次の日曜日、今日の晩御飯は私が作る!と宣言したら、家族一同、この世の終わりみたいな顔で私を見た。
「お前、熱でもあるのか?」とお父さんは本気で心配そうにしていたが、お母さんにはなんとなく伝わったみたいだ。
これでも料理はできるのだ。家庭科で習ったハンバーグだけだけど。
でも、今回は焦げた。
それでも家族はうまいうまいと食べてくれた。
最後に別れた日の夜、彼からLINEが来て、タイミングが合えば、バスで一緒に帰りましょう、と書いてあった。
それから、一日おきくらいで彼と待ち合わせ、バスの中で三十分くらい、今日はいい色が作れたとか、今日は失敗して全部パーになったとか、私の方も、何小節かのボウイングが上手くいかなくていつもガリッとさせてしまうとか、松本先輩にまた怒られたとか、噛み合ってるようなないような、そんな会話。
家に帰って、寝床に入る頃を狙ったようにLINEが来る。毎日じゃないけれど、今日もありがとう、とか、次はどこそこで待ち合わせましょうか、とか、そんな形式的な、短いやり取り。
……付き合ってるのかな?これ。
デートはまだやったことがない。誘いもない。
私が部活忙しいから、遠慮しているのかも知れない。
でも、告白はされてない。
どちらも「好き」とは言ってない。
彼はどういうつもりなのかな?
それ以前に、私は好きなのか?彼のことが。
「女の好き嫌いなんて、随分いい加減なものだと思う。」
そういう文章をどこかで読んだことがある。作者誰だっけ?
私が彼のことを好きかどうかというと、上手く説明できない。
小学生の時、お母さんに見送られて学校に行ったはいいが、そこからお母さんのことがずっと気になって、私がこうやって学校にいる間、お母さんは元気でいるのだろうか?ひょっとして急病で倒れてはいないだろうか?どこかで自動車事故に巻き込まれてはいないだろうか?そう気になって気になって、授業も上の空の気分に襲われたことが何度かある。
ああいうのが、ああこれって、好きなんだ、私はお母さんのことが好きなんだ、と思える瞬間だったのだと思う。
あるいは、中学一年の時、初めて家族でベートーヴェンの「第九」を聴きに行った時のこと。もう興奮して、カルチャーショックで、目の前で起きている、ステージに溢れんばかりの大勢のオーケストラやコーラスが人類の賛歌を奏でているということが、たまらなくキラキラ尊いように思えて、家に帰って就寝しても全然眠れず、身体は火照ったままで、あの響きが何度も何度も頭の中をリフレインして離れなかったような、あんな、憑りつかれたような感覚。
好きっていうのは、脳内に潜り込んだイメージが大暴れして意識を食らい尽くし、やがてもぞもぞと心臓や手足まで侵食していき、しまいに全身を乗っ取ってしまう、そんな寄生虫みたいな、いや寄生虫とか言うとちょっと気持ち悪いけれど、でもそういう、恐ろしく狂おしいものだと、ずっと思ってきた。
でも彼は、寄生虫のように身体を支配したりはしない。
もちろん彼のことを考えることはあっても、彼の不在に気が気じゃなくなったり、何度も脳内でリフレインしたりすることもない。
ただ、心の深奥の部分が、ちょっとあったかくなる。
自然と笑顔になる。
彼が語った話のひとつひとつが、専門的すぎて良く解らない内容でも、理想的な長さの残響で、体内にこだまする。
そう考えると、やっぱり私は彼のことが好きではないのかも知れない。いい、お友達。
幼稚園の時にふざけ合った男子達。秘密基地とか言って工事現場に入り、遊んだ仲間達。そういった中のひとりなのだろうか。
男性は女性のことを一目惚れするが、女性は男性を好きになるのに時間がかかる、そうTVで言ってた気もする。
