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はじめまして、スタジオnです。

私たちは山田奈々子の元門下生の集まりです。

2022年11月22日に帰幽したモダンダンスの巨匠、
山田奈々子を偲ぶメモリアルダンス公演を実現するべく、
この度、私たちは「スタジオn」を結成しました。

私は5歳から奈々子先生のところでお世話になっていた石丸麻子と申します。

奈々子先生の最後を看取った門下生の中では最古参ということで
若輩者でありますが、代表して本プロジェクトを作成いたしました。

「帰幽(きゆう)」とは神道用語で、
 人は神々と祖先の恵によって現世(うつしよ)に生まれ生活をして、
死しての後の御霊(みたま)は、幽世(かくりよ)に帰り、
やがて祖先の御許(みもと)に帰りつくとされています。

奈々子先生は神道でいらっしゃったので、あえて帰幽という言葉を使います。

まずは私たちの師、「山田奈々子」について紹介させてください。


1968年第一回リサイタル「不安な時代」ポスター(デザイン:ワダエミ)

「山田奈々子」は日本におけるモダンダンスの草分けの一人です。
「女」を生涯のダンステーマとし、深い精神世界、哀しみとユーモアで観客を魅了した、舞踊家です。

山田奈々子1988年に踊った「花魁」という作品の中から、1シーンを抜粋し1991年に再上演した際の動画をYoutubeにアップいたしました。まずはご覧ください。(古い映像のため、音声や映像に一部乱れがございます。ご了承ください。)



山田奈々子は能楽師でもあった山田五郎の長女として生を受けました。
山田五郎、モダンダンスの高田せい子、能楽師の桜間金太郎が舞踊の師です。
わかりやすい経歴としては、1961年の東宝映画「モスラ」インファント島ダンスシーンのセンターで踊っているのが山田奈々子です。

小さい頃からモダンダンスと能の英才教育を受けていた山田奈々子は、幼少期の舞踊の思い出は苦しいばかりで、あんまり良い思い出がなかったと仰っていました。おそらく芸能一家ならではのサラブレッドなりの気苦労があったのだと思います。

20代で高松宮賞・文部大臣賞を受賞しても満足せず、まだ目指す方向性は他にあると足掻いて、ある程度自分の世界観や方向性が定まったのは30代後半から40代になってからだそうです。

1968年第一回リサイタル「不安な時代」の時から、山田奈々子の舞台美術と衣装は、その後アカデミー賞エミー賞を受賞されるワダエミさんが長らく担当することになるのですが、このきっかけは本人いわく、ある前衛的な舞台を観ていた小劇場の楽屋で山田奈々子から声をかけたことだそうで、すぐに意気投合したそうです。

そして、ワダエミさんの紹介で、詩人の吉原幸子さんと出会います。
吉原幸子さんは東大仏文科卒後、「劇団四季」で主役を演じたがすぐに退団。のちに詩人として室生犀星詩人賞高見順賞などを受賞という、こちらも、ものすごい経歴の方です。

この3人で「山田奈々子・ダンスグループ」として活動していくこととなります。
朗読・生演奏・ダンスの実験的な公演をたくさん行い、この分野で大成功を納められます。
まだ、コンテンポラリーダンスという言葉がない、アングラアバンギャルドと言われていた時代のことです。

3人で夜通しお酒を飲みながら、舞台演出のアイデアについてたくさんお喋りしたと、楽しそうに思い出話を聞かせてくれました。 

1970年「原色人類図鑑」ポスター(デザイン:ワダエミ)
吉原幸子さんは2002年に、ワダエミさんは2021年に、山田奈々子よりも先に旅立たれました。

ワダエミさんがお亡くなりになる数か月前、山田奈々子の携帯にワダエミさんからお電話がありました。
今思えば、何か予感があったのかもしれません。

最後の長電話を横でずっと聞いていましたが、お二人とも次の創作の話しかしていませんでした。
ワダエミさんは新しい映画の衣装デザインの準備をされていて、中国にいく予定だったそうです。

今頃は雲の上で、次の舞台の準備を3人仲良く、忙しくしているかもしれません。

このお写真は吉原幸子さんの高見順賞受賞(1974年)の際のお三方です。(お写真は吉原幸子さんの息子さん、吉原純さんご提供) 

