毛猫であったことが濃厚であるという研究からも、今回は一匹を三毛猫で描いていただきました。

 

室田さん曰く「猫の時計を懐中時計に見立て内ポケット用に猫を描きました」とのことで、猫時計を胸に忍ばせるコンセプトにとても感銘を受けましたので、内ポケットは猫神様に限らせて頂きます。

 

ボタンとラペルピンの裏の仕様はこちらのようになっています。裏には室田さんのアトリエ作である「Satsuma志史」も緻密に描かれています。  

薩摩ボタンは1つでも2つでも、ケースと薩摩志史さんによる保証カードが付属します。 

 

「チェスト!」

鹿児島県出身のプロ野球選手・川崎宗則選手がヒーローインタビューでよく叫んでいたり、格闘漫画などでもご存知の方も多いと思われます。元々は戦いの前に、気合を入れる「それゆけ!」に相当するのが「チェスト」だそうで、今では鹿児島のかけ声として浸透しているように想います。

 

この言葉に似た服・・・「チェスター(コート)」というひらめきで作ったのが、チェストォーコートです。ハッキリ言ってダジャレから生まれました。

 

チェスターコートは19世紀にチェスターフィールド伯爵が着たことに由来するという説が最も有力で、ジャケットに似た膝丈のコートです。今ではフォーマルやビジネスのコートとしても人気、女性のコートでもチェスターコートが増えました。

スーツ工場である自社工場に無理言って作ってもらったら思いの外かっこいいではありませんか。

 

スーツが減る中、様々なものづくりにチャレンジしていきたいという若手職人の魂が宿ったコートです!


■こだわり1:島津四兄弟ボタン 第二ボタンが次男・義弘公をイメージ

島津義弘は、15代当主・島津貴久の次男として生を受け、16代当主の兄・義久、弟・歳久・家久らとともに活躍、薩摩を守りぬきました。コートの袖ボタンは、この結束が固い4兄弟を表し、次男・義弘にあたる第二ボタンに丸十ボタンで切り替えた4兄弟ボタンにしました。

■こだわり2:釣り野伏せっぱ(つりのぶせっぱ)

スーツと同じく右袖の裏側(下袖)にICカード隠しポケットを装備。

■こだわり3・4:十字紋の織ネーム・襟裏刺繍

スーツと同じく、身返しに十字家紋の織ネームを、襟裏に十字家紋の刺繍を施しています。

■こだわり5:鶴丸城モチーフのポケットフラップ(フタ)

右脇のポケットは2段、上部にチェンジポケット(ウォッチポケット)をつけました。この右に2つ、左に1つのポケットのフラップに鶴丸城モチーフの鶴の西陣織を採用。

■こだわり6:火縄・留め紐

スーツと同じく、火縄銃の導火線をモチーフにした江戸紐のボタン留め紐。

 

1615年大坂夏の陣で大坂城落城の際、豊臣秀頼が真田幸村らに守られて薩摩に逃れ、薩摩の島津公のもとに身を寄せたと伝わる「秀頼薩摩落ち伝説」にちなみ、先の幸村シューズプロジェクトで好評を頂いたシューホーンセットを5口限定でご用意。

昨年はこの足取りをたどるツアーもクラウドファンディングで開催されました。

 

島津家の始祖・島津忠久公が住吉大社で生まれたと伝えられている誕生石(左)があり、鹿児島には伝・真田幸村の墓(右)、伝・豊臣秀頼の墓もあり、私達の工場がある大阪と鹿児島も縁があります。

当社が創業以来縫製を行ってきたのは、かつて大坂城の敷地だった谷町。その大坂城で最期の活躍をみせた幸村と遠く離れた薩摩の島津氏をつなぐ伝説をたどっての限定セットです。 

 

特記事項・ご注意 

※ご来店の場合、当店指定の生地帳からご自由に生地をお選びいただけます。

※お選びいただくスーツの生地(国内・海外ブランド生地)やその他オプションによって別途費用がかかる場合があります

※遠方の方は既製サイズでお仕立てして発送

※お選びいただく生地やオプションにより別途追加費用がかかる場合があります

※サイズ詳細は本文に記載

※当プロジェクト終了後またお仕立後のご返金はいたしません。

※ご支援後、お送りするチケットを再度換金もいたしません。

※本件のお問い合せは店舗ではなく

株式会社NFL、島津義弘スーツ担当にお願いいたします

株式会社NFL 島津義弘スーツ担当 TEL:06-6809-2543 

 