そうかも知れないし、そうでないのかも知れない。
結局、ひぃちゃんとリナにはバレた。
「嘘じゃないって、付き合ってはいないから。」
「サッチンは私達を裏切ったんだぁ!」
「彼氏のようで、彼氏でない、か……なんとなく解るなぁ。」
「リナ、サッチンを庇うの!?」
「そうじゃなくって、オンナゴコロってそういうもんじゃない?」
「全っ然わかんない。」
「届きそうで、届かない。どこかで諦めなきゃいけない。……私達まだまだ幼いんだら、それくらいでいいのかもよ?」
「それ、アンタの相手が二次元だからでしょ?」
「失礼な!三次元だって解るよ!」
「でも、マジそんな感じかも。」
「サッチンはピュアだから。応援してるよ。」
「リナありがとうー。」
と、リナと抱き合う。
「私出会い系とかやろうかなぁ。」
「それはやめときなさいって。」
「来る日も来る日も、楽器や楽譜と格闘。こんなのでいいのか?私の青春。」
「あ、先輩来た。じゃあやりますか。」
と、みんなそれぞれ楽器を手にした。
学祭二週間前になると、いよいよ合奏の時間も長く、遅くなっていった。
彼は遅くなっても待ってくれると言ってくれたが、さすがに八時や九時まで待たせるのは心苦しいので、何度も断ったし、それに、彼の展覧会用の夕景画シリーズが一応の完成を迎えようとしてたことも、知っていた。
それでも私のために、無理して二駅の電車とバスを乗り継いで、会いに来てくれようとしている。
とても嬉しいことだったが、申し訳なさが優った。
でも彼は、徐々に底冷えがするバス停で、待っていてくれた。
「みかん、どうですか?」
と、彼は暗闇を走るバスの中で、いきなり所々青びれたみかんをひとつ差し出してきた。
「みかん?」
「今日の弁当で余ったんです。」
「余った?」
「昼休み、これを食べる暇がなかったんで。」
と、彼はそそくさとみかんの皮を剥き始めた。
「あ、ちょっとスケッチブック、持っててくれませんか?」
私は彼のスケッチブックを手に取った。
彼はみかんの皮だけでなく、筋も丁寧に取る気だ。なるほど、時間がかかりそうだ。
「学祭、もうすぐですね。」
「うん。」
「僕、行きますから。」
「ありがとう。頑張る。」
せっかくなので、スケッチブックを開いてみた。
抽象的だが色彩が鮮明で、水彩なのに陰影が濃く、色が華やかに主張する、そんな風景画。
私が傍らでヴァイオリンを演奏した時のもあった。見事に完成されていた。
私は絵心が皆無と言っていい程ないのだけれど、ヴァイオリンのお陰で豊かで素直な感性を持ち合わせているつもりだから、こういうのは何のフィルタもなく、心に響く。
素敵な絵。
と言うより、私が見ている風景と同じ。それが嬉しい。
同じ世界が見えてるんだ。
結構な頁数なので、興味本位でかなり最初の方をめくってみた。
すると女性の、いや、少女の絵が描かれてあった。
鉛筆画?いや違う、なんて言うのかな、炭みたいので、結構細部まで丁寧に描かれた、デッサン。
「あっ。」
みかんの筋を取っていた彼が素早くスケッチブックを手に取り、危うくみかんが落ちそうになった。
「それは駄目。」
「駄目?」
スケッチブックを引き寄せたその狼狽ぶりに、なんとなく察しがついた。
「その絵、」
「なんでもないですよ。」
「彼女さん?」
「違います。」
聞きたくないことのように思えるのに、口が止まらない。
「好きな人?」
「そんなんじゃないです。」
「そう……。」
今度は急に、言葉が出なくなった。
脳内で不意に『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が流れ始めた。どうして?