左から、ワダエミさん、吉原幸子さん、山田奈々子

山田奈々子は群舞や、他者への振り付けにおいても、特筆するものがあります。
技術のみではなく踊り手の身体性を作品のテーマに活かしきる、
一般的なモダンダンスといって想像されるものとはやや異なる――独特のものでした。
山田奈々子のもとには様々なバックグラウンド、身体性を持ったユニークな踊り手、生徒が集まりました。

身体的なハンデや経験の差など、ものともしない演出で、そこにいる必然性と一体感が生まれ、個々はバラバラでも1つの作品に昇華させてしまうのです。

山田奈々子は2004年に吉原幸子さん追悼のために「蝋燭」という舞踊作品を作りました。「第22回江口隆哉賞」を受賞するきっかけにもなった作品です。第一回リサイタルのために吉原幸子さんが山田奈々子へ書き下ろした詩をベースにした作品で、これのリメイク版を2022年12月に江口隆哉 河上鈴子メモリアル・フェスタvol.IIへ出品する予定がありました。

最後の最後まで、妥協なくアレンジされていました。
前半の詩の部分ですが、なんと踊りを全部カットして、ただただ「歩く」ように指示されたのです。
吉原幸子さん朗読音源の中、ただただ歩くという大胆な変更に、出演メンバは唖然としながらも改めて奈々子先生の演出に感心するばかりでした。

山田奈々子は亡くなる2日前まで、介護施設から私たちへ演出し続けておりました。 まるで山田奈々子自身が亡くなるタイミングが分かっていたかのような内容なので、詩の全文をここに記載します。

「蝋燭」より、ひたすら歩く出演メンバー 写真:スタッフ・テス
もともと、山田奈々子は亡くなる1年と少し前から「骨髄異形成症候群」と診断され、2週間に1回の輸血を余儀なくされておりました。たびたび容態が悪化して入院したことなどもありましたが、その度にものすごい生命力で回復し、いつも我々を驚かせてくれました。

が、8月のスタジオ舞踊発表会が終わったあたりから、気の緩みからか体調をみるみる崩され、9月中旬に介護施設への入所が決まりました。

介護施設に入られてからは、安定した投薬と24時間の介護体制で体調を戻されて、病院へ通院する日は生徒が同行して、帰りに美味しいうどん屋さんに行ったり、コンビニでスイーツをお土産に買ったりと、それなりに順調に過ごされていたのですが、11月の半ばに入り、病院に緊急搬送されました。

検査の結果、腎臓の数値が悪化しており、腎臓透析をしないと1週間ともたない、だが、腎臓透析に体が耐えられないかもしれない、とのことでした。

入院病棟へお見送りするときに、奈々子先生と「絶対にまた会おう!約束だよ!」と言葉を交わしました。
奈々子先生の意味のある肉声を聞けたのは、この日が最後でした。 病院はコロナ禍のため、完全面会謝絶でした。
面会はできないものの病院に連日押しかけ、お医者様に腎臓透析はできないんですか!と直談判を試みました。

お医者様は、残念ながら奈々子先生の容態から、腎臓透析は困難と判断されました。
意識は朦朧としていても、手先のみで踊っている奈々子先生の様子などを教えてくださり、生徒一同は涙涙。

それでは面会できない寂しい病院ではなく、生徒や旧友と会える介護施設に戻してほしい、とお医者様へお伝えしたところ、快諾いただき翌朝退院することとなりました。

翌朝、介護施設へ帰ってくると、会わせたい人がいれば会わせてあげて、とのことで、思いつく限りの方にご連絡を取りました。(そのとき焦って連絡先がすぐに分からず、連絡が取れなかった皆様、本当に申し訳ございません。)

午後になると、訪問医療のお医者様の診察がありました。
最後に向けて、点滴からの水分量を減らしてモルヒネで痛みをとり、昏睡状態にしてあげたほうが本人的は楽になる、といった内容を聞かされたのですが、まだ、次の公演に向けて山田奈々子本人は我々に伝えたいことがあるはずで、今もこちらから話しかけると一生懸命返事をしようと口を動かしていることを訴えました。首からの点滴で栄養剤と水分を入れる処置と、ぎりぎりまでモルヒネは使わない事をお許しいただけました。