▲生地見本 店頭でお仕立て頂く際はパターンオーダーで、表地から各種オプションまで選択可能です。カノニコやゼニアなど海外の人気生地も取り揃えております。

▲NFLのブランド「Made in Tanimachi」 ブランドネームにはNFLの自社ブランド「NOVIA+NOIVO Made in Tanimachi」を使用。大阪のものづくりへの思いを込めています。株式会社NFLが運営する紳士服・礼服のお店「ノービアノービオ」で採寸の上、生地やオプションをお選びいただいて制作いたします。お好みのスーツ作りを是非お楽しみください。

 

集まった支援の用途とその内訳 

今回FAAVOでは第4弾の制作費用として、島津義弘スーツを制作する費用を募集いたします。

費用の内訳

■オリジナルボタン制作費  250,000円(薩摩ボタンなど含む)

■オリジナルネーム制作費  120,000円(襟裏刺繍型代など含む)

■オリジナル資材購入費   150,000円(大島紬・西陣織含む)

■サンプル制作費      100,000円

■FAAVO事務手数料など    75,000円

 

概算合計:約70万円のうち50万円をクラウドファンディングで募集します。

 

【スーツを採寸させていただくNFLの実店舗】

ノービアノービオ大阪梅田店 ノービアノービオ東京南青山店

ファンド終了後、スーツのお仕立券をお教えいただきました住所に発送いたします。

お仕立券を上記、大阪梅田店、東京南青山店の2店舗にご持参の上ご来店いただき、採寸の上お仕立ていたします。なおクラウドファンディング期間中に大阪梅田店、東京南青山店に直接ご来店いただいても、島津スーツはお買い求めいただけません。

 

お求めご希望の場合は、こちらFAAVO鹿児島のページでご支援の上お求めいただきますようお願い申し上げます。 

祥徳寺さん。仙巌園・尚古集成館の裏手にあるお寺で鹿児島でのクラウドファンディング勉強会にてご縁を頂きました。ファンド達成後、鹿児島での採寸会場として快くご協力を申し出てくださいました。

祥徳寺Facebook:https://facebook.com/syoutokuji/

祥徳寺ホームページ:http://syoutokuji.s1.bindsite.jp/index.html

 

メール:faavo@nfl.co.jp

 FAX:06-6809-2544

「島津スーツについて」とお書きい頂くとスムーズです。

 

※ご来店の場合、当店指定の生地帳からご自由に生地をお選び頂けます。

※お選びいただくスーツの生地(国内・海外ブランド生地)や、本切羽、本台場など、その他オプションによって別途費用がかかる場合があります。

※薩摩ボタン縫い付け時のボタンの破損・衣類、雑貨などの破損の責任は負いかねます。

 

起案者情報 

【団体名】株式会社NFL

【代表者】販売営業部マネージャー 酒匂雄二

【HP】http://novianovio.jp/

【facebook】https://www.facebook.com/faavo.osaka

【Blog】http://osaka.machiblog.jp/novianovita/

 

【知識提供】【襟裏刺繍用十文字データ提供】
尚古集成館(株式会社島津興業)
尚古集成館 副館長 松尾千歳様

http://www.shuseikan.jp/ 

【薩摩ボタン協力】
薩摩志史・室田志保様

http://satsuma.cc/

 

【織りネーム・十文字/島津義弘公花押データ提供】

【制作協力・監修】戦国魂様

http://www.sengokudama.com/

 

 

 

 ■公益社団法人 日本青年会議所 九州地区 鹿児島ブロック協議会さんから応援コメントです!