計ってみたらほんの数十秒だったのだろうけれど、こんなに長く、息を止めてたかのような沈黙は、生まれてから今までなかったように思えた。その沈黙を破ったのは、彼のくぐもった声だった。
「……あの、」
「……はい。」
「誤解しないでください。」
「誤解しないですよ。」
「正直に言います。」
「はい。」
「初恋の人です。」
心臓に何か刺さった。
チクッとして、ズキッとした。
「中学の時の同級生です。でも今は全然会ってなくて、」
「でも、このスケッチブック、そんな昔から使っているんですか?」
あれっ。これって、なんか責めてる。どうして?
「昔のことを思い出して、想像で描いただけです。」
「今もその人のこと、好きなんですか?」
「……。」
彼は、完全に沈黙した。
駄目だ。何やってんの?私。
取り返しのつかないことをしてしまった。
私も後悔の念で、彼の顔を見ることもできず、黙り込んでしまった。
指先の血の気がどんどん引いていくのが解った。
遂に駅に着くまで、彼とはひとことも交わすことなく、バスを降りた。
「じゃあ、」
消え入るような声で彼がそう言ったような気がするが、ほとんど目を合わせることなく、駅の改札を潜って、別れた。
駅のホームで彼を探してみたが、電車がすぐにやってきたので、見つからなかった。
家に帰ったら、家族はもちろん既に食事を済ませていて、ひとりで肉じゃがとアジの開きを食べた。
彼がさっきまで筋を取っていたみかんが思い出された。
お風呂に入って、ジャバジャバとお湯を頭にかけて、ちょっとでも気が晴れるかなと思ったら、逆にぼんやりしてしまった。
なんか、洗っても洗っても汚れが落ちない。
変な匂いがする、私。
パジャマを着て、自分の部屋に入った。
明かりはつけなかった。窓外の家々の明かりや、街灯があるから、なんとなく室内は見える。
なんか急にむしゃくしゃして、パジャマを脱いだ。
ついでに下着も脱いで、床に放り投げた。
全裸のまま、ベッドに倒れ込んだ。
今の追い詰められた自分を解放するには、この方法しかなかった。思いつきだけど。
ベッドにうずくまって、ちょっと泣いた。
私、何やってんだろ。
このままじゃ寒いから、リモコンで暖房をつけて、ブランケットを手繰り寄せて、そのまま眠ろうとした。
ブランケットの毛がチクチク痒くてしょうがない。
解ってはいたけれど、眠気はまったく起こらなかった。
彼を問い詰めて、険しい表情を浮かばせてしまった良心の呵責というより、いやそれはそれであるんだけれど、むしろ、それで自分を苦しめているよね、今、私苦しいよね?
なんであんなこと訊いちゃったんだろう。訊かなかったら、この生温かく優しい関係が永遠に続いたかも知れないのに。
「パンドラの箱」を開けてしまった。パンドラって確か、女性だったよね。
苦しい。
押し黙って目を逸らし、俯き気味に歯を食いしばる彼の横顔が、頭から離れない。
初恋の人、今も会っているのかも。会ってないとしても、やっぱり未練があるのかも。
そう思う度に自分の心が凍りつく。寒い。考えたくない。忘れたい。
私じゃなかったんだ、そう思う自分が、嫌でしょうがない。
付き合ってるんじゃなかったんでしょう?恋愛じゃなかったんでしょう?
なのに、他に女性がいると気づくと、これ、嫉妬だよね?
嫉妬で自分がアンコントローラブルになっている、その事実を認めたくない。
自分のアイデンティティが音を立てて崩れていってる気がする。それが、息ができない程、苦しい。
今、普段なら彼がLINEを送ってくる時間帯だ。
来ないのかな?