次の日、日中には舞台を共にした男性舞踊手や元生徒が駆けつけてくれました。奈々子先生の眼からがこぼれていました。

流れを変えておしゃべり女子を呼ばないと、と思い立ち、山田奈々子の旧友で詩人の条田瑞穂さんに連絡したところ、すぐにタクシーで駆けつけてくれました。吉原幸子さんやワダエミさんや昔の仲間との思い出話をノンストップで話しかけ続けてくれました。

この時、言葉には出せないものの、入院前よりも意識はむしろハッキリされてきて、唸り声のニュアンスでYES/NOやご機嫌がいいことが分かるようになり、会話に相槌もしてくれるようになりました。この日の深夜、元生徒の折原美樹さんとニューヨークとテレビ電話をつないだりして、オフブロードウェイで過去作の再演をしよう!と盛り上がったり、急遽、深夜なのに12月公演のリハを介護施設の部屋の中で行いました。この時、おそらく目はもう見えていなかったと思います。でも、奈々子先生は目を開けて、言葉を話そうとされておりました。

その次の日、レッスンのために朝からスタジオと介護施設のお部屋をリモートでつないで、「奈々子先生、今から踊るよー!観ててね!」と子供たちが元気に画面越しに伝えると、奈々子先生もうれしそうにお返事してくれました。その後、蝋燭のリハーサルを開始しようとしたら、なんとワダエミさんの息子さんの和田翼さんが急遽駆けつけてくださり、室内は大盛り上がり。
ワダエミさんの大きなパネルのお写真を持ってきてくれました。

山田奈々子はリハーサル内容にダメ出しをしました。
ふらふらせず、人生を歩くように、どうどうと歩け、との事。

介護施設からは、面会人数が多すぎるので…と、やんわり怒られました。

――この日が、結果的に山田奈々子、最後のレッスンとなりました。

正直、山田奈々子が亡くなる2日前まで演出されていた、というのは、私達生徒の願望かもしれません。
実際のところは、ときおり、唸り声を出してくれるだけでしたので。
でも、不思議なことに何を私たちに伝えたいのか、なぜかダメ出しの内容がはっきりと理解できました。

その次の日、「退院したらステーキ食べたいねー」と話しかけると、「そーだねぇ~」というニュアンスの相槌(唸り声)。
山田奈々子は肉食系女子でお酒は赤ワインがお決まりでしたが、ご病気になってからは味覚が変わって、エンシュアという缶のあまーい栄養剤だったり、あまーいカフェオレばかり飲む生活でしたが、本来の好物の話題で、ちゃんとお返事してくれたのが嬉しかったのを覚えています。

純さん(吉原幸子さんの息子さん )に、吉原幸子さんとの思い出の写真や動画を送ってもらいました。
奈々子先生は、幸子さんの声を聴くと、わずかですが、頭や手を動かされました。踊っていました。

夕方、幼児部から来てくれていた元生徒が、小さな花束を持って来てくれました。
長い時間、3人でおしゃべりしていました。

深夜、日付が変わったころから呼吸の音が変わり始めました。息が止まったり、息が戻ったり。
何度もナースコールを押しました。
まって、まだいかないで、と叫んでいました。
明け方、看護師さんにお医者様を呼ぶ、と言われました。
お医者様がきて、呼吸を確認して、瞳孔を確認して、それから、
死亡診断書を記入されました。

山田奈々子は2022年11月22日午前7時38分永眠いたしました。 89歳。
12月16日が誕生日でしたので、もう少しで90歳でした。


山田奈々子は生前、何かあればどこに連絡したらいいか等は元気なうちに準備してくれていたので、生徒一同で喪主となり、無事にお見送りすることができました。

不思議なことがありました。
よくある話ですが、通夜祭のときから1匹のハエが私たちの中に紛れ込んで、ずっとそばにいました。
私たちは「ナナコ先生」と呼んで、葬儀祭の後も数日間は一緒に過ごしました。

直来(なおらい、仏式でいうところのお清め)の場で、「偲ぶ会」はいつやるか?という話題になりました。
山田奈々子は生前、「偲ぶ会は盛大にやって頂戴」と言っておりましたので、どうせやるならダンス公演にしよう!場所は山田奈々子が生前、最も愛していた会場の俳優座劇場で!一周忌の11月を目標に!という、現実的ではないかもしれない企画に「ナナコ先生」も頷いているように見えたので、この企画がスタートしました。