鹿児島では、「島津日新公いろは歌」で知られる、島津義弘公をファッションの世界に綿密に取り入れると言う、斬新で粋な試み、実現を楽しみにしております。このクラウドファンディングや、出来上がったスーツが、鹿児島の魅力に触れる方が増えるきっかけになり、また、私ども鹿児島の人間にとっても鹿児島にあらためて誇りを持つ機会になることを期待しております。ご成功お祈りいたします。

団体名:公益社団法人 日本青年会議所 九州地区 鹿児島ブロック協議会

会長:竹下圭一郎

■最後に起案者より

私の両親は鹿児島県出身、祖父以前もずっと鹿児島県におりました。鹿児島では珍しくはない酒匂という名前ですが、お酒に匂うと書くこの名前を子供の頃は好きではありませんでした。新学期、先生にもまず呼んでもらえませんし、同級生には「酒臭い」などとからかわれることもしばしば。

 

しかし、インターネットが普及して様々な文献をたどる中で、この名前のルーツに行き当たります。

酒匂氏は、桓武平氏の流れをもつ鎌倉景政などを輩出した鎌倉氏より分かれ、さらに梶原景時・景季などを輩出した梶原氏より分かれた一族。鎌倉時代、島津氏の薩摩下向に従って、本田氏・猿渡氏・鎌田氏などとともに薩摩に下向する。(出典:Wikipedia酒匂氏の項より)

 

この項目にときめき、さらなる文献を鹿児島県立図書館で見つけます。それが「諸家大概・别本諸家大概・職掌紀原・御家譜」島津諸氏の冒頭に「酒匂」の名があります。

 

【本文より抜粋】
島津氏家臣に、梶原景長の次男・刑部朝景を先祖とする酒匂氏がある。
朝景の子・左衛門尉景貞は初代・島津忠久の傅役(守役・教育係)を務めた後・家老となった。
初代忠久から5代貞久までの家老に酒匂久景・忠胤・貞資・得貴などの名前があります。

他、15代島津貴久の弟・忠将と共に廻城の攻防で討ち死にした酒匂源左衛門、
島津義弘にしたがって、日向国に移った酒匂紀伊守など酒匂姓の名が島津氏の歴史の端々に登場しています。

▲同じく鹿児島県立図書館に収蔵されている書物に酒匂家由緒書があり、島津家に仕えていた酒匂の面々の息吹を感じることができました。

 

島津興業が運営する「尚古集成館」の松尾副館長より、メールにて酒匂がかつて島津家の重臣だったことがわかる史料も送り頂きました。

 

平安時代、九州は平氏の勢力圏にあり、源平合戦時、九州の武士たちは平氏方に味方しました。平氏滅亡後、そうした在地の武士たちは領地を召し上げられたり、削減されたりしています。
そして、その土地が源頼朝の家臣として活躍した東海・関東地方の武士たちに与えられました。

酒匂家もそうした家の一つで相模国(現神奈川県)から南九州に移り住んだ一族です。

 

南九州で島津氏の重臣となりましたが、南北朝時代に島津氏が薩摩方と大隅方に別れて戦いました。
酒匂氏は薩摩方に味方しましたが、大隅方が勝利を収め、薩摩方は肥前(現佐賀・長崎)に落ちのびていきました。それに伴い、酒匂家も重臣の身分を失いました。
このため、江戸時代などの重臣には酒匂家は出てきません。しかし、多くの酒匂家が島津家の家臣となっていました。個々の家については残念ながら史料がありません。

 

とのことですが、父以前に鹿児島から出た者は居ないことから、長い時を遡り、どこかでこれらの酒匂家の人々に繋がるのではないかと考えています。

 

これらの文献から、島津家同様、鎌倉から続くこの名を継いでいることを誇りに感じますし、自分が今いるのも、長らく鹿児島で命を繋いでくれた先祖、あるいはその薩摩を治めた島津家に感謝の気持ちもあり、こうして島津スーツを制作できることをとても嬉しく想います。両親の郷へ少しでも恩返しができればと考えております。どうぞ、ご支援お願い申し上げます。

▲株式会社NFL代表取締役・谷町紳士服3代目当主・川辺友之

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    本日、製作待ちの薩摩ボタンを除くリターンを発送させていただきました。 スーツチケット、コートのオーダー伺い生地サンプル、靴べら、ストレッチプレゼントの焼酎となります。 コートのお仕立ての方はお送りした生地サンプルの中から生地とサイズをお選び頂き、メールにてご返信くださいませ。   スー...

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    皆様、島津スーツにご支援頂き誠にありがとうございます。 鹿児島のたにもと屋さんより、ストレッチゴールのリターン さつま五代・川内大綱ボトルが到着しました!   店頭採寸用見本も完成し、リターン発送業務が本格化します! お届けまでどうぞもうしばらくお待ち下さいませ。     武将...