何でもいいから、彼と話がしたい。
私の方から「ごめん」と打つべきなのだろうか?でも、その勇気はまったく出ない。もし不機嫌な返事が彼から来たら、もう、死ぬ。十分死ねる。
彼のために、死ぬ?どうしちゃったんだろう、私。
自分と他人とは違うのだ。そんなこと、ずっと解ってたのに。
ひとつになれないのが、辛い。
彼と繋がってないのが、寂しい。
彼の住んでいた場所へ、行ってみたい。
どんな田舎でも、殺風景でも、周りに何の店もなくても、好きになれそうな気がする。
翌朝まで裸のまま眠って、ちょっと寒かった気もするが目覚めることを拒否した身体がそのまま無理くり睡眠を続け、そして鼻腔の奥に痰を絡ませ、その不快感で、これは風邪引いたかも、と観念しながら、ブランケットを払い除けて起きた。
下着とパジャマを着て階段を降り、洗面所で必死に痰を吐き出したら、熱もないし、大丈夫っぽかった。
あれから結局、彼からのLINEは来なかった。
学祭まであと数日、私はベートーヴェンの十四番とひたすら格闘した。
色惚けの分も取り戻さないといけない、そういう自責の念もあって、みんなの足を引っ張るまいと、懸命だった。
合奏は日一日と良くなっていくのが解った。ごめん、みんな。私のせいで。頑張る。
彼のことが脳裏をよぎってなかったかと言えば嘘だ。それを振り払うために、頑張ったのだ。
彼からのLINEは途切れたままだった。
私らしくなかったんだ、この一ヶ月。
ちょっとした麻疹に罹っていたと思うしかない。
自分を取り戻したい。
ヴァイオリンが私の気持ちを代弁してくれる。我ながら、いい音だ。指も回ってきた。
これが私の、アイデンティティだ。たぶん。
学祭、彼は来ると約束していた。
来るのだろうか。
学祭前日、部全体でゲネプロをやった。
部長の音はやっぱりいい。音大に進む予定だから、本格的だ。難曲であるバルトークの無伴奏ソナタをさらっと弾きこなした。
私達も通したが、何箇所かずれて、止まりかけた。
「ヤバいね。もっかい合わせよう。」
松本先輩の声が震えていた。
ひぃちゃんもリナも、吐息の音すら出せない程押し黙ってしまった。
私がなんとかしなきゃ。自分のパートだけでも、完璧にしたい。
リハーサル後、もう一度通しで合わせた。
全部で四十分くらいある大曲だ。一回通しただけでヘトヘトになる。でも、
「もっかいお願いします。」
今度は私の方から提案した。今、凄く集中している。これを切らせたくない。
再度通したら、十時を回っていた。これ以上は、バスがない。
「明日も七時に集まって、やろう。」
松本先輩の声で、解散した。
帰りの電車の中で、LINEを通してひぃちゃん、リナと反省会をした。いつもは話があちらこちらに飛ぶのだが、今日はさすがにみんな、真剣だった。あそこのアーティキュレーションが違うんじゃないかとか、あそこの和音の音量バランスがどうだとか。
でも段々と、やるしかない、ていうかなるようにしかならない、と開き直りみたいな空気になってきて、最後の方はいつものスタンプの応酬になってしまった。
そこに別のトークが飛び込んできて、凍りついた。
彼だ。
「明日、十時開演ですよね?」
ちょうど反省会がいい感じで盛り上がり、締めに近づいてたところだったので、安定しかけた気持ちが一瞬にしてぐちゃぐちゃになった。
今まで閉じていた心の柔らかい部分から急に言葉がどんどん溢れ出してきた。それをそのまま、支離滅裂でもいいから凄い長文を書いて送りたい衝動に駆られたのだが、それをぐっと抑えて、
「はい」
とだけ返した。
「行きます」
彼の返事は、いつものように短いものだった。
その夜、演奏会への緊張なのか何なのか、結局一睡もできなかった。
校門には、なかなかに立派なアーチが掲げられていた。
学祭当日。
こんな田舎の高校の学祭に一般客が集まるものだろうか、と思っていたが、意外と来るものだ。
吹奏楽部が支部大会の常連校なので、そちらの評判もあって、他県からも学生達が集まるのだと、ウチの部長は言っていた。
一方私達音楽部は、それなりに実力はあると自負するのだが、残念ながら無名だ。
吹奏楽部が専用ホールで華々しく二回回しの演奏会を開いている頃、私達は小さな音楽室で、室内楽コンサートを行っていた。
でも、不満はない。私達の想いが伝われば、それでいい。
心より出でて、心に至らんことを。これはベートーヴェンの言葉。
私達は今、そのベートーヴェンの遺産を、奏でる。
使命感に燃える。
僅か三十席ばかりしか椅子は置いていないが、十分だ。
私達の奏でた音が、ひとりでも多くの人の心に伝わればいい。
私達の腕を見せびらかしたいのではない。
音楽は素晴らしい。それを味わって欲しい。
幼少の頃は、ただ綺麗な衣装を着て、大舞台の主役に酔いしれていただけだったのが、今は変わってきた。
私は、やっぱり音楽が好きだ。
「みんな一生懸命やった。今日は楽しくやろうよ!」
本番前、松本先輩がいつもは考えられないくらいの笑顔で、発破をかけてくれた。
それに鼓舞されつつも、どうしても心にかさぶたのように痛々しく離れない箇所がある。
彼は本当に来るのだろうか?