なんと、照明の斎藤香さん、制作の村山香澄さんのおかげで、俳優座劇場の予約が奇跡的に取れてしまったのです!
そこからはとんとん拍子で、 スタッフのスケジュールを抑えることができ、元門下生で世界で活躍しているダンサー折原美樹さん川村美紀子さんにご出演いただける事となりました。ひょんな事からご縁の出来た妻木律子さんにも出演いただけることになりました。



――ここまで読んでいただいた方は、生徒以外のご遺族の方はどうしてるの?と、思われると思います。


山田奈々子には、配偶者も子もおりませんでしたので、実質、生徒たちが家族のようなものです。
ですが、私たち生徒は、法的には親族ではありませんので、このあたりから雲行きが怪しくなってきます。
ご病気が深刻になってきた段階でキーパーソンと伺っていた方に都度ケアマネジャーよりコンタクトを取っておりましたが、その後、相続関係のキーパーソンとなるご遺族は別にいらっしゃる事がわかりました。
葬儀祭等は相続関係のキーパーソンとなるご遺族の方はご都合により欠席されたため、直接お会いすることはかないませんでした。

(ここから、お察しのとおりかと思いますが )

12月の公演が無事に終わった後のことです。

山田奈々子の五十日祭まででスタジオへの出入りを停止するようにと不動産管理の方経由でお伺いはしておりましたが、必要な事務引継ぎは残っておりましたので、何等かの連絡が来るもので、ご自宅兼スタジオの立ち入りも弁護士の方と一緒等であれば許されるものと甘い考えを抱いてしまっておりましたが、現実は違いました。
五十日祭に弁護士さん等の代理人が現れる事もなく、必要な準備をすることもできないまま、私物も置いたまま、その次の日、知らないうちにスタジオの鍵が交換され、私達は慣れ親しんでいたスタジオに入れなくなっていました。 

その後数か月、私たちは連絡が来るのを待っていましたが、来ることはありませんでした。
これが世にいう相続問題かと痛感しました。

それでも、メモリアル公演を取りやめる、という選択肢は私たちにはありませんでした。

キーパーソンとなるご遺族の方へ連絡の取れる方経由でお手紙をお送りして、
一縷の望みをかけて「山田奈々子作品の上演許可をください」とお願いしてみました。
ありがたいことに、返信のお手紙が届き、上演の許可をいただくことができました。
(まだ法的な手続きが完了されていないことから資金援助等は困難。本公演についても、遺族はかかわっていない事を明示してほしいとのご要望でしたので、あわせて記載させていただきます。)

もしもこのページをご覧になっておられましたら、この場で改めてお礼申し上げます。
本当にありがとうございます!



あとはやるだけです。
まっさらの0スタートです。

思えば、山田奈々子も若いころ、高田せい子先生との連名の研究所を山田奈々子という看板に換えた時に、いろんなことがあったと言っておりました。スタジオを建て直したとき、ものすごい金額の借金をしたと言っておりました。

客席を満席にするにはどうしたらいいか?費用はどう工面するのか?
山田奈々子からの本当の最後の最後のレッスンです。 

まずは、スタジオにある顧客名簿を取りに行けない、というハンデを乗り越えなくてはいけません。
赤字は覚悟していますが、まずはできる事を見つけて、できる限り悪あがきをします。

というわけで、
単に公演資金を集める事だけが目的ではなく、 

・なるべく多くの方に山田奈々子作品や私たち元門下生の作品に興味を持ってもらう。
・山田奈々子の古い友人に、この公演の情報が届くように、なるべくたくさんの手段で情報を拡散する。
・昔のように、みんなで踊れるスタジオを作るための足掛かりにする。


上記3項を目的として、本プロジェクトを作成しました。


山田奈々子メモリアル公演

11月1日(18時半開場19時開演)
11月2日(13時半開場14時開演) 

会場:俳優座劇場
チケット:前売5500円 当日6000円
2022年帰幽したモダンダンスの巨匠、「山田奈々子」を偲ぶメモリアル公演に、豪華ダンサーが集結!

幼少の頃、劇団若草にて正田千鶴、退団後、山田奈々子に師事。

87年グラハム舞踊団正式入団、2015年まで在籍。2010年、ニューヨークダンス/パフォーマンスアワードのベッシィー賞を受賞。

自身のソロ公演シリーズ、Dancing for JAPAN, NuVu Festivalのディレクター、国連にて作品を発表、グラハムテクニックダンスディレクター、National Arts Clubにてレクチャー、piergroupdance にてスティーブン・ピアとのワークショップとパフォーマンス、ブロードウエイ「王様と私」出演。

日本では作曲家野澤美香氏とのユニットLotuslotusにて活動、日本向けオンライングラハムクラスも開催中。現在ニューヨーク在住、カンパニーのコーチ、レジサーとして振り付けと作品指導、グラハムスクール、ハートスクールで指導。ベルリンに拠点を置くDance On Project所属。


be offデイレクター 
正田千鶴モダンダンスフラグメントメンバー

東京と宇都宮を拠点にダンス活動を展開する。
アメリカ、カナダ、韓国、ドイツ、ラトビアなどの海外公演を行う。

1996年より宇都宮に移転、2004年大谷石蔵を利用したユニークなスタジオbe offを設立。現在、be offの運営プロデュースを主軸に、保育園・小学校・美術館等でワークショップを行い「からだを養う場作り」を有機的に展開。

栃木県文化協会奨励賞受賞、(一社)現代舞踊協会奨励賞/ベストダンサー賞受賞文化庁派遣在外研修員としてマース・カニンガムスタジオにてダンサー研修(1990年~1991年)、ロンドン The place にてコミュニティダンスのオーガナイザー研修(2004年)を行う。


東京都生まれ。2011年より、本格的なダンス活動を開始する。以後、コンテンポラリーダンスの分野で注目に値する活動を繰り広げてきた。

2014年に出演・振付した『インナーマミー』でトヨタ コレオグラフィーアワード「次代を担う振付家賞」と「オーディエンス賞」を受賞。2015年、同作で横浜ダンスコレクションEX2015「審査員賞」と「若手振付家のための在日フランス大使館賞」受賞。2016年に渡仏。フランス国立ダンスセンターのCCN/Rを拠点に半年間のアーティスト・イン・レジデンスを体験。パリやリヨン、グルノーブル、マルセイユ、カーン、ル・アーブルで過ごす。

近年の出演作として、映画『N・P』(監督:Lisa Spilliaert / 原作:吉本ばなな)、音楽劇『バッコスの信女 ー ホルスタインの雌』(作・演出:市原佐都子)、土方巽『疱瘡譚』の完全コピー役としてTokyo Tokyo FESTIVALスペシャル13 「TOKYO REAL NDERGROUND|三」がある。


その他出演者:
(山田奈々子 元門下生)根尾櫻子 清水依子 イトカズナナエ 安藤眞奈子 菊地絹子 渡部里菜 須藤安純 中川亜希 石丸麻子 

スタッフ:
(照明)斎藤香(音響)吉塚永一(舞台監督)専修定雄(衣装)山田靖子(アナウンス)池田正子(制作)村山香澄 

協力:俳優座劇場


現在、一部の作品のリハーサルを開始しました!演目は公演当日のお楽しみに!




ファーストゴールを50万円、セカンドゴールを100万円に設定します。

公演でかかる費用は、
会場費、付帯費用、照明、音響、舞台監督、衣装、アナウンス、当日受付・誘導人員の確保、リハーサル会場手配etcで350万円ほどかかります。

対して、見込める収入は
俳優座劇場は客席が300なので、チケットでの収入は250万円程度が限界と思われます。

足りない100万円を目標に、本プロジェクトへご賛同いただいた皆様のご支援を賜りたいと考えております。

今回、リターン品に早割チケットを用意しているため、それでもおそらく数十万の赤が出る見込みです。
足りない金額については出演メンバで少しずつ負担し、それでも足りない部分は金融機関から借入する予定です。


本プロジェクトで集まった支援金は、以下のように使わせていただきます。

・CAMPFIRE手数料17%
・残りの金額は公演費用の一部として、大切に使わせていただきます。
・(想定よりも資金が集まった場合)本公演のオンライン配信やアーカイブ配信もできるように、調整します!

皆様のご支援を、何卒よろしくお願い申し上げます。




リターン①3,000円(税込)
公演を見にいけるかどうかまだわからないけど、応援したい!見に行く予定もあるが、それ以外でも応援したい!


公演当日にご来場者様へお渡しするパンフレットと上演最後に流すエンドロール動画にクラウドファンディングでご支援をいただいた方として、お名前を記載いたします。(ニックネーム等でもOK)
【備考欄】へ記載する際のお名前をお知らせください。
上乗せご支援も大歓迎です!!!
また、出来上がったプログラムを公演終了後の12月以降、記念としてお送りいたします。
(もしも2部以上必要な場合はリターン数を調整してください)

リターン②5,000円(税込)
ぜひ公演を見に行きたい!チケットがお得にほしい!

各公演、100名様限定で500円引きの5000円でチケットを販売いたします!
複数枚必要な場合はリターン数量を調整してください。
チケット発送は9月以降となります。
【備考欄】の入力が必須となります。出演者からのご紹介でお申込みされた場合、備考欄に紹介を受けた出演者名をご記載ください。無しの場合「なし」と記載をお願いいたします。 

リターン③5,000円(税込)
奈々子先生へのメッセージをパンフレットに寄稿したい! 



公演当日にご来場者様へお渡しするパンフレットにショートメッセージ50文字までの寄稿枠をご用意します。また、上演最後に流すエンドロール動画にクラウドファンディングでご支援をいただいた方として、お名前を記載いたします。【備考欄】にメッセージ文言と記載する際のお名前(匿名やイニシャルだけでもOK)を別途お送りください。文字数を増やしたい場合はリターン数量を調整してください。出来上がったプログラムを公演終了後の12月以降、記念としてお送りいたします。 



リターン④30,000円(税込)
プログラムに広告を出して応援したい! 

プログラムに1/2ページの広告枠をご用意いたします。データを別途9月末までにメールにてお送りください。1ページで大きく広告を出したい場合は、リターン数量を2とご入力ください。 







以下のスケジュールで進めてまいります。

6月~8月 本プロジェクトで支援者様を募集
9月 リターン品の早割チケット発送
(9月中旬より通常チケット販売開始)
11月1日2日 本番
12月 リターン品のプログラム発送



いただいた応援メッセージをこちらに随時記載していきます。

2023/5/18 芸能史評論家 小針侑起様
『遠くに輝く星になられてしまった、大好きな奈々子先生。しかし私はまだ信じていません。だって、生徒さんたちの踊りの中に、先生は生きていらっしゃるのですから。メモリアル公演、心より応援申し上げます。芸能史評論家 小針侑起』

2023/5/26 舞踊批評家 吉田悠樹彦様
『モスラ・ガールの一人になったり、現代詩の吉原幸子さんとも交流した審美の舞姫・山田奈々子は戦後日本の文化史の中でも大事な一頁です。弟・山田真二と戦後を歩み、その原点は帝国劇場~浅草オペラまでさかのぼる高田せい子や父・山田五郎にも遡ります。偉大な舞踊家を追悼し未来へ語り継ぐ大事な企画です。是非とも応援し集い、その存在を語り合いましょう。舞踊批評家 吉田悠樹彦』



山田奈々子メモリアル公演は、必ず素晴らしいものをお届けいたします。

そのチケットを、先行料金で早期にご予約するのと同等の形で、あるいは公演のスポンサーとして応援してくださる形で、一緒に公演を作ってください。

山田奈々子の珠玉の作品、そして素晴らしいゲストダンサーたちによる、氏に捧げる新作を連ね、洋舞の歴史を駆け抜けるような舞台を目指しています。

この舞台を是非、見て、関わって、応援してください。


期待に必ずお応えいたします!


スタジオn 石丸麻子



「もしも わたしが死なないのなら
 日々は 耐えられない浪費であろう

 もしも あなたが死なないのなら
 あなたは そんなには光りはしないだろう!」

 吉原幸子「誕生日」より



<募集方式について>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

  • 2023/11/04 16:47

    おかげ様で無事に終演いたしました。ここまで支えてくださった、たくさんのみなさま本当にありがとうございました。これからも、スタジオnは山田奈々子からもらった舞踊の心を胸に邁進してまいります。今後ともよろしくお願いいたします。スタジオn 石丸麻子

このプロジェクトの問題報告はこちらよりお問い合わせください