それは朝から、何度も思い出されることだ。
でも本番の邪魔なので、都度忘れるよう心がけた。
今は音楽に集中したい。
一緒に半年近く練習してきた、仲間のためにも。
松本先輩、ひぃちゃん、リナのためにも。
そして、ベートーヴェン先生のためにも。
音楽のためにも。
と、思ってはいつつも、ひぃちゃんが引っ切りなしに舞台袖となる音楽準備室のドアを少し開け、客席を見て、私を煽る。
「サッチンの彼氏、どれ?どれ?」
「彼氏じゃないって。」
「もぉ~ひぃちゃん、集中しなよ。」
「してるわよ!今日はサッチンにカッコ悪いとこ見せないためにも、頑張らないとね!」
「お、珍しく殊勝なコメント。」
「私だって悪魔じゃないわよ。サッチンのためにも、頑張る!」
ひぃちゃん、ありがとう。
でも、確かに思えば、私が音楽と向き合い直す、大きなきっかけとなったのは、彼の存在だったのかも知れない。
彼の描く絵、私の記憶と共鳴するような色使い、いや、それよりもあの時の、石橋でのヴァイオリン演奏とのコラボ。
あれは本当に気持ち良かった。自分の音が、どこまでもどこまでも、遠くに響いた。彼にも響いた、と思う。
それからバスの中で交わした会話、芸術論。美術と音楽、ジャンルは違えど、彼の熱弁は私の表現欲を揺さぶった。
私の音楽の中に、彼はいつしか溶け込んでいた。
これは色惚けなんかじゃないのかも。例えるなら、私は彼と、素敵なアンサンブルをし続けていたのだ。
なんてね。いつかいい思い出になればいいのに。
本番だ。ステージに上がった。
とは言え、雛壇もなく平場の音楽室の床だが。
それでも、緊張した。ホールと違って、客席が近く、送られてくる視線が生々しい。
礼をする前の隙を見て、客席を左から右へと見渡した。
一瞥に近いものだったが、彼の姿は意外と簡単に見つかった。
一番後ろだ。
『朧月夜』を弾いた時の、あの涼やかな風を思い出した。
演奏が始まった。始まったからには、もう後戻りできない。
ひぃちゃんは有言実行、本当に気合の乗った音色だった。気合が乗りすぎて音量が飛び出がちだったけど。
リナは至って冷静。他の音を良く聴いて合わせた。
ガリガリしがちだった松本先輩の音も、別人のようにスマート。本番で変わる人だとは聞いていたが、こんなだったとは。
そして私。私の出来は、自分では解らない。
とにかく、一生懸命やった。
やってもやってもほとんど上手くいかない難所がふたつくらいあったのだが、やっぱりミスった。それでも大きな事故にはならず、それ以外の不測の事態もなかった。走りそうになると松本先輩が目配せをくれたので、それに気づいて、我慢した。
四十分、長いようで、短かった。
一気に弾き切った。
終わって、起立して、三十人足らずの拍手を浴びた。
深く一礼した。緊張か疲れか、ちょっとよろめいた。
準備室に戻った。かなりの汗をかいていた。
「はぁ~キンチョーしたぁ。」
ひぃちゃんが情けない声を出した。
「良かった良かった。うん、良かった。」
松本先輩が別人の笑顔を見せる。
リナがチェロを置くや、いきなり抱きついてきた。
「サッチンーありがとうー。」
「私もありがとう。」
「あっずるい!私もー。」
ひぃちゃんも飛びついてきた。
ちょっと汗臭いけど、いい匂い。
青春の匂いだ。
ヴァイオリンをケースに入れ、鞄からスマホを取り出した。
その途端、スマホがビリビリ鳴った。
LINEだ。彼だ。
「お疲れ様。良かったです」
相変わらず短く、素気ない文章。続いてもう一通来た。
「手が空くなら、時間くれませんか?話したいことがあります」
心が少しもやっとなって、慌ててスマホを鞄に仕舞った。
「彼、なんて?」
ひぃちゃんがすかさず訊いてくる。
「どうせこの後会わない?とかでしょ?」
リナも本番後の変なテンションなのか、乗ってきた。
「そんなんじゃ……。」
「サッチンさぁ、ツンデレはデレの部分があるから好かれるんだよ?」
「そうそう。」
「ツンツンばかりだと釣った魚まで逃がしちゃうよ?」
「そうそう。」
やっぱりふたりとも、変なテンションだ。
「でも夜は打ち上げでカラオケだから、サッチンにもいて欲しいしなぁ。」
「しょうがないでしょ。行きなよ、サッチン。」
リナが急に、大人の笑みを作って言った。
「このままじゃ、後悔するって。」
「そうだよね、当たって砕けろ!ってことだよ。」
私と彼との関係性を良く理解していないひぃちゃんが、適当なことを言う。
「サッチン、素直になっていいと思う。」
一方でリナが、ズバズバと私の心に斬り込んでくる。
「それも優しさだよ。彼だけに決めさせちゃ駄目。」
また夕暮れ時になった。
思えば、彼と昼間に会ったことがない。
待ち合わせ場所をどこにしたらいいか、二転三転して、学校の屋上になった。
彼はいつものバス停で会おうと言ってきたのだが、それでも良かったのだが、私の大好きなあの場所が、もし、悲しい記憶で二度と来られない場所になったらどうしよう、という恐怖が湧き起こって、拒んだ。
学校の屋上に入れるのは漫画の世界だけかと思っていたら、今日は学祭なので入れるそうだ。
ひょっとすると今頃カップルでいっぱいかも……と思いきや、誰もいなかった。
もうすぐ恒例のキャンプファイヤーが校庭であるらしい。
彼はもう来ていた。
屋上の真ん中でひとりきり、これもまるで、少女漫画みたいだ。
でも、悪くない。
日没は近かった。薄暮の時。
天上には星がいくつか見えていた。
彼はすぐに私に気づき、声に出した。
「あのっ……。」
私は彼に近寄り、親しき仲とは言えない微妙な距離で止まった。
彼に何を言われるのか、そして私は何を言うべきか、正直、良く解らない。用意してない。だからこれ以上、近寄れなかった。
「……寒いですか?」
そんなところから彼は切り出してきた。
「いえ、平気。」
「そうですか。」
少しの沈黙。怖いから、今度はこちらから切り出す。
「……今日は、来てくれてありがとう。」
「いいえ、とても良かったです。」
彼は努めて笑顔を見せようとしていた。
「やっぱり、あなたのヴァイオリンの音は、素敵だ。」
「ありがとう。」
「癒されるっていうか、心に染み渡るっていうか、その……。」
彼の目がキョドっていた。
「……。」
「……。」
沈黙が怖い。日はどんどん光を失っていく。
今日ばかりは、闇が刻一刻と襲ってくるのが、堪らなく心細かった。
寒くないと言ったのは嘘。手足の末端は震えている。いや、これは緊張だ。
下の校庭で歓声が上がった。キャンプファイヤーが始まったようだ。
何か、言わなきゃ。
「あの、」
「あのっ!」
私の声を掻き消すように、彼が叫んだ。
「……この前の、初恋の人の絵、」
彼は俯いたまま、続けた。
「……確かにあれは、最近描いたものです。嘘じゃないです。」
「……。」
「同じ中学の美術部でした。仲も良かった。一緒に避難して、仮設の校舎で一緒に過ごして、ずっと一緒に絵を描いた。……でも僕は結局、彼女に告白できないまま、高校で離れ離れになりました。」
「……。」
「僕は悔やみました。どうして何も、言えなかったんだろうと。」
「……。」
「だから、あなたと出会った時、僕は変わろうと、そう思った。」
「……あの、」
「はい?」
「正直に、言ってください。」
「はい。」
「初恋の人のこと、今も好きですか?」
「……。」
彼だけに決めさせちゃ駄目。リナの言葉が耳に残っていた。
「……僕を信じてくれないかも知れない。」
「……。」
「僕はずっと怯えていた。このままではいけないと知りながら、」
「……。」
「でももう、悔やむのは嫌です。」
彼は一歩、二歩と、歩み寄った。
「バスであなたを見かけてから、そしてあの石橋で、声をかけてから、」
「……。」
「あなたのことが、ずっと好きでした。」
また下で、歓声が上がった。男子のはしゃぐ声が続く。
その声に搔き消されそうになって、彼は二の句が継げなかった。
私も言葉が出なかった。
少し喧噪が和らいで、彼は意を決して、くの字に頭を下げた。
「僕と、付き合ってください!」
彼から出たことのない、出そうにない、腹の底からの大きな叫び
だった。
それにちょっと気圧されながら、彼の深々と下げたままの頭と、
背中を見ていた。
そして、空を見た。
月と、そこに寄り添うような宵の明星が見えた。
それを見て、私はうっすら笑った。
私は一歩、彼に歩み寄って、彼の下げた頭の真上に自分の頭が来
るまで接近した。
「雉子波くん。」
彼を名前で呼んだのは初めてだったんじゃないだろうか。
それに反応して、彼の下げたままの頭がピクッ、と震えたような気がした。
何を言うべきか、私のゼロに近い恋愛経験では全然言葉が浮かんでこなさそうなものだったが、今の私なら、言える。
「浮気したら、許さないから。」
「え……?」
意外な返答だったのか、彼が素っ頓狂に顔を上げた。
その表情がまた、面白くて、笑いそうになるのを堪えつつ、
「私も、あなたが好き。」
自然に、口を衝いて出た。自分でも驚く程、穏やかな気持ちだ。
「よろしくお願いします。」
今度は私が、深く頭を下げた。
彼の顔は見えないが、彼の興奮が肌から肌へ伝わってくるようだった。
そして私も、興奮している。この想いも伝わっているだろう。
そうか、これが、恋なんだ。
「ありがとう。」
彼が予想外に冷静な声色でリアクションをしたので、私は思わずその拍子に顔を上げてしまった。
その目の真ん前、全面に、彼の顔と、唇を感じた。
キスされた。
わ、これが、キスか。
体験したことのない感覚に戸惑いつつ、でもずっとこうしていたい。
……なんて、雰囲気に飲み込まれる程安くないよ、私。
彼を突き飛ばし、唇を離した。
「バカ。」
私は怒ったフリを見せた。
「まだ早いって。」
でも、嫌な気はしなかった。
「ごめん。」
彼は即座に謝った。
校舎の下の階では、ひぃちゃん達が打ち上げのために私を待ってくれている。ていうか、今見られてなかったよね?
もう戻らなきゃ。でもあと十分、いや二十分。
彼とひとつになっていたかった。
【